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2009年2月

NHK知るを楽しむ「人生の歩き方/井村雅代 私はあきらめへん」日本放送出版協会

 おかしな表題になっているのは、これがNHK教育テレビの番組テキストだからだ。

 「知るを楽しむ」は月〜木の22:25から25分間の番組で、曜日ごとにテーマがあり、それぞれ月替わりのシリーズを放映している。本書は毎週水曜日の人物モノ「人生の歩き方」の2月分として放映された番組のテキスト。これから放映する3月の辻村寿三郎と2人分で1冊になっている。
 井村の第1回分の放映を観たら面白かったので、そのまま4回全部見てテキストまで買ってしまった。

 番組は、井村へのインタビュー(聞き手は渡辺あゆみアナウンサー)をベースに、話題に合わせた写真や映像が挿入される。インタビュー番組のテキストって何が書いてあるんだろう、と書店で手に取ったら、放映されたインタビューを文章に起こしたものだった。
 内容はほぼ同一だが細部では微妙な違いがある。同一のマスターテープから、別個に編集したということなのだろう。各回の文末には「(文/松瀬学)」とあって驚いた。アマチュアスポーツ中心に活動し著書が何冊もあるスポーツライターだ。NHK、贅沢に作ってるなあ。
 
 
 井村雅代は、日本のシンクロナイズドスイミングのメダリストたちを育てたコーチで、昨年の北京五輪では中国のコーチに就任、チーム演技で史上初のメダル(銅)に導いた人物。ソフトボールの宇津木妙子元監督と並び、「日本3大怖い女コーチ」*の1人といってよい(Amazonで井村雅代を検索すると、なぜか宇津木の著書も一緒に表示される)。

 井村に関する私の知識はその程度のものだった。シンクロという競技自体にそれほど強い関心がないので、彼女の著書やインタビューを熱心に見たこともない。
 今回の番組に限って見る気になったのは、中国でのコーチ経験について興味があったからだ。
 日本のシンクロを背負ってきた彼女が中国代表のコーチに就任したことは、国内では衝撃をもって迎えられた。かなりの非難も受けたようだ(今もGoogleで「井村雅代」を検索すると、「他のキーワード」として「井村雅代 裏切り」「井村雅代 国賊」「井村雅代 売国奴」といった文字が表示される)。

 本書で、井村は次のように動機を説明する。

<ロシアのコーチやアメリカのコーチだって、いろんな国で教えているじゃないですか。シンクロはロシア流、アメリカ流、日本流とテイストが違うんです。だから、日本のコーチだっていっぱい世界に出ていったほうが、日本流がメジャーになっていくわけです。
 もしもわたしが中国からの要請を断ったならば、どうなるだろうと考えたんです。きっと、ロシアのコーチが中国に行くだろう。そうしたら、またロシア流シンクロが脚光を浴びて、日本流シンクロをアピールする場所がなくなるんです。同調性など、日本流シンクロのよさをアピールするためには、北京五輪は開催国だから絶好の場所だったんです。脚光を浴びるでしょうから。だから、わたしは断ることができなかった。これはいつか日本が世界一になるために大切なことなんだと思ったんです。>

 シンクロは採点競技だ。配点の基準はあるけれども、水泳連盟サイトの解説を見ても、例えばフィギュアスケートのように、どの技に成功すれば何点、などと具体化されているわけではなく、「大変よい」「よい」「充分」「普通」など、審査員の判断で点数は決まっていく。つまり、印象や主観に大きく左右されるということだ。

 以前、元選手でメダリストの小谷実可子がどこかに書いていた文章を読んで驚いたことがある。
 小谷によれば、シンクロの大きな大会では、そもそもやる前から順位は決まっている、という。別に不正があるとかいうことではなく、それまでの実績などから“普通にいけばこの順位”という相場のようなものを審査員も選手もコーチも共有しており、それをいかに覆していくかという勝負なのだ、という。そのためには、たとえば五輪で1回だけ素晴らしい演技をしてもダメで、小さな大会で実績や好印象を積み上げていくことが大事なのだ、と。
 
