小川勝「オリンピックと商業主義」集英社新書
ワールドカップの開催年には、地味だが興味深いサッカー本がよく刊行される(なぜか白水社からよく出る)。五輪の開催年には、地味だが興味深い五輪本がよく刊行される(北京五輪の年には武田薫の「オリンピック全大会」が出た)。そういう年でなければなかなか出せないような、貴重な資料であることが多い。
これもたぶん、そんな1冊となる。
小川勝はスポーツニッポン出身のスポーツライター。プロ野球や五輪競技を中心に書いている。
私にとっては、「Number」で連載している記録コラムの印象が強い。記録中心の書き手というわけではないけれど、スポーツを数字から語ることに、現在、もっとも長けたひとりだと思う。
サイバーメトリクスのような複雑な数式を駆使するわけではなく、小川が扱う数字は、主に公開情報や、それらに多少の加工を加えたくらいのデータだが、そこからの分析や考察が優れている。数字の向こうでプレーしたり采配をふるったりしている生身の人間に対する洞察が優れているのだと思う。数字を読む面白さを味わわせてくれるという点では、私にとっては故・宇佐美徹也以来の書き手だ。
その著者が、「オリンピックと商業主義」を正面から取りあげた。ただし、タイトルから「黒い輪」のような暴露本・IOC糾弾本を予想した人がいたとしたら、それはちょっと違う。
どう違うのかは、小川自身が序章の中で書いている。
<オリンピックに対して、我々には二つの立場が提供されている。
一つは--こちらが多数派だが--オリンピックを、古代オリンピックから続くアスリートの崇高な祭典ととらえ、舞台裏の事情はさておいて、テレビの前に(あるいは観客席に)座るという立場である。
もう一つは、舞台裏の事情に目を向け、オリンピックにまつわる利権のシステムを追及し、国際オリンピック委員会(IOC)が掲げている理念との馬鹿馬鹿しいほどの乖離を指摘して、近代オリンピックを批判するという立場である。
(中略)
この二つの立場が、議論のテーブルに着くことはほとんどない。前者の数があまりに多いため、後者の声はメディアの片隅に追いやられている。前者は、後者の声を無視するか、あるいは軽い一瞥のあと、部屋に紛れ込んだ虫でも払いのけるように排除してしまう。一方、聞く者が少なければ、後者の声はどうしても過激になる。聞こうとしない者たちに対して冷笑的になっていく。そしてますます、両者の距離は遠のいていくように見える。
本書は、この両者の間に端をかけようとする、ささやかな試みである。>
<オリンピック>を別の言葉に置き換えたくなるような今日このごろだが、どんな分野においても、こういう書き手は貴重である(こういうスタンスを取ると、なかなか熱烈な支援者やファンはつきにくそうだが)。
本書のスタンスも、記録を扱う手付きと似ている。本書で扱われるのは、不正な金の流れを示す極秘資料、というようなものではない。著者は、各大会の公式報告書などから、それぞれの大会の収支やその内訳を示し、それらがどのような変遷を辿ってきたか、変化の背景に何があったのかを解説していく。つまり、原理的には誰でもアクセスの可能な公開情報から、「オリンピックと商業主義」の流れを追っていく。資料を集めること自体はスポーツジャーナリズムに携わる人ならさほど難しくないはずだが、こういう形でまとまったものは、あまり記憶にない。そして、そんな平凡にも見える作業の中から、意外な事実がいくつも浮かび上がってくる。
オリンピックの商業主義への転換点といえば、1984年のロサンゼルス五輪、というのが定説だ。
著者は、<大筋において間違いではないものの、(中略)現実はもっと複雑で、入り組んでいる>として、それ以前の大会から商業化への兆しはあったこと、ロサンゼルス大会では、商業化の事実はあっても明確な弊害は見られないことなどを指摘していく。当時のロサンゼルスをはじめ、開催都市の関わり方も多種多様であることに改めて気づく。IOCや企業以上に、開催都市に大いに問題があったケースも散見される。
一方、まだオリンピックが厳格なアマチュアリズムに支配されていた1964年の東京五輪で、代々木第一体育館の電光掲示板にHITACHIの文字が入っていた、というエピソードは、まだマーケティングなどというものを誰も意識していなかった牧歌的な時代であることを印象づける(日立は電光掲示板を寄付しただけで、そこに名前を入れる対価を支払ってはいなかったという)。
そうやって、さまざまな事象を歴史の時間軸の上に置くことで、スポーツメーカーのマーケティング、テレビ放映権料など、オリンピックに大きな影響を及ぼす金の流れが、いつからどのように始まり、どう変化してきたか、それぞれの大会で開催地の自治体や組織委員会が大会を(主に財務面で)どのように運営してきたか、貴族主義的だったIOCがどのようにオリンピックをビッグビジネスに変えてきたか…といった、オリンピックと商業主義を考える上での重要なファクターが、わかりやすく整理されていく。
坦々と記述されてはいるけれど、著者は単なる客観中立の書き手というわけではない。
例えば北京五輪で水泳と体操が「午前決勝、午後予選」という競技時間になったことに対して、<こうしたコンディション調整を強いるスケジュールが、選手にとってベストの競技環境であるはずはない><彼らが尊重したのは、米国のテレビ局のCM売り上げの方だった><この意味で北京大会は、かつてないほどひどい形で商業主義に陥った大会だったと言える>と厳しく批判している。
一方では、テレビ放映の便宜のために行われる競技のルール改正について、<商業主義の弊害として取り上げられる事柄>と指摘しつつも、個々のケースを検討し、すべてが競技の本質を損ねるとは言えない、としている。
商業主義とは何を指すのか、オリンピックにおいて失われてはならない価値は何なのか。
小川は、前提となる概念をひとつひとつ確認しながら、論を進めていく。まったく当たり前のことなのだが、この「当たり前」の手続きをきちんと踏まえることのできる書き手は、案外多くはない。
2012年のロンドン五輪は、「選手のためのオリンピック」を標榜して招致合戦を勝ち抜いた。そんな性格の大会において、商業主義はどんな相貌を見せるのだろうか。
本書は、そんな観点からロンドン五輪を見るための、絶好の手がかりになるだろう。
なお、「おわりに」の中では、私が当ブログの中で再三批判してきた、東京都の五輪誘致活動についても言及されている。<「オリンピック開催による恩恵」をPRすることばかりに重点が置かれている>という現状認識は私と同じだが、著者がそこで示した代案には少々意表をつかれた。なるほど本書の締めくくりにふさわしい提案である。
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