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木村拓也コーチの冥福を祈る。

 こんなことだけは書きたくなかった。回復を祈っていたのだが…。

 ジャイアンツの木村拓也コーチが今日の未明に亡くなった。
 2日の試合前にくも膜下出血で倒れ、病院に運ばれたが、意識が戻らないままの死去だったという。
 まだ37歳。私よりもずっと若い。

 日本ハムや広島時代から知ってはいたが、ジャイアンツファンの私にとっては、いま、彼について思い出すのはジャイアンツに来てからのことばかりだ。

 木村がジャイアンツの選手になったのは2006年のシーズン途中だった。
 原辰徳が2度目の監督に就任したシーズン。開幕当初は首位を走ったが、まもなく故障者が続出し、満足に先発オーダーも組めないような、どん底の時期だった。この年、広島の監督に就任したマーティー・ブラウンによって二軍に落とされたままの木村に、ジャイアンツが目をつけたのだろう。山田真介との交換トレードによって、木村はジャイアンツにやってきた。交流戦の最中、6月初旬のことだ。

 このblogにも書いたことがあるが、移籍間もない時期のある試合で、木村は5番打者として先発出場していた。たぶん本人も驚いたのではないかと思う。当時のジャイアンツは連敗に連敗を重ね、一時は最下位に沈んでいた。彼の加入で事態が劇的に好転した、とは言えないけれど、木村はボロボロのチームを支えた1人だった。

 翌2007年からジャイアンツは立ち直り、リーグ戦では3連覇を果たす。木村は主として二塁手として活躍した。この間、ゴンザレス、アルフォンゾといったメジャーリーグの二塁手が加入したけれど、シーズンが進むと、結局は木村が二塁を守っていた。代打や途中出場でも結果を出し、どのポジションに回してもそつなくこなす。昨年、捕手が払底した試合で、古巣のポジションについたこともあった(引退後のインタビュー記事を読むと、ただ受けるだけでなく、サインを出してリードもしたという)。

 監督にとってはありがたい選手だったに違いない。そして原監督も木村を大事にした。どこでも守れるのが売り物だった木村を、原は二塁にほぼ固定して起用した。試合終盤はともかく、ある時期から、木村が先発出場するのは二塁がほとんどになった。二塁手として考えていると監督に言われて精神的に楽になった、というようなことを引退後のインタビューで木村は話していた。

 木村は、原巨人のもっとも苦しい時期を支えてくれた選手であり、その後の黄金時代を築いた主要メンバーでもあった。
 テレビで散見する明るい性格は、チームの雰囲気によい影響をもたらしていたはずだ。二遊間を組んだ坂本や、二塁のレギュラーを狙う若い内野手たちにとって、よい手本でもあったことだろう。移籍直前、ブラウン監督に干されていた状況を考えれば、木村自身にとってもジャイアンツにとってもよいトレードだったと思う。
 
 
 
 日本のプロ野球で、ユニホームを着てグラウンドで倒れ、そのまま命を落とした人物を、私はほかに思い出すことができない。ご家族を残しての急逝には、本当に言葉もない。
 ただ、残されたお子さんたちには、ぜひお父上を誇りに思ってほしい。
 プロ入り後にスイッチヒッターに取り組み、あらゆるポジションをこなし、求められる役割を笑顔で果たし続けることで、プロ野球選手として生き延び、最後まで必要とされる選手だった彼の足跡は、私のような組織内で生きている凡人たちに勇気を与えてくれた。王貞治やイチロー、松井秀喜といったスーパースターとは違う形で、見事なロールモデルだった。

 だが、誰よりもしぶとい選手だった彼が、こんな形で世を去るなんて。
 
 
追記(2010.4.8)
 木村が今年のNPBの新人研修会でルーキーたちの前で講演をした内容が、ジャイアンツの公式サイトに紹介されている。是非お読みください。「ロールモデル」と書いた意味がおわかりいただけるはず。

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コメント

今春の木村コーチの新人研修での講演。こちらも是非読んでください。

http://www.giants.jp/G/museum/2009/information/info_40309.html

投稿: 念仏の鉄 | 2010/04/07 16:53

木村コーチの事を、よく解っていただけて、彼も喜んでいる事でしょう。

木村コーチとは小学生の頃、よく遊んでいたので、陰ながら応援してました。

彼の努力は半端ではありません。

亡くなった事は、とてもとても残念ですが、もし宮崎に帰って来られたら『お疲れ様やったね』と、お線香あげに行きたいです。

投稿: 野風 | 2010/04/07 21:18

>野風さん

ご友人の方ですか。ありがとうございます。
私は彼と一面識もない単なる見物人ですし、彼の熱心なファンだったわけでもありません。
それでも、試合を見ていれば自然とこういうことを感じさせてくれる、そんな選手だったと思います。

昨日から今日にかけて、メディアでは野球界のいろんな人のいろんな談話が紹介されていますが、「球場で会うたびに笑顔で挨拶してくれた」というブラウン監督の言葉が印象に残ります。木村選手にとっては「自分を干した監督」でしかなかったはずなのに、そういう態度がとれる人だったのだなあ、と。

投稿: 念仏の鉄 | 2010/04/08 10:26

私もいち見物人にすぎませんが、野球界が貴重な人材を失ったということは、分かります。

木村氏は、「合理的な努力」のできる方だった。

結果に結びつかない「闇雲な努力」ではなくて、結果につながる「合理的な努力」。もちろんそれは木村氏の血のにじむような試行錯誤によってつかみ取られたものであったはずです。

自らが挫折しそうになった体験を何度も乗り越えてこられた木村氏の資質は、若手選手を育成するのにこれ以上なくふさわしいものです。プロ野球選手に与えられた時間は、長くありません。木村氏が講演で言っておられたように、平均でわずか8~9年。2~3年でプロを去る若手は少なくありません。

木村氏のような指導者こそ、そのような若い選手たちに必要とされるものだったのだと思います。

その資質を見抜きコーチに抜擢した原監督にとっても、痛恨の極みであったことでしょう。

今はただ、ご冥福を、心からお祈り申し上げます。

投稿: 馬場 | 2010/04/14 13:06

>馬場さん

>結果に結びつかない「闇雲な努力」ではなくて、結果につながる「合理的な努力」。

大事なところですね、そこは。
痛みと労力を伴いながら自分自身が変わらなければ実を結ばない努力ですが、その先にこそ、喜びが待っているのでしょう。

投稿: 念仏の鉄 | 2010/04/15 00:02

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