 だから、日本流のシンクロの勢力圏を拡げるために他国でコーチをする、という井村の意図には納得できる。当時、井村はすでに日本代表コーチから退いて1年以上経っていたから、筋から言えば問題はない。
 ただ、井村の指導を受けてきた日本の選手たちには動揺もあっただろうし、世の中の中国嫌いな人たちを刺激してしまったのは彼女にとっては予想外だったようだ。そして、結果的に北京五輪で中国が日本を上回ってしまったのも計算外だったろう。井村が考えたような効果に結びつくかどうかは、長い時間をかけなければわからないことだ。

 2回目以降は、井村の生い立ち、競技との関わりから時系列に沿って語られる。下手な選手だった現役時代。引退後に中学教師として生活指導に取り組んだ経験。コーチとして再びシンクロ界に戻り、二足のわらじで奮闘したこと。
 初めての五輪参加の後、浜寺水練学校から事実上解雇され、慕って付いてきた選手のためにクラブを立ち上げたものの、大阪ではプールを貸してもらえないという嫌がらせを受けたこともあったという。それでも優れた選手を育てて代表に送り込み、自身も代表スタッフに加わっていく。経歴のすべてから、強烈な意志とエネルギーがほとばしっている。
 
 
 さすが、と思う発言も端々にあった。一例を、第4回「ホンキだから叱る」から。

<あまり叱っている感覚がないんです。ほんとうのことを言っているだけです。><たとえば、「あなたの脚、短いね」「汚い脚」って言うじゃないですか。ほんとうだもの。でも、それで終わったらダメなんです。どうにもならないことなんて世の中にないんです。必ずどうにかなる。それを考えるのが人間、それを教えるのがコーチです。><脚が短いのは構わない。短く見えることがダメなんです。脚が短くても、筋をぎゅーっと伸ばして、人の目をぐーっと上にいくようなオーラを出したら、長く見えるじゃないですか。>
 
 単なる精神論、根性論だけではないことがよくわかる。根性とソリューションが必ずセットになっている。というより、根性でソリューションをひねりだす、ということか(根性だけで、あれほどの成績を続けて収められるはずがないのだから、当たり前ではあるが)。
 
 このように、ビジネス書やビジネス雑誌が特集を組んだり引用しまくりたくなるような名言が随所に出てくるのだが、しかし、この人のやり方は迂闊に真似をすると危険だ。
 ここで語られている指導法は、とことん正面から選手に向き合おうという井村の猛烈な意志、猛烈なエネルギーに裏打ちされることで初めて効果を発揮する方法なのであって、それがないまま口先だけ取り入れようとしても何の意味もないだろう。「生兵法は怪我のもと」という諺がそのまま当てはまりそうに思う。
 井村自身は、その部分についてはそれほど大したことだとは思っていない風情だが、この持続する意志と熱意があってこその成功なのだということを改めて感じる。
 
 番組テキストという形の出版物なので、書店のスポーツコーナーに置かれることもないと思うが、これは一級品のスポーツライティングだ。たぶん3月下旬には店頭から消えてしまうだろうから、興味のある方はお早めに手に取られることをお勧めする(番組は一週間後の早朝に再放送される。第4回は3/4の朝5時5分からなので、まだ見られます)。
  
 

*3人目は特に決めてません。まあ「日本3大○○」の3番目は、たいていそういうものだ。

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どのクラスにも1人はいそうな、厄介なタイプ。

 今回は全編例え話。舞台は高校にしましょうか……


 クラスの中で、学級委員を決める日が近づいている。

 委員に選ばれることは、一応は名誉だ。楽しいことがあるかも知れないが、面倒くさくもある。何かうまくいかないと、すぐ先生にしかられる。あるクラスでは、なりたい人どうしで競争が起こるし、別のクラスでは、みんな嫌がって押しつけあっている。
 あなたのクラスでは、いろんな意見が出て話がまとまらず、立候補者も出ない。全体のホームルームで決めるのは難しそうなので、先生と、前任者など数人の会議で選ぶことになった。

 で、ある人物がいる。N君、としようか。
 N君は、成績は抜群によいのだが、いつも一言多い。他人への愚痴や批判ばかり喋っているので、クラスのみんなは彼に一目置きながらも、煙たがっている。でも、他のクラスでは人気がある。やり玉に挙がるのはN君のクラスメートだけだから、他人の悪口を聞いているだけなら、そりゃあ面白いだろう。

