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2013年5月

1980年代の「二刀流」。

 ボー・ジャクソンをご記憶だろうか。
 大学時代に野球とアメリカンフットボールで活躍し、とりわけフットボールではMVPにあたるハイズマン賞を受賞した。両方のプロリーグから誘われた後、1986年にカンザスシティ・ロイヤルズに入団。87年には116試合に出場して22本塁打、53打点、打率.235の成績を残した。そのまま強打の外野手に成長していくのかと思いきや、彼はアメリカンフットボールのロサンゼルス・レイダーズにも入団。2つの競技でプロ選手になり、2つのチームでレギュラーとして活躍した。89年にはMLBのオールスターゲームに出場してMVPを獲得した。90年にはNFLでプロボウルに出場しており、2つの競技でオールスターゲームに出場した唯一の選手だという。
 しかし、1991年、フットボールの試合中のケガがもとで、フットボール選手としては引退。野球ではカムバックを果たしたが、レギュラー獲得には至らず、94年を最後に引退した。

 

 以上はWikipediaに基づいた記述だ。素晴らしい身体能力によって才能の片鱗を見せつけたが、野球選手としてはタイトルを獲得することもなく、通算成績は凡庸なものに終わった、というのが彼に対する印象だ。フットボーラーとしても、たぶん似たようなことだったのだろうと思う。
 
 日本ハムに入団した大谷翔平が投手と野手の「二刀流」に挑戦していることについて、いろんな人がいろんな意見を表明している。プロ野球で経験の長い人、大きな業績を残した人ほど、強く反対しているという印象がある。先般、月刊ベースボールマガジンでも特集が組まれたが、大抵のOBは反対意見を語っている。堀内恒雄が「反対だったが、プレーを見ると両方素晴らしいので確かに捨てがたい」という意味のことを書いているのが目をひいた。落合博満もNHKの「サンデースポーツ」で「面白い」と話していたが、プロOBで容認を明言しているのは少数派だと思う。

 

 まあ、無茶なことをしようとしているのは素人にもわかる。投手の中でさえ、先発投手とリリーフ投手では体の作り方から何から違うのだ。投手と野手となれば、トレーニングも違うし生活リズムも違う。そんな事情を知っている人ほど、リスクの大きさにハラハラするのだろう。大谷の才能の大きさがわかるだけに、危険を冒さず王道を行って欲しいと望むのだろうとも思う。
 
 彼の才能の程度を云々できるほどの眼力は私にはないが、観客として、惹きつけられる選手であることは間違いない。
 長い手足を自在に操るバッティングは、かのジョン・オルルッドを思い起こさせる。ゆったりしたフォームから重そうな速球を低めに投げ込むピッチングにも、類を見ない魅力がある。
 端的に言って、こんな選手は見たことがない。体や能力もさることながら、あの落ち着いた態度、明晰な語り口は見事なものだ。昨年のドラフト前のアメリカ行き宣言の頃から、カメラの前で話す姿を見てきたが、彼が置かれた状況を考えれば、あの落ち着きと思慮深さは尋常ではない。冷静で礼儀正しいのだが、取材陣をものともしない風格がある。野茂英雄の動じなさ加減に通じるものを感じる。彼なら、誰もやれなかった、やろうとしなかったことをやってしまうかもしれない、という印象は受ける。

 

 大谷の「二刀流」に反対する人々が用いる論法のひとつに「どちらも中途半端な成績になりかねない」というのがある。「20勝できる器なのにもったいない」とかいう話になっていく。
 投手か打者に専念して、200勝とか2000本安打とかいう立派な成績を残すことと、そこまでは行かないかもしれないが投手と打者の「二刀流」で活躍することと、どちらの価値が高いか。これはもう、個々の判断に負うしかない。
 ただ、希少価値という点では議論の余地はない。投手と打者と、それぞれでチームの主力として活躍するような選手は、日本ではもう半世紀くらい現れてはいない。名球会の会員は50人以上いる。「二刀流」の希少さは圧倒的だ。
 
 名球会が野球界にもたらした弊害のひとつに、「通算成績が大きいほど偉い」という考え方を広めすぎたことがあるように思う。
 もちろん200勝も2000本安打も偉い。だが、それはあくまで結果の数値でしかない。1つ1つの勝利の中身、1本1本の安打の中身はすべて異なる。打球の軌道や速度、フォームの美しさ、バットから放たれた音、ベースを駆け抜ける速さはそれぞれの打者によって違う。フォームや決め球、変化球のキレ、危機に陥った時に脱出するやり方、マウンド上での風格や態度は、それぞれの投手によって違う。

 

