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2011年2月

「相撲を守ること」=「日本相撲協会を守ること」ではない。

 大相撲の八百長が表面化して、とうとう本場所まで中止になってしまった。
 「徹底的に解明する」という放駒理事長個人の誠意を疑うものではない。が、仮に解明が成功して、星の買収や貸し借りに手を染めた経験者を角界から追放したら、その後に何が残るのだろうかと考えると、理事長には同情を禁じ得ない。

 私個人は相撲に対する関心が薄く、相撲への愛着はおそらく40代日本人の平均値を下回ると思われるので、今回の事態に対して、感情的な動揺はあまりない。長年のツケを払う時が来たな、と感じるだけだ。
 もともと私は、相撲が、例えば五輪競技に比肩しうる現代スポーツ競技だとは思っていない。対戦の組み合わせに公平性が担保されていない、という一事をもってしても、その資格はない。大相撲とは神事や芸能や興行などさまざまな属性を持つ運動体であり、その中にスポーツに近い身体運動も含まれている、というくらいの認識だったから、勝敗を決する上で当事者の力量と土俵上のパフォーマンス以外の要因が紛れ込んでいたとしても、まあそんなものかな、と思っていた。
 こうやって言語化すると奇異に感じられるかも知れないが、日本人の相撲観の平均的なところから、実はそれほど大きく外れてはいないのではないだろうか。
 
 その種の曖昧さが許容されなくなってきたのは、世の中一般の風潮であると同時に、日本相撲協会自身にも理由がある。朝青龍の行状を批判する際に、彼らは大相撲の品格というものを振りかざした。かのモンゴル人力士を引退に追い込むために、彼らは自分たちの格調をどんどん上げていった。上げすぎたハードルに自分たちでつまづいているのだから世話はない。
(ただし、朝青龍の行状のうち、故障による休業中にモンゴルでサッカーに興じていたこと、一般人に暴行したこと(事実であればだが)、本場所中に暴行したかどうかも覚えていないほど泥酔したことの3点は、現代のスポーツ選手として失格だと私は考える。特に2点目の暴行事件は、どんな格闘技でも資格停止処分に相当するのではないか)
 
 閑話休題。
 八百長の全容解明は理事長と委員会に任せるとして、再発防止のために制度改革をするとしたら、どういう方法があるだろうかとつらつら考えてみた。
 八百長相撲には大きく2種類があるのだろうと思う。強い力士が優勝や連勝のために金を出して星を買うケースと、幕下転落の危機に瀕した力士がそれを免れるために星を買ったり、貸し借りを行うケースだ。

 後者をなくす、少なくとも減らすことは制度的にできるのではないかと思う。
 幕下に落ちるといきなり固定給がなくなる、という経済的な落差の大きさが原因のひとつだとしたら、ここをもう少しなだらかにするという手がある。
 千秋楽に勝ち越しがかかっている力士に、勝ち越し(または負け越し)が決まっている力士が星を貸すというケースが多いのであれば、千秋楽の取り組みは相星どうしにしてしまえばよい。
 さらにいえば、現行の東西番付の取り組みをやめてしまって、幕内は16人限定、1場所ごとに総当たりリーグ戦を行う。当然はみだす力士がいるから2部リーグ、3部リーグと階層化し、上位リーグ最下位と下位リーグ1位の入れ替え戦を行う。給料も賞金も順位ごとに傾斜配分。ここまで透明化してしまえば星の貸し借りをしている余裕もないだろう。
 ドラスティックな改革には、伝統だの格式だのと抵抗する人もいるだろうが、大相撲の伝統などというのはすこぶる頼りないもので、過去の歴史を見ても、その時々の都合でどうにでも変わってきている(横綱が番付上の地位になったのは明治以後のことだし、場所の数だって戦前と今とでは違う)。
 伝統を守るためにこそ変化が必要なのは、どの分野においても同じことだ。
 
 そうはいっても上位者が星を買うことを止めるのは難しいし、そもそもあの人たちにこんな思い切った改革ができるものやら…などと考えているうちに、根本的な疑問が湧いてきた。

 相撲は日本相撲協会だけのものなのか?
 日本相撲協会を存続させなければ相撲は守れないのか?