 N君は学級委員の経験はないが、先生の指名で選考会議に出席することになった。
 N君はなんとなくはしゃいでいる感じだ。会議の何日も前から「あいつがいいよ」とか「やっぱりこいつがいい」とか、はたまた、ある意見を言った人気者について「そんなこと言うなら自分でやればいい」とか、みんなの集まる場所で、いろんな人の名前を挙げる。
 「N君がいいよ」と言われると、「俺なんか…」と尻込みするが、表情は嬉しそうだ。内心やりたくて仕方ないのが周囲からはみえみえだが、決して自分の口からは「やりたい」と言わない。

 最初の会議が別室で行われ、終わってからN君が教室に帰ってきた。
 見るからに機嫌が悪い。会議では前任者を推す意見が強かったようで、「出来レースじゃないのか」と苦々しい口調で言う。N君は?と聞かれると「Nの字も出ないよ」とぶすっとした表情。自分が推薦されるものだと思っていたようだ。他のクラスに行くと「N君しかいないよ」と言われるものだから、すっかりその気になっていたのかも知れない。

 二度目の会議では、「N君はどう?」とちょっと水を向けられもしたけれど、N君は「いいですよ」と断ったらしい。結局、先生の意向もあったのか、学級委員は未経験のH君に決まった。H君は成績はN君ほどではないが、素直な性格。すぐに引き受けて「学級委員はクラスの誇りで憧れです」なんてくさいことを真顔で言っている。
 N君は、会議の後では「異論はないよ」と言っていたけれど、後で他のクラスの連中に囲まれると、「当然俺の名前が出ると思ったのに」「どうせ俺なんか先生に嫌われてるんだよ」と、また愚痴ばかり言っている。以前、自分でH君の名前を挙げたことなど、忘れてしまったようだ。

 学級委員になったH君は、スタッフを決めて活動を始めた。もうすぐ全校集会があって、H君と委員たちはクラスを代表して発表することになる。発表には順位をつけられるから真剣だ。
 他のクラスには、ずっと前から委員とスタッフを固定して準備をしてきたところもあるし、優秀な生徒ばかりを集めた強力なクラスもある。集会で上位に入ると試験が免除になるとはりきっているクラスもある。
 が、H君たちのクラスでは、先生はあまり優遇してくれない。集会のすぐ後に試験があるけれど、H君たちは試験勉強を休んで発表の準備をしている。

 そんなH君たちを横目で見ながら、N君は着々と試験勉強に励んでいるわけだが、集会の直前になって、また文句を言い始めた。「あいつをスタッフから外すなんておかしい。俺が推したせいじゃないのか」とか、「あいつは発表の本質をわかってない」とか…。
 他のクラスの連中は、そんなN君の繰り言を面白がって、書きだして壁に張り出したりしている。H君は何も言わないけれど…。

 ……私の目には、彼の振る舞いはそんなふうに見える。「彼」が誰かは、書くまでもないでしょう(笑)。
いい加減、口を閉じてくれないかなあ。若い後輩の足を引っ張って、ホントに大人げない。

 N君が最初から「僕は学級委員になりたい。僕なら発表も成功してみせる。みんな協力してくれ」と言っていたなら、私はこんなふうには思わないけれど、たぶん彼はそんなことが言える性格ではないのだろうな。
 
 
※アップから30分後くらいに、結語を変更しました。当初はもうちょっと嫌味な表現だったのですが、それもどうかな、と思いまして。

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外国映画としての「おくりびと」。

 「おくりびと」を見たのは比較的最近のことで、昨年の暮れに海外に出かける飛行機の中だった。ノドを痛めやすいので機内ではマスクをしているのだが、その状態でぼろぼろと泣いていた。機内スタッフの目にはさぞ異様に映ったことだろうが、あの映画を上映している間は、そういう客も結構多かったかも知れない。

 今これを書くのは後出しじゃんけんのようなものだが、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたと聞いた時は、外国人ウケの良さそうな映画だからな、と納得した。
 死の儀式という普遍性。日本家屋の畳の上で死者に着物を着せるというエキゾチズム。山形の美しい四季。オーソドックスな展開と丁寧な語り口。独特の軽みと優しさ。チェロ奏者という主人公の前歴も、観客を納棺師という道の世界に連れて行く先導役にふさわしい。
 そして、なんといっても本木雅弘と山崎努が演じる納棺の美しさ。その所作はまるで舞踊のようで、ただ座っているだけで美しい本木が、丹念に手順に沿って死者を送り出していく姿は、それ自体がこの世のものとは思えない雰囲気を醸し出している。
 日本から海外に送り出す文化的パッケージとしては理想的といってよい。

