« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

原辰徳ほどジャイアンツの監督にふさわしい人物などいるはずがない。

 2001年秋。原辰徳が長嶋茂雄の後を継いでジャイアンツの監督になった時、その力量に不安を抱いたジャイアンツファンは多かったのではないかと思う。
 1995年に現役引退した後は解説者としてテレビの仕事をしていたが、試合中継の解説、スポーツニュース番組のキャスター、いずれも特に優れたものとは感じられなかった。NHKでのキャスターぶりは、ときどき常識のない言葉遣いをすることもあり、メディアではあんまり頭の良くない人物と揶揄されることが多かった。

 この時期の原に接したことが一度ある。彼の言動はテレビで見るのとまったく同じだった。にもかかわらず、テレビとはかなり異なる印象を受けたことに、私は驚いた。
 原は底抜けに明るい人だった。テレビ画面で見れば軽薄さや凡庸さのあらわれと受けとられかねない彼の明るさは、じかに対面すると、人を惹き付ける何かを備えていた。彼の笑顔や笑い声は、周囲にポジティブな影響を及ぼす力を持っていた。

 原則として歴代の四番打者を次代の監督に据えてきたジャイアンツの伝統的な人事起用からすれば、彼はいずれジャイアンツの監督になるべき立場の人物だった。そして、監督候補として原辰徳という人物を見た時、案外、適性が高いのではないか、と私は思った。
 彼の明るさは、周囲の人々に何となく「この人を喜ばせてあげたい」という気持ちを起こさせるものがある。実際、現役時代の原は、選手の間では、メディアや世間一般の評価よりもずっと高い人望があったと聞く。
 選手個々の能力の総和では常にトップクラスの戦力を持ちながら、その力を発揮させられずに優勝を逃すことの多いジャイアンツというチームでは、監督に課せられる最大の役割は、選手の力量を発揮させ、チームをまとめることになる。そんなチームを率いる時、原の持つ求心力は有効に働くだろう。
 いわば神輿として担ぐにはもってこいの人材だ、というのが私の印象だった。具体的な戦術や用兵面を補えるコーチをつければ、結構いけるのではないか、と。

 その後、原は98年から長嶋監督のもとでコーチを務め、長嶋が勇退した2001年の秋に監督の座を引き継いだ。

  “神輿にもってこい”どころか、彼自身が意外に食えない指揮官ではないか、と気付いたのは、1年目のシーズンが始まった時だ。
 「長嶋監督から学んだ野球を継承する」と公言していた原は、しかし最初のキャンプで、長嶋が決してやろうとしなかった2つの決断を下した。特定のクローザーを設けることと、1番打者を固定することだ。そこに起用した人材は、長嶋に干されていた河原純一と清水隆行で、いずれもそれまでほとんど担当したことのない役割だった。
 河原は5勝3敗28セーブ、清水は191安打を打つ大活躍で、ともに優勝の原動力となった。
 この年は、松井、桑田、上原ら投打の主軸が活躍したのに加えて、斎藤宜之、川中、福井、鈴木といった、もはや若手とは呼びづらい年齢で一軍半にくすぶっていた生え抜き選手たちがよく働いた。FA選手、外国人、逆指名入団した新人らによって戦力バランスが崩れることの多かったチームを、原は巧みに立て直した。

 だが、限りなく三冠王に近い成績で原巨人を牽引した松井秀喜がニューヨークに去ったことで、翌年は3位に転落。原はあっさりと監督の任を解かれた。その後を次いだ堀内時代に、ジャイアンツは本格的にバランスを崩していく。

 2度目の監督就任から3年を費やして、原は再び、主力と生え抜きのバランスがとれたチームを築いた。
 もちろん、過去2シーズンでかき集めた戦力は圧倒的で、勝って当たり前と言われればそれまでではある。
 しかし、FAも含めて他球団から引き抜いた選手が力を発揮できないことの多いこのチームにあって、今年のラミレス、グライシンガー、クルーンはいずれもキャリアハイといってよい成績を残している。昨年の小笠原と谷にしても同様だ(門倉は駄目だったが)。全盛期より力が落ちている豊田も、セットアッパーに活路を見出し、十分に機能している。
 と同時に、生え抜きの若手では坂本、鈴木、亀井らがほぼ一本立ちし、投手陣では山口、越智、東野らが大活躍した。

 原は監督になるたびに、ジャイアンツファンの納得がいくようなチームを作ってくれる。どこからどのような経緯でやってきたにせよ、出場している選手たちがみな、真摯にチームの勝利に力を尽くしていると感じられる。

 「勝って当たり前」と見なされる度合は以前より薄れたとはいうものの、ジャイアンツの監督という立場が、同業者の誰よりも注目と批判を浴びやすい立場であることに変わりはない。むしろ、王や長嶋が監督を務めた頃、あるいは原自身の現役時代に比べると、野球人気そのものの低迷についての責めを負わされ、そこからの回復という困難な役割さえ担わされるようになった。