 日本相撲協会の公式サイトには相撲そのものの歴史に関する記述はない。私は新田一郎先生の「相撲の歴史」を所有しているはずなのだが手元に見あたらないので、とりあえずウィキペディアを参照すると、相撲の項は「古事記」あたりから始まり、例の「日本書紀」の野見宿禰と當麻蹶速がすもうをとった話が出てくる。これが相撲の伝統とやらに正統性を与えている。
 日本中の神社仏閣で奉納相撲が行われ、そこから興行としての相撲も起こってきた。江戸時代には各地の殿様が力士のスポンサーとなり、大阪と江戸での興行が盛んになった。明治維新で殿様の庇護を失い、西洋化の中で「裸は不道徳」などと糾弾されながら自営の道を模索した人々の集まりが、今の日本相撲協会の始まりということになる。

 だから、日本書紀に始まる相撲の伝統は、別に日本相撲協会だけのものではない。今はそれ以外の相撲が衰退したから、我々は相撲が彼らだけのものであるかのように考えがちだが、相撲は日本人すべてのものであって、彼らに独占される筋合いはない。
 かつてほど盛んではないにせよ、今でも地方の祭りで奉納相撲が行われているところもあるだろう。高校や大学の相撲部もある。日本相撲協会の外にも相撲はあるのだ。
 
 …とすれば、と妄想は広がる。
 今の協会の人々が自浄作用を発揮する、などという極小の可能性に賭けることはやめて、彼らとは無関係に、一から競技団体を作ったっていいんじゃないだろうか。

 コンプライアンスにすぐれた企業人や相撲の伝統に精通した学識経験者、格闘技の指導者らを招いて、日本古来の文化である相撲の伝統と格式を守り、不正の温床とならず、青少年を惹きつけ、世界に通用するスポーツマンを育成できるような競技団体を制度設計する。
 力士を職業化する必要はない。他のアマチュアスポーツ一般と同様、職業をもったアマチュア力士や学生力士によるリーグ戦やトーナメント大会を競技団体が主催する*。両国国技館は旧協会の解散に伴って国が接収し、新団体が優先的に使えるように計らう。
 現在の相撲協会に属する指導者や力士は、新団体が個別に精査して、八百長への関与なしと認められ、かつ本人が希望する場合には、新団体の一員としての参加を認める。
 ただし、新団体は彼らに報酬を払うことはしないので、どう生計を立てるかは本人次第となる。彼らがこれまで言ってきたように、日本の伝統文化を守る気概と使命感があるのなら、無給でも新しい相撲界のために貢献してくれることだろう。

 これで何か問題があるだろうか?
 日本相撲協会の周辺で生計を立てている人たちを別にすれば、日本国民一般にとって、これで何か不都合があるだろうか?私には思いつかない。
 競技そのもののレベルが下がる? 今の日本相撲協会が主催する大相撲のレベルが、10年前、20年前と比べてどうなのか、私にはよくわからない。幸か不幸か相撲にはオリンピックもワールドカップもないので、国内の競技レベルが下がったとしても、それが顕在化することはまずない。

 
 いくら相撲に関心が薄いといっても、相撲が消滅することは私とて望まない。
 だが、日本相撲協会が解散することと、相撲が消滅することはイコールではない。
 日本国民が望んでいるのは「相撲の伝統が守られること」であって、「日本相撲協会が存続すること」ではないはずだ。
 「相撲の伝統」が奈辺にあるのかは、じっくり考えてみる必要がある。それが両国のあのへんにあるとは限らないのだから。
 
 
 
* 追記)
 このような枠組みの中で、柔道や剣道は運営され、金銭スキャンダルや八百長トラブルなど起こさずに(推定)、立派に伝統を守って存続している。一般人への普及という点でも、柔道や剣道は町の道場が各地にあって、青少年や成人の愛好家に門戸を開き、競技の裾野を広げている。職業格闘家の育成機関であるボクシングジムやプロレス、総合格闘技の団体も、道場に一般愛好者を参加させている。相撲だけが例外といってもいい。つまり、日本相撲協会は所属競技者を職業化し、特殊な髪形と体形にすることによって、競技を協会内に独占し、一般への普及を阻害している、と考えられなくもない。
 そもそも、髪を伸ばしてマゲを結うことは、相撲に絶対不可欠な本質なのだろうか?
 野見宿禰と當麻蹶速が江戸風の大銀杏を結っていたことは、まずありえないと思うのだが。

追記2)
と、これだけ書いた後で、アマチュア相撲の統括団体である「財団法人日本相撲連盟」が存在することに気がついた。そりゃあるでしょうな、世界大会もあるんだから。「連盟」の実情については何も知らないので、「連盟」がここに書いた「新団体」のような存在になりうるのか、というような議論はさしあたり控えておく。

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