1980年代の「二刀流」。
ボー・ジャクソンをご記憶だろうか。
大学時代に野球とアメリカンフットボールで活躍し、とりわけフットボールではMVPにあたるハイズマン賞を受賞した。両方のプロリーグから誘われた後、1986年にカンザスシティ・ロイヤルズに入団。87年には116試合に出場して22本塁打、53打点、打率.235の成績を残した。そのまま強打の外野手に成長していくのかと思いきや、彼はアメリカンフットボールのロサンゼルス・レイダーズにも入団。2つの競技でプロ選手になり、2つのチームでレギュラーとして活躍した。89年にはMLBのオールスターゲームに出場してMVPを獲得した。90年にはNFLでプロボウルに出場しており、2つの競技でオールスターゲームに出場した唯一の選手だという。
しかし、1991年、フットボールの試合中のケガがもとで、フットボール選手としては引退。野球ではカムバックを果たしたが、レギュラー獲得には至らず、94年を最後に引退した。
以上はWikipediaに基づいた記述だ。素晴らしい身体能力によって才能の片鱗を見せつけたが、野球選手としてはタイトルを獲得することもなく、通算成績は凡庸なものに終わった、というのが彼に対する印象だ。フットボーラーとしても、たぶん似たようなことだったのだろうと思う。
日本ハムに入団した大谷翔平が投手と野手の「二刀流」に挑戦していることについて、いろんな人がいろんな意見を表明している。プロ野球で経験の長い人、大きな業績を残した人ほど、強く反対しているという印象がある。先般、月刊ベースボールマガジンでも特集が組まれたが、大抵のOBは反対意見を語っている。堀内恒雄が「反対だったが、プレーを見ると両方素晴らしいので確かに捨てがたい」という意味のことを書いているのが目をひいた。落合博満もNHKの「サンデースポーツ」で「面白い」と話していたが、プロOBで容認を明言しているのは少数派だと思う。
まあ、無茶なことをしようとしているのは素人にもわかる。投手の中でさえ、先発投手とリリーフ投手では体の作り方から何から違うのだ。投手と野手となれば、トレーニングも違うし生活リズムも違う。そんな事情を知っている人ほど、リスクの大きさにハラハラするのだろう。大谷の才能の大きさがわかるだけに、危険を冒さず王道を行って欲しいと望むのだろうとも思う。
彼の才能の程度を云々できるほどの眼力は私にはないが、観客として、惹きつけられる選手であることは間違いない。
長い手足を自在に操るバッティングは、かのジョン・オルルッドを思い起こさせる。ゆったりしたフォームから重そうな速球を低めに投げ込むピッチングにも、類を見ない魅力がある。
端的に言って、こんな選手は見たことがない。体や能力もさることながら、あの落ち着いた態度、明晰な語り口は見事なものだ。昨年のドラフト前のアメリカ行き宣言の頃から、カメラの前で話す姿を見てきたが、彼が置かれた状況を考えれば、あの落ち着きと思慮深さは尋常ではない。冷静で礼儀正しいのだが、取材陣をものともしない風格がある。野茂英雄の動じなさ加減に通じるものを感じる。彼なら、誰もやれなかった、やろうとしなかったことをやってしまうかもしれない、という印象は受ける。
大谷の「二刀流」に反対する人々が用いる論法のひとつに「どちらも中途半端な成績になりかねない」というのがある。「20勝できる器なのにもったいない」とかいう話になっていく。
投手か打者に専念して、200勝とか2000本安打とかいう立派な成績を残すことと、そこまでは行かないかもしれないが投手と打者の「二刀流」で活躍することと、どちらの価値が高いか。これはもう、個々の判断に負うしかない。
ただ、希少価値という点では議論の余地はない。投手と打者と、それぞれでチームの主力として活躍するような選手は、日本ではもう半世紀くらい現れてはいない。名球会の会員は50人以上いる。「二刀流」の希少さは圧倒的だ。
名球会が野球界にもたらした弊害のひとつに、「通算成績が大きいほど偉い」という考え方を広めすぎたことがあるように思う。
もちろん200勝も2000本安打も偉い。だが、それはあくまで結果の数値でしかない。1つ1つの勝利の中身、1本1本の安打の中身はすべて異なる。打球の軌道や速度、フォームの美しさ、バットから放たれた音、ベースを駆け抜ける速さはそれぞれの打者によって違う。フォームや決め球、変化球のキレ、危機に陥った時に脱出するやり方、マウンド上での風格や態度は、それぞれの投手によって違う。
もちろん積み上げた数字に拍手を贈るのもよい。だが、見物人が見ているのは、「200勝」や「2000本安打」という数字ではなく、あくまで彼らのプレーそのものであるはずだ。ひとつひとつのプレーが素晴らしく、その結果が「勝利」や「安打」になる。目の前のパフォーマンスに魅力がなければ、それがいくつ積み上がろうと、やっぱり大した魅力はない。そういうものではないかと思う。
たとえ通算成績では及ばなくとも、短い期間に素晴らしいプレーをした選手もいる。ほんの数試合だけ、奇蹟のような働きを見せた選手もいる。その日その時に限っていえば、彼らの価値は名球会入りした選手に劣らない。そして、たまたまそれを見た見物人にとって、そのプレーは永遠のものになることもある。
