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2010年9月

そしてフットボールは続く。城福にも、東京にも。

 久しぶりの味スタに着いた時には、朝からの冷たい雨はすっかり上がり、陽射しが痛いほどに晴れ上がっていた。恒例のブラジルデーだったが、サンバの行列には少し風が冷たかったかも知れない。
 試合前のスタジアムに、さほどいつもと違う様子は感じられなかった。ただ、監督の名だけが違っていた。城福浩から、大熊清に。

 城福監督解任の報に接したのは、ちょうど1週間前だった。
 残念の一語に尽きる。
 私は城福監督が好きだった。スタジアムで観客に語りかける時の、情熱がほとばしるような語り口が好きだった。彼が目指したサッカーも、それがうまくいっていた時のチームも、好きだった。
 サポーターからも、選手からも、おそらくはクラブ経営陣からも、彼は強く支持されていたように思う。それは、指導者としての手腕や実績によるものという以上に、彼のパーソナリティーによるところも大きかったのではないか。

 今シーズン、私が味スタを訪れたのは昨日が初めてだった。テレビでもろくにチェックできてはいないので、今季の試合内容を云々する資格はない。
 ただ、これまで報じられてきた城福や選手たちのコメントを散見した範囲では、内容がよいが結果が伴わない、という状態が続いていたという印象を持っている。
 それは、クラブの経営陣にとっては悩ましい状況だったはずだ。
 内容が悪ければ、修正することによって上がり目を期待することはできる。だが、内容はいいのに結果が出ない、という状況は、何をどうすれば勝利につながるのかわからない、ということでもある。
(開幕直前に米本を故障で失った後、効果的な補強ができていない、という点はひとまず措く)

 私の理解では、城福監督は「理想と情熱と信念の人」だ。
 高い理想を掲げ、燃えるような情熱で指導し、結果のいかんにかかわらず信念は揺るがない。自分たちのサッカーをやり通した先に結果が待っている、と考えるタイプの指導者であることは、過去の言動から容易に想像がつく。

 補助線として、岡田武史と比較してみればわかりやすい。
 岡田はマリノス時代、優勝した翌年に、高い理想を掲げてシーズンを始めたが、思うような結果がついてこなかったため、手堅いサッカーに切り替えて連覇を成し遂げた。私自身がこの年のマリノスをつぶさに見ていたわけではないが、本人がさまざまなインタビューでそのように語っている。その前の札幌時代についても、彼は「最初は『代表監督として恥ずかしくないサッカーを、とか考えていたが、1年やって変わった。現状の戦力を踏まえて、J2で勝つサッカーをしなければ』というような話をよくしている。
 ワールドカップ南アフリカ大会でも、彼は同じように、本番直前にいくつかの目立った変更を行い、好結果に結びつけた。

 だが、城福はそれをしない監督だ。そう理解しているからこそ、クラブもぎりぎりまで耐えた。耐える臨界点が「J2自動降格圏」という順位だったのだろう。そこに落ちた時、クラブは決断を下した。

 驚いたのは後任の名だった。
 大熊は私がこのチームを初めて見た時の指揮官だった。
 「初めて見た」というのはJ1に昇格した2000年ではなく、1997年の天皇杯だ。大熊が率いたJFL所属の「東京ガス」は、Jリーグの3クラブを破って準決勝に進出し、鹿島に敗れた。私は東京ガスについても大熊についても何の予備知識もなかったが、さほど傑出した能力のない選手ばかりのチームが、よく組織され、気力も充実して、J1の強豪に食らいついていく試合を見て好感を抱いた。試合後の監督会見での大熊も印象的だった。まったく悪びれた様子もなく、自らの戦術と敗因について胸を張って堂々と語る姿に、グッドルーザーという言葉が浮かんできた。自分と同年齢ということもあって、当時33歳の青年監督に好印象を持ったのを覚えている。

 その後、東京ガスはFC東京と名を変えて、Jリーグ参入をめざすと宣言し、2000年にJ1にやってきた。アマラオとツゥットの2トップを生かして、堅い守備からカウンターで一斉に相手ゴールに襲いかかる、泥臭く、気迫に満ちたサッカーに魅了され、以来、FC東京贔屓を自称して、今もこうして年に数度は味スタのスタンドに座っている。

 だからといって、大熊が帰ってきたから無条件で支持する、というほどの個人的な思い入れがあるわけではない。むしろ、大熊復帰と聞いた瞬間に頭に浮かんだのは、当時と今の東京は戦術も顔触れもこれほど違うのに、大熊が帰ってきてそのまま通用するのだろうか、という懸念だった。

 とはいえ東京が大熊が去った後で成長したのと同様、大熊も東京を離れてから、さまざまな経験を積んできた。
 2001年限りで監督を退いた(後任が原博実だった)大熊は、2003年と2005年にU-20代表監督としてワールドユースを戦い、いずれもグループリーグ通過に成功している。徳永、今野、平山、梶山、中村北斗、前田俊介は、この時に大熊の下で戦っている。
 そして、2006年にはイビチャ・オシム代表監督のコーチとなって日本代表に加わり、監督が岡田に変わった後も引き続きコーチを務めて、ワールドカップ南アフリカ大会にも参加した。
 そんな経験は、彼を指導者として進歩させているだろうか。そうあってほしい。


