俺たちのコクリツ、俺たちの背番号1。
試合開始の15分ほど前にメインスタンドに着くと、ピッチでは両軍の選手たちが試合前の練習をしていた。すでにゴール裏を埋め尽くした東京のサポーターたちは、「ルーカスルーカスルーカスルーカスゴール」とチャントを歌ったり、「俺たちのユキヒコ」の旋律で「俺たちのコクリツ」と歌ったりしていた。
このクラブがJ1に上がった2000年には、まだ味スタ(最初は「東京スタジアム」だった)が完成していなかったため、主に国立競技場をホームとして使っていた。私が初めてFC東京を見た夜、当時国内最強だった磐田を逆転で下した試合も、ここで行われた。特例とはいえ国立をホームにしたJクラブはたぶんこの年のFC東京しかないと思う。以後もしばしばここでホームゲームを開催していた。FC東京が持つ2つのナビスコカップと1つの天皇杯も、すべてここで獲得したものだ。「俺たちの」と言いたくなるだけの歴史が、ここにはあった。
練習を終えて引き上げる際に、この日ゴールマウスを守った塩田がゴール裏に向かって両手を何度も振り上げ、「もっと、もっと声を出して!」と言わんばかりに煽っていた。リーグ最終戦の仙台戦で今季のリーグ戦での初先発を果たしたベテランGKは、天皇杯の仙台戦、そしてこの日と3試合続けて先発を勝ち取っていた。
2013年12月29日午後3時、天皇杯準決勝のFC東京ー広島戦。この試合と、1月1日の決勝戦が、今の国立競技場で開かれる最後の天皇杯となる。観客は約26000人。少なくはないが、多くもない。このタイミングでこの競技場を目に焼き付けておこうと考える人は、まだそれほど多くなかったようだ。
試合は冒頭から激しい潰し合いが続いた。東京は森重、加賀、チャンヒョンスとCBを3枚使う3-5-2で佐藤寿人と石原を抑え込みにかかったが、その分、自らの攻撃にも生彩を欠いた。東やアーリアが懸命に走り回ったが、前線に人数が足りない印象は否めなかった。もちろん広島は堅守で鳴らすチームだし、ルーカスを練習中の骨折で欠いた影響も大きかったのだろう。
終盤、広島が佐藤寿人と高萩を相次いで交代させたことで、広島が得点する可能性は減じた。三田、林、石川ナオと攻撃的な駒を投入し、延長終盤には東京の攻勢が続いた。アーリアや石川が決定的なチャンスを作ったが、ゴールを割る前に試合は終わった。あと5分あったら東京が勝っていたのではないかと思うような展開だった。
PK戦は東京側のゴールで行うことになった。力強い塩田コールと広島の選手に対するブーイング。広島の選手にとっては、やりづらい環境のように見えた。東京の一番手、太田があっさりとゴールネットを揺らし、広島の青山が左隅に蹴ったボールを塩田がかき出した時、その予感はほとんど確信に変わった。広島の千葉もバーの上に蹴り出し、両軍3人づつを終えて3-1と東京は圧倒的優位に立つ。試合前にサポーターを思い切り煽っていた時から塩田がヒーローになることは決まっていたのかな、と思ったりもした。
しかし、4番手の三田のシュートが西川に阻まれ、その西川がキッカーとして、横に飛んだ塩田を嘲笑うかのように中央に決めると、場内の雰囲気が陰る。東京陣営は少し気圧されたような心境になったのではないかと思う。
決めれば勝利、外せば追いつかれる、というこの上なく重圧のかかる状態で出番を迎えた5人目のアーリアが蹴る時、たぶん、そんな空気を変えるために、あえて選んだのだろう。ゴール裏からは、試合中にも景気づけのように歌われていた「もういくつ寝るとお正月」という歌が聞こえた。まだちょっと早いんじゃないの…と思っていたら、アーリアのシュートは西川に阻まれた(もちろん、両軍2人づつを残したタイミングですっかり勝った気になっていた私に、彼らの選択を云々する資格などない)。
振り出しに戻ってサドンデス。追いつかれた方は嫌なものだ。6番手の米本が決めて少し押し返したものの、7番手の石川も止められ、広島の7番手が決めて、ほぼ手中にしていたはずの元旦決勝は、指の間をすり抜けて落ちていった。西川に浦和コールでもしてやればよかった、と後から思った。
最後のシュートを決められた後、塩田は手を腰に当て、棒立ちになったまま動かなかった。権田とおそらくはGKコーチがゴールマウスに近づき塩田に声をかけた。他の選手たちを慰めたネマニャも塩田のもとに歩み寄り、肩を抱いた。そういえば何の大会だったか、PKを外した選手のもとに真っ先に駆け寄り、励ましていたのはルーカスだった。PK戦においても、その欠落は大きかったのかも知れない。