 もちろん積み上げた数字に拍手を贈るのもよい。だが、見物人が見ているのは、「200勝」や「2000本安打」という数字ではなく、あくまで彼らのプレーそのものであるはずだ。ひとつひとつのプレーが素晴らしく、その結果が「勝利」や「安打」になる。目の前のパフォーマンスに魅力がなければ、それがいくつ積み上がろうと、やっぱり大した魅力はない。そういうものではないかと思う。
 たとえ通算成績では及ばなくとも、短い期間に素晴らしいプレーをした選手もいる。ほんの数試合だけ、奇蹟のような働きを見せた選手もいる。その日その時に限っていえば、彼らの価値は名球会入りした選手に劣らない。そして、たまたまそれを見た見物人にとって、そのプレーは永遠のものになることもある。

 

 私は、たとえば広島で売り出し中だった頃の斎藤浩行が打った、はしたないほど大きい本塁打の驚きを忘れたことがないし、ジャイアンツの二軍にいた頃の三浦貴の、バッターボックスからライトスタンドまで定規で線を引いたようにまっすぐに飛び込んだ、上品な本塁打の軌跡を鎌ヶ谷で見たことも忘れない。キャッチボールのような投球でジャイアンツのために貴重な数個の勝ち星を稼いでくれた晩年の石井茂雄のへろへろな球も忘れない。片岡篤史の美しい打撃フォームと美しい打球も忘れない。この調子で数え上げていったら、一晩中でも語ることができそうだ。
 そんな喜びを誰よりも多く与えてくれたのが、例えば松井秀喜であり、例えば王貞治だった。王貞治の偉大さは、打った本塁打の本数にあるのではない。誰にも打てないような本塁打を打って見物人に喜びを与えてくれたことが偉大なのだ。
 
 衣笠祥雄が連続試合出場記録を作った頃から、彼を「サラリーマンの鑑」と呼ぶメディアが増えた。だが、私が知っている彼は、その弾むような走り方、リズミカルな動作を見ているだけで楽しく、豪快なフルスイングが小気味よい選手だった。リスクを恐れないプレーは、「サラリーマン的」という形容から最も遠く、そういう言葉を使う人たちは彼の何を見ているのだろうと不思議だった。

 

 話を大谷に戻す。 
 大谷の試みに関する論評の中で、いろんな過去の選手たちが引き合いに出される。ベーブ・ルースや野口二郎の名を引く人も多い。しかし彼らは、50歳近い私にとっても歴史上の人物でしかないので、そのプレースタイルを具体的にイメージできる人はほとんどいないのではないか。
 私が対比してしまうのは、冒頭に紹介したボー・ジャクソンだ。その能力の高さにおいても、その発想と意欲の破格ぶりにおいても、大谷はボーと比較される資格があるように思う。
 ボーの試みは、果たして成功だったのか、失敗だったのか。記録を重んじる立場から見れば、失敗に見えるだろう。「野球に専念していればどれほどの記録を作ったか」と嘆いた人が当時もいたに違いない。
 先般、JSPORTSで彼を扱ったドキュメンタリーが放送されていた。残念なことに終わりの方を少しだけしか見ることができなかったのだが、現在の彼は、だいぶ体重が増えた風情で、野球界からもフットボール界からも離れ、郊外の住処で狩猟に興じながら暮らしているという。自らの挑戦について「後悔はしていない」と語っていた、と記憶している。彼がカメラの前で本心を語っているかどうかを判断する術はない。

 

 例えばYOUTUBEで検索すると、彼の現役時代のプレーを垣間みることができる。主にレフトを守る彼のダイビングキャッチには大変な迫力があり、オールスターゲームで放った本塁打も力感に溢れている。アメリカンフットボールでのプレーを評価する目は私にはないが、YouTubeにアップされている映像はNFLでのものの方が多いようだから、彼を評価したり惜しんだりした人は少なくないのだろう。
 何よりも、2つの異なるメジャースポーツで、それぞれオールスターの舞台に立って脚光を浴びるという経験をした選手は、両方の長い歴史の中で、何百という名選手たちの中で、彼ひとりしかいないのだ。現に、遠く太平洋の反対側に住む野球好きの1人(私だ)の心にも、彼の名は今もしっかりと刻まれている。その名声という無形のものに対する評価を決められるのは、彼自身でしかない。

 ボーの同時代にもう1人、ディオン・サンダースもNFLとMLBの2足のわらじを履いた。サンダースはNFLに重きを置いていたようだ。プロボウルに8回も選ばれ、フットボールの殿堂入りもしているから、フットボーラーとしては一流なのだろう。メジャーリーガーとしては通算558安打、186盗塁。出場試合が100を超えたのは1シーズンだけだから、まあそこそこ、というところだ。ボーよりもサンダースの方が賢かったのかもしれない。
 
