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2010年4月

ヒデキがブロンクスに戻った日。

 4月13日。ヤンキースの本拠地開幕戦。平日のデーゲームだからぎっしり満員とはいかないが、テレビでざっと見た感じでは、7割くらいは入っていそうだった。
 松井秀喜がグランドスラムでデビューを飾った時も、本拠地での初試合は確か平日のデーゲームだった。この時期のニューヨークは、夜に野球をするには寒すぎるのかも知れない。

 試合前に、昨秋のワールドシリーズに優勝した記念の指輪の贈呈式が行われた。選手が1人づつ名前を呼ばれてはグラウンドに姿を現し、ジラルディ監督から指輪の入った箱を手渡された。
 ピンストライプの男たちが出そろった後に、場内アナウンスが流れる。

 「もうひとり、チャンピオンリングを渡す人がいます。昨年まで7年間ヤンキースで活躍した、昨年のワールドシリーズMVP。背番号55、ヒデキ・マツイ!」

 反対側のベンチ前でアナウンスを聞いていた松井の目は、確かに潤んでいた。
 喝采を浴びながら、小走りにグラウンドに出た松井は、ジラルディから指輪を受け取った。
 セレモニーが終わると、ピンストライプの男たちが小走りに駆け寄って、松井に抱きついた。A-RODが、ポサーダが、リベラが、そしてジーターが。思いがけない光景だった。

 まもなく試合が始まった。4番DHで先発出場した松井は、1回表、二死一塁の場面で打席に立った。
 客席から大きな拍手が起こり、歓声が沸き、そして、スタンドの観客は次々と立ち上がって、見慣れない色のユニホームを着た、見慣れた左打者を歓迎した。
 
 そして、歓迎の儀式はそこまでだった。
 ペティートの初球が外角低めに決まると、今度はペティートに対する歓声が起こった。
 試合前の記者会見で「ヤンキースファンは複雑なのでは」と問われた松井は「複雑じゃないと思いますよ。ヤンキースファンはいつでもチームの勝利を願っている」と答えた。その通りだった。
 
 
 ヤンキースタジアムは、かつて移籍後のティノ・マルティネスを遇したように松井を迎えるだろう、という昨秋の予測が実現したことを、私は嬉しく思っている。

 だが、欲を言えば、この歓声がブーイングに変わる光景も見てみたいと思っている。ヤンキースが松井によって脅かされている、と彼らが感じる瞬間を。
 願わくば、今年の10月ごろにでも。

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木村拓也コーチの冥福を祈る。

 こんなことだけは書きたくなかった。回復を祈っていたのだが…。

 ジャイアンツの木村拓也コーチが今日の未明に亡くなった。
 2日の試合前にくも膜下出血で倒れ、病院に運ばれたが、意識が戻らないままの死去だったという。
 まだ37歳。私よりもずっと若い。

 日本ハムや広島時代から知ってはいたが、ジャイアンツファンの私にとっては、いま、彼について思い出すのはジャイアンツに来てからのことばかりだ。

 木村がジャイアンツの選手になったのは2006年のシーズン途中だった。
 原辰徳が2度目の監督に就任したシーズン。開幕当初は首位を走ったが、まもなく故障者が続出し、満足に先発オーダーも組めないような、どん底の時期だった。この年、広島の監督に就任したマーティー・ブラウンによって二軍に落とされたままの木村に、ジャイアンツが目をつけたのだろう。山田真介との交換トレードによって、木村はジャイアンツにやってきた。交流戦の最中、6月初旬のことだ。

 このblogにも書いたことがあるが、移籍間もない時期のある試合で、木村は5番打者として先発出場していた。たぶん本人も驚いたのではないかと思う。当時のジャイアンツは連敗に連敗を重ね、一時は最下位に沈んでいた。彼の加入で事態が劇的に好転した、とは言えないけれど、木村はボロボロのチームを支えた1人だった。

 翌2007年からジャイアンツは立ち直り、リーグ戦では3連覇を果たす。木村は主として二塁手として活躍した。この間、ゴンザレス、アルフォンゾといったメジャーリーグの二塁手が加入したけれど、シーズンが進むと、結局は木村が二塁を守っていた。代打や途中出場でも結果を出し、どのポジションに回してもそつなくこなす。昨年、捕手が払底した試合で、古巣のポジションについたこともあった(引退後のインタビュー記事を読むと、ただ受けるだけでなく、サインを出してリードもしたという)。

 監督にとってはありがたい選手だったに違いない。そして原監督も木村を大事にした。どこでも守れるのが売り物だった木村を、原は二塁にほぼ固定して起用した。試合終盤はともかく、ある時期から、木村が先発出場するのは二塁がほとんどになった。二塁手として考えていると監督に言われて精神的に楽になった、というようなことを引退後のインタビューで木村は話していた。

 木村は、原巨人のもっとも苦しい時期を支えてくれた選手であり、その後の黄金時代を築いた主要メンバーでもあった。
 テレビで散見する明るい性格は、チームの雰囲気によい影響をもたらしていたはずだ。二遊間を組んだ坂本や、二塁のレギュラーを狙う若い内野手たちにとって、よい手本でもあったことだろう。移籍直前、ブラウン監督に干されていた状況を考えれば、木村自身にとってもジャイアンツにとってもよいトレードだったと思う。
 
 
 
 日本のプロ野球で、ユニホームを着てグラウンドで倒れ、そのまま命を落とした人物を、私はほかに思い出すことができない。ご家族を残しての急逝には、本当に言葉もない。
 ただ、残されたお子さんたちには、ぜひお父上を誇りに思ってほしい。
 プロ入り後にスイッチヒッターに取り組み、あらゆるポジションをこなし、求められる役割を笑顔で果たし続けることで、プロ野球選手として生き延び、最後まで必要とされる選手だった彼の足跡は、私のような組織内で生きている凡人たちに勇気を与えてくれた。王貞治やイチロー、松井秀喜といったスーパースターとは違う形で、見事なロールモデルだった。

 だが、誰よりもしぶとい選手だった彼が、こんな形で世を去るなんて。
 
 
追記(2010.4.8)
 木村が今年のNPBの新人研修会でルーキーたちの前で講演をした内容が、ジャイアンツの公式サイトに紹介されている。是非お読みください。「ロールモデル」と書いた意味がおわかりいただけるはず。

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