 復帰した大熊が率いた最初の試合は、味スタに大宮アルディージャを迎えた9/25のホームゲームだった。大宮は目下、残留圏を争う相手であり、勝ち点では3点、東京を上回っている。ぜひとも勝つべき相手、勝つべき試合だった。

 準備期間が短かったせいもあるのだろう。先発メンバーと布陣は、故障した梶山の不在などはあっても、これまでとさほど大きくは変わっていない。
 試合開始から、選手たちは「勝つべき試合」に相応しく振る舞った。
 平山が頭で落として森重がシュート。平山のクロスに大黒が飛び込む。椋原のクロスをリカルジーニョがシュート。東京の選手たちは次々と大宮ゴールに迫ったが、ネットを揺らすことはなかった。0-0のままハーフタイム。近くに座っていた、年季の入った風情の観客が、「胸張って帰ってこい!」と塩辛い声で叫んでいた。

 後半も同じような展開が続いた。平山が何度もシュートを放ち、交替して入った大竹のフリーキックはバーの少し上を超えていった。圧倒的に攻めながらゴールを割れない。大熊は何度もピッチサイドに出ては何事か叫んでいたが、アジアユースのスタンドに響き渡った大声といえども、味スタではスタンドまで聞こえてはこなかった。

 69分、大宮の長身FWラファエルのシュートが、バーから地面に跳ね返り、ゴール外に出たところを権田がおさえた。ゴールだと思ったラファエルはゴール裏右の大宮サポーターの前に走っていったが、主審がノーゴールと判定すると、両手を振り回して抗議した。いやな感じがピッチ内に漂っていた。
 後で映像を見ると、ラファエルのシュートはバーからゴール内の地面に当たり、それから外に出てきたことがわかる。東京の選手たちも薄々そのことに気付いていたのだろうか。プレーが受け身に回り、足が重くなったように見えた。憤慨した大宮は怒りに任せて攻め立てる。ラファエルのクロスから金久保がヘディングシュートを決めたのは、わずか4分後だった。
 大熊監督は右サイドバックの椋原に替えて前田俊介を送り込んだが、ゴール前を固める大宮の前に攻撃の糸口がつかめない。そのまま逃げ切られて試合終了。赤青のユニホームの多くは、膝に手をついて動かない。場内を半周し、サポーターに挨拶して戻ってきた選手たちの表情の重苦しさが、先の見えない迷路にはまりこんだチームの現状を何よりも物語っていた。

 東京が放った20本のシュートのうち、ひとつでもゴールに結実していれば、立ち直りのきっかけになったかも知れない。中盤を仕切る梶山がケガで不在の中、何度もいい形を作りながら、あと数センチが届かなかった。
 「内容はよいのに結果が伴わない」という病理は、監督が変わった後も持ち越されてしまった。

 試合後の記者会見で、大熊は「サッカーの本質が抜けてしまえば戦術も空虚なものになってしまう。球際や攻守の切り替え、考えて走り数的優位を作ること、ボールを回すことなど、一つというよりも足りないことを追い続け、かつ得点して勝つことを求めていきたい」と語っている。
 
 
 アマチュアとプロの違いは何か、という問いに、プロ野球の選手か監督の誰かだったと思うが、「プロは負けても試合が続く」と答えたのが印象に残っている。「勝ったり負けたりするのがプロ野球だ」と王貞治もかつてどこかで話していた。
 Jリーグの試合は原則週1回、多くて2回。東京はリーグ戦で3連敗、すでに10試合勝ちがない。最後に勝ったのは7/25だから、もう2か月も前のことだ。考える時間はたっぷりある。選手も指導陣も経営陣も、さぞしんどい思いをしているに違いない。

 それでも次の試合はやってくる。特効薬などというものは、そうそうあるものではない。大熊が言う通り、球際で頑張り、素早く攻守を切り替え、数的優位を作るために走ることを、それぞれが懸命にやり続けるしかないのだろう。
 このチームで、その3点にもっとも秀でていた長友は、すでにここにはいない。だから、他の選手が長友のように、あるいはそれ以上に、彼のように振る舞うしかない。
 球際で頑張り、懸命に走るのはこのチームの伝統だ。浅利が引退し、藤山が去ったくらいで途切れてしまうようでは、チームの遺伝子とは言えない。
 選手たちには、ぜひとも頑張ってもらいたい、というほかにない。
 負けても次の試合があるのは、観客にとっても同じだ。どんなことになっても、私は選手たちを見放したりはしない。そして、私以上に熱心なサポーターが大勢いる。

 東京を去った城福も、遠くない将来、どこかのチームを率いることになるだろう。あれほどの指導者を、必要とするチームがないなどということは考えられない。次の場での成功を祈っているし、いつかまた東京を率いてくれることを願っている。

 負けても負けても、フットボールは続く。敗れた選手たちにも、敗軍の将にも、彼らを応援する観客にも。遠くない未来に、スタジアムで笑顔で再会できることを願いながら。

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