 彼ら以降に、野球とフットボールの二刀流選手を目にすることはほとんどなくなった(90年代から00年代初頭にかけてカージナルスやブレーブスで活躍したブライアン・ジョーダンもNFL経験があるようだが、こちらは途中から野球に専念して1455安打。立派なキャリアを築いた)。野球のポストシーズンの長期化とか、それぞれの年俸の高騰と、それによる球団のリスク管理(ケガをしそうなことをしない条項が契約書に記される等)とかが理由かもしれない。野球は、無謀な子供の遊びから、大人のビジネスに変わったのかもしれない。
 
 大谷の壮挙または暴挙について、私は肯定的だ。見たことのないものを見せるという行為は、プロスポーツというエンターテインメントの世界で最大の価値を持つべきだと思っている(もちろん、そのスポーツの本質から大きく乖離しない範囲での話だが)。大谷の能力と知性と判断力にも尊重するだけの重みがあると思っている。反面、「球団や観客という我々大人たちが、若者の人生を弄んでいるのではないか」という懸念も、完全に払拭することもできずにいる。
 今は目の前の彼のプレーを固唾をのんで見守り、記憶に焼き付けること。いつの日か、彼が投手か野手のどちらかに専念すると決めることがあれば、それを支持すること。もし彼の現役生活よりも私の人生の方が長く続くのであれば、彼がどんな選手であったかを語り続けること。私にできるのは、それだけだ。

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200勝へのキャリアデザインを論じるつもりだったが。

 前回の末尾に「投手編は後日改めて」と書いたが、実際に200勝か250セーブを挙げた投手をリスト化してみて後悔した。
 なぜ後悔したかは、以下の表をご覧頂けば想像がつくと思う。

<200勝>
1946 スタルヒン2/4
1947 若林忠志 1/2
1948 野口二郎 3/3
1954 別所毅彦 2/2
1955 中尾碩志 1/1
1955 藤本英雄 3/3
1958 金田正一 1/2
1962 稲尾和久 1/1
1964 小山正明 2/3
1966 米田哲也 1/2
1967 梶本隆夫 1/1
1968 皆川睦雄 1/1
1970 村山実 1/1
1977 鈴木啓示 1/1
1980 堀内恒夫 1/1
1982 山田久志 1/1
1982 江夏豊 4/5
1983 平松政次 1/1
1984 東尾修 1/1
1989 村田兆治 1/1
1992 北別府学 1/1
2004 工藤公康 3/5 FA
2005 野茂英雄 8/11 MLB
2008 山本昌 1/1 現役

<250セーブ>
2000 佐々木主浩 2/3 FA
2003 高津臣吾 1/7
2010 岩瀬仁紀 1/1 現役

 「名球会」の入会基準をクリアした選手のキャリアデザインにどんな変化があるかを見ようと思って始めた作業なのだが、投手の場合、変化の最たるものは「200勝投手が出なくなった」ことなのだ。90年代以降で4人しかいないのだから、動向を云々するどころではない。21世紀にNPB単独で200勝に到達したのは工藤と山本昌の2人だけだが、それをもって「左腕優位の時代だった」と言うわけにもいかない。
 2000本安打と200勝をひとくくりにする、という発想は、金田正一が作った「昭和名球会」によって生まれたものだ。だが現在では、この両者を等価とみなすこと自体に無理が生じている。
 
 といっても、当時の金田の判断が著しく間違っていたとは思わない。1978年の時点では、200勝投手が14人、2000本打者が11人で、200勝投手の方が多かった(これは「昭和名球会」の有資格者ではなく、すべての達成者の数)。また、当時の各球団のエース投手といえば、堀内、山田、平松、東尾、村田。リリーフに転向していたが江夏も同世代で、彼らはそれ以降に着実に200勝を達成している。前途も洋々のはずだった。
 それが、現在の達成者数は27人:47人。2000本安打に届きそうな選手は大勢いるが、200勝に届きそうな投手はほぼ見当たらず、遠からずダブルスコアになりかねない。
 差がついたのは80年代以降の出来事なのだ。
 
