スポーツに国費が投じられることの意味。
行政刷新会議の事業仕分けで、スポーツへの補助金が俎上に上った。11月25日に行われた仕分けで、「民間スポーツ振興費等補助金」に対し、「予算要求の縮減」という評価が下されている。
もちろん、この国家財政窮乏の折に、スポーツ政策だけが聖域であるはずもないので、検討の対象となることに疑問はない。
事業仕分けに対しては、主として科学技術分野での反発の声が目立っている。
ときどき拝見している、理科系の研究者で大学教員らしい方の<発声練習>というblogでは、スポーツ補助金への仕分けについて、こんなふうに紹介されていた。
<たとえば、以下の記事をあなたはどう感じるだろうか?
日刊スポーツ:仕分け人に斬られた JOC補助金縮減
産経新聞:【事業仕分け】JOC、強化費削減に反対
スポーツが好きな方はこちらの意見にも賛成するかもしれないけれども、それほどスポーツに興味ない方は「不景気なんだし削減されてもしょうがないのでは?」「確かにマイナースポーツをそんなに支援しなくても良いよね」「オリンピック強化選手を支援するのは良いけど、そのやり方は非効率なんじゃない?」という感想を持つかもしれない。>
科学技術分野も部外者からはそんな目で見られているんですよ、という例として引き合いに出されているわけだ。もっともな見解だと思う。
ただ、引用した文章については、必ずしも同意しない。
私はたぶん<スポーツが好きな方>に属すると思うけれど、<「不景気なんだし削減されてもしょうがないのでは?」「確かにマイナースポーツをそんなに支援しなくても良いよね」「オリンピック強化選手を支援するのは良いけど、そのやり方は非効率なんじゃない?」>という意見にはあまり異論がない。
スポーツが好きだからといって、税金を湯水のごとくつぎ込んで、あらゆる競技で金メダルを目指すのが妥当だとは、私は思わない*。
JOCの幹部は、日本ではスポーツに対する国の助成が少ない、もっと金を出せ、ということを機会があるたびに口にする。例えば、北京五輪の総括記者会見で、選手団団長を務めた福田富昭は、こう話している。
<五輪は国と国との戦いに匹敵する。国策として強化しなければ難しい。(他国が)国のレベルで取り組んでいるのが分かった。中国は大変な支援を受け、韓国もナショナルトレーニングセンターの施設を毎年、充実している>
<(次回ロンドン五輪開催国の)英国はこの4年間で、競技団体に470億円が使われた。日本オリンピック委員会がもらっている強化費は27億円。比べものにならない。もし2016年を東京でやることになれば、ロンドンで(金メダル数で)4、5位につけないと、3位に食い込めない。思い切った策を政府がとらない限り、だめだ>
福田団長が口にした<27億円>という数字は1年分の金額だから、英国の4年分の金額と並べること自体が詭弁の第一歩なのだが、それは措くとしても、「なぜ日本がメダルをたくさん獲得しなければならないのか」「なぜそのために国費を投じなければならないのか」という疑問に対する答えを、この会見から見出すことはできない。
もちろん、終わったばかりの(そして彼らが予定していたほどにはメダルを取れなかった)大会の総括をする場で、そんな話をする必要はないのかも知れない。
だが、国費獲得のための議論の場であれば、仕分け人の1人が口にしたという<「『五輪は参加することに意義がある』はずだったが、今はメダルに意義があるのか」>という質問にも答えるのが、予算を請求する側の責務だろう(文科省側は<「人間の限界に挑戦することも子供たちに夢を与える」と理解を求めた>という)。
実際には、交付される側はどう反応したか。毎日新聞の記事から、事業仕分け結果に対するJOCと日体協幹部のコメントを引く。
<▼竹田恒和・日本オリンピック委員会会長の話 全体の仕分けで(JOC予算も)横並びにされた感じがある。簡単な議論で判定されている。内容をよく調べた上で声を大にして訴えていきたい。>
<▼市原則之・日本オリンピック委員会専務理事の話 縮減の中身が分からない。スポーツ予算も聖域でなく無駄な部分はあると思うけど、選手強化費は聖域だと思う。今後は民主党ともパイプづくりを考えていかないといけない。>