 だが、たぶん監督も制作陣も脚本家も、この映画を作る時には「世界市場に出すために」などということは、ほとんど考えていなかったと思う(もし意識していたのなら敬服する)。このジャポネスクなパッケージは、あくまで現代の日本の観客のためのものだったはずだ。

 私は自分の家から葬式を出したことが二度ある(一度は昭和の昔、二度目は21世紀になってからだ)。が、この映画のような形で納棺に立ち会ったことはないし、納棺師という職業も知らなかった。
 少なくとも首都圏ではみな同じだと思う。都会では、多くの場合、人は自宅では死なない。病院から自宅に戻る時には、すでに棺の中にいることもある。滝田洋二郎監督の出身地、富山県高岡市は、どの家のふすまの奥にも、とてつもなく豪華な金箔の仏壇があるような土地柄らしいが、そこで育った監督も納棺師を知らなかったようだ。

 従って、映画は納棺師を知らない観客のために作られている。映画の主要な主題は本木(とその妻)が「納棺師」という職業から受けるカルチャーショックであり、本木や山崎の所作を丹念に追う映像はそれを初めて見る観客のためのものだ。

 だからこそ、観客はみな素直に感心し、感動できる。
 もし、納棺師がもっと身近な存在だったら、逆に我々は(主人公の妻や郷里の旧友のように)この映画を忌避する気持ちから脱しきれなかったのではないだろうか。映画のタイトルが「おくりびと」でなく「葬儀屋」であったら、こんなふうに受け入れられたかどうか。
 死体の臭いや手触りは、映画で描写されてはいるが、どこかコミカルで、画面からそれが漂ってくるようなものではない。それは、人が自宅で死ななくなった世の中の変化とも通底しているように思う。本木が原案となる書籍と出合ったのは15年くらい前らしいが、その時期に同じ映画が作られたとしたら、なまぐさくて見ていられなかったかも知れない(それはあくまで見る側の感覚ということだが)。

 だからといって、この映画が虚構だと言うつもりはない。
 一族が並んだ前でパフォーマンスのように行われることはなくても、我々は納棺が厳かなものであることを知っている。映画のように実行されることは希であっても、潜在的には誰もがあのような気持ちを共有しているから、(そこに多少の美化がおこっていたとしても)本木が執り行う納棺の儀が、象徴的なものとして、すっと心の奥まで届いてくる。

 というわけで、この映画のアカデミー賞受賞を報じるメディアの多くは「日本の心が海外に理解された」という文脈で伝えているが、それはいささかニュアンスが違うように感じる。
 「おくりびと」は、我々日本人の観客にとっても、異国の珍しい習俗を描くようにして作られている。だからこそ、どの国の人々にも届くのではないだろうか。そして、山形の言葉が持つやわらかさ、あたたかさもまた、そこに一役買っている。まさに「外国語映画賞」にふさわしい(山形の人には母語映画だけれども)。


 しかし、滝田監督の年齢が53歳と若いのには驚いた。ずいぶん昔から撮っているのに、とフィルモグラフィーを確かめると、一般映画のデビュー作である「コミック雑誌なんかいらない」(本木の義父である内田裕也が主演している)は1986年の作品、彼が31歳の年にあたる。
 それまでは独立系のプロダクションでピンク映画を撮っていた。残念ながら見たことはない(と思う。ピンク映画は昔何本か見たが、タイトルまで覚えていない)。
 オスカー受賞を祝福する高岡のご両親の姿もずいぶんと報じられていたが、東京に出て行ってエロ映画ばかり撮っていた20代のころには、家族や親族、故郷の目は厳しいものだったのではないだろうか。故郷の友人や妻に忌避されながらも、仕事に打ち込むことで認められていく主人公の姿は、監督自身の半生にも重なるものだったのではないかと想像する。考えすぎかも知れないが。