 現在の投手たちが、かつての名投手に比べて著しく能力が劣っていると考える人もいるかも知れないが、私はその立場をとらない。時間や距離という明確な指標がある陸上競技や水泳競技において、記録は更新され続けている。それらの競技によって洗練されたトレーニングや栄養摂取の技術、選手の体格、国際試合の経験値、球場の広さ等を考慮すれば、個々には例外があるにしても、選手の平均的な運動能力は向上していると考えられる。
 ただし野球においては、運動能力が成績に直結するわけではない。投手成績と打撃成績は、投手と打者の能力の相関関係によって左右されるから、全体的には、打者の能力向上が、投手のそれを上回った、と考える人もいるかも知れない。
 
 だが、私はもっと単純な理由を挙げたい。
 1978年より後のある時期に投手の登板機会が減り、そのため勝ち星を挙げる機会も減ったのだ。

 先発投手の登板間隔について語ろうとすると、私はどうしても江川卓を思い出さずにはいられない。
 江川は、プロ野球選手となるまでのトラブルと、彼自身のキャラクターにより、世の中の多くの人々と、ゴシップ色の強いメディアに、いたく嫌われていた。「キャラクター」といっても、彼の人格が万人の嫌悪感を誘ったというわけではない。メディアを通してみる限り、彼はスポーツ選手としては珍しいほど人当たりがよく知性もある興味深い人物なのだが、例えば、ジャイアンツへの「入団発表」における「そう興奮しないでください」という発言に代表されるような物の言い方が癇に障る人も多かったのだろう。1978年のドラフト会議以後、プロ入りして数年の間、江川が受けていた風当たりの強さを、当時を知らない人に説明するのはかなり難しい。例えば1981年の江川と西本の成績だけを見比べたら、なぜ江川が沢村賞を取れなかったのか理解できる人はおそらくいないと思う(当時は今と違って新聞記者が選考していた)。
 ともかく、プロ入り後のかなりの期間にわたって、江川はやることなすこと批判されていたという記憶がある。

 ここで話は本題に戻る。江川はプロ入り間もなく肩を痛めたこともあってか、登板間隔をもっと長くしてほしい、という意味の発言をしたことがある。プロ野球の諸先輩やメディアは、彼を「怠け者」と非難した。
 その時に江川が求めた間隔は、確か中4日だった。
 1985年、右肘に左腕の腱を移植するトミー・ジョン手術によって復帰した村田兆治は、毎週日曜に登板して勝ち星を重ね、「サンデー兆治」の異名をとった。私の記憶が確かなら、当時は「週1回しか投げない主力投手」という存在自体が珍しく、「サンデー」にはそんな含意もあったはずだ。
 それから約30年。今の日本球界では、大きな故障をしたわけでもない20代の主力投手でも、投げるのは週に1度。MLBでは相変わらず5人くらいでローテーションを回しているので、今では日本の方がMLBより登板間隔が長いのだ。江川はきっと、自分が言った通りになったじゃないかと思っていることだろう。

 Wikipediaの「先発ローテーション」の項では<1980年代の先発ローテーションは中5日が多く><1990年代から中6日の先発ローテーションが増える>と記している。MLBについては、<1980年以降のMLBでは、先発投手5人を100球前後で降板させ、中4日の日程で運営するローテーションが定着している>とある。真偽のほどを確認するのは大変なのでここでは措くが、大雑把な印象としてはそう外れていないように思う。200勝投手が80年代以降デビュー組から激減したという事象と、時期的にも一致している。
 
 今、「2000本安打」と等価とみなすべき勝ち数はどの程度が妥当なのだろう。
 NPBの公式サイトには、各種通算記録の上位100傑が記載されている。2000本安打を(NPBだけで)打ったのは44人。一方、150勝を挙げた投手は47人だ。150勝から199勝の投手のうち、80年代以降にデビューしたのは、西口文也、斎藤雅樹、星野伸之、桑田真澄、槙原寛己、三浦大輔。日米通算なら野茂英雄、石井一久、松坂大輔、黒田博樹も加わる(80年代以降デビュー組で200勝したのは、野茂を除けば工藤公康と山本昌の2人だけ)。90年代デビューはゼロだ。
 80年代にデビューした打者だと、NPB単独で2000本以上打ったのは立浪和義、石井琢朗、秋山幸二、清原和博、野村謙二郎、田中幸雄、駒田徳広、谷繁元信。90年代で前田智徳、稲葉篤紀、古田敦也、小笠原道大、小久保裕紀、中村紀洋。2000年代デビューにもラミレスがいる。これに日米通算のイチローと松井秀喜、松井稼頭央が加わる。
 顔触れを見比べると、私の“相場感覚”では、150勝でだいたい釣り合いがとれているように思うのだが。
 
