幻想の終わり、夢の続き。
残念。
ほかに言葉がない。日本代表の冒険は、ここで終わってしまうのか。
負けたことよりも、ベスト16止まりという結果よりも、このチームをもっと見続けていたかった。
大会が始まってから1試合ごとに目覚ましい成長を見せたこのチームが、どこまで行けるのかを。
それが断ち切られてしまったことが、何よりも悔しい。
南アフリカ大会は、ある意味で、日本のサッカー界が囚われてきた幻想に終止符を打った、という意味を持つことになるんじゃないだろうか。
「日本選手は技術が高い」とか、「中盤のパス回しなら一流」とか、そういうところをストロングポイントと考えて岡田監督はチームを作ろうとしてきた。前任者の「日本代表の日本化」という宣言が鮮烈に印象に残っていたこともあり、そういう基本姿勢を疑う人、否定する人は、ほとんどいなかった(岡田監督の技量でそれが実現できるのか、という懸念や批判はあったにしても)。
しかし、岡田監督は、23人のメンバーを決定し、日本を出発した後で、それまでのやり方に見切りをつけた。イングランドやコートジボワールなど強豪国との戦いで通用しないことを悟ったのだろう(岡田監督は、主力選手の数名がコンディションを崩していたことも理由に挙げていた)。
まず守備を固め、相手に囲まれても勝負できる能力の持ち主を前線に配した。日本選手の組織力や連携、タスクに忠実な精神力といった特徴は、主として守備において発揮された。
つまりは弱者の戦法を取ったのだ。そのやり方でカメルーンを倒し、オランダには屈したが、フリーキックという従来からの武器によってデンマークをも倒してベスト16に進出した(もっとも、その時、従来からの一番手キッカーはベンチに座っていたわけだが)。
ただし、弱者の戦法ではあっても、2試合目、3試合目と大会が進むにつれて、チームは、攻撃的な闘い方を少しづつ模索しはじめた。本田だけでなく、松井や大久保、遠藤、長谷部、岡崎らがコンビネーションの片鱗を見せはじめた。3試合目が終わった後に岡田監督が会見で話していた通り、自分たちのどこまでが通用し、どれが通用しないのかという見極めを、選手たちが肌で理解しはじめた、ということなのだろう。
ベスト8を争うパラグアイとの試合も、入り方はこれまでと大差なかった。
パラグアイといえば思い出すのは1998年フランス大会。GKチラベルトを中心とした、しぶとく守り抜くチームで、延長の末、ブランのゴールデンゴールに散ったフランス戦は、あの大会の白眉のひとつだった。
だが、そんな私のイメージよりもパラグアイは攻撃的だったし、選手たちは日本よりも早く疲れ始めていた。パラグアイは幾多のチャンスを作ったがミスも多かったし、試合が進むにつれて守備にも隙を見せ始めていた(とはいえゴール前の堅さは最後まで変わらなかったが)。
岡田監督の用兵は、延長突入を意識していたのか、仕掛けが遅かった。
松井や大久保を下げるのはそれまでと同じ。だが、阿部を下げて中村憲剛を入れた起用は、大会で初めて見せたものだ。阿部がピッチからいなくなるのも、中村憲剛が入るのも、初めてだった。
中村はトップ下に入り、遠藤と長谷部が中盤の下がり目にポジションをとった。両翼には岡崎と玉田。トップには依然として本田が張っていたが、それ以外は従来の岡田監督による日本代表の形のひとつだ。長短のラストパスを出せて、かつ自身も前線に飛び込んでいける中村憲剛は、疲れの見え始めたパラグアイに対して効いていたと思う。
つまり、このチームは、遠藤ー長谷部というラインの後ろに阿部を置く形と、前に中村憲剛を置く形、2つのオプションを手に入れた。相手との力関係や状況に応じて、この2つを使い分けながら戦うというやり方が見えてきた。
だから、中村投入後に1点を取って勝ち上がることができたなら、日本代表はさらにバージョンアップを重ねることができただろう。一度は見切りをつけた戦い方を再構築して、このレベルの相手にも通用するところまで磨き上げることができたかも知れない。
そのチャンスを失ったことが、何よりも残念だ。
岡田監督は、たぶんこの試合を最後に代表監督を退任するのだろう。
次が誰になるのかは知らないし、今はそこまで頭が回らない。
ただ、誰が次期監督になるにせよ、岡田監督が見せた弱者のリアリズムと攻撃の可能性、双方を踏まえて前に進むようなチームを作って欲しい。
そうなった時に、南アフリカでの彼らの闘いは、さらに輝かしいものになるはずなのだから。
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