 海外で評価される日本映画はアート系・単館系と言われるものが多かったが、オスカーを手にしたのが彼のように原作モノや企画モノをきちんと撮ってきた職人的監督だったというのは(ハリウッドビジネスのお祭りなのだから当然といわれればそれまでではあるが)、私のような、よくできた分かりやすい映画を好む凡庸な観客にとっては、どこか嬉しい出来事でもある。


追記:
上の文章をアップした後で滝田監督について検索しているうちに、朝日新聞の富山版で今年元日に掲載されたらしい記事を見つけた。「おくりびと」にも出演している俳優・山田辰夫(高校の同級生だったらしい。「おくりびと」での演技も印象に残る)との対談。たいへん素晴らしいのでぜひご参照を。ああ、日本映画がオスカーを取ったんだな、と実感した。
http://mytown.asahi.com/toyama/newslist.php?d_id=1700031

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『昭和の魔術師』 ベースボール・マガジン社 ~田村大五さんの逝去を悼む~

 今朝の新聞の片隅に、田村大五さんの訃報を見つけた時には、本当に驚いた。
 つい最近刊行された著書『昭和の魔術師』を読んだばかりだったからだ。訃報によると亡くなられたのは13日で、ちょうど私がその本を読み終えた日だった。週刊ベースボール今週号の編集後記では、編集長を含む3人の部員が全員田村さんを追悼する文章を書いているが、本当に突然のことで、つい数日前まで普通に編集部に出入りしていたようだ。
 
 田村さん、と知り合いのように書いているが面識はない。私は一読者に過ぎない。
 たぶん週刊ベースボールを読まない人には、田村さんの名はまったく馴染みがないだろうと思うが、ここ30年くらい、ほぼ毎週読み続けている者にとっては、田村さんは週刊ベースボールの魂と言っても過言ではない人物だった。
 
 同社サイトの年表には書かれていないが、戦後まもなく月刊誌として始まったベースボール・マガジンは、一度なくなった後(週刊ベースボールとは別。週刊誌は昭和33年に刊行されてずっと続いている)、昭和53年ごろに復刊された(4,5年続いた後で季刊誌になり現在に至る、と記憶している。違ったらすみません)。
 その復刊当時に「プロ野球・謎とロマン」と題して、昭和初期の名選手たちの評伝が連載されていた。宮武三郎、景浦将といった歴史上の人物たちを生き生きと描いて、毎号楽しみに読んでいた。
 
 筆者は大道文という名だったが、後に週刊ベースボール誌上で「白球の視点」というコラムの連載が始まった時、あ、あれはこの人が書いていたのだな、と気がついた。文体がそっくりだったからだ。それが田村さんだった。
 
 「白球の視点」がいつからいつまで続いていたのか、はっきりと覚えてはいないのだが、今も続く豊田泰光さんの「オレが許さん!」と並ぶ名物連載だった。豊田さんが同世代の指導者や後輩たちをズバズバと斬っていくのと比べると、田村さんの文章はいつも暖かく、選手への思いやりに満ちていた。
(雑誌掲載が終了した後、「白球の視点」はネット上に場を移して継続され、昨年春まで続いていた。バックナンバーを今も読むことができるので、彼の文章に触れていただきたい)
 
 
 今年1月に刊行されたばかりの『昭和の勝負師』は、三原脩と水原茂、高松から始まり、東京六大学を経て、プロ野球界でも所属を変えながら続いた2人の勝負師のライバル物語を描いたものだ。2人の野球人生は巨人軍での同僚として微妙に交錯した後、九州に下った(と敢えて書く。当時はそういう感覚だったらしい)三原が西鉄ライオンズを最強チームに育て上げ、水原率いる巨人を3年続けて日本シリーズで倒した昭和30年代初頭がクライマックスだ。
 
 若き日に西鉄ライオンズの担当記者として過ごした田村さんにとっては、このチームこそが野球記者生活の原点だったのだろう。3度の対決が終わった6年後に生まれた私でさえ細部にわたってエピソードを知っているほど語り尽くされ、書き尽くされたテーマであるにも関わらず、のめり込むようにして一気に読めたのは、田村さん自身が見聞きし、あるいは当事者から聞いたエピソードの活きの良さと、書き手の気迫によるものだと思う。
 