 「2000本安打」と「200勝」が世の中で特別な意味を持つようになったのは、前回エントリでも書いたように、名球会の影響が強い。
 記録保持者に光が当たり、広く一般に知られて尊敬を集めるようになったことは、名球会の功績といってもよい。ただし、有資格者に当たる光が強すぎることが、結果的に、その基準に届かなかった人々を見えにくくしてしまっていることも否めない。とりわけ「200勝」にわずかに届かない投手たちにおいて、その影響は顕著に現れている。
 別に「名球会入りの基準を150勝に引き下げろ」などと主張する気はない。が、平成の150勝投手たち(あるいは、先発とリリーフの双方を高レベルでこなしたがゆえに、どちらの基準にも到達しなかった佐々岡真司や大野豊や槙原寛己のような投手たち)がもっと尊敬されて然るべきだということは、2000本安打を打った打者たちが次々と脚光を浴びている今だからこそ、主張しておきたい。
 端的にいって、投手が150勝に到達した時には、スポーツメディアは今の2000本安打と同じくらい大騒ぎしてよいと思う。名球会などという昭和のモノサシに、いつまでも囚われている必要はない。

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2000本安打へのキャリアデザイン。

 今年は開幕から2000本安打を達成する打者が続いている。去年も3人いたのだから、「今年も」というべきか。
 去年は稲葉、宮本、小久保。今年はラミレス、中村紀、谷繁。井口も故障なくレギュラーで出場し続ければ手が届く距離だ。年間4人になれば、衣笠、福本、山崎、藤田平が達成した1983年以来の豊作ということになる。
 
 長期間活躍しなければ達成できない通算記録だから、2000本に到達したのは見慣れた選手ばかりだが、何となく気になったことがあり、確かめてみようかと2000本達成者をリスト化してみた(日本人は日米通算も含む)。左の数字は達成年、右の数字は、まあちょっと考えてみてください。

1956 川上哲治 1/1
1967 山内一弘 2/3
1968 榎本喜八 1/2
1970 野村克也 1/3
1971 長嶋茂雄 1/1
1972 張本勲 1/3
1972 広瀬叔功 1/1
1974 王貞治 1/1
1975 江藤慎一 4/5
1977 土井正博 2/2
1978 高木守道 1/1
1980 松原誠 1/2
1980 柴田勲 1/1
1981 大杉勝男 2/2
1983 衣笠祥雄 1/1
1983 福本豊 1/1
1983 山崎裕之 2/2
1983 藤田平 1/1
1984 山本浩二 1/1
1985 若松勉 1/1
1985 有藤道世 1/1
1985 谷沢健一 1/1
1987 門田博光 1/3
1987 加藤英司 5/5
1990 大島康徳 2/2
1992 新井宏昌 2/2
1995 落合博満 3/4
2000 秋山幸二 2/2
2000 駒田徳広 2/2
2003 立浪和義 1/1
2004 イチロー 2/3  現役、MLB
2004 清原和博 2/3
2005 古田敦也 1/1
2005 野村謙二郎 1/1
2006 石井琢朗 1/2
2007 松井秀喜 2/5  MLB
2007 前田智徳 1/1 現役
2007 田中幸雄 1/1
2008 金本知憲 2/2  FA
2009 松井稼頭央 4/5 現役、MLB、FA
2011 小笠原道大 2/2 現役、FA
2012 稲葉篤紀 2/2  現役、FA
2012 宮本慎也 1/1  現役
2012 小久保裕紀 3/3 FA
2013 アレックス・ラミレス 3/3 現役
2013 中村紀洋 6/6  現役、MLB、FA
2013 谷繁元信 2/2  現役、FA

 さて、数字の意味がおわかりになっただろうか。
 種明かしをすれば、/の左側が「2000本安打達成時までの在籍球団数」、右側が「最終的な在籍球団数(現役選手は今年までの数)」だ。
 現役生活を1球団で終えれば1/1。達成後に移籍をすれば1/2とか3とかになる。同一球団に2度以上在籍した場合はそれぞれ別にカウントしている(例えば、ホークスからジャイアンツにトレードされ、FAでホークスに戻った小久保の在籍球団数は3となる)。
 
 2000本安打を打つほどだから、それぞれの選手は最初の所属球団でレギュラーとなり、一時代を築いている(今のところ例外はない)。70年代の野村、張本らは、最初の所属球団で2000本に到達、その後も長く活躍し、その中で球団を移っている。達成時の球団数が「1」ではない山内や江藤、土井、大杉も、当時は珍しかった主力の大型移籍であり、移籍後も長い間活躍している。

