「伝統」の「文化」は、どこまであてになるものなのだろう。
3/19の朝、新聞やテレビでは、ワシントン条約締約国会議における、クロマグロの禁輸という提案が否決されたことを一斉に伝えていた。「日本の伝統的な食文化が守られた」というトーンが多いのだが(岡田外相もそんな文脈の発言をしていた)、そういう語られかたに、何となく違和感を覚える。
素材を地中海からはるばる持ってきている時点で、すでに「伝統的な食文化」は守られてないんじゃないか、という素朴な疑問はとりあえず措くとしても、マグロと江戸前寿司について不思議に思っていることがある。
私は首都圏のサラリーマン家庭で育った。最近はあまり使われなくなった言葉でいえば「中流」で、寿司というのは「たまにお客さんが来た時に出前でとるご馳走」という位置づけだった。
その寿司の中に、マグロは赤身の握りや鉄火巻きという形で存在していた。トロなどというものが当時の寿司桶に入っていたのかどうか。私はあまり食べた覚えがない。
お前んちが貧乏だからトロの入った寿司が食えなかったんだろ、という指摘があるかも知れないから、客観的に定義してみよう。私が食べていたのは、昭和40年代の「近所の寿司屋から出前で取った寿司のうちでいちばん安いもの」だとする(本当に「いちばん安いもの」だったかどうかは知らないが)。それに近い存在を今の東京で考えるなら、「近所のスーパーで売ってるパック入りの寿司(の閉店間際に値引きしたやつ)」あたりに匹敵するんじゃないかと思う。私の家の近所のスーパーで売っているその手の商品に、トロはしっかりと入っている。
というわけで現在、日本で消費される江戸前寿司の中にトロが含まれている割合は、70年代あたりに比べると、かなり増えているんじゃないかという気がする。今の消費動向が昭和の昔から続いていたとは考えにくい。
一方、もっと長いスパンで考えると、トロの位置づけはさらに変わる。
東京の下町には「ねぎま鍋」という料理がある。
「ねぎ」は葱、「ま」はマグロ。角切りにしたトロを、しゃぶしゃぶのようにさっと湯通しして食べる。旨いのだが、店によっては結構な値段で、決して安いものではない。
だが、この料理の起源を調べると、決して高級料理ではなく、むしろ庶民の食べ物だったらしい。
江戸時代には、マグロは赤身をヅケにして食べる魚だったという。トロは保存が利かないので生で食べることが難しく、捨ててしまっていた。それを何とか利用しようと鍋にすることを考案した…というようなことが、人形町の老舗「よし梅」のホームページに書かれている。
http://www.yoshiume.jp/top.html
江戸前寿司自体も、江戸時代には高級料理ではなかったはずだ。「すし」というのは本来は魚と米を漬け込んだ発酵食品で(琵琶湖畔の「ふなずし」のように)、江戸前寿司はその代用品としての屋台料理であり、要するにファストフードとして始まった。
だから、1カンだけで私の通常の一食分を超えるような値段の「大トロの握り寿司」というものは、日本の伝統的な食文化の中から生まれてきた食品ではあるが、それ自体を「伝統的な食文化」だと言ってしまうには無理がある。
現時点でものすごく好まれて食べられているからといって、それだけで「食文化」と言ってしまってよいのかどうか。
逆に、伝統的な食品でも、現代の日本人が好まなくなってきたものはいろいろあるわけだが、そういう「伝統的な食文化」は守らなくてもいいのだろうか。
ついでに言うと、マクドナルドのハンバーガーは日本に入ってきてすでに30年以上経っているはずだが、あれはもはや「日本の食文化」と見做してもいいんじゃないだろうか。
江戸という都市は、参勤交代などの影響で単身生活者の男性が多かったため、寿司、うどん、天ぷらなどのファストフードが発達したという歴史をもっている。ハンバーガーもまた、その歴史の延長線上に登場したものとして捉えれば、「日本の伝統的な食文化」に連なる食品と言えなくもない。
そう考えると、「伝統の文化」と思われているものが、どこまであてにできるかといえば、結構あやしいこともある。
最近のニュースで話題になった、もうひとつの「伝統」にも、似たようなところがある。朝青龍のおかげでモンゴルにまで知れ渡った、大相撲における「横綱の品格」というやつだ。
大相撲を「国技」と呼ぶことに異議を唱える人はあまりいないと思うが、この呼称には、聞けば脱力してしまう程度の根拠しかない。その起源は、相撲界が明治時代に初めて建設した専用競技場を「国技館」と名付けたことにある。要するに、自分たちで「国技」を名乗ってるうちに周囲が真に受けるようになった、ということに過ぎない(真に受けるだけの素地があった、ということでもあるのだろうけれど)。
「横綱」が番付上の正式な地位となったのも明治以降のことだ。各藩のお抱え力士たちが露天で戦っていた江戸時代の大相撲で、どの程度「品格」というものが重視されていたのかは、よくわからない。
もしも、「昭和の名力士たちが築いてきた『品格』という伝統を、朝青龍が台なしにしたのだ」と主張する人がいれば、その点には異存はない。
ただし、その場合の「伝統」とは、たとえば読売ジャイアンツあたりと比較できる程度のタイムスパンということになる。ジャイアンツには「巨人軍は紳士たれ」という標語があるが、さて、これは「日本の伝統的文化」といえるのかどうか。よほど熱心なジャイアンツファンでも、真顔でそう口にするのは恥ずかしいんじゃないだろうか。
ちょんまげを結って着物を着た人たちがやっているせいか、大相撲に関するすべてが江戸時代から続いているかのような錯覚をしやすいのだが、大相撲とは、時の権力や世相によって姿を変えてきた融通無碍な集団なのだと考えた方が実情に近い。
その意味では、このところの「品格」や朝青龍の処遇に関する一貫しない姿勢こそが、正しく「大相撲の伝統」にのっとった態度である、と言うこともできるのかも知れない(だからといって相撲協会の姿勢を支持するわけじゃないですけど)。
ついでに言うと、和太鼓演奏。
長くなるので詳述はしないが、和太鼓がコンサートホールで演奏されるようになったのは、鬼太鼓座と林英哲が登場して以来の、せいぜい40年くらい前からのことだ。それまでは和太鼓は音楽と見做されていなかった。
太鼓自体は古くからあるけれど、音楽としての和太鼓の歴史は、いわゆる現代音楽よりも浅い。
これもまた、日本の伝統文化の中から生まれてきたものではあるが、伝統文化そのものとは言いづらい面がある。
もちろん、伝統的な文化を大事にするのは大切なことだ。
伝統的な文化の一部をなす事柄について外国人から批判されたり攻撃されたりするのは腹立たしい場合もあるし、反論すべきところは堂々とすればよい。実際、筋違いな攻撃もあるし、差別的な匂いがぷんぷんするような「環境保護活動」もある。
だが、反論する際の根拠として、「伝統的な文化だから尊重されるべきだ」などという言辞を、その「伝統」と「文化」の内実を深く掘り下げて検証しないままに振りかざしていると、刀のつもりが竹光だった、ということになりかねないので、気をつけたい。
※なお、大西洋のクロマグロそのものについては、三重大学の勝川俊雄准教授のサイトに詳しいまとめがある。
http://katukawa.com/特集/クロマグロ-ワシントン条約
禁輸が回避されたからといって喜んでいる場合ではない、というのが一読しての感想。今回の決定は、今後、クロマグロの減少に歯止めをかけることができなければ、日本がその責めを負う立場になった、ということでもある。
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