<▼岡崎助一・日本体育協会専務理事の話 スポーツは国民の活力に必要不可欠。無駄遣いではない。サッカーくじ助成事業は今は(売り上げが)いいからという限定で話している。悪くなったときはどうするのか。>
記事の中では、以下のような市原専務理事の談話も紹介されている。
<「強化予算100億円を超える諸外国の流れに逆行している。これでは太刀打ちできない」>
<「国費だけでは足りないからやりくりしてる現状が理解されていない。不勉強だし無責任だ」>
ずいぶんと高圧的なトーンの談話が並ぶ。
事業仕分けの場での議論は、記録された評価コメントを見る限り、彼らが思っているほど不見識なものではない。
<スポーツ振興基金助成事業やtoto事業との関係を見直した上で効率的な支出を行うべきと考える>
<今日、体育協会の有り様は要検討、組織の陳腐化>
<天下りをなくす>
それぞれ検討に値する意見だと思う。だが、上のコメントを見る限り、当事者たちはこれらの問いかけに真摯に答えようとしてはいない(あるいは、そもそも問いかけ自体を把握していないままにコメントしている)。
事業仕分けの議論内容と、該当分野の人々の言い分を見比べると、スポーツ団体の幹部たちと、科学技術分野の専門家たちの反応は、よく似ている。
彼らの発言の多くは、「この事業の目的は国家のために重要であり、事業が停滞することは国家にとって大きな損失となる」という論法をとる。
だが、事業仕分けが問題としているのは、その事業の意義そのものではない。
多くの場合は、意義を認めた上で「その目的を達成するために、この予算の使い方が最良なのですか? 無駄や無理があるのではないですか?」という問いがなされている。
そして専門家たちは、その個別の質問には答えようとせず、反論は「この崇高な目的を理解すべきだ」という範囲にとどまっている。
一言でいえば、噛み合っていない。
科学技術分野での事業仕分けで象徴的な存在になっている次世代スーパーコンピューター開発については**、事業仕分けの論点として、たとえば以下の問題が指摘されている。
<・特に本件は、共同開発民間3社のうち2社が本年5月に撤退を表明し、当初計画から大幅なシステム構成の変更を強いられており、見通しが不透明ではないか。
こうした状況の下、プロジェクトを強行しても、当初の目標を達成することは困難ではないか。
・重大な事情変更があったにもかかわらず、引き続きプロジェクトを継続し、本格的着手を行うことが妥当と判断したことについて、説得的な説明が必要ではないか。>
事業仕分け以前に、そもそもうまくいっていないんじゃないか。そのまま大金を注ぎ込み続けることに不安を感じない方がどうかしている。
だが、ノーベル賞・フィールズ賞の先生方の声明文や討論会では、(当事者組織の長である野依氏も含めて)誰一人この点に答える人はいなかったようだし、それ以外の専門家直接の当事者からの説得的な説明も、私はまだ見つけられずにいる(たとえば情報処理学会の声明の中にも見つけられない)。
どちらの分野でも、反論や声明がこの範囲にとどまっている限り、部外者からの共感や賛同や支援を得ることは、難しいのではないだろうか。
スポーツの強化や普及が不要だとは、たぶん誰も言わないだろう。
だが、今の日本において、どのくらいの国費を投じて、どのくらいの成績や普及を目指すのが妥当なのだろうか。
そもそも国費を投じることが妥当なのか。
JOCには、アマチュアリズムに固執して選手からビジネスチャンスを奪ってきた歴史がある。選手が自力で強化費用を調達することを制限しながら、選手強化のために国費を出せというのは、筋が違うのではないか。
競技によっては、海外大会への遠征に、特に必要とも思えない競技団体役員がぞろぞろついてくるケースもあると聞く。自治体単位の体協から競技団体への不正受給もしばしば明らかになっている。各競技団体に交付した補助金の使われ方を、JOCや体協はきちんと把握しているのだろうか。
日本の納税者の中には、オリンピックのメダルなんか要らない、という人もいるだろう。ならば、メダルをとってほしい国民からJOCなり日本スポーツ振興センターなりが直接お金を集める割合を増やしてもいいんじゃないか(スポーツ振興センターには募金制度があるようだが、たぶん、あまり知られてはいない)。