私は、たとえば広島で売り出し中だった頃の斎藤浩行が打った、はしたないほど大きい本塁打の驚きを忘れたことがないし、ジャイアンツの二軍にいた頃の三浦貴の、バッターボックスからライトスタンドまで定規で線を引いたようにまっすぐに飛び込んだ、上品な本塁打の軌跡を鎌ヶ谷で見たことも忘れない。キャッチボールのような投球でジャイアンツのために貴重な数個の勝ち星を稼いでくれた晩年の石井茂雄のへろへろな球も忘れない。片岡篤史の美しい打撃フォームと美しい打球も忘れない。この調子で数え上げていったら、一晩中でも語ることができそうだ。
そんな喜びを誰よりも多く与えてくれたのが、例えば松井秀喜であり、例えば王貞治だった。王貞治の偉大さは、打った本塁打の本数にあるのではない。誰にも打てないような本塁打を打って見物人に喜びを与えてくれたことが偉大なのだ。
衣笠祥雄が連続試合出場記録を作った頃から、彼を「サラリーマンの鑑」と呼ぶメディアが増えた。だが、私が知っている彼は、その弾むような走り方、リズミカルな動作を見ているだけで楽しく、豪快なフルスイングが小気味よい選手だった。リスクを恐れないプレーは、「サラリーマン的」という形容から最も遠く、そういう言葉を使う人たちは彼の何を見ているのだろうと不思議だった。
話を大谷に戻す。
大谷の試みに関する論評の中で、いろんな過去の選手たちが引き合いに出される。ベーブ・ルースや野口二郎の名を引く人も多い。しかし彼らは、50歳近い私にとっても歴史上の人物でしかないので、そのプレースタイルを具体的にイメージできる人はほとんどいないのではないか。
私が対比してしまうのは、冒頭に紹介したボー・ジャクソンだ。その能力の高さにおいても、その発想と意欲の破格ぶりにおいても、大谷はボーと比較される資格があるように思う。
ボーの試みは、果たして成功だったのか、失敗だったのか。記録を重んじる立場から見れば、失敗に見えるだろう。「野球に専念していればどれほどの記録を作ったか」と嘆いた人が当時もいたに違いない。
先般、JSPORTSで彼を扱ったドキュメンタリーが放送されていた。残念なことに終わりの方を少しだけしか見ることができなかったのだが、現在の彼は、だいぶ体重が増えた風情で、野球界からもフットボール界からも離れ、郊外の住処で狩猟に興じながら暮らしているという。自らの挑戦について「後悔はしていない」と語っていた、と記憶している。彼がカメラの前で本心を語っているかどうかを判断する術はない。
例えばYOUTUBEで検索すると、彼の現役時代のプレーを垣間みることができる。主にレフトを守る彼のダイビングキャッチには大変な迫力があり、オールスターゲームで放った本塁打も力感に溢れている。アメリカンフットボールでのプレーを評価する目は私にはないが、YouTubeにアップされている映像はNFLでのものの方が多いようだから、彼を評価したり惜しんだりした人は少なくないのだろう。
何よりも、2つの異なるメジャースポーツで、それぞれオールスターの舞台に立って脚光を浴びるという経験をした選手は、両方の長い歴史の中で、何百という名選手たちの中で、彼ひとりしかいないのだ。現に、遠く太平洋の反対側に住む野球好きの1人(私だ)の心にも、彼の名は今もしっかりと刻まれている。その名声という無形のものに対する評価を決められるのは、彼自身でしかない。
ボーの同時代にもう1人、ディオン・サンダースもNFLとMLBの2足のわらじを履いた。サンダースはNFLに重きを置いていたようだ。プロボウルに8回も選ばれ、フットボールの殿堂入りもしているから、フットボーラーとしては一流なのだろう。メジャーリーガーとしては通算558安打、186盗塁。出場試合が100を超えたのは1シーズンだけだから、まあそこそこ、というところだ。ボーよりもサンダースの方が賢かったのかもしれない。
彼ら以降に、野球とフットボールの二刀流選手を目にすることはほとんどなくなった(90年代から00年代初頭にかけてカージナルスやブレーブスで活躍したブライアン・ジョーダンもNFL経験があるようだが、こちらは途中から野球に専念して1455安打。立派なキャリアを築いた)。野球のポストシーズンの長期化とか、それぞれの年俸の高騰と、それによる球団のリスク管理(ケガをしそうなことをしない条項が契約書に記される等)とかが理由かもしれない。野球は、無謀な子供の遊びから、大人のビジネスに変わったのかもしれない。
大谷の壮挙または暴挙について、私は肯定的だ。見たことのないものを見せるという行為は、プロスポーツというエンターテインメントの世界で最大の価値を持つべきだと思っている(もちろん、そのスポーツの本質から大きく乖離しない範囲での話だが)。大谷の能力と知性と判断力にも尊重するだけの重みがあると思っている。反面、「球団や観客という我々大人たちが、若者の人生を弄んでいるのではないか」という懸念も、完全に払拭することもできずにいる。
今は目の前の彼のプレーを固唾をのんで見守り、記憶に焼き付けること。いつの日か、彼が投手か野手のどちらかに専念すると決めることがあれば、それを支持すること。もし彼の現役生活よりも私の人生の方が長く続くのであれば、彼がどんな選手であったかを語り続けること。私にできるのは、それだけだ。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント