原辰徳ほどジャイアンツの監督にふさわしい人物などいるはずがない。
2001年秋。原辰徳が長嶋茂雄の後を継いでジャイアンツの監督になった時、その力量に不安を抱いたジャイアンツファンは多かったのではないかと思う。
1995年に現役引退した後は解説者としてテレビの仕事をしていたが、試合中継の解説、スポーツニュース番組のキャスター、いずれも特に優れたものとは感じられなかった。NHKでのキャスターぶりは、ときどき常識のない言葉遣いをすることもあり、メディアではあんまり頭の良くない人物と揶揄されることが多かった。
この時期の原に接したことが一度ある。彼の言動はテレビで見るのとまったく同じだった。にもかかわらず、テレビとはかなり異なる印象を受けたことに、私は驚いた。
原は底抜けに明るい人だった。テレビ画面で見れば軽薄さや凡庸さのあらわれと受けとられかねない彼の明るさは、じかに対面すると、人を惹き付ける何かを備えていた。彼の笑顔や笑い声は、周囲にポジティブな影響を及ぼす力を持っていた。
原則として歴代の四番打者を次代の監督に据えてきたジャイアンツの伝統的な人事起用からすれば、彼はいずれジャイアンツの監督になるべき立場の人物だった。そして、監督候補として原辰徳という人物を見た時、案外、適性が高いのではないか、と私は思った。
彼の明るさは、周囲の人々に何となく「この人を喜ばせてあげたい」という気持ちを起こさせるものがある。実際、現役時代の原は、選手の間では、メディアや世間一般の評価よりもずっと高い人望があったと聞く。
選手個々の能力の総和では常にトップクラスの戦力を持ちながら、その力を発揮させられずに優勝を逃すことの多いジャイアンツというチームでは、監督に課せられる最大の役割は、選手の力量を発揮させ、チームをまとめることになる。そんなチームを率いる時、原の持つ求心力は有効に働くだろう。
いわば神輿として担ぐにはもってこいの人材だ、というのが私の印象だった。具体的な戦術や用兵面を補えるコーチをつければ、結構いけるのではないか、と。
その後、原は98年から長嶋監督のもとでコーチを務め、長嶋が勇退した2001年の秋に監督の座を引き継いだ。
“神輿にもってこい”どころか、彼自身が意外に食えない指揮官ではないか、と気付いたのは、1年目のシーズンが始まった時だ。
「長嶋監督から学んだ野球を継承する」と公言していた原は、しかし最初のキャンプで、長嶋が決してやろうとしなかった2つの決断を下した。特定のクローザーを設けることと、1番打者を固定することだ。そこに起用した人材は、長嶋に干されていた河原純一と清水隆行で、いずれもそれまでほとんど担当したことのない役割だった。
河原は5勝3敗28セーブ、清水は191安打を打つ大活躍で、ともに優勝の原動力となった。
この年は、松井、桑田、上原ら投打の主軸が活躍したのに加えて、斎藤宜之、川中、福井、鈴木といった、もはや若手とは呼びづらい年齢で一軍半にくすぶっていた生え抜き選手たちがよく働いた。FA選手、外国人、逆指名入団した新人らによって戦力バランスが崩れることの多かったチームを、原は巧みに立て直した。
だが、限りなく三冠王に近い成績で原巨人を牽引した松井秀喜がニューヨークに去ったことで、翌年は3位に転落。原はあっさりと監督の任を解かれた。その後を次いだ堀内時代に、ジャイアンツは本格的にバランスを崩していく。
2度目の監督就任から3年を費やして、原は再び、主力と生え抜きのバランスがとれたチームを築いた。
もちろん、過去2シーズンでかき集めた戦力は圧倒的で、勝って当たり前と言われればそれまでではある。
しかし、FAも含めて他球団から引き抜いた選手が力を発揮できないことの多いこのチームにあって、今年のラミレス、グライシンガー、クルーンはいずれもキャリアハイといってよい成績を残している。昨年の小笠原と谷にしても同様だ(門倉は駄目だったが)。全盛期より力が落ちている豊田も、セットアッパーに活路を見出し、十分に機能している。
