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2011年1月

早すぎる中間試験をクリアしたザッケローニ。

 かつてワールドカップの中間年に開かれていた頃、アジアカップは代表監督にとっての中間試験のような意味合いを持っていた。

 1992年、史上初の外国人監督となったハンス・オフトは、史上初めてこのタイトルを日本にもたらした。就任当初は主力選手(特にラモスだ)との確執が伝えられたものの、夏に北京で開かれたダイナスティカップに優勝して選手たちの信頼を勝ち取り、秋に広島で開催されたアジアカップを日本人の目の前で勝ち取ったことで、メディアを含めた日本のサッカー界を味方につけた。「オフト・マジック」という言葉が広く流布されるようになったのは、この頃からのことだ。アジアカップで彼が手にした信頼は、翌年秋のワールドカップ1994アメリカ大会最終予選の最後の数分まで有効だった。
 
 日本が次にアジアカップをとったのは2000年の秋だった。前年にU‐20日本代表を率いてワールドユースのファイナリストとなり、この年にはU‐23日本代表を率いてシドニー五輪でベスト8に進んだフィリップ・トルシエが、年齢制限のないフル代表にすべての年代を結集し、満を持して臨んだ大会で、日本はグループリーグで圧倒的な得点力を見せつけ、危なげなく優勝した。ワールドカップ1998フランス大会組の名波、シドニー五輪世代の中村俊輔、ナイジェリアワールドユース世代の高原(シドニー五輪でも活躍したが)の3人がベスト11に選ばれるなど、世代的なバランスがとれ、西沢・高原の2トップ、名波・中村のダブル司令塔がそれぞれ機能した理想的なチームだった(振り返ればトルシエの日本代表はこの時期がピークだったかもしれない)。
 翌2001年、フランスとの親善試合で大敗したことから(おそらくはそれまでのエキセントリックで独裁的な振る舞いに対して積もり積もっていた不満が爆発し)、協会内やメディアでトルシエ解任論が持ち上がった時、岡野JFA会長がトルシエを支え、ワールドカップ2002日韓大会まで指揮を執らせることになった上で、このアジアカップ優勝という実績は、大いに役立ったものと想像する。
(と書きましたが、コメント欄の武藤さんご指摘のように、トルシエ解任論が持ち上がったのは2000年春で、シドニー五輪とアジアカップの前。前後関係が間違っていました。失礼しました/2011.2.6)

 トルシエの後に代表監督となったジーコが、ワールドカップ予選で危なっかしいマネジメントを続け、解任デモまで行われたにもかかわらず、結局はワールドカップ2006ドイツ大会まで任期を全うすることになったのも、2004年の夏に開催されたアジアカップにディフェンディングチャンピオンとして大苦戦しながらも優勝したことが大きく影響していたと思われる。少なくともアフリカ大陸では数々の輝かしい実績を持つトルシエと異なり、初めて率いたチームが日本代表だったジーコにとっては、これがほぼ唯一の指導者としての実績だったのだから。

 この間、1996年大会でクウェートに敗れてベスト8止まりだった加茂周は、1997年のワールドカップ最終予選の最中に解任された。
 つまり、92年にオフトが初優勝して以来、アジアカップで優勝した監督はワールドカップ(または最終予選の最後)までの任期を全うし、優勝できなかった監督はそれ以前に退任している。「中間試験」と書いた意味がおわかりだろう。

 前回の2007年大会は7月に東南アジア4か国で共同開催され、イビチャ・オシムが率いた日本代表はベスト4に終わった。オシムはその年の暮れに病に倒れて代表監督を退任し、後任の岡田武史が予選を勝ち抜いてワールドカップ2010南アフリカ大会に出場している。結果的にはジンクス通りになっているが、オシムの退任とアジアカップの結果との間には、おそらく関係はない。

 冒頭に「かつてワールドカップの中間年に開かれていた頃」と書いた通り、この2007年大会からアジアカップの開催年は1年繰り上がり、ワールドカップの翌年開催となった。スポンサー営業などの都合で五輪開催年を避けたということなのだろうが、そのおかげで、ワールドカップへの出場やそこでの躍進を現実的な目標とする国にとっては、位置づけの難しい大会になってしまった。「中間試験」としては早すぎるのだ。

 オシムがアジアカップに臨んだのは就任から約1年後だが、前任者がベテラン選手を重用しすぎて世代交代が最大の急務となっており、戦術やトレーニングの面でも異質だったため、ほぼゼロからチーム作りをスタートさせなければならなかった。
 オシムはアジアカップで、酷暑の環境にもかかわらず同じ選手を起用し続けた。準決勝と3位決定戦で接戦の末に競り負けたという結果は、その体力面での消耗が影響していた可能性はある。それでもオシムが同じメンバーにこだわったことについて、後藤健生が当時「オシムはアジアカップをトレーニングキャンプとして使った」というような解釈をしていた。

 アルベルト・ザッケローニ現代表監督にとって、今回のアジアカップはオシム以上に厳しい条件下で迎えた大会だったはずだ。9月に就任し、10月に親善試合を2試合戦った後、2か月ぶりの試合がいきなりアジアカップの本番。しかも日本国内のリーグ戦と天皇杯が1月1日まで詰まっており、事前キャンプで選手全員がそろったのは大会直前だった。
 オシムがアジアカップを「トレーニングキャンプとして使った」のだとしたら、ザッケローニは「トレーニングキャンプとして使わざるを得なかった」と言うのが適切だろう。

 そのカタール・キャンプを、ザッケローニは、これ以上考えられない理想的な形で終えることに成功した。優勝という結果はもちろんのこと、チームの掌握や新戦力の発掘・育成という難しい課題にも一定の成果を挙げることができた。
 選手の顔触れや戦い方、戦いぶりを見ると、今の代表チームは、ワールドカップ2010南アフリカ大会のチームを継承し、なおかつ新世代をそこに加えて、進化しつつあると実感できる。
 中沢、闘莉王という守備の要を故障で欠いたものの、川島、遠藤、長谷部、本田、長友らをそのまま残した現在のチームは、その骨格を南アフリカから継承している。ザッケローニはチームを自分の色に染めることよりも、岡田武史が作ったチームを土台として、弱点を補強し、長所を伸ばそうとしているように見える。
 ワールドカップが終わり、監督が替わるたびに、チームを作り直していた日本代表の近代史から見ると、これは特筆すべきことだ。
(サッカー協会の人脈から選ばれた監督たちが、そのたびにチームをリセットしていたのに、初めて日本とまったく無縁なところからスカウトしてきた監督が最も強く既存のチームに敬意を払っているというのは、皮肉なことともいえる)

 と同時にザッケローニは、南アフリカに行ったがチャンスに恵まれなかった選手たちや、そもそも南アフリカに行けなかった選手たちにチャンスを与え、それぞれが結果を出した。特筆すべきは、吉田、伊野波、細貝、李と4人もの選手が代表初得点を挙げたことだろう。それぞれが試合を決定づける(あるいは死の淵から日本を生還させる)、とてつもなく貴重なゴールだった。2人のベテランの存在があまりに大きかったセンターバックのバックアップ、あるいは後継者候補たちが経験を積んだことにも大きな意義がある。

 大会を通じて、私が最も印象に残っているのは、ピッチサイドに立つザッケローニの表情だ。就任以来、親善試合の間も穏やかで温厚な印象を崩さなかった彼が、しばしば(というよりかなり頻繁に)猛々しく、時には凶悪とさえ言える表情を見せていた。
 表現は悪いが、普段は好々爺にしか見えない元暗黒街の顔役が何かの拍子に往年の貌を垣間見せたような印象を受けた。なるほどこれがセリエAを生き抜いてきた勝負師の貌か、と納得できるものがあり、私には好ましく感じられた。

 2014年大会までは3年半もある。これまでのアジアカップウィナーのように、この勝利がワールドカップでの采配(もちろん予選を勝ち抜けばの話だが)を保証するものではないかも知れない。
 だが、この勝利は今後、ザッケローニ代表監督の仕事をとてもやりやすくするはずだ。その意味で、彼にとって非常に大きな意義を持つ。そして、彼の指導を受ける期間を得た日本代表(とその候補)の選手たちにとっても。

 試合後にザッケローニが言った通り、私は日本国民として、我々の代表チームを誇りに思う。そして、そのチームをアジアの頂点に導いた代表監督も、誇りに思っている。

 さらにいえば、ザッケローニを選んで口説いて極東まで連れてきた原博実技術委員長に感謝する。脳裏に甦る日本代表のゴールは、どれも「いい時間に入った」ものばかりだった。

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