 昭和30年代あたりにはまだ、選手もファンもさほど記録に関心を持っていなかったと聞く。力が衰えても2000本を打つまで現役で頑張る、という選手の行動が顕著に見られるようになったのは、金田正一が昭和名球会を設立した1978年以降のように思う。1980年に達成した松原、柴田はいずれも衰えが明白な中での達成となった。松原は低迷の続いた大洋を支えた功労者でありながら、この80年のオフにはジャイアンツに移籍。主に代打で1年を過ごして引退する。柴田は80年を最後に引退した。
 80年代後半にも、複数球団を経験した達成者が増える。中でも加藤英司(秀司)は、5球団目にしてようやくの到達。海外移籍を経験していない選手としては最多である。山田久志、福本豊とともに阪急全盛期の三羽ガラスと呼ばれ、首位打者を2度もとった選手だが、他の2人が阪急一筋で選手生活を終えたのと対照的な晩年となった。

 90年代後半からの達成者は、「一筋派」と「FA派」にほぼ二分される。「FA派」の第一号は、FA移籍第一号でもある落合博満。3球団目のジャイアンツでの達成となった。ちなみにこの95年以後、ジャイアンツ在籍時に2000本安打に到達したのはほかに清原と小笠原がいるが、ジャイアンツの生え抜き選手では80年の柴田を最後に出ていない(FAでジャイアンツを出て行った選手としては駒田と松井がいる)。

 この表を作って気づいたのは、「一筋派」も結構多い、ということだった。古田、野村、前田、田中幸雄、宮本。いずれも球団を代表する大選手である。ただし、同時代の「FA派」の打者たちと比べると、主軸というよりはその周囲を打つ打者が多い。そして、守備時においてもチームのリーダー的な存在だった。例外は前田。本来は押しも押されぬ主軸打者だが、アキレス腱断裂という大きな故障をしている(それでも2000本まで届いたこと自体が凄いが)。
 一方、「FA派」の打者たちは、ほとんどが3番か4番が定位置という顔触れだ(例外は松井稼と谷繁)。
 つまり、チームの最強打者はFA宣言して移籍していき、その周囲を打つ好打者で守備でも中心的な選手が長くチームに残る、というのが、FA制導入以後の名選手たちの移籍動向といえそうだ。球団史を代表する四番打者たちの名が連なる80年代半ばまでとの、もっとも大きな違いのように思う。

 また、ここ数年の達成者には、気息奄々かろうじてたどり着いた、というタイプも少ない。ほとんどの選手がレギュラーとして試合に出ながら2000本を打っている。かつてより選手寿命が延びたこと、シーズンの試合数が一時期よりも増えたことなどが影響していそうだ。
 
 こんなことを調べてみようと思ったもともとのきっかけは、ラミレスの2000本安打達成だった。
 2000本に届くほどの大打者で、極端に衰えたわけでもなくレギュラーで活躍しているというのに3球団目とは、あまり正当に評価されていないのではないか、と思って一覧にしてみたのだが、結果から言えばそう珍しくない。日本人でも全盛期にFA移籍する選手は多い。彼のヤクルトからジャイアンツへの移籍を日本人におけるFA移籍に該当すると考えれば、21世紀の2000本打者のキャリアとしては典型例に近い。
(ただし、以前は「日米通算2000本」で可だったはずの名球会の入会資格には、いつのまにか「日本をキャリアのスタートとする」という条件がついていた。まるでラミレスを狙い撃ちしたかのような条項で、相変わらずコロコロとよく変わる。これではクロマティが入れなくなってしまったではないか(笑))
 
 投手編は後日改めて。
 
※表はWikipediaなどをもとに拵えたもので、あまり厳重なチェックはしていません。間違いを見つけた方は教えてください。

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松井が東京ドームに戻った日。

 松井らしい、律義な挨拶だった。
 引退の挨拶と、国民栄誉賞受賞の挨拶。二度のスピーチを彼は、節目の記者会見でいつもそうであったように、原稿も持たずに長い文章を理路整然と、しかし出来上がった文章を読み上げたようには感じさせず、今ここで己の肉体から発する言葉として、人々に向かって語りかけた。

 それぞれの全文を、サイト上で読むことができる(たとえば引退挨拶はこちら国民栄誉賞の挨拶はこちら)。
 文字に起こせば型通りの挨拶、当たり前の言葉が並び、さほど面白いものではないかも知れない。「我が巨人軍は永久に不滅です」という類いの“名言”は、ここにはない。
 だが、それが彼の肉声として発せられれば、東京ドームを埋め尽くした観客と、テレビの前の大勢の人々の心を奥底から強く揺りうごかす。
 当たり前のことでも、松井が言うから胸を打つ。それは、ひとつひとつの言葉が、彼が歩んで来た懸命の20年間から生成され、彼の努力と真摯なプレーに裏打ちされたものであることを、我々が知っているからだ。