と同時に、生え抜きの若手では坂本、鈴木、亀井らがほぼ一本立ちし、投手陣では山口、越智、東野らが大活躍した。
原は監督になるたびに、ジャイアンツファンの納得がいくようなチームを作ってくれる。どこからどのような経緯でやってきたにせよ、出場している選手たちがみな、真摯にチームの勝利に力を尽くしていると感じられる。
「勝って当たり前」と見なされる度合は以前より薄れたとはいうものの、ジャイアンツの監督という立場が、同業者の誰よりも注目と批判を浴びやすい立場であることに変わりはない。むしろ、王や長嶋が監督を務めた頃、あるいは原自身の現役時代に比べると、野球人気そのものの低迷についての責めを負わされ、そこからの回復という困難な役割さえ担わされるようになった。
私はジャイアンツの選手としての原の最初の公式戦と最後の公式戦をスタンドで見た(その間に見た回数は、そう大したことはないのだが)。現役生活の最初から最後までを見届けた野球選手は、世代的には江川や原あたりからになる。王や張本といった重鎮と比べると、原はいつまでたっても頼りない若者だったし、ベテランと呼ばれる年齢になってもさほど成熟を感じさせない選手だった(彼の世代以降の日本人全般にそういう傾向があり、彼ひとりのことではないとは思うが)。
常に脚光を浴びるスターであったような印象が強いけれど、選手としては決して楽なことばかりではなかったはずだ。新人時代は二塁手としてスタートし、その年のうちに本来の三塁に定着したものの、外野や一塁に回されたこともある。長嶋や王と比較されては「チャンスに弱い」「頼りない」と酷評される。
長嶋茂雄が二度目の監督に就任した93年、故障の影響もあって、プロ入り後初めて規定打席に達せず、以後そのままレギュラーの座を取り戻すことなく引退していく。FAや他球団から移籍の外国人選手の陰でベンチに座ることも多く、誰の目にも原は冷遇されていた。だが、原はついに不満を公言することがなかった。
長嶋や王と比較されるのは誰にとっても辛い立場だったはずだが、原は「ジャイアンツの4番打者」の重圧からは決して逃げなかった(このあたりは三浦知良を思わせる)。一緒に重圧を受けてくれるはずだった吉村という後輩を事実上失った後も、原は凋落していく王朝を支えていた。出場機会の減った晩年の原がグラウンドに立つたびに、スタンドのファンが誰よりも大きな声援を贈っていたのは、皆がそれを理解していたからに違いない。変わっていくチームの中で、原だけが、ファンの記憶の中の巨人軍を体現していた。
にもかかわらず、50歳になった原辰徳は、相変わらず能天気な明るさを発揮しつづけ、過去の苦労や屈辱を微塵も感じさせない。日本一になった1年後に放り出されたチームから再び監督を依頼されて引き受けた時、「屈辱を忘れたのか」「男らしくない」と批判する声もあったが、それ以上に原にとってはジャイアンツが大事だったのだろうと思う。今年のリーグ優勝、そしてクライマックスシリーズで昨年惨敗した中日を寄り切って勝ち残った時に見せた涙は、そんなことも思い出させた。
原の監督としての能力が、どこでも通用する汎用性のあるものなのかどうかはわからない。
ただし、ことジャイアンツに限っていえば、原以上にこのチームを生かせる監督は、そう多くはないと思う。
そして、監督としての原を輝かせることのできるチームもまた、ジャイアンツのほかにはおそらくないのだ。
「ジャイアンツの4番打者」であることに耐え抜いた日々が、おそらくは彼を「ジャイアンツの監督」にふさわしいメンタリティの持ち主に育てた。
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