生涯スポーツの重要性が語られる際には、多くの場合、総合スポーツクラブの普及によって医療費を減らしたドイツの事例が引き合いに出される。だが、医療費とのバーターを目指すのなら、文部科学省だけでなく厚生労働省の領域でもある。文部科学省がスポーツ行政を担当していること自体に無理があるのであって(この省がtotoの胴元を仕切っていることにも無理がある)、スポーツ省が必要なのではないか。
ちょっと考えただけでも、いろいろ論点は出てくる。このように議論を具体的な領域に落とせば、国民の意見は分かれるはずだ。
五輪に参加することの意義、スポーツの存在価値を人々に知らしめ、国費を投じることに理解を得るためには、この種の議論を避けて通ることはできないはずだ。JOC幹部のような立場の人たちにとっては、積極的に議論を喚起し、スポーツの意義を世の中にアピールし続けるのも、重要な責務だと思う。
それをしないまま、ただメダルの枚数を目標に掲げて国費を要求しているだけでは、JOCは単なる補助金配分機関に過ぎない。
今回の事業仕分けについては、スポーツに国費が投じられることの意味を考え直す機会を与えられた、というくらいの受け止め方を、JOCの偉い方たちにはしてもらいたい。
自分が望んだわけではない五輪招致活動のために150億円を消費された東京都民としては、特にそう思う。
*
仕分け人の1人から<「ボブスレーやリュージュ」など具体的な競技名も挙げ、「マイナースポーツに補助金をつぎ込んでもメダルに届かないのでは」と質問>が挙がったことに反発する声もあるようだ。だが、JOCが競技団体に交付する強化費用は、メダルの取れそうな競技とそうでない競技にかなりの格差をつけているのだから、この質問にスポーツ界が反発する筋合はない(逆に、その点を批判される筋合もないわけだが)。
**
もちろん、本当に科学の発展を阻害しそうな仕分け評価もあるだろうから、そういう部分では大いに、そして個別具体的に反論していただきたい。
追記(2009.11.30)
為末大の公式サイトに「スポーツの仕分け」と題したエントリが記されている。ここでの議論とは違った角度だが、当事者ならではの貴重な意見。事業仕分けに対して、スポーツの現場からこのようにさまざまな議論が起こるとよいのだが。
追記2(2009.12.3)
体協やIOCと、自民党、文部科学省との関係性については、<永田町異聞>のエントリ<スポーツ助成を一本化し「toto」収益を選手強化に>に詳しい。なるほど、これまでは自民党べったりだったから<今後は民主党ともパイプづくりを考えていかないといけない。>なんて発言がJOCの市原専務理事から出てくるわけですな。
コメント欄にも書いたが、アマチュア選手たちの記者会見については同感。
<永田町異聞>は元社会部の新聞記者の方が書いているらしい。本来ならこういう言説がスポーツジャーナリズムから出てきてほしいのだが、本文中にリンクした2つの記事をはじめ、記者自身が選手やスポーツ団体幹部の目線と同化してしまった記事が目立つ。12/3付の報知新聞に掲載された石井睦記者のコラムも同じで、マイナー競技の選手は自腹切って頑張ってるんだから縮減とはけしからん、というばかり。スポーツに限らず、自腹切って頑張って文化活動をしている人は世の中に数え切れないくらいいる。五輪種目だというだけで国庫から金が出ることに、どういう合理性があるのか、という視点は皆無だ。当事者はともかく、記者がそれじゃまずいでしょ。
結局のところ、事業仕分けで指摘されたのは、スポーツジャーナリストたちが看過していた問題なのだ。その問いかけに対する見解も見せずに文句ばかり言っててどうする。そんな人たちが「スポーツは文化だ」「政治や経済より軽視されているのはおかしい」なんて口走ったところで説得力はない。
(とはいえ、玉木正之の日記を読むと、さすがにまともなことを書いていた)
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