 国民栄誉賞を政治利用すべきでない、という意見をしばしば耳にする。今朝の朝日新聞にも西村編集委員が書いていた。
 私は、この賞はそもそもの出自からしても政治利用のために存在する代物だと認識しているので、いちいち批判すること自体が空しい気はするが、このたびの長嶋茂雄と松井秀喜の同時受賞に関しても政治利用色が強く感じられることは否定しない。ジャイアンツ側の思惑もいろいろと働いているのだと思う。

 その程度の賞を受賞しようとしまいと、私にとっての長嶋茂雄と松井秀喜の価値には何ら変わりはない。
 しかし、そうした諸々を踏まえた上でなお、この件に関しては安倍晋三首相に感謝している。
 理由はただひとつ。こんなことでもなければ、松井秀喜が満場の観衆に見守られて東京ドームで引退の挨拶をする、などということは、おそらく実現しなかっただろう。
 漠然とそんなふうに想像していたが、彼が挨拶の冒頭で口にしたこの言葉を聞いて、それは確信となった。

<2002年、ジャイアンツから日本一を勝ち取った直後、ジャイアンツ、そしてファンの皆さまに自らお別れを伝えなければいけなかった時、もう二度と、ここに戻ることを許されないと思っていました。しかし今日、東京ドームのグラウンドに立たせていただいていることに、感激で胸がいっぱいです。>

 いまだにこんなことを言わずにいられないのが松井という男なのだろう。
 実際にはヤンキースでの2年目にこの球場で開幕2連戦を行っているし、それに先立ってジャイアンツとエキシビジョンゲームを戦い、高橋尚成から大きなホームランを打ってもいる。それでも、ジャイアンツの公式戦が行われる満員の東京ドームのグラウンドに立つということは、彼にとって特別の日だったに違いない。
 
 もう誰もあなたを裏切り者などと言う人はいない。当時だってほとんどいなかったと思うが、あなたの心に一点の曇りがあったのだとしても、この日のこの瞬間に、それはすべて晴れたはずだ。
 
 ジャイアンツはいずれ松井を監督として招きたいと考えているのだろう。今回の一連のセレモニーは、松井の外堀を埋める壮大な作業でもあったはずだ。
 松井はおそらく、それを覚悟してはいても、まだ腑に落ちてはいない。<どういう形にか分かりませんが、またいつか、皆さまにお会いできることを夢見て、新たに出発したいと思います。>という言葉が、そのあたりの微妙な機微を示しているように思う。
 
 松井に指導者としての資質があるのかどうかは、今の段階ではよくわからない。
 彼は気さくで人当たりがよいように見えるが、柔らかい衣の下には、ここから内には入らせないという鎧をまとっているように感じられる。もしかすると、王貞治の監督初期に見られたような、選手との距離における不具合が生じるのでは、という懸念も感じなくはない。また、彼の人間性はあまりにも完成され、完結しているので、周囲の人々の中に「この人のために」「俺が助けなければ」という気持ちが生まれにくいかも知れない、とも(長嶋や原のように、いわば“ツッコミどころ”と愛嬌のある指揮官が、ジャイアンツのようなチームには向いている気はする)。

 ただ、一方で、彼がこの日の試合前にジャイアンツのミーティングに参加して話したというスピーチを読むと、そんな懸念は杞憂に過ぎないようにも思われる。報知サイトから全文を引用させていただく。

 <今のジャイアンツは外からしか見ていませんが、大変強くて魅力があるチームです。素晴らしい監督、コーチ、スタッフ、そして素晴らしいキャプテンがいます。
 私はジャイアンツで10年間プレーしましたが、特別なチームです。それは先輩方がづくり上げてきた素晴らしい伝統がありますし、たくさんのファン、メディアからの厳しい視線がある。他球団は『ジャイアンツに絶対に負けたくない』という気持ちで戦います。ジャイアンツの選手はそれをしっかり受け止めて、はね返す強さが必要です。それがジャイアンツの選手のプライドだと思います。
 私がチームにいた頃、スター選手はたくさんいましたが、決して毎年勝てたわけではありません。スター選手がいるから勝てるのではなく、チームのことを思ってチームのためにプレーする、そういう選手が多いチームが強くなる。おそらく皆さんはそういう気持ちを持っていると思いますので、心配しなくても大丈夫だと思います。
 みなさん、僕は今はアメリカに住んでいますが、遠くからいつもいつも応援しています。頑張ってください>
 