 私はジャイアンツの選手としての原の最初の公式戦と最後の公式戦をスタンドで見た(その間に見た回数は、そう大したことはないのだが)。現役生活の最初から最後までを見届けた野球選手は、世代的には江川や原あたりからになる。王や張本といった重鎮と比べると、原はいつまでたっても頼りない若者だったし、ベテランと呼ばれる年齢になってもさほど成熟を感じさせない選手だった(彼の世代以降の日本人全般にそういう傾向があり、彼ひとりのことではないとは思うが)。

 常に脚光を浴びるスターであったような印象が強いけれど、選手としては決して楽なことばかりではなかったはずだ。新人時代は二塁手としてスタートし、その年のうちに本来の三塁に定着したものの、外野や一塁に回されたこともある。長嶋や王と比較されては「チャンスに弱い」「頼りない」と酷評される。
 長嶋茂雄が二度目の監督に就任した93年、故障の影響もあって、プロ入り後初めて規定打席に達せず、以後そのままレギュラーの座を取り戻すことなく引退していく。FAや他球団から移籍の外国人選手の陰でベンチに座ることも多く、誰の目にも原は冷遇されていた。だが、原はついに不満を公言することがなかった。

 長嶋や王と比較されるのは誰にとっても辛い立場だったはずだが、原は「ジャイアンツの4番打者」の重圧からは決して逃げなかった(このあたりは三浦知良を思わせる)。一緒に重圧を受けてくれるはずだった吉村という後輩を事実上失った後も、原は凋落していく王朝を支えていた。出場機会の減った晩年の原がグラウンドに立つたびに、スタンドのファンが誰よりも大きな声援を贈っていたのは、皆がそれを理解していたからに違いない。変わっていくチームの中で、原だけが、ファンの記憶の中の巨人軍を体現していた。

 にもかかわらず、50歳になった原辰徳は、相変わらず能天気な明るさを発揮しつづけ、過去の苦労や屈辱を微塵も感じさせない。日本一になった1年後に放り出されたチームから再び監督を依頼されて引き受けた時、「屈辱を忘れたのか」「男らしくない」と批判する声もあったが、それ以上に原にとってはジャイアンツが大事だったのだろうと思う。今年のリーグ優勝、そしてクライマックスシリーズで昨年惨敗した中日を寄り切って勝ち残った時に見せた涙は、そんなことも思い出させた。

 原の監督としての能力が、どこでも通用する汎用性のあるものなのかどうかはわからない。
 ただし、ことジャイアンツに限っていえば、原以上にこのチームを生かせる監督は、そう多くはないと思う。
 そして、監督としての原を輝かせることのできるチームもまた、ジャイアンツのほかにはおそらくないのだ。
 「ジャイアンツの4番打者」であることに耐え抜いた日々が、おそらくは彼を「ジャイアンツの監督」にふさわしいメンタリティの持ち主に育てた。

| | コメント (31) | トラックバック (1)

代表監督は罰ゲームじゃないんですから。

 欧州サッカーに詳しい人々の書くところによると、近年、有能な監督はビッグクラブで指導することを好み、あまり代表監督になりたがらない傾向があるらしい。

 確かに近年、イタリアやドイツ、オランダといった強豪国で、かつて代表チームで活躍して人気と知名度はあるが指導者としての実績に乏しい若手(ドナドニ、クリンスマン、ファンバステン。あるいは少し前のフェラーやライカールト)が代表監督を務めているのは事実だ(ブラジルのドゥンガもここに加えてもよいかもしれない)。
 いきなり代表監督をやり、退任した後でクラブの監督になるというのは、ちょっと順序が違うんじゃないかという気はする。

 ビッグクラブで成功を収めている指導者たちが代表監督をやりたがらない理由として考えられるのは、その職がハイリスク・ローリターンだからだろう。大きい大会で優勝でもすれば指導者としての評価も上がるから、単にローリターンとは言い切れないものの、金銭面での報酬はビッグクラブより小さそうだ。
 欧州中に散らばった選手を招集するたびにクラブから文句を言われ、金持ちになった選手たちのわがままに振り回され、ワールドカップや欧州選手権の予選でちょっと停滞すれば国中から非難を浴びるくらいなら、ビッグクラブを渡り歩いている方がいい、と彼らが考えても無理はない。
 選手の選抜にしても、国籍という制約を受け、現実には他国のクラブの都合に左右されることの多い代表チームよりも、世界中から好みの選手を集め、有望株を若い時期から育てられるビッグクラブの方が、むしろ自由度は高いと言えるかも知れないし。


 欧州サッカーではいろんな紆余曲折を経て今はそんな状態になっている、ということだと思うが、我が日本の野球代表監督は、始まった途端にそんな感じの立場として扱われている。
 アテネ五輪の長嶋(と、その代行の中畑)、第1回WBCの王、北京五輪の星野と、プロ選手の代表チーム監督は、これまですべて、決定後に発表されてきた。多少なりとも選考過程が世間の目に公開され、議論を呼ぶのは今回が初めてだ。