 
 本筋のほかに印象に残るのは、「この話題についても書きたいのだが編集部から与えられた紙幅では書き尽くせないので先を急ぐ」という類の記述が繰り返し出てくることだ。
 
 一般論としては、私は書き手がこういうことを書くのは、好きではない。限られた紙幅の中に収めるのも芸のうちであり、言い訳じみたことにその貴重な数行を費やすのは潔くないと感じる。
 
 だが、本書に限って言えば、そういうネガティブな印象をまったく受けなかった。それをどうしても書いておきたい、ここで書けないのが残念だ、別の機会にぜひ書きたいんだ、という田村さんのあふれんばかりの熱意が伝わってくるからだ。三原水原の時代の熱気を今に伝えるのが執筆の動機、というようなことが前書きに書かれていたが(手元に本がないので後で確認しますが)、同時に、もしかするとそれ以上に、田村さん自身の熱さがよく伝わってくる。
 
 「あの頃はよかった」「俺たちの時代はなあ…」と語る年配者は世の中にいくらでもいる。そして残念なことに、ほとんどの場合、彼らの言葉は、現代を生きる者にとって価値を持たない。語る側の人々が、今の時代への理解と若者たちへの愛情のいずれか、もしくは双方を欠いているからだ。
 
 田村さんがそういう人たちと異なることは、例えば「新・白球の視点」を読めばすぐに判る。
 現役の野球選手たちに深い愛情を注ぎ敬意を払うことと、若き日に自分が仰ぎ見ていた偉大な人々の物語を語ることの双方が、彼の中では高いレベルで両立していた。だから、昔話を書いていても、どこかで必ず今とつながっている。
 そんな人はめったにいない。日本の野球界は、希有な語り部を失った。
 
 彼にとって特別に大切だったであろう三原・水原を主人公に据えた著書を、最後に残してくれたことは嬉しい。
 だが、その本の中で、あれも書きたい、これも書きたいと意欲を語っていた物事が、ついに語られなかったことが残念でならない。もっといろんなことを教えていただきたかった。
 一読者として、田村さんのご冥福をお祈りします。

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野球か。何もかも、みな懐かしい。

 先日、テレビ朝日の開局50周年企画で、1988年10月19日のロッテー近鉄戦を振り返るドキュメントが放映された。出張と重なったので、録画しておいて昨夜見た。
 
 当時、私は仕事の都合で、ある地方都市に住んでいた。久米宏の「ニュースステーション」の枠内で放映された試合を、職場のテレビで見ていた。終わった時には、言葉もなかった、という記憶がある(あと、あの試合を見た大抵の人がそうだろうが、有藤が大嫌いになった(笑))。
 
 20年を経た今、当時の映像を見ていてもっとも感慨深いのは、平日の昼間から川崎球場に並ぶ長蛇の列だった。グラウンドが見える近隣のマンションには、非常階段から屋上までびっしりと人が立って見ている。テレビ朝日は、もともと予定していなかった編成を変え、人気ドラマを休止してCMを飛ばし、「ニュースステーション」の時間帯にはニュースを全部後回しにして野球中継を続けた。
 冷静に考えれば、たかだかリーグ優勝決定戦である。毎年必ず生まれるリーグ1位が決まるに過ぎない試合に、そこまで人々が入れ込み、視聴者も支持した(ドラマが見たかった、という人もいただろうけれど、その声はさほど世の中に聞こえてはこなかった。インターネットもないご時世だから、単にメディアに無視されたのかも知れないが)。
 
 昭和の昔には、世の中がこれほど野球を大事にしていたんだな、としみじみと感じる。戦争が終わった直後の日本では、野球は娯楽の王だった。それから43年目あたりまでは、まだその熾火が、人々の中に残っていた。
 
 
 もっとも、近鉄の応援団長だった佐野正幸氏の「川崎球場じゃなかった」という言葉とともに映し出された「普段の川崎球場」の映像も衝撃的だった。がらがらのスタンド、ねそべる観客、外野でマージャンに興じる客さえいる。ネット裏も含めても1000人くらいしかいないんじゃないか、というくらいスカスカのスタンドも、また昭和の現実だった(この日、「ニュースステーション」が後回しにしたニュースのひとつに、阪急ブレーブスの身売りがあった。よりによってこんな日に球団の譲渡を発表するところに、阪急とオリエント・リース、現オリックスの両社が、野球にどの程度の敬意を抱いていたかが如実に現れている)。
 私も80年代、後楽園球場で行われた日本ハムの主催試合には時々足を運んだが、映像の中の川崎球場と大差なかった。

