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2015年10月

続・公式戦を引退試合にするのは、あまり感心しない場合もある。

 10月7日に、山本昌が最後の登板を果たした。ナゴヤドームではなく広島で。展開次第では出番を作るのが難しくなると判断したのか、「打者1人限定の先発」である。結果は1番打者の丸をニゴロに仕留め、「史上初の50歳登板」は幕を閉じた。
 広島は、試合前にスクリーンに山本昌の足跡をまとめた映像を流し、降板に際しては新井から花束を贈ったという。手厚いおもてなしである。
 
 一方でこの試合は広島にとっての今季最終戦。「勝てばCS」という大きなものがかかっていた。MLBからの黒田復帰で膨れ上がった優勝への期待に背いて低迷した今季、雪辱を果たす最後のチャンスだった。
 だが、山本昌が降板した後も打線はふるわず、5位の中日に完封負けを喫して、希望は潰えた。
 もし前田がこのオフにMLBに旅立てば、今季は前田と黒田が二本柱として並び立つ最初で最後のシーズンだったことになる。前田が抜けたカープが、その穴を即座に埋めることは難しい。黒田も今年は活躍したものの、突然成績が落ちることが起こりうる年齢ではある。
 そう考えると、カープにとってこの試合は、何としても勝たなければならないはずだった。

 山本の「サヨナラ登板」が、勝敗の帰趨に影響したかどうかはわからない。ただ、もし私が広島カープの選手であったなら、試合前の映像や試合中のセレモニーを見て、「ウチの球団、こんな大事な時に何やってんだろうな」と鼻白んだかもしれない。広島は10/2の中日戦でも、選手としての引退を表明した谷繁に対し、試合前に記念の映像を流し、ベイスターズ時代の同僚である石井琢朗コーチから花束を贈呈したという。ずいぶんと手厚いおもてなしである。
 (最終戦の翌日、広島は東出の引退を発表した。生え抜きの主力選手だった彼には、シーズン最終戦でファンの前で挨拶する機会は与えられなかった)
  
 今年の野球界は有力選手の引退ラッシュだ。オリックスの谷、西武の西口、楽天の斎藤隆、DeNAの高橋尚成、阪神の関本。中日は特に多く、山本昌、谷繁のほか、和田と小笠原も引退だ。
 シーズンを通して低迷し、早々にCS進出の望みがなくなったこともあってか、中日は4選手それぞれ別の日に「最後の出場」と、セレモニーの機会を設けた。しかも谷繁は古巣・横浜スタジアム、山本昌は前述の通り広島だ。
 私にとっては、皆、売り出した時から見てきた選手だから、引退となれば感慨もあるし、最後の勇姿を映像で見れば、じいんと来るものもある。それでも、この中日球団の振る舞いは、やりすぎと感じる。
 
 以前から、引退の決まっている選手を公式戦にサヨナラ出場させて「引退試合」と呼ぶ風潮には違和感を抱いている。このブログで反対意見を書いたエントリをアップしたのは、2007年のことだった(このエントリのタイトルに「続」とついているのは、そういうわけだ)。
 それから8年経って、風潮は衰えるどころか、ますます盛んになっている。
 
 折しもプロ野球界では、ジャイアンツの福田聡志投手が野球賭博に関わったことが発覚し、大問題となっている。この種の教育についてはしっかりしている球団だと思っていたので、報道に接した時には強いショックを受けた。残念で、悔しくて、忌々しい。

 野球協約では、野球賭博で自身が所属する球団に賭けた者は永久資格停止(いわゆる永久追放)、野球賭博をしたり、その常習者と交際した者は1年または無期の資格停止、という厳しい罰則を定めている。

 プロ野球の選手や指導者が野球賭博に関わることが、なぜ許されないのか。
 賭博自体が犯罪である。また、それが反社会的組織の資金源になることも好ましくない。が、それだけなら一般人も同じだ。
 プロ野球選手が特に許されない理由は、賭博が八百長につながる可能性があるからだ。賭博に携わる人々が、自身に有利な結果を求めて、チームや選手を思い通りに動かそうとする可能性がある。
 八百長は、英語でMatch fixingという。あらかじめ勝敗を決めてしまう、という意味だろう。NPBがファンに提供する商品は、どちらが勝つか判らない真剣勝負である。Match fixingが行われると、それがたとえ特定の1試合だけであったとしても、他の試合についても勝負の真剣さが疑われ、プロ野球全体の商品価値が著しく損なわれてしまう。
 