 加藤コミッショナーが招集した諮問委員会(正式名称は別にあったと思うが実質的にはそういうことでしょう)の会合がとりあえず1回行われ、メディア上では「星野仙一再び有力」と書かれたが、それを受けてイチローが会合での方針に異を唱え、星野仙一がすかさず「固辞するって言ったら固辞するんだよ」(と書いてあるわけではないが、そんなニュアンスではある)と自分のサイトで発表する*。なんだかババ抜きみたいなことになっている。

 とにかくここまで出てきた話は「現役監督は難しい」とか「私はやらない」とか、何かを除外する方向の話ばかり。「こういう人にやってほしい」「彼こそふさわしい」みたいな話題になっていかない(野村監督は落合や原の名を挙げたという報道もあったが、どこまで本気なんだか)。
 選考にあたる人々が、こういう人がいい、というビジョンさえ立てられずに、どうして人選ができようか。


 そんなことを考えていてふと気がついたのだが、選ばれる側の意識はどうだろう。
 王監督のもとで日本が優勝した2006年春から今までの間に、WBC代表監督に意欲を示した日本人指導者が1人でもいただろうか。「将来いつかは」というのも含めて、誰かがそういうことを言ったという記憶が私にはまったくない(もしご存知の方がいたら教えてください)**。
 やりたそうな発言をしたのはボビー・バレンタインくらいではないか。それはかなり寂しい状況だ。

 サッカー日本代表監督も、現任者に対する報道やネット上での言説を見ていると、なかなかリスクの大きな仕事のように思えるが、それでも、いつかは日本代表監督をやりたい、という目標を口にする指導者は(日本で指導する外国人も含めて)少なくない。
 というより、サッカーのコーチをやっているからには代表監督を目標にするのが当たり前、という考え方がひとつの常識として共有されている気がする(代表には興味ない、クラブの方がいい、という指導者もいるとは思うが)。
 あるいは、海外のクラブで指導してみたい、という人も、これは多数派ではないが存在する。指導者も成長しなければならない、挑戦しなければならない、という意識を持った指導者が大勢いることは確かだろう。

 だが、プロ野球の世界では、そんな言説はまず聞いたことがない。
 選手はレベルの高い戦いの場を求めて次々とMLBに出て行くが、指導者は、勉強のために渡米する人はいても、MLB監督を目指して海を渡った人は聞いたことがない(いたら教えてください)。日本人が海外で指導するといえば、せいぜい台湾で、これは上から下に教えに行く、という力関係になる。
 選手ばかりか、審判も、トレーナーも、スポーツビジネスを志す背広組も、野球に関わるいろんな業種の人々がMLBで働いているのに、コーチだけがいない。これは奇妙なことといってよい。


 共同通信が伝えた、WBC監督選考に対するイチローの発言を記事から抜き出すと次のようになる。
<「最強のチームをつくると言う一方で、現役監督から選ぶのは難しいでは、本気で最強のチームをつくろうとしているとは思えない」>
<「もう1度、本気で世界一を奪いにいく」>
<「大切なのは足並みをそろえること。(惨敗の)北京の流れから(WBCを)リベンジの場ととらえている空気があるとしたら、チームが足並みをそろえることなど不可能でしょう」>
http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081021-421198.html

 明言はしていないものの、イチロー発言の背景には、そんな日本の指導者たちに対して感じている物足りなさがあるのではないかと想像する。
 監督自身が勝負してないじゃないか。そんな監督が僕らを指導できるの? と。

 日本一だけでは飽き足らず、MLBのチャンピオンやWBCでの世界一を現実的な目標としている選手は大勢いるのだから、この意識の差は、きっと無視できないくらいに大きい。イチローが<足並み>という言葉で表現しようとしている事柄の中には、そんなことも含まれているのかも知れない。
 今では多くの人が忘れてしまったのではないかと思うが、第1回WBCでは多くの有力選手が出場を辞退した。始まる前には、海のものとも山のものともわからない、値打ちのはっきりしない大会と見なされていたわけだ。
 第1回大会での優勝によって、日本代表選手のステイタスは急上昇し、多くの選手が出場を希望するようになった(と思う)。だが、代表監督という立場のステイタスは、まだそうなってはいないようだ。


 短期決戦における勝負強さだとか投手起用だとか、WBC監督の人選が議論に上る時、主としてベンチワークが話題になることが多いように思う。
 それらの諸々が大事でないとは言わない。
 が、これほどまでにいろんな荷物を背負わされたチームを引っ張っていくためには、余計なことに斟酌せず、馬鹿になって、勝利のためにすべてを捧げられる純粋な心性こそが、もっとも大事な要件なのではないかという気がしてきた(考えてみれば、長嶋茂雄も王貞治もそういうものを備えていた)。
 プロ野球監督として優勝した、あるいはそれに近い成績を残した人々を候補者と考えるなら、あとは、やる気のある人(あるいは、決まったら四の五の言わずに頑張りそうな人)に任せるのが最善の選択なのかも知れない。