試合終了の挨拶の後、ポポと東京の選手たちは、バックスタンドからぐるりと半周してサポーターに挨拶した。ポポとネマ、そしてルーカスにとっては、これが最後の試合となってしまった。ゴール裏を経由してメインスタンドに歩いて来た選手たちの中で、塩田だけは肩を落として下を向き、スタンドに手を振ることもできずにいた。私は思わずスタンドから「塩田!」と叫んだが、たぶん彼の耳には届かなかっただろうと思う。それでも、メインスタンド前に整列した選手たちに「礼!」と掛け声をかけるのは彼の役目だった。
彼らがバックスタンドに向かって歩き出した頃、同じグラウンドの中で西川へのヒーローインタビューが始まり、場内に音声が流れた。PK戦で、あと1人決めていれば、あるいはあと1人止めていれば。お立ち台の上には間違いなく塩田が立っていたはずだ。
120分かけて0-0で終わった試合で、塩田は何度も決定的なピンチを救い、チームを危機にさらすことはなかった。PK戦にも臆することなく堂々と立ち向かい、1人のボールを止め、さらに1人のキックを外させた。誇るに足る仕事ぶりだった。
それでも塩田は敗戦の責任がすべて自分にあるかのような表情で、ピッチでひとり泣いていた。たぶん彼は、天皇杯を引退の花道にするはずが練習中の骨折により出場できなくなったルーカスや、今季限りでチームを去るポポビッチ監督、ネマニャらに優勝をプレゼントして一緒に賜杯を掲げることに、誰よりも強い思いを抱いていたのではないかと思う。そして、自分がもう1本止めてさえいればそれが実現できたのに…と悔やんでいたのだろう。
塩田が流経大からFC東京に入って、今年がちょうど10年目のシーズンになる。うち、レギュラーとして過ごしたのは2シーズン弱に過ぎない。
入団当時のレギュラーは日本代表の土肥洋一だった。この年のナビスコカップでは代表で不在がちの土肥に代わり、準決勝までゴールマウスを守ったが、決勝では土肥にスタメンを譲った(決勝は0-0の末のPK勝ちで、土肥がMVPを獲得した)。それが典型で、最初の3年は土肥の控え、カップ戦要員として過ごした。
4年目の2007年に、ようやくレギュラーの座を手にしたが、2009年の開幕前に病に倒れ、その間に権田が正GKの座を確固たるものにしてしまう。以後5年にわたって、年下の権田の控えという立場が続いている。それでも数少ない出場機会が巡ってくれば、堅実でレベルの高いプレーを見せる。監督にとって、これほどありがたい選手もいないだろう。選手会長も長く務め、チームの支柱となってきた。
2009年にナビスコカップで優勝した時、この年限りでの引退が決まっていた浅利や藤山を捕まえ、胴上げの音頭をとっていたのが、控え選手としてベンチにいた塩田だった。J2転落が決まった2010年オフは、ちょうど契約が切れる時期で、他のクラブからも誘われたと聞く。この年のリーグ戦には4試合しか出ていないのだから、彼が転落の責任を負う筋合いはない。プロなら出場機会を求めて出て行っても当然の状況で、しかし塩田は東京に残り、五輪予選で欠場が多かった権田の留守をしっかりと守って、1年でJ1復帰を決めた。
代表で活躍したり個人タイトルを取ったりすることはなくても、チームにとってはかけがえのない宝物。よいクラブには、そういう選手がいるものだ。東京にとって、それはかつてのアマラオであり、藤山であり、浅利であり、そして塩田も、彼らの列にすでに加わっている。こういう選手がいる限り、チームが道を誤ることはない。
スタジアムを後にして帰る道すがら、悄然と歩く塩田の表情を思い出したら泣けてきた。
こんなにも悔しいのは、ただ負けたからではない。
塩田をお立ち台に立たせられなかったことが悔しいのだ。
世の中にはあんまり知られていないかもしれないが、どうだ、俺たちの背番号1はこんなに素晴らしい選手なんだぞと、あの台の上から満天下に見せつけることができたら、どんなにか嬉しかっただろう。
それが叶わなかったことが、ただただ悔しい。
新国立競技場をめぐる議論についても書こうと思ったが、ちょっとそういう心境でもなくなってきたので(笑)、改めて。
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コメント
私も同感です。今思い出しても残念です。国立では塩田に釘付けでした。この寂しさは次のシーズンで返すしかないですね。
投稿: 通りすがり | 2014/01/02 09:28
>通りすがりさん
どんなタイトルでもいいから、塩田に優勝杯を掲げさせてあげたいですね。
投稿: 念仏の鉄 | 2014/01/02 17:38