バンクーバー五輪に関する覚え書き。
ご無沙汰しました。
年明けから環境がいろいろ変わって多忙になり、スポーツ見物もblogの更新もままならない状況が続いています(今日のJリーグ開幕戦も味スタ欠席です)。ディック・フランシスや藤田まことの逝去にも、冬季五輪の最中にも、結局更新しそこねたので、そろそろ開店休業を宣言せざるを得ないかなとも思ったのですが、これが3か月ぶりですから、宣言するまでもないですね。
というわけで今後は従来のような形での更新は難しくなりそうですが、当面は自分のための備忘録としてblogを使うことにしようかと思います。いろいろお約束や宿題を果たせないままで恐縮です。
「自分のため」とはいえコメント欄は従来通り空けておきますので書き込んでいただいて構わないのですが、レスには少し時間がかかると思いますのでお含み置きください。
で、今さらながら、バンクーバー五輪を(主に職場でちらちらと)観ながら思ったことをいくつか。
・リュージュの練習中にグルジア人選手が死亡したことが、私にとってはこの五輪での最大の出来事だった。
原因として、難易度が高くスピードが出るコース設計が指摘されている。一定水準のレベルに達した選手が練習しただけで事故死してしまうようなコースを作ることも、あたかも選手の技術の未熟さに起因した事故であるかのように発表することも、五輪組織委員会の振る舞いとしては信じがたい。ほかにどれほど素晴らしいことが起こったとしても、大会としては失敗と捉えるのが妥当だと思う。
これが例えば、1シーズンに各地を転戦して何試合も行い、勝った選手が莫大な賞金を手にすることのできるような形式の大会であれば、そこまでは言わない。選手は自分でリスクとリターンを天秤にかけて、出場するか否かを選ぶことができる。
だが、オリンピック・ゲームズというのは4年に1度の一発勝負。大多数の競技の選手にとっては選択の余地のない、唯一無二の大会なのだ(テニスのような例外もあるが)。
選手の側に出場を忌避する自由が事実上存在しない以上、主催者は全力を挙げて、可能な限り最良の環境を選手に提供する義務があるし、安全性に最大限配慮するのは大前提ではないか。その覚悟のない人たちに、五輪を開催する資格はないと思う(私が酷暑の下での五輪開催を酷評してきたのも同じ理由だ)。
しかし、実際には、危険な競技はリュージュだけではない。
前回のトリノ五輪で、スノーボードクロスという競技を見て複雑な思いを抱いた。
見世物としてはスリリングで面白い。だが、あれほど転倒やコースアウトが多いようでは、勝敗に運が介在する度合いが大きすぎる。金メダルの値打ちを他の競技と同等に捉えるには少し抵抗を覚える。1シーズンに何度も戦うツアー形式なら、シーズン全体を通せば実力の高い選手が順当に上位になるのだろう。だが、4年に1度の一発勝負には向かない競技なのではないか。
そう思っていたのだが、今回はスノーボードのみならず、スキーにも同様のクロス競技が生まれている。冬季五輪は見世物性を高める方向のベクトルに支配されているようだ。
「滑る」「飛ぶ」という動作がほとんどの冬季五輪は、どうしたって事故が起きやすい競技が大半ではある。だが、「それにしても…」と思うような出来事が大会のたびに増えていくようでは将来が心配だ。
もともと足元が不安定で、土の上では決して実現しないような速い速度で動く競技の中では、フィジカルコンタクトは、致命的な打撃を選手の肉体に与えかねない(だから、最初からフィジカルコンタクトを前提としているアイスホッケーの選手たちは、あらゆるスポーツの中でも最上位に入る重装備で試合に臨む)。
スキーやスノーボードにフィジカルコンタクトを持ち込むという動きに対しては、いつか悲惨な事故を招くことになると懸念している。それが、限られた選手と限られた観衆の間で行われる競技の中での出来事なら口出しするつもりはないが、オリンピック・ゲームズには相応しくない。
・国母選手の一連の騒動も、そういう枠組みの中で捉えるのが適切なのではないかと思っている。