 そう考えると、たとえば原辰徳という名前は、なかなか悪くない選択肢のようにも思えてくる。ま、まずは目下のクライマックスシリーズを勝ち抜いてからの話だが。

 ついでながら私見を記しておくと、原のほかには、以前、「王が推薦している」と報じられていた若松勉・元ヤクルト監督もよいのではないだろうかと思う。
 原やバレンタインもそうだが、最高水準の選手を集めたチームを率いる時には、選手のモチベーションを挙げ、一体感を持たせられることが最も大事になる。
 だから、選手を駒のように操ってマジックのような采配をするタイプの監督というよりは、選手の力を引き出すことを優先的に考え、求心力を持つタイプの監督がふさわしいと私は思っている。初代WBC監督も、そういう人物だった。

 
 
 
*
それにしてもこの人、この件については徹頭徹尾、被害者意識剥き出しだなあ。前回も今回も結局は、メディアが反対するからやりません、と書いている。かつて彼がどれほどメディアを利用して他者を攻撃してきたかを考えると、この打たれ弱さは見ていて哀しくなる。

とりわけ、<長い、いつの監督生活のなかでも常に「行蔵(出処進退)は我にあり」として、それを信条としてきたわたし>(公式サイトから)などという自己認識は噴飯ものだ。

 この「行蔵は我にあり」という言葉は、おそらく勝海舟の「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」という言葉を下敷きにしている。
 これは明治になってから、元幕臣が明治政府に仕えることを批判した文章を発表した福沢諭吉に対して(正確には、公表前に福沢が送ってきた草稿に対する返事として)勝が残した言葉だ。勝は福沢に対して発表を控えさせるような働きかけをしなかったし、反論もしなかった。
 つまりこの言葉で勝が言おうとしているのは、“他人が何と言おうと俺はやるべきことをやってきた。文句があれば勝手に言えばよい”ということだ。
 長い監督生活の中で常にメディアを操作して自分の立場を有利にしようと画策してきた人物が、「メディアに叩かれるからWBC監督はやらない」という声明に引用することが、どれほど相応しくないか、おわかりいただけると思う。


**
10/27に行われた第2回体制検討会議で、候補は原辰徳ジャイアンツ監督に絞られた。
会議の出席者のひとりである野村克也楽天監督はこの夜、TBSのニュース番組に出演して、「自分に声がかからないのは寂しい、俺の評価はそんなもんかと思った」「コミッショナーは世代交代ということを何度もおっしゃっていたから、自分は対象外なんだな、と思った」(アナウンサーから「次回の監督はいかがですか」と問われて)「お断りする理由がなければお受けします」などと意欲を見せていた。
そんなにやる気があるのなら「(星野で)出来レースじゃないか」とか「落合がいい」とか「イチローが兼任でやればいい」とかごちゃごちゃ言ってないで「私がやりたい」と手を挙げればよかったのに、素直じゃないんだから(笑)。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

「KING OF TOKYO O FILME」についての、ないものねだり。

 渋谷シネパレスで『KING OF TOKYO O FILME』という映画を見た。
 KING OF TOKYOことアマラオ、東京ガスからFC東京で約10年間にわたって活躍したブラジル人サッカー選手について、彼と縁のあった人々のインタビューを集めた映画だ。

 実際のところ、作品としてはそれ以上でも、それ以下でもない。FC東京とアマラオを贔屓にしている身としては、詳しい紹介はいささか書きづらい。厳しい言葉ばかり連ねることになるからだ。

 私自身は、この映画をかなり感激しながら見た。
 行きたかったがどうしても都合がつけられなかった彼の引退試合の映像をクライマックスにもってきているので、彼の最後の挨拶や味スタのスタンドを大きな画面で見ているだけで胸に迫るものがある。
 かつて東京で活躍し、今はブラジルに戻っているケリーが登場して、あのつぶらな瞳を輝かせながら懐かしそうにアマラオの思い出を語り、「あなたの隣でプレーしながら多くのことを学びました」と話す姿も嬉しかった。
 私にとっては幸福な2時間弱だったし、アマラオに愛着がある人なら同じように感じるのではないかと思う。


 だが、映画としては、残念ながら不満が多すぎる。
 映画の前半はブラジル取材を敢行して、アマラオの親類縁者を訪ねて話を聞いているのだが、率直にいってあまり面白くない談話が多いし、無駄としか思えないカットも多い。アマラオの弟が喋りながらポーズをつけたりする姿は見ている方が気恥ずかしくなる。アマラオの出身地で、通りすがりらしい若い女性に「KING OF TOKYOを知っていますか」「アマラオを知っていますか」と質問し、「知りません。その人も知らない」と言われる場面が2度繰り返されるが、何のための映像なのか困惑する。

 ブラジル取材の間は、取材者はKING OF TOKYOという言葉にこだわって、キーワードのように取材相手に喋らせている。それならそれを最後まで貫けばよいと思うのだが、日本編に入ると急速にキーワードへの関心が薄れてしまったようだ。

 そもそもKING OF TOKYOという称号は、いつ、誰が、どのようにして、どういう意図をもって言い出したのか、それはチームメイトやクラブ関係者の目にはどのように映っていたのか。来日当時からのチームメイトや植田朝日ら古くからのサポーターにインタビューしているにも関わらず、それらの質問はされることがなく、話題にも上らない。

