スポーツ選手に与えられる、最上級の褒め言葉。
イチローのMLBでの通算安打数がベーブ・ルースに近づいたとか並んだとか抜いたというニュースを、このところよく目にする。そのたびに多くのメディアがベーブ・ルースを「野球の神様」と形容している。例えばこのように。
<イチロー“神様”ルース超え2875安打も…マーリンズ泥沼8連敗 スポニチアネックス 5月23日(土)>
これ以上の褒め言葉はなさそうだし、ベーブ・ルースは「これ以上ない褒め言葉」にふさわしい選手でもある。ただ、自分はそこそこ長くMLBを見て、その歴史にも日本人の平均よりは通じているつもりだったが、ベーブ・ルースが「野球の神様」と呼ばれているとは知らなかった。出典を探そうとネットを少し検索してみたが、なかなか見つけることができない。例えばWikipediaを見ると、日本語版の「ベーブ・ルース」の項には、冒頭の概要部分に<野球の神様と言われ、米国の国民的なヒーローでもある>と書かれている。が、英語版の<Babe Ruth>の項目の同じ部分には<Nicknamed "The Bambino" and "The Sultan of Swat">とあるだけだ。Bambinoはもともとはイタリア語で「赤ん坊」や「坊や」の意味。Sultanはイスラム世界の君主で、swatは「激しく打つ」「長打」などの意味があるから、Sultan of Swatは「打撃の帝王」くらいの意味か。そもそも彼の本当の名前はジョージ・ハーマン・ルイスであって、ファーストネームとして扱われているベーブ自体が「赤ちゃん」という綽名である(「坊や哲」「お嬢吉三」みたいなものか)。
日本野球には、「神様」と呼ばれた人物がいる。代表的なのが「打撃の神様」川上哲治だ。卓越した技術と成績に加え、厳格で人を寄せ付けない人物像、求道的な打撃への姿勢、そして「球が止まって見えた」という発言に代表される神秘性などが相まって、「神様」という綽名が定着したのだろう。
赤坂英一が川相昌弘について書いた「バントの神様」という本もあるが、これは川相の綽名として定着したというほどではない。ただ、ひとつの分野、ひとつの技術に精通した人物を「○○の神様」と呼ぶことは、日本ではさほど珍しくないように思う。
「神対応」「神回」というような形容がごく普通に使われる昨今の風潮を見ても、日本人にとって「神」は、尊敬する対象ではあっても、さほど畏怖されるものではないらしい。人間を「神」と呼ぶことに対するハードルはかなり低い。
そんな日本にあっても、1人の選手を「野球の神様」と呼んだ例は記憶にない。「野球の神様」は、例えば「野球の神様が助けてくれました」みたいな談話に代表されるように、野球というゲームを司る絶対者、というようなニュアンスで語られるのが一般的だろう。
ルースの人柄は「ベーブ」と呼ばれたことからもわかるように、子供っぽくて、よく言えば天真爛漫、悪く言えば自分勝手な人だったようだ。彼自身はヤンキースの監督になりたかったようだが、声がかかることはなかった。その意味では、川上哲治とはかなり異なるキャラクターだったようだ。
なぜルースが「野球の神様」と呼ばれたことになっているのかを見つけることはできていないのだが、ネットで検索すると、この形容が、昨年、大谷翔平が達成した10勝&10本塁打に関する記事に多用されていることがわかる。
<大谷“野球の神様”に並ぶ!96年ぶりの10勝&10発>
ベーブ・ルースといえばホームラン。普通なら「伝説的な長距離砲」とでも呼んでおけば済むのだが、この話題で彼の名を出す時ばかりは、それでは物足りない。投手としても優れていたことを同時に示さなくてはならないからだ。大谷の凄さを示すためには、なぞらえる相手も偉くなくてはならない。形容に窮した誰かが、えいやっと「野球の神様」にしてしまった、てなことだったのではないか…と想像したのだが、Yahoo!知恵袋にはそれ以前にもルースを「野球の神様」としている質問があるので、昨年から突然呼ばれ始めたのではないらしい。
この件が気になるのは、そもそも一神教が支配的な社会で、人間に対して「神」という綽名が定着したりするものなのだろうかという素朴な疑問があるからだ。
上にも書いた通り、日本では偉人をすぐに神様と呼びたがる。ペレも「サッカーの神様」とする記事をよく目にするが、ペレといえばキングと昔から決まっているので、これには強烈な違和感がある。ジーコにも「神様」という形容がよく使われたが、これは彼の日本での業績に対する尊称だから、まだしも納得できる。