国母を擁護する言説をいくつか目にしたが、勝利よりも自己表現を上位に置くスノーボードのカルチャーに言及したものが多かったように感じる。本当にボーダーの文化がそういうものなのであれば、それは五輪という大会とはあまり親和性が高くない。
そういうスノーボードがなぜ五輪競技なのかといえば、長野大会の際のサマランチの独断によるもので、要するにビジネス上の要請によるものだろう。
世間では、JOCが国母を出場停止にしようとしたと誤解している人も多いようだが、私が目にした報道の範囲では、事実はむしろ逆だ。国母が属する競技団体である全日本スキー連盟が彼の出場辞退(ま、事実上は連盟による出場停止)を申し出て、JOCを代表する立場にある橋本聖子団長がそれを却下したという経緯だったと記憶している。
全日本スキー連盟といえば長らく堤義明が君臨していた団体だ。堤は、経営する西武鉄道に組合を作ることを許さなかったと伝えられるような体育会体質の経営者であるからして、スキー連盟にその影響が色濃く残っているであろうことは想像に難くない。そのような競技団体がスノーボードを所管していること自体に無理がある。スキー側もスノボ側も、望まない「結婚」だったのではないだろうか。
にもかかわらず、メダルが期待できるのはスノボばかり、というところに、スキー連盟上層部の鬱屈が蓄積されていたであろうこともまた、想像に難くない(もちろん、それはスノーボード側の落ち度ではまったくないのだが。メダル有望といえばモーグルもあるが、モーグルという競技は、カルチャーとしてはアルペンやノルディックよりスノーボードに近そうな印象を受ける。違ったらすみません)。
このように、ビジネス上の都合のために封じ込められていたさまざまな矛盾が、現場でああいう形になって噴出した、という見方もできるだろう。
・国母その人に対する感想を言えば、生真面目そうな人だなあ、ということに尽きる。
彼がカナダの空港に降り立った時の服装も、合同記者会見で「るせえなあ」「反省してまーす」と口走ったことも、地方都市の駅前でよく見かけるような「反抗的な男子学生」の典型的な振る舞いによく似ている。
上述したような擁護者たちによれば、スノーボードのカルチャーは「自由」がキーワードのようだが、私が目にした範囲での国母は、最初から最後まで少しも自由に見えなかった。ある既成の行動規範に従い、全力を尽して自分をその型に嵌め込もうと振る舞っている、生真面目な青年に見えた(内田樹がよく書いているような「型通りの逸脱者」そのものだ)。彼が属する世界では、ああいう型通りの振る舞いをすることに正義があるのかな、と感じた。
だとすれば、ひとたびその行動規範が否定されてしまうと、もはやどう振る舞ってよいのか判らないに違いない。橋本聖子団長と2人で行った記者会見で、隣の橋本団長の顔を伺わなければ何も答えられなかった国母の姿は、そんなふうに見えた。
五輪という場を離れれば、彼は賞金大会で活躍するプロなのだから、基本的には(反社会的にならない範囲であれば)どのように振る舞おうと彼の自由だ。そこから生じる利益も不利益も、すべて彼自身に跳ね返るのだから、それを引き受ければよいだけのこと。
いや、五輪においてもその原則に変わりはない。ただし、五輪という大会を見ている人は、規模においても質においても、彼が普段出場している大会とはまったく異なるのだから、異なる反応が出てくるのは必然的な帰結である。
必ずしも五輪に最上の価値を置かないらしいボーダーが、金にもならず制約ばかりの五輪の場にあえて出て行くという行為の中に、普段とは異なる「見ている人」たちに自身の競技をアピールしたいという目的があるのだとしたら、国母の振る舞いは、その目的にとって合理的とは言えなかった。それだけのことだ。
・今大会は、気温が高い上に雨も降り、野外競技は気象条件の悪さにかなり影響されたようだ。ふだんから風や降雪の影響を受けて運不運に慣れているはずのジャンプの現場からも不満の声が聞こえてくるというのは、よほどのことだったのだろう。モーグルだったかスノボだったか、降雪を見越して用意された立ち見席が雪不足で使えず、前売りチケットを払い戻して大損害が出ている。モーグルで日本選手が奮わなかった理由に「雨のせいで雪が水を含みすぎて、体重の重い選手でないとスピードが出なくなっていた」ことを挙げたスポーツライターもいた。