 私自身はそれらの答えを知らない。私が初めてFC東京の試合を見に行ったのは、彼らがJ1に昇格した2000年だが、その時はすでにアマラオはKING OF TOKYOと呼ばれていたから、JFL時代からの愛称のはずだ。

 首都に生まれた最初のプロサッカークラブとはいえ、まだ2部リーグにとどまり、選手はもとよりクラブ自体の知名度も無に等しいという状況の中で、チームの中心ではあっても世間的には無名のブラジル人選手をKING OF TOKYOと呼ぶことは、誇大広告に近い試みだったのではないかと思う。今は無名だけれどもこれから大きくなっていくんだ、という熱量の高さが生んだネーミングかも知れない。

 そもそも日本のサッカーでKINGと呼ばれた選手を、私は三浦知良とアマラオの他に知らない(私が知らないだけで、各地にKINGがいるのかも知れないけど)。はじめは滑稽にさえ見えたはずの大袈裟な綽名が、いつしか周囲にも認められ、彼にこそふさわしい称号へと育っていく(「KING OF TOKYOの2代目はいないと思うし、あの横断幕は50年経ってもスタジアムに掲げられていると思うし、そうであってほしい」と映画の中で茂庭が話している。私もそう思う)。そんな過程を丹念に追ってみたら面白かっただろうに、と思わずにはいられない。

 あるいは、こんな見方もできる。
 日本には過去20年以上の間に大勢のブラジル人選手がやってきた。活躍した選手もいれば、しなかった選手もいる。タイトルをとった外国人選手も大勢いるが、アマラオほどファンに愛され、ファンを愛した選手はめったにいない。比肩しうるのはラモス瑠偉くらいなものだろう。
 来日当時についてチーム関係者は「2人のブラジル人選手が加入したが、一緒に来た選手は巧く、アマラオは下手だった」と口を揃える。にもかかわらず、もうひとりの選手はチームを去って忘れられ、アマラオはKING OF TOKYOになった。

 大勢のブラジル人選手の中で、なぜ彼だけがKINGになれたのか。KINGになれなかった男たちを追跡し、「日本サッカーにおけるブラジル人選手」という存在を掘り下げてみても面白かったと思う。
 サッカー選手だけでなく、ブラジルからの移民、あるいは海外からの日本への移民自体も、アマラオが来日してからの15年ほどの間にずいぶんと変化している。日本社会が彼らをどう受容しているのか、という背景の中でアマラオの存在感を考えるという試みも、やりかたとしてはあったように思う。


 サッカー選手に関する記録映画としては異常なことだが、この映画にはJリーグの試合映像が一切使われていない。たぶんJリーグ映像に支払う使用料が用意できなかったということなのだろう。
 制約は制約で仕方ない面はある。ただ、関係者の証言は、しばしば個別の試合について言及する。
 原博実は、アマラオがチームを去る年の最後のリーグ戦で、後半から投入したらチームが0-2から大逆転してしまった話をした。今は平塚にいる阿部吉朗は、天皇杯で自分が2点をとりながらPKを外して敗退し、アマラオの最後の試合にしてしまったにも関わらず、自分を気遣ってくれた神戸戦について話した。そのように話題に上っていながら映像が見られないことは、観客としてはフラストレーションが溜まる。

 とりわけ、この作品の最大の山場ともいえる、マリノスへの移籍を決意しながらサポーターの説得で東京に残ったというエピソードの中で、アマラオを引き留めようとサポーターたちが試合前から2時間以上ぶっ通しでアマラオ・コールを続けたという試合については、せめて音声だけでも再現できなかったか。
 試合映像を使うといくらかかるのかは知らないが、観客としては、前半のブラジル取材よりも、試合映像を使ってもらった方がよかった。

 ナレーションを用いないという判断も、あまり成功しているとは思えない。
 例えば、ブラジルで訪ねたアマラオの故郷がどういう土地なのか、映像はあっても、その土地柄が私の中ではまったく像を結ばない。それは日本編でも同様で、深川や小平が東京の中のどういう地域なのか、映画を観ていても全く判らない。
 もちろん、安易に盛り上げを図るナレーションのついた映像作品に辟易することがあるのも確かだが、支援が必要な場合もある。本作はそういうケースだったように思う。


 というわけで、アマラオという魅力ある素材を、この映画はあまりいろんな角度から掘り下げることをせずに、素材のままで観客の前に差し出しているように見える。太田綾花監督はアマラオのこともサッカーのこともほとんど知らないままオファーを受けたらしいが(そういうことを公言されても観客としては嬉しくないのだが)、彼女自身の中でアマラオという存在を掘り下げきれないままで終わってしまったのではないだろうか。
 いろいろやりようはあっただろうに、惜しまれる。サッカー批評の最新号で、ミカミカンタが歯切れの悪い紹介をしていたので、ある程度覚悟はしていたのだが。
 経験の浅いらしい監督には、このblogで紹介した『モハメド・アリ かけがえのない日々』や『ペレを買った男』などを見て貰うとよいのではないかと思う。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