 八百長が行われた試合でも、160キロの剛速球や飛距離150メートルの本塁打を見ることはできるかもしれない。ひとつひとつのプレーの質は、物理的には他の試合と変わらないかもしれない。
 だが、例えばシーズンオフに行われる日米野球では、目を見張るようなプレーをたびたび見ることはできても、心臓を鷲掴みにされるような緊張や興奮、感動を味わうことはない。両チームの選手たちが勝利を目指して懸命に戦う姿があればこそ、ファンは試合に熱中し、情緒を揺り動かされる。

 ラグビーW杯イングランド大会で、日本が南アフリカに勝った試合を見て、ハリー・ポッターシリーズの作家、J・K・ローリングは「こんなの書けない」とツイッターに書いたという。
 細かく言えば、彼女はこういう物語を書くことはできる。だが、一流の作家が技巧と情熱を尽くして同じ物語を書いたとしても、読者にあの試合と同じ感動を与えることは、ほぼ不可能だろうと思う。それはまさに、小説では試合結果を作家がfixせざるを得ないからだ。どうなるかわからないものを同時進行で見ているからこそ、その結果に観客は興奮し、感動する。
 
 そういう大前提を踏まえた上で考えれば、すでに引退を表明した選手、とりわけ、シーズン中に実力で一軍に上がることができなかったり、故障ですでにトップレベルのプレーができないとわかっている選手を試合に出し、さらに試合を中断して花束贈呈などのセレモニーを行うことは、手放しで称賛するようなことではない、と私は思う。試合の前や後でセレモニーを実施するだけならともかく、それが試合そのものに侵入するというのは、好ましいことではない。
 
 だから、福田の野球賭博関与が発覚し、それを厳しい論調で批判していたメディアが、その2日後には山本昌の最終登板を無批判かつ感傷的に伝えていることが、私には奇異に感じられる。この人たちは、選手が野球賭博をすることがなぜいけないのかを、真剣に考えているのだろうかという疑問さえ抱いてしまう。

 これが、上位進出の可能性も潰え、もはや真剣勝負としての価値にも乏しい消化試合であれば、そんな試合にも足を運んでくれるファンのためのサービスにもなるし、あまり目くじらを立てなくてもよいかもしれない(ただし、個人タイトルの帰趨に直接影響するような場面での登場は避けるべきだろう)。
 だが、CSの導入によって、その種の消化試合は著しく減った。ホームチームの最下位が確定していても、対戦相手には懸かるものがある、というケースが頻繁にある。そもそも、消化試合を減らし、シーズン終盤まで真剣勝負を増やし、観客の興味を引きつけることが導入の目的だったのだから、当然である。
 だから、今のプロ野球では、引退選手のサヨナラ出場は、なかなか難しいはずなのだ。それでも無理に出場させようとすると、今回の山本昌のようなことになる。
(もし「史上初の50歳登板」という記録を作らせることも目的だったのだとしたら、そんなやり方は記録に対する冒涜でもある。宇佐美徹也さんが存命だったら、激怒されたのではなかろうか)

 引退試合はオフのファン感謝デーか翌年のオープン戦でやればよいではないか。公式戦でファンに最後の挨拶を、というのであれば試合後にセレモニーをすればよい。無理に公式戦に出場させることはない。
 だいぶ前のことだが、ヤクルトの鈴木健が最終打席で三塁側に打ち上げたファウルフライを村田修一が(十分取れる位置にいたにもかかわらず)捕球しなかったことが、美談のように伝えられた。今年も楽天の斎藤隆の最終登板で、細川は明らかなボール球を振って三振した。
 村田はその後、広島の佐々岡の最終登板で本塁打を打ち*、観客から「空気の読めない奴」と冷たい視線を浴びた(と、その日スタンドにいたという知人が話していた)。結局は、相手チームの選手までもが、真剣勝負ではない何かの片棒を担ぐことを無言のうちに求められる。衆人環視の中で、投手と打者の対戦がfixingされていく。

 最後に出場する選手は嬉しいだろうし、相手チームも含めて選手や監督たちも感動するだろう。スタンドのファンも喜ぶ。球団も潤う。誰も損をしない、いいことづくめのように見える。
 一方で、こういうやり方は、「1打席、1人分くらいいいじゃないか」が「せっかくだから花を持たせてやろうよ」「なんでそこで空振りしないかな」とエスカレートしていく。そこでは、目には見えず、小さいけれども、何かが確実に損なわれていく。
 長年活躍した選手の労を報い、功績を祝福し、次の人生に送り出す、せっかくの機会なのだ。できるだけ瑕疵のない方法で実現されることを望んでいる。
 
 
*前のブログにも書いたように、村田はこの本塁打により初の本塁打王のタイトルを獲得し、高橋由伸はこの本塁打により、タイトルを取り損ねた。おそらく高橋は打撃タイトルに縁のないまま現役生活を終わることになりそうだ。

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