これが異常気象だったのか、バンクーバーという開催地においては起こりうる範囲内のことだったのか、開催地を選定したIOCはよく検証して反省すべきだろう。
次回のソチはロシアの保養地だそうだから、ロシアの都市としては気温はわりと高いらしい。大丈夫なんだろうか。
・フィギュアスケートについては、男女6人全員入賞という結果に感銘している。どちらも3番手の健闘が見事だった。女子については「キムヨナさん、おそれいりました」というしかない。
・最後に、私と同い年のスケルトン越和宏選手、お疲れさまでした。順位は奮わなかったが、2本目以降は滑るたびにタイムを挙げていったところに、彼の真骨頂があった。
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コメント
なるほど。死亡事故は確かに重要で繰り返してはいけないことですね。日本はウインタースポーツをするには緯度が低すぎると思っていながら加藤の1000に取り組まない姿勢を清水と一緒に批判したり、クロスビーのVゴールに痺れているより、ずっと重要でしょう。
スノーボードは色々考えさせられますね。
今までずっと「フィギュアスケーターと同じで魅せることが第一なハーフパイパーがどうしようが勝手だが、勝利のみを求めるアルピニストやクロッサーを巻き添えにしないでくれ」と思ってました。ですが、「男子アルペン並にスノーボード(のアルペンやクロス)を日本でTV放送してくれたら、消えても文句は言えない」と考えが変わってきました。なぜか。
最大の原因は「楽しい>可愛い」が「楽しい≦可愛い」になってしまうという、見物人としてあるまじき事態にひょんなことから陥ってしまったからだと思っています。つまり、「他にも楽しいスポーツ観戦があるのだから2年なり4年に1度のスパンで1イベント楽しめれば十分」という考えが吹っ飛んだわけで、言い換えれば「質より量」と。(ただ、「楽しい<可愛い」までは絶対にいかないという自信はあります。もしそうだったら、チーム青森が連敗した後の土曜の夜の東伏見でゲームを見続けるはずがない。)
投稿: hatedh524 | 2010/03/10 22:29
>「型通りの逸脱者」そのものだ
なるほど~。
確かに「安心して見ていられる」ヤンチャぶりではありました。
おじさんたちが「なま暖かく」見守れるタイプの逸脱でしたね。
どうでもいいことですが、当方ホークスファンなもので、話の中で「コクボ選手」と言われると反射的にホークスの小久保選手を想起してしまって結構混乱しました(笑)。
カーリングについても、いずれコメントをいただけると嬉しいです。
投稿: 馬場 | 2010/03/17 15:33
>hatedh524さん
遅いレスですみません。
スノーボードのことはあまりよく判らずに書いているので、お話が見えないところもあるのですが、
>「楽しい>可愛い」が「楽しい≦可愛い」になってしまう
というのは、観客からサポーターになってしまったようなものでしょうか。そういう感覚なら判る気もします。
>「楽しい<可愛い」までは絶対にいかない
そこまで行ったら本末転倒だということも。
>馬場さん
>話の中で「コクボ選手」と言われると反射的にホークスの小久保選手を想起してしまって
山梨県に「国母(こくぼ)」という地名がありますが、彼は北海道出身のようなので関係なさそうですね。
>カーリングについても、いずれコメントをいただけると嬉しいです。
今大会に関していえば、特筆すべき事柄を思いつかないのです。試合は相応に楽しく見ましたが、日本のショットには波があり、それが結局は結果に反映したのだと思っています。
あ、対戦相手の選手が結構若かったですね。これまでの五輪では「西洋人のいかついおばさんに日本の娘たちが健気に立ち向かう」という印象が強かったんですが。ひょっとするとこの競技においても選手のアスリート化が進行しつつあるのだろうか。
投稿: 念仏の鉄 | 2010/03/20 00:14