 今のジャイアンツには松井と一緒にプレーした選手は少ないと思うが、この言葉に心を揺さぶられない選手はいないだろう。実績と努力に裏打ちされた強力なキャプテンシーが彼には備わっている。
 これを読んで私は、彼がワールドベースボールクラシックの日本代表に一度も参加しなかったことを、改めて残念に思った。あの特別な1か月を松井と一緒に過ごすことができたら、日本の若い選手たちは、どれほどよい影響を彼から受けることができただろう。
(もちろん、実際に参加したらイチローとのチーム内のバランスがどうなっていたか、微妙だった気もするが。松井は適切に振る舞っただろうけれど、イチローがあの2大会で発揮したキャプテンシーは、部分的にでも損なわれた可能性があると思う)
 
 国民栄誉賞に関して感謝したいことがもうひとつあった。この時期に向けて、テレビ各局が松井の特番や特集を一斉に組んだことだ。
 昨年の引退発表は、あまりに突然で、しかもあまりに年末だったため、そういう類いの番組が作られる機会がほとんどないままに過ぎてしまい、私はとても不満に思っていた。
 ここへきてようやく引退後の肉声が紹介されはじめ(引退後の松井のインタビューを最初に目にしたのはなぜかBS-TBSの番組だった)、過去の特集の再放送や、現役時代のプレーをまとめた番組も作られた。
 BS1では表彰式前日の5月5日に、2009年のワールドシリーズ第6戦を再放送し、その後で彼がメジャーリーグで打った全本塁打も一挙放送した。フジテレビが「すぽると」で放送した金本との対談も楽しかった(またやったらええやん、と言い続ける金本の空気の読めなさ加減は、この上なく好ましかった)。授賞式当日夜の「すぽると」で、被弾した投手たちのコメントを紹介したのも地味だがよかった。
 
 松井の本塁打はプロ入り1年目から何度となく見てきた。実際に目の前で見た本塁打も、それぞれに印象に残っている。ルーキーイヤーの短い二軍生活で放ったロッテ浦和球場でのホームラン。「ON対決」と騒がれた2000年の日本シリーズの第一打席で、誰が主役かを思い知らせた特大のホームラン。ヤンキース入りした後、凱旋した東京ドームでの第二試合で放り込んだホームラン。2002年の夏に、おそらく松井がジャイアンツにいるのは今季で最後と思い、「日本人なら松井のホームランを見ておくべきだ」と母を連れて行った東京ドームで打ってくれたホームラン。どれも思い出深いのだが、今この瞬間、最も私の心を揺さぶる本塁打を選べと言われたら、昨年の6月1日、レイズの一員として打った2本目のホームランを挙げる。
 元中日のチェンから放った一発は、トロピカーナ・フィールドのスタンド最後列まで飛んで行った。大きくて速い、松井らしいホームランだった。衰えなど微塵も感じさせず、まだまだ彼は進化しているのだと思わせてくれるようなホームランだった。結果的に、これが松井にとって最後のホームランとなった。
 なぜこんな一発が打てるのに引退しなければならないのか。こんな凄いバッターが日本のどこにいるというのか。

 松井は昨日、東京ドームに帰ってきた。
 そして我々は改めて思い知った。もう松井のホームランは二度と見られない。もう彼は選手としてグラウンドに立つことはない。
 嬉しくて、そして、どうしようもなく哀しい、そんな一日だった。

 
 長嶋茂雄についても書いておこう。
 受賞の挨拶の最後に、どういうわけか「よろしくお願いします」と言い添えたのが、何とも言えずに長嶋らしかった。
 安倍首相から渡される額や盾を、支えきれるはずもないのに左手だけで受け取ろうとする無頓着さ。始球式で自分の体に当たりそうな松井の投球を左手一本で打ちに行った果敢さ。そして、退場の際にネット裏の手前で立ち止まり、嬉しそうに手を振る立ち姿の美しさ。どれもこれもみな長嶋らしかった。満場のグラウンドに立って人々の視線を浴びる時こそが、彼が輝く時なのだと改めて感じた。

 長嶋は、遅かれ早かれ国民栄誉賞を授与されることが約束された人物のひとりと言ってよい。ただ、これまでは、彼のように長年の功績に対して贈られるタイプの受賞者は、ほとんどが没後の授賞となっていた。生きてグラウンドに立てるうちに受賞することができたのは、彼にとっても、そのファンにとっても、何よりだった。
 副賞として2人に金のバットが贈られ、それはそれでよい選択だったとは思うが、野球場のグラウンドで満場の観客から祝福されるというこの瞬間こそが、長嶋にとっても、松井にとっても、最高の副賞となったように思う。

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