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ヤンキースタジアム最後の試合の前の夜。

 仕事でアメリカに来ている。時差ぼけで夜1時半ごろに目が覚めて、テレビをつけたらESPNで「Yankee Stadium Tribute」と題して、過去の主要な試合のダイジェストを延々と放映していた。

 何時からスタートしたのか知らないが、私がテレビをつけた時には1983年、デーブ・リゲッティがノーヒッターを達成したところだった。続けて、同じ年のロイヤルズ戦で、ジョージ・ブレットのバットに「松ヤニをつけすぎだ」とビリー・マーチン監督がクレームをつけ、まんまと本塁打を帳消しにした試合。策士マーチンの真骨頂ともいえるゲームだ(こんなのを選ぶESPNもどうかしてるが私は好きだ)。
 懐かしい選手がぞろぞろ出てくるのを見たら、やめられなくなってしまった。
(このへんで予告しておきますが、この先も他愛のない個人的な思い出話がだらだら続くだけのエントリーです)

 ロイヤルズはこの3年前、1980年に球団史上初のワールドシリーズに進出した。当時はフジテレビがMLBを中継していたころで、このワールドシリーズも確か全試合を中継した。メディアに口を開かないことで有名だった左の大エース、スティーブ・カールトンをはじめ、本塁打アーチストのマイク・シュミット、いまだに史上最多安打数を誇るピート・ローズ、強肩強打の二塁手マニー・トリーヨらベテランぞろいのフィラデルフィア・フィリーズの前に敗退したのだが、ロイヤルズも若く魅力的なチームだった。
 四割に近づいたこともある好打者ブレットを中心に、ウィリー・ウィルソン、フランク・ホワイト、エイモス・オーティスといった職人タイプの選手がそろっていた。ウィルソンは79年に83盗塁でタイトルを獲得。今では考えられないが、80年代は100近く盗塁をする選手が何人もいた「盗塁王の時代」で、ウィルソンもその主要な一員だった。

 問題の場面では、ブレットが本塁打を打ってベンチに凱旋した後、おもむろにマーチンが審判に歩み寄って説明し、審判団が集まる。バットをながめて話し合い、ホームプレートにあてて(松ヤニがついた部位の)長さをはかった後に、ブレットにアウトを宣告する。一連の動きを不審げな目で眺めていたブレットは血相をかえて主審に疾走し、塁審や他の選手があわてて押さえる。

 もめている場面を見ていて気がついたのだが、抗議に出てきたロイヤルズの選手は白人ばかり。有色人種はブレットをおさえていたマルティネスという選手だけで、ウィルソン、ホワイト、U.L.ワシントン、マクレーといった黒人の主力選手はベンチを出てくることもない。80年代の中西部、まだまだそういう空気は強かったのかも知れない。
 ロイヤルズは81年秋に日米野球で来日し、確か4試合くらい見に行った。ウィルソンの守備位置が日本選手より10メートルくらい前にいることに驚いたものだ。そういえば試合前にウォーミングアップでも、キャッチボールの組み合わせは見事に白人と黒人に分かれていたのを思い出した。

 それにしても、この時点でワールドシリーズ出場から4年も経過しているのに、ロイヤルズの主力選手はほとんど変わっていない。選手の流動性が激しくなった今では考えられないことだ。ブレットとホワイトは確かロイヤルズでキャリアを終えた。

 当時の大スターが何人も出てくるが、監督になった選手は多くはない。ドン・ベイラー、デイブ・ウィンフィールド、ジョージ・ブレット、リゲッティのノーヒッターの相手だったレッドソックスのジム・ライス、ウエイド・ボッグス。すでに殿堂入りしたか、そのうち入るクラスの選手が何人も出てきたが、監督になったのはベイラーくらいか。83年ごろ、阪神と巨人の主軸だった打者が現在そのまま監督を務めているのとは対照的だ。落合も然り。先の北京五輪代表の監督・コーチもみな所属球団のスター選手だった。
 一方、この夜登場したMLBの選手で監督になったのはヤンキースにいたルー・ピネラ、ロイヤルズのフランク・ホワイトなど、好選手ではあってもチームの顔というほどではない。MLBでは選手とコーチは異なる職業とみなされているようだと改めて感じる。

 そんなことを考えているうちに、テレビは90年代に進んでいる。
 93年、ジム・アボットのノーヒッター。相手はインディアンス、一番センターは後にヤンキースに入ったケニー・ロフトンだ。ヤンキースのセンターはバーニー・ウィリアムス。ライトはオニール。一塁マッティングリーで三塁がボッグス。栄光のジョー・トーリ王朝までもう少し。おお、セカンドのガイエゴが2番をつけている。たぶん、もう今後はこの背番号をつける選手は出てこないだろう。彼の次に背負った男が永久欠番になる可能性は高いと思う。

 アボットスイッチは鮮やか。右手の手首から先がない左投手アボットは、右手でグラブを保持しながら、投げ終えた瞬間に左手にはめて送球や打球を受ける。この時点ですでにメジャーで何年も投げているから、テレビ画面は今さら動作をアップで見せることもない。あまりにスムースに移行するので、事情を知らずに見れば、しばらくは何が行われているのか気づかないだろう。
 彼は競技に直接関与しない部位の障害だったから、普通のメジャーリーガーとしてプレーができた。義足や義手でボールを直接扱うようだと、たぶん問題になったはずだ。北京五輪では義足のランナーの出場が議論になり、結局、国際陸連は出場を却下した。ハンディキャッパーのスポーツはメダルを脅かさない範囲で、という状況はフェアなのか。逆に、器具の力に支援されて世界一になることがフェアと言えるのか。大変な難問だが、パラリンピックが盛んになり、競技水準が高まるにつれて、この種の判断を迫られる機会は増えていく。

 このまま見ていたら朝になってしまう、とテレビを消して無理矢理眠った。
 目が覚めた時には99年、デイビッド・コーンの完全試合が進んでいる。捕手は現監督のジラルディだ。すでにトーリ王朝は始まっている。朝食を食べて戻ると、2001年のワールドシリーズ第5戦。アリゾナとの行き詰まる名勝負だった。ティノとジーターの本塁打で劇的なサヨナラ勝ちを収めるが、結局シリーズは負けてしまう。今にして思えば、これがトーリ王朝が傾きはじめた瞬間だった。この年のオフにジェイソン・ジアンビを獲得しティノ・マルティネスを放出してから、ヤンキースはワールドシリーズに勝っていない。

 ヤンキースタジアム最後の試合の夜は仕事が忙しくて中継を見られなかった。その後、ボストン・レッドソックスがプレーオフ進出を決め、同時にヤンキースのポストシーズンが消滅した。
 ESPNのスポーツニュースではジーターが寂しげな表情でインタビューに応じていた。画面には「キャリアで初めてポストシーズン進出を逃す」とテロップが表示されていた。

 私がヤンキース贔屓になったのはヒデキ・マツイが加入した2003年から。それまでは「悪の帝国」と見なしていたから、たとえば2001年のワールドシリーズは完全にアリゾナ側に立って見ていた。それでもやはり、それぞれの時代のヤンキースには知っている選手も多いし懐かしい。強いときも弱いときも、存在感はどの球団にも劣らない。それがヤンキースという存在なのだろう。
 来年は隣に新しいヤンキースタジアムがオープンする。今年の選手がどれだけ残るのか、新しい選手がどれだけ加わるのか、まだわからない。我が松井秀喜が新ヤンキースタジアムで開幕を迎えられるかどうかも予断を許さない。ま、ヤンキースはロイヤルズとは違って、25年前もそういうチームではあったのだが。

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