黄金時代の後日談としての監督人事。

 いくつか下のエントリでもちょっと触れたが、日本のプロ野球界では、有名選手が引退後に監督を務める例が非常に多い。というより、有名選手でなかった監督を捜す方が難しいほどだ。北海道日本ハムファイターズを2年続けて優勝(うち日本一1度)に導いたトレイ・ヒルマンのようにメジャー経験がない(=日本のプロ野球で一軍経験のない)監督は、プロ野球草創期から昭和30年代あたりにかけてアマチュア野球界から転身した指導者を除けば、まずお目にかかることはない。

 ただし、「有名選手」には2種類ある、とも言える。タイトルを何度も獲得するような名選手というケースと、本人の個人成績はさほど突出していたわけではないが、現役時代に在籍したチームが非常に強く、その一員として有名であった、というケースだ。後者の典型例が仰木彬であり、現役監督の中では例えば高田繁がこれにあたる。
 弱いチームに強打者・名投手が在籍することはあるが、「強豪チームの一員」は強豪チームにしか在籍しない(当たり前だ)。だから、何度も日本一になって黄金時代を築いたチームからは、10~20年後に監督が大勢生まれている。
 1950年代の読売ジャイアンツからは、川上哲治、千葉茂、青田昇、別所毅彦、宇野光雄、広岡達朗など。1950年代後半の西鉄ライオンズからは大下弘、中西太、稲尾和久、川崎徳次、関口清治、そして仰木彬。同時代の南海ホークスからは杉浦忠、野村克也、飯田徳治、岡本伊三美、蔭山和夫(就任直後に急逝)、広瀬叔功、穴吹義雄。
 少し前まで大勢いたのは昭和40年代に9連覇した読売ジャイアンツだ。投手で堀内恒夫、捕手・森昌彦、一塁手・王貞治、二塁手・土井正三、三塁手・長嶋茂雄、左翼手・高田繁。期間中のベストナインのうち監督にならなかった方が少ない。なった6人のうち3人が日本一になっている。

 監督が大勢出たとはいうものの、上記の顔触れをよく見ると、西鉄や南海ではほとんどが自チームの監督で、それは黄金時代を持たない球団にもよくあることだ。
 一方、ジャイアンツ出身者は他球団の監督を務めたOBも多い。先端的な野球で勝ち続けてきたチームの一員は、他球団からも一種のブランドと見なされてきたようだ(結果からいえば、それは必ずしも優れた指導力を約束するものではなかったが)。

 現在、この種のブランドになりかかっているのは、1980年代後半から1990年代前半にかけての西武ライオンズだ。すでに東尾修、伊東勤、渡辺久信が自チームの監督として、それぞれリーグ優勝を果たしている。
 それ以外にも石毛宏典がオリックスの監督を務め*、そして来年、秋山幸二が福岡ソフトバンクホークスの監督に就任する。

 秋山は、西武時代には、日本人離れした長打力、主軸に据わりながら盗塁王を争う俊足、そして驚異的な守備力を発揮した名選手だったが、打率は低く、身体能力に依存するところの大きい選手だったと言えなくもない。だが94年にダイエーホークスに移籍すると、故障もあってか無理に長打を狙わず、コンパクトな打撃にモデルチェンジを果たし、地方の弱小球団だったホークスが強豪チームに生まれ変わるまでの時期を支えた。西武から秋山を獲得した当時の根本陸夫監督(実質的には「GMが監督を兼任」という立場だった)は「チームの体質を変えるためには、軸となる人を変える必要がある」と話していたが、見事に実を結んだわけだ。

 指導者としての秋山は未知数だが、もし彼が成功すれば、西武ライオンズ出身者を監督に招く球団が増えることになるかも知れない。リタイアしたがまだ若い伊東をはじめ、辻発彦、田辺徳雄、平野謙など各球団でコーチを務めている西武OBは少なくない。巨人・西武という2大ブランドを兼ね備え、かつWBC優勝チームのコーチでもあった鹿取義隆も在野に控えている。こうやって名前を並べると「華がない」とか言われそうな顔触れではあるが(笑)、森もそう言われながら実績を重ねた。

 仰木彬の監督としての成功、とりわけそのアイデアの豊富さは、かつて西鉄ライオンズを率いた三原脩の影響を人々に思い出させた。広岡・森コンビのヤクルトと西武での成功(西武では黒江透修もコーチを務めた)は、「V9巨人の継承者」との評価を受けた。
 野球チームにおける黄金時代の物語とは、ただその時に勝つだけでなく、後に優秀な指導者を生むことによって、後世に語り継がれる伝説的存在となっていくのかも知れない。
 とすれば秋山の手腕は、広岡や森の名が後世に残るかどうかの分岐点にもなりうる。秋山自身がそれを望むかどうかは別として(秋山自身は、王監督の後継者でありたいのではないかと思うが)。

* 田淵幸一もホークスの監督になったが、彼を西武OBと捉えるかどうかは微妙なところ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