 平成20年のプロ野球では、パ・リーグといえどもあんな光景はない。
 という言い方は失礼で、今やパの観客動員は1試合平均22,118人もいる(セは27,970人)。阪神、巨人は突出しているが、下位3球団はセパともほぼ変わらない。数字に表れない部分では、むしろパの球場の方が熱い。
 
 普段から野球場に行く人の数は増えている。だが、行かない人たちの野球への関心は減っている。それが、この20年間の変化なのだろう。
 
 
 試合そのものについては、あまり言うことはない。リアルタイムで見ていた人も、この番組で初めて見た人も、それぞれに胸を熱くしたことだろう。
 ただ、熱戦を貶めるつもりはないけれど、吹石とか真貴志とか高沢とか、年に何本もホームランを打たない選手の打球が次々と外野フェンスを越えていく、という展開は、劇的であると同時に、やっぱり川崎球場は狭かったな、と思わざるを得ない(笑)。これもまた、この20年の変化ではある(この88年は東京ドームがオープンした年でもあった。以後、福岡、名古屋、大阪、札幌にドーム球場が造られ、それぞれ以前のフランチャイズ球場よりも外野が広くなった)。
 
 ま、こんな理屈は後から浮かんできたもので、番組を見ている間は、とりたてて大扱いされることもなく登場してくる選手たちを見ているだけでも感慨深かった。
 現在、日本ハムの監督を務める梨田昌孝はダブルヘッダー第1試合で勝ち越しタイムリーを打った殊勲者だ。オリックスの監督である大石大二郎も大事なところでよく打っている。第2試合の終盤、ロッテの有藤監督の猛抗議を招いた牽制刺殺の当事者でもある(現在の有藤が「あれはアウトですよ」とあっさり認めていたのには驚いた。以前はそう簡単には認めていなかったような気がする)。
 ジャイアンツにいた淡口、後にイチローの打撃コーチとしても知られるようになった新井、ミルウォーキー・ブルワーズが球団史上ただ1度だけリーグ優勝した時の主砲で、日本でも真摯にプレーしたベン・オグリビー。今は亡き鈴木貴久。
 ロッテではMLBで首位打者をとったが日本ではさほど活躍できなかったマドロック。第一試合の終盤では牛島が投げていたし、仁科も美しいアンダースローを披露している。近鉄のクローザー、後にメジャーリーガーになった吉井が2試合とも機能しなかったことが試合をもつれさせた大きな原因のひとつでもあった。

 そして、この試合のコーナーが始まって早々に映し出されたロッテのベンチ前には、高畠康真(後に導宏)コーチが厳しい表情で立っていた。昨年の今ごろ、NHKで放映されていたドラマ「フルスイング」の主人公のモデルとなった人物だ。試合で貴重な本塁打を放ったベテラン内野手、吹石徳三は、ドラマで高畠(ドラマでは「高林」)の同僚を演じた吹石一恵の父でもある。「先輩、こんなガッツポーズなんかするような人じゃないんですよ」と金本がしみじみと語った吹石の満面の笑顔。一恵嬢はこの番組を見ただろうか。見ていれば、さぞ感慨深かったに違いない。


 あの試合から約1年後。私は別の土地に転勤して、やはり昼間から野球中継を見ていた(まったくろくな職業人ではない)。1年前と同じように西武と近鉄がパ・リーグの優勝を争い、その行方を決める直接対決のダブルヘッダーが行われていた。
 西武が積み上げた5点のリードを、ラルフ・ブライアントがたった1人で粉砕していった。
 最終的にリーグ優勝を決めたのはもう少し後のことだが、実質的には、この日の2試合でブライアントが放った4本の本塁打が近鉄の優勝を決定づけた。山田太郎でもめったに打たないような劇的な本塁打をスタンドに放り込んでいくブライアントを見ながら、野球ってのは恐ろしいもんだ、と私は思った。
 
 あの頃、野球は熱かった、などと言う気はない。今だって熱いし、昭和21年ごろは当時より熱かったに違いない。それぞれの時代に、それぞれの野球がある。ずっと付き合ってきた者にとっては、それで十分だ。そしてこれからも、そうあってほしい。

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