スポニチや他のメディアがルースを「野球の神様」と決めて勝手に使うのならともかく、「大リーグで“野球の神様”と呼ばれた」などと書いてあると、誰が呼んでるの?と気になってしまう。
イチローがルースの通算安打数を抜いたことはSIなど米メディアでも話題になっていたが、ルースの名は形容抜きで記述されている記事が多い。日本のスポーツメディアにとって長嶋茂雄が説明不要な人物であるのと同様、ベーブ・ルースという名前は、USAのスポーツメディアにとっては説明不要な名前なのだろう。
MLBの「神様」といえば、私の頭に浮かぶのはルースではなく、テッド・ウィリアムズだ。彼は日本では「打撃の神様」と呼ばれていた。米国のwikiでは<Nicknamed "The Kid", "The Splendid Splinter", "Teddy Ballgame", "The Thumper" and "The Greatest Hitter Who Ever Lived",>とされている。たくさんあるが、神に類するものはない。
ただ、彼には神にまつわる有名なエピソードがある。
現役最後の試合の最後の打席で本塁打を放ったウィリアムズは、観衆のスタンディングオベーションにも、ベンチを出て応じようとはしなかった。なぜ手を振ってやらないんだ、と問われて、「神様というものは、手紙に返事を書かないものだ」と答えたという。たとえば伊東一雄・馬立勝「野球は言葉のスポーツ」(中公新書)に紹介されている。もっとも、実際にはこれはウィリアムズ自身の言葉ではなく、作家のジョン・アップダイクがこの場面を評して書いたものらしい。米国版wikiにも<Williams' aloof attitude led the writer John Updike to observe wryly that "Gods do not answer letters.">とある。
私自身は現役時代のウィリアムズを見たことはないが、このエピソードは知っていた。知っていたから驚き、胸を熱くした場面がある。1999年のオールスターゲームでのことだ。
この年のオールスターはボストンのフェンウェイ・パークで行われた。始球式に招かれたのは地元レッドソックスの生ける伝説、テッド・ウィリアムスその人だった。彼がマウンドに立つと、両リーグの選手たちが、みな集まって握手を求めた。選ばれたスターたちを野球ファンの子供に戻してしまう、スターの中のスターが彼だった。
始球式の後、ウィリアムズはカートで場内を回った。立ち上がって拍手を贈る観客に向かって、ウィリアムズは高々と手を振っていた。< He proudly waved his cap to the crowd — a gesture he had never done as a player.>“選手としては決してやらなかった仕草だった”、と米国版wikiには書かれている。神が人間に戻った瞬間だった。
「神」でもうひとり、思い出すスポーツ選手がいる。とあるゴールについて「ディエゴの頭と神の手が決めた」と語った、あの人物だ。マラドーナには「神の子」という綽名もあったようだが、これまた出典がすぐには見つからない。奔放な性格は、伝えられるベーブ・ルースのそれに似ているが、ディエゴはベーブと違い、希望通りにアルゼンチン代表の監督になった(成功はしなかったが)。
マラドーナと綽名について語るならば、マラドーナにつけられた綽名よりも、「マラドーナという綽名」の方が意味があるかもしれない。彼が活躍した80年代半ばから90年代にかけて、卓越した技術を持つ中盤の選手は、よくマラドーナになぞらえられていた。「カルパチアのマラドーナ」と呼ばれたゲオルゲ・ハジ、「砂漠のマラドーナ」と呼ばれたサイード・オワイラン。日本にもいたはずだ。あのころ、世界中に何人のマラドーナがいたことだろうか。
日本野球で最初の三冠王、中島治康は「和製ベーブ・ルース」と呼ばれていた。早稲田実業の期待の長距離砲、清宮幸太郎も、リトルリーグの世界大会で米国メディアに「和製ベーブ・ルース」と呼ばれたそうだ。ルースもまた、綽名をつけられることよりも、綽名となることにふさわしい。
スポーツ選手にとっては、「神様」と綽名をつけられることよりも、自分の名が他人の綽名に冠せられることこそ、最上の栄光なのかもしれない。
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