立ちはだかる壁としての緒形拳。

 10代の頃、私は中年男の出てくる小説やドラマや映画や漫画が好きだった。読む小説はハードボイルドや冒険小説が多かったし(ちょうど内藤陳が熱心にその種の小説を紹介しはじめ、北方謙三や志水辰夫が売り出した頃だ。今にして思えば黄金時代だな)、谷口ジローの漫画についてはこのblogでも紹介したことがある。
 そして、映画やテレビドラマで具体的な肉体をもってそういう役を演じていた俳優が緒形拳であり、山崎努だった(なんだ、必殺なんたら人ばかりじゃないか、というご指摘は甘んじて受ける)。

 「必殺仕掛人」「必殺からくり人」などの職業的暗殺者、「復讐するは我に在り」などの犯罪者、あるいは現代劇。今朝、彼の訃報を伝えるワイドショーで「幅広い役柄を演じた」とナレーションがあったが、私はそうは思わない。どんな作品でどんな時代のどんな役柄を演じていても、彼はいつもここぞという場面で、にたり、と嬉しそうに不気味な笑顔を浮かべる不可解な人物だった。あの、謎めいた笑顔に不思議と惹きつけられて、いつもそのまま目が離せなくなった。

 世間で注目を浴びたのが昭和40年の「太閤記」の主役であったことに象徴されるかのように(私はまだ1歳だったのでまったく記憶にないが)、NHKの大河ドラマにもよく出演していた。当たり役の豊臣秀吉は「黄金の日々」でも演じたし(若い頃にかわいがっていた主人公の助左に、死の床の秀吉が「ついほうめいず」と紙に書いて見せる場面が妙に印象に残っている。この時もやはりあの、にたりという笑顔だった)、「風と雲と虹と」では藤原純友。昨年の「風林火山」にも、上杉謙信の謀将として出ていた。彼が敵の陣営でにたりと笑っているだけで、主人公によくないことが起こるに違いない、という不吉な予感に苛まれる。

 民放のテレビドラマにもよく出ていた。私はドラマをあまり見ないのでたくさんの例を挙げることはできないが、たまたま見た中では、木村拓哉の「ギフト」や、長澤まさみの「セーラー服と機関銃」が印象に残っている。どちらも、最後に主人公が対峙する巨大な敵、という役どころで登場し(「セーラー服…」は最終回しか見てないのでよくわからないけど)、それがまたよく似合っていた。父、あるいは祖父の世代や世界を代表する、乗り越えるべき巨大な壁。そんなものを1人で象徴しうる存在感があった。
 彼が出てくるだけで場面が引き締まり、作品のグレードが一段上がる。そんな俳優だった。

 まだまだ現役の俳優だと思っていたので、訃報には本当に驚いた。ご冥福を祈る。

 気がつけば、緒形が「黄金の日々」で秀吉を演じていた頃の年齢を、自分はすでに超えている。自分は「越えるべき壁」として若者たちに立ちはだかるほどの存在感を備えることができているだろうか。はなはだ心許ない。たぶん何年経ってもそんなものにはなれそうにないし、別の芸風を探した方がよいのだろう。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

血迷ったか。

 田沢純一投手のMLB志望表明を受けて、同様のケースへの抑止策として、プロ野球実行委員会は6日、日本のドラフト指名を蹴って、あるいは指名されることをあらかじめ拒否して渡米した選手に対しては、帰国後のプロ入りを制限するペナルティを設けることに決めた、と報じられた。
<大学・社会人出身者は2年、高校出身者は3年、日本のドラフト(新人選手選択)会議の対象としないことになった>(読売新聞2008.10.7付)

 田沢のような選手を国内に引きとどめる方法がほとんどないのは確かだ。
 だからといって、このような選択肢を本当に選ぶとは信じ難い。

 選手からプレーの場を奪うというペナルティは、薬物使用や八百長、試合中の暴力といった、試合の価値そのものを侮辱する行為を選手自身が犯した場合にのみ許される手段だと私は思っている(多重契約のように、社会一般のルールを犯した場合も、まあ仕方ないとは思う)。

 これまで私は、日本プロ野球選手会の宮本会長がしばしば闘争手段としてストライキを持ち出そうとすることに強く反発してきた。選手は試合をするから選手なのであり、その存在基盤を自ら放棄することを条件闘争の道具とすることには納得できなかった(唯一実行された2004年のストライキは、球団という試合の場を守るためのものだった、という点で納得している)。

 同じ理由で、今回のNPBの措置にも反対する。
 NPBが失いたくないと思うような優秀な選手からプレーの機会を奪うことは、選手、球団、観客、誰の利益にもならない。社会一般から見て、正当性が説明できるとも思えない。
 そもそも、これからアメリカに渡ってMLBを目指そうという時に、選手が帰国後の心配をして思いとどまったりするものだろうか。流出防止策として効果があるとも考えにくいのだが。

 また、田沢投手本人に対しても適用するという方針については、同じ記事の中の<日本野球連盟の鈴木義信副会長は「本人の表明後に作ったルールを適用するのはおかしい」と反対する>というコメントが、まったくの正論だと思う。

| | コメント (6) | トラックバック (2)

昭和の野球を生き切った清原。

 雑誌「野球小僧」の連載をまとめた高橋安幸の『伝説のプロ野球選手に会いに行く』というインタビュー集の、杉下茂の項を読んでいたら、こんな談話が目に付いた。

<川上(哲治・引用者注)さんに対しても、ランナーいなかったら、そんなボールほうらないもんね。真っ向勝負でさ、『エイヤ!行きましょうや』ってど真ん中だもん。ど真ん中にストレートほうってってね、これで打ち取ったら初めて勝った!っていう気になるんだよ。フォークじゃならねぇんだよ。ごまかした!って感じなんだな>
 杉下が「そんなボール」と表現しているのはフォークボールのことだ。日本におけるフォークボールの元祖にして、「魔球」と恐れられた本人は、実はストレートにこそプライドを抱いている。

 このくだりを読んで、清原もこの時代に生まれれば幸せだっただろうに…と改めて感じた。
 確かジャイアンツでの最後のシーズンだったと思うが、2-3から変化球を投じて三振を奪った藤川球児に対して「チンポコついとんのか」(語句については異説もあるようだが)と憤ったエピソードは、メディアだけでなく野球ファンの間でも批判的なムードで語られることが多かったと記憶している。だが、50年から60年前、杉下や川上の時代なら、それはごく普通の常識として通ったことだろう*。

 彼のそんなキャラクターについて、4年前に<清原に見る「最後の昭和」。>という文章に記したことがあるが、その感は、より強くなった。
 昨夜の引退セレモニーでは、彼に縁のある人々が次々と登場して花束を贈り、長渕剛が登場して「とんぼ」を歌った。思い切りベタな演出なのだが、直立不動で顔を歪めたまま歌に聴き入る清原の姿は、実に絵になっていた。
 こんなベタな演出がこれほどよく似合う人物が、今の日本にいるだろうか。清原は、その身にまとっていた「昭和の世界」を最後の最後まで見事に生き切った。そしてそんな姿が、誰よりも観客に愛された。

 正直なところ、私はプロ野球選手としては、清原があまり好きではない。西武時代から一貫して過大評価を受けてきたと思っていたし、プロとして「それは違うだろう」と感じる言動が多かった。
 それでも、スタジアムにいて彼が打席に立てばつい拍手してしまうし、テレビ画面なら注目してしまう。スケールの大きなホームランには目を奪われる。右中間に伸びる打球の弧も魅力的だった。
 どんなに傲岸で、幾多の間違いを犯したとしても、結局は憎めない、存在感の大きな選手だった。野球界の顔役、とでもいう表現が似合う。彼が20代後半の頃、たとえば1996年のアトランタ五輪がプロ選手で結成されたとしたら、少々打率は低くとも、清原は四番に収まっただろうと思う。

 ただひとつ、いや、惜しまれることはいくつもあるけれど、それでもひとつだけ挙げるとしたら、すでにジャイアンツで居場所を失いつつあった2004年オフ、仰木監督が指揮をとることになった合併球団オリックス・バファローズに移籍していれば、という思いはある。仰木の下で、何物にも縛られることなく伸び伸びと野球に打ち込む清原の姿を見てみたかった。当時もここでそう書いたが、1年後、仰木亡き後に移籍が実現しただけに、余計にその思いは強い。


 オリックス・バファローズは、特設サイトを作ったり記念グッズを売り出したりと、清原の引退興行に熱心だ。
 夏に自ら引退を発表した時点から、球団にとっては、今年のペナントレースは清原の引退興行という位置づけだったのではないかと思う。というよりも、ほとんど戦力になる見込みがない選手に高額の報酬を払って現役を続けさせていたのも、花道を飾らせつつ一商売したい、という考えからだったのではないかと思うが、最終的には球団にも清原にも幸福な形で終わることができたのは結構なことだ。

 それにしても、低迷するチームを突然任せられ、戦力にはならないが存在感だけはやたらに大きい選手をベンチに置きながら、彼のチームを盛り上げ勢いをもたらす力をもうまく使い、チームを立て直して快進撃を続け、ホームでの最終戦を前にクライマックスシリーズ進出を確定して、最後に清原に四番DHでのフル出場という花道を作ることに成功した大石大二郎監督の手腕は、見事というほかはない。クライマックスシリーズや日本シリーズの行方がどうなろうと、今年の最優秀監督には大石がふさわしい。

 …と勢いよく書いてしまったが、松坂に続いてカブレラと和田を失ったチームで、打ち勝ってレギュラーシーズンを制した渡辺久信監督もご立派。若い指導者が結果を出しているのは嬉しい。


*
…と書いたが、コメント欄のnobioさんの再三の指摘を読むと、「ごく普通の常識」というわけでもなさそう。いずれにしても、清原はこの時代の方が住みやすかっただろうとは思うのだが。(2008.10.6)

| | コメント (12) | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »