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2018年3月

平昌冬季五輪に関する備忘録。

 もうすっかり夏のような陽気になってしまったが、会期前から会期中にかけて考えたことを、自分のツイッターへの書き込みを参照しながらいくつか(青字がツイート)。

1/22
IOCは核の脅迫に屈した、ということ。/ 北朝鮮 平昌五輪に参加へ、5種目で22人 IOCが承認 www.cnn.co.jp/showbiz/351134 @cnn_co_jpより
 始まる前の最大の出来事がこれ。合同チームで統一旗を振って入場行進、なんてのはまあ好きにすればいいと思う(とはいえ開会式で開催国が自国の国旗を振らないというのは奇妙な光景ではあった)。が、女子アイスホッケーの合同チームというのはないだろう。予選を突破していない国の選手が出場すること、組織力が重要な競技なのに本番直前に未知の選手を加えろとチームに(事実上)強要したこと、の2点において、スポーツに対する尊重のない決定だった。
 
 開催国が政治利用したがるのを止める立場にあるはずのIOCバッハ会長が、むしろ前のめりに嬉々として賛同した様子にも感心しない。この会長は大会後にWADAの反対を押し切ってロシアへの制裁解除を表明した。ノーベル平和賞でも狙っているのだろうか。 
 スポーツの国際大会と政治が簡単に切り分けられるものではないことは承知しているが、これほど露骨な政治利用には辟易する(前回のソチ五輪も「プーチンによるプーチンのための大会」みたいなしつらえだったが)。
 
 開会式では、南北アイスホッケー選手の2人組が、聖火ランナーの最終走者のひとつ手前で、キム・ヨナに聖火を手渡す役を担当した。この時の2人は笑顔だったが、その後、試合をするたびに大敗し、ひとつも勝てなかった後ではどんな心境だったろう。大会中の記者会見で、「北朝鮮の首脳の前でプレーした心境は」と問われた韓国の選手は「別に何も」てなことを素っ気なく答えていた。
 
2/12
しかし時差のない国でやってるオリンピックだというのに、なんだってこんな夜中に決勝をやってるんだろう。選手は大変だ。
 
 女子ジャンプを見ながらの感想だった。男子ジャンプは競技が終わった頃には日付が変わっていたと思う。カーリングも試合数の多い時には深夜に及んだ。
 一方で、スノーボードやフィギュアスケートは決勝が午前10時頃からスタートしたりしていた。
 現地の気象事情はよく分からないが、基本的には極寒と伝えられ続けていたので、野外競技で夜遅くなる場合は選手もかなり大変だったはずだ。
 
 そうなった理由は例によって、巨額の放映権料を支払うテレビ局の都合と思われる。今も五輪の収入のかなりの割合をアメリカのテレビ局が占めているので、アメリカで人気のある競技は、かの地でテレビを見やすい夜の時間帯、極東では午前中に、いいところが行われることになる。
 時差の条件は日本も同じ。2020TOKYOではこの轍を踏まないことを強く希望する。
 
2/13
 
土屋ホームには、スキージャンプの葛西紀明選手兼監督、小林陵侑選手、伊藤有希選手が所属する。自チームの選手が平昌五輪に出場することすら告知できないのがIOCとJOCのルールか。異様というほかはない。高木美帆(助手)、高梨沙羅(学生)の2人がメダルを獲得した日体大のHPにも記載がない。
 
 IOCのスポンサー保護政策は末端でこういう事態を引き起こす。後に毎日新聞がこの件を取り上げた記事の中で、IOCのマーケティング担当者は、そんなことは指示していない、とコメントしていた。JOCの過剰反応という可能性もあるし、スポーツ庁が乗り出して規制緩和される、との報道もあった。正しい方向だと思う。
 
 IOCは4年間のうちのたった2週間だけ選手を預かって大会を開いている団体に過ぎない。残りの3年と49週間、選手を養ったり支えたりしているのは、所属企業やクラブや学校だ。そこを蔑ろにしていてはスポーツは成り立たないのだが、実際にはIOCが君臨している(インターネットにおけるプラットフォームとコンテンツ制作者の関係に似ているかもしれない)。
 IOCやJOCが権利保護を振りかざせば振りかざすほど、オリンピックゲームズの公共性は薄れ、単なる巨大商業イベントになっていく。
 
2/17
あんな素晴らしい光景を目撃した後に(してないのかもしれないけど)、日本が偉いわけじゃないとかアベ首相がどうとかって…。
 
野暮だね。
 
で、こういう時に「スポーツは国威発揚の場ではない」って言いがちな人は概して、ハリウッドスターがサッカーのチベット代表のユニフォームを着たりすると褒めたたえたりしがちでもある。
 
国威発揚なんてものは、本気でやりあうとろくなことにならないのだから、スポーツの場で子供っぽく張り合ってるくらいでちょうどいい。それが「本気」サイドに取り込まれすぎてもろくなことにならないが、張り合う心情を抑圧しすぎてもろくなことにならない。
 
2/18
まあしかし、フィギュアスケートの選手同士の仲の良さ、互いへの尊敬や共感の強さをみてると、ナショナリズムがどうとか言うこと自体がばかばかしい。フィギュアに大した興味のない外野同士が、フィギュアをダシに勝手に喧嘩してる印象。
 
見たこともない競技の、名も知らぬ選手に「頑張れ!」と声をかける動機の中には、多分に「同じ日本人として」という心情がある。それを不要とか有害とか断言して「五輪は国単位をやめて個人参加にしろ」ということは、実質的に「勝ち目がなく金もないマイナー競技は五輪に参加するな」と言うに等しい。
 
スポーツと政治は完全に切り離せるものではないのだから、互いに都合よく利用してればいいんです。極端に振れすぎてはいけないが、今の日本がそういう状況とは思わない。遅ればせながらスポーツ庁ができ、西が原*にトレセンもできた。首相が少々はしゃぐくらい、いいじゃないかと思います。 https://twitter.com/blackmarines/status/965043745472200704…
*「西が丘」の間違い
 
 日本勢が活躍するにつれて、テレビや新聞の報道、ネットでの騒がれ方が気に入らなかったのか、「日本が偉いんじゃない、お前が偉いのでもない、羽生が偉いのだ」的なことを宣う言説やツイートがとても目立つようになってきた。
 
 それ自体は別に間違ってはいないし、日本人が日の丸を振りかざして大喜びする光景が嫌いだというのはその人の感情だから止められない。それを表明するのもその人の勝手だ。
 ただし、それが日本だけの特異現象で世界の恥であるとか、オリンピックは国別でなく個人で参加できるようにすべきだ、みたいな意見を、文化人とか識者とか呼ばれて世の中にそれなりの影響力を持つ人が言い出すと、またか、とげんなりする。
 
  その種の人々には、スポーツに関しては、他のことに比べて極端に考えなしに適当なことを言い出す手合いが少なくない。ツイートにも書いた通り、スポーツそのものには大して興味も知識もないくせに、スポーツをダシに自分の言いたいことを主張する輩のバカバカしい言説に対しては、はっきりと「黙ってろバカ」と言ってやるのも大事だ。
 
2/18
さっきTLで「小平選手を支援したのが一病院だけなんて、国は恥じるべき。相撲協会の公益法人やめてその金を回せ」みたいなツイートと「そうだそうだ」というレスの山を見たので、確かに病院は偉いけどJOCとスケート連盟からも強化費が出てるはず、と伝えたいのだが当該ツイートが見つからなくて泣く。
 
 この手の「国はもっと選手を支援しろ」的な言説も、マイナー競技が国際大会で躍進するたびに出てくる。女子サッカーがW杯で優勝した時が典型的だった。
  国家財政窮乏の折に何を言ってるのか、と思う。
 
 国のスポーツに対する支援は、環境を整えることが第一だと思っている。上の方にも書いたが、西が丘のナショナルトレーニングセンターとスポーツ科学センターは、着実に成果を上げている。後に高木美帆が自民党大会に招かれて首相に陳情(というか橋本聖子議員&日本スケート連盟会長に言わされた感が強い)していたように、これほど国民に喜びをもたらしている冬季競技の拠点も、あっていいと思う。
 だが、個別競技の栄枯盛衰には、まず競技関係者と選手達自身が責任を持つべきだ。日本人が特に好きでもなく、普及してもおらず、強くもない競技を、国が金と手間をかけて振興する必要があるとは思えない。
(この件は9年前にこのブログで論じた
 
2/14(スピードスケート女子1000mの後で)
小平奈緒は別格の人だなあ。ひとりだけ違うところを見ている感じ。学究の徒のようだ。オリンピックは勝者のメンタリティーの人が勝ちがちな大会だが、さて、500mの絶対女王である彼女が勝ち切れるのか。興味深い。
 
2/18
実力者が実力通りに勝つことが、この舞台では簡単ではない。リンクの魔物が付け入る隙もないほどの、揺るぎない力を積み上げて来たのだろうな。小平奈緒、500メートルの平昌五輪チャンピオン。おめでとう。
 
平昌での日本勢は、大本命だった羽生と小平(500)が金メダルを取り、他のメダル候補と言われた選手たちも、大きく予想から外れたのはモーグルの堀島くらいで、おおむねメダルを取っている。大崩れが少ないというのは、勢いではなく実力が備わってきたということかな。
※この時点ではまだ女子パシュート、女子マススタートは実施されていない。
 
2/26
怪我をおして出場することのリスクもわかっているはずのベテラン選手が、自己責任でそれをやることの重み。そうまでして取りに行った金に届かなかった思いを隠しての冷静な言葉に、心を動かされる。/渡部暁斗の自虐ネタ「よい子はマネしないように…」(日刊スポーツ) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180225-00135119-nksports-spo…
 
 日本の選手たちの成熟、人間性の高さを、これほど強く感じたオリンピックはなかった。
 
  多くの選手が引退するような年齢まで長い時間をかけて競技力とメンタルを積み上げてきた小平奈緒。
 若くして脚光を浴び、停滞と挫折を経験しながら、そこから這い上がって頂点まで登った高木美帆。
 背負うものの大きさに潰えた前回の自分を超えた高梨沙羅。自らの不成績を忘れ、高梨に駆け寄って祝福した伊藤有希。
 右足首の故障が癒えないまま氷上に戻り、強い心で連覇を成し遂げた羽生結弦。
 「ポジティブ」「スマイル」の下に結束し、力を出したカーリング女子。
 常に冷静沈着な平野歩夢。
 渡部暁斗の試合前後の談話も見事なもので、後から骨折とわかった時の言葉も実に素晴らしい。
 
 先人たちへの強い思いを感じさせる選手も多い。高梨沙羅における山田いずみ。渡部暁斗における荻原健司。日本ではマイナーな競技だからこそ、道を拓いてくれた先人の有り難みを認識し、それを引き継いで背負っていこうという思いも強いのだろう。
 こういう、人間性の優れた選手たちが、優れた成績を収めていく姿を見ていると、彼らを我々の代表として送り出せたことを、本当に嬉しく思う。
 
 
2/25
馳議員は、外国人コーチの待遇の重要さも話していた。今大会で躍進した競技の多くはコーチが外国人。彼らの話は聞いてみたい。NHKでまた「勝利へのセオリー」やってくれないかな。
 
 スピードスケートのオランダ人コーチ、カーリングのカナダ人コーチ、いずれも卓越した仕事をしてくれたと思われる。「勝利へのセオリー」は為末大がいろんな競技の指導者に話を聴きに行く番組で、特にフェンシングのオレグ・マツェイチュクの回に感銘を受けたのを覚えている。
 
2/20
鳩山政権時のバンクーバー五輪では日本勢に突出した結果を残した選手がいなかったので、そんな議論になる機会もなかったと思われる。菅首相はW杯で初優勝したサッカー女子日本代表に国民栄誉賞を贈り、「政治利用」との批判が出たが、この賞は出自からして政治利用案件なので常にそう言われる。 https://twitter.com/shinhori1/status/965064574524276736…
 
 安倍首相が羽生結弦に国民栄誉賞授与を検討、という報道に対して「政治利用だ」という非難の声が湧いたことに関するあれこれについて。私の見解は、一言でいえば「ま、いんじゃね」。国民栄誉賞だの総理大臣のお祝い電話だのは、勝者に贈られるアクセサリーのようなもので、彼や彼女の勝利の価値にはほとんど何の関係もない。いちいち目くじらを立てるほどのものでもない。
 
2/22
今更ながら、カーリング日本代表は男女ともに実業団ではなく、地域のクラブチームなのだな。地元生まれを中心とする選手たちを、地域の人々が育て、支え、行政も(おそらく予算規模からは不相応の)専用競技場を作って支援し、みんなで五輪の舞台にまで押し上げた。実にカーリングらしい物語。
 
3/5
LS北見について「マスコミは消費するな、磨り減るぞ」みたいに憤慨してるツイートをよく見るのだが、あの人たちはそんなにヤワではないんじゃないかな。若いけど苦労してきたし、地元に根を下ろした健全さがあるし、何より、本橋麻里は一度この馬鹿騒ぎの洗礼を受けた上でリスタートしてここまで来た。
 
 テレビ朝日の「GetSports」は、ちょいちょいカーリングについての小特集を放送してきたから、今回も五輪の後にやるだろうなと思っていた。期待通り、男女ともチームの歴史を踏まえた特集があった。
 LS北見は、北見を名乗っているが、実質的な地元は常呂町だろう。全国に先駆けて専用ホールを作り、何人もの選手を五輪の舞台に送り出してきた、日本のカーリングの聖地。
 だが、長野五輪の後は、他地域のチームに選手を供給するばかりで、地元に選手が残らない。地元でチームを作ろうよ、と本橋麻里がゼロから作ったのがLS北見だった。ロコ・ソラーレのロコは「常呂ッ子」の「ロコ」だという。
 ゼロから、といっても、いちばん大事な「選手」はいた。ホールもあった。本橋が組織を作り、金を集めた。そこに、札幌や長野で活躍していた選手が、いろいろあった末に戻って来た。そうやってできあがったのが、今回の代表チームだった。
 
 男子のSC軽井沢クラブの地元、軽井沢も、ある意味で日本のカーリングの聖地だ。日本人の多くがカーリングを初めて知った1998年の長野五輪で、会場に選ばれたのが軽井沢だった。その試合を会場の最前列で見つめていた男の子2人が、今回の代表の両角兄弟だ(その映像を「GetSports」で見た時には、ぐっときた)。
 皆が夢中になったカーリングを軽井沢でも普及させようと創設されたクラブで、町中の支援を得て、遂に五輪の舞台にたどり着いた。
 
 男女それぞれが、企業チームではなく、競技の土壌がある土地で、地元で育った選手たちが、地元の人々や企業の支援に後押しされてオリンピックの舞台に立ち、それぞれに活躍した(男子は不本意かもしれないが)ということに、これまでにない価値がある。
 男女とも、選手たちの語る言葉の明晰さ、深さ、訴求力、明るさが抜群に優れているのは、こうした歩みが背景にあるからだろう。
 長野五輪から20年で、日本のカーリングはここまで来た。
 ただ、逆に言えば、チームが自助努力でできる最大限がここまで、とも言えるかも知れない。さらに先に進むためには、競技団体も進化しなくてはいけないのだろう(もちろん、カナダ人コーチを招いたことは、今回の躍進に大いに寄与した大ヒット。何もしていないとは思わないけれど)。

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「イカロス」と、合わせて見てほしいもうひとつのドキュメンタリー。

 「イカロス」という作品を知ったのは、わりと最近で、文春オンラインに掲載されたドキュメンタリー制作者たちの座談会を読んでのことだった。
 東海テレビやNHKで出色のドキュメンタリーを撮っているディレクターたちが「10年に1度の傑作」と口を揃える。ドーピングには以前から関心がある。配信しているNetflixの会員でもある。俺が見なくて誰が見るのだ。
 ということで通勤電車の中で見始めた。何日かかけて見ているうちに、「イカロス」はアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した。賞に値する作品だと思う。示される事実が圧倒的であり、映像や語り口が面白く、構成が衝撃的である。
 
 ドキュメンタリーには、撮影中に何らかの状況の激変が起こり、当初の意図を大きく外れて流浪することがある。「イカロス」も、そういう激変のあるドキュメンタリーだ。「激変がある」などと書くとネタバレになってしまうのだが、まあNetflixの番組紹介にもネタは書いてあるからいいだろう。
ロシア人科学者が暴露した国家ぐるみのドーピング。プーチンにとって最悪の内部告発者となった男の証言に米国人自転車選手が迫り、アカデミー賞候補となった作品。
 私は読まずに見始めたけれど、この紹介文は作品の印象とはだいぶ異なる。
 
 監督のフォーゲルは30代くらい。アカデミー賞の受賞スピーチでは「今こそ皆さんに真実を語ることの大切さに気付いてもらいたい」と殊勝な話をしていたが、この作品を撮り始めた時の彼は、たぶん、そんなご立派なことは考えていなかったと思う。
 
 フォーゲルが映像作家としてどういう経歴の人物かはよくわからないのだが、自転車競技ではかなり本格的な経歴があるらしい。かつて憧れた絶対王者ランス・アームストロングが、実はドーピングまみれだったことに衝撃を受け、それほど検査がザルであるのなら、自分でドーピングをして大きな大会に出場し、検査をすり抜けてみせようという挑戦を思い立つ。「スーパーサイズ・ミー」あたりを意識したのだろう。
 
 参加したのは「オートルート」というアマチュアの大会。アマといっても、7日かけてフランス・アルプスの山岳地帯を駆け抜けるハードなもの。フォーゲルは前年にも出場してトップ20くらいに入っているようだ。
 ロサンゼルス在住のフォーゲルは、当初、UCLAオリンピック・ラボのドナルド・キャトリンにドーピング指導を依頼するが、キャトリンは計画に参加することに二の足を踏み(当たり前だ)、自分の代わりに「信頼できる友人」を紹介する。この友人がモスクワ・ドーピング研究所のグリゴリー・ロドチェンコフだった。ロシアにおけるドーピング検査の責任者である。
 
 ロドチェンコフの顔を見た瞬間、私は「うわっ」と思った。見覚えがあったからだ。
 一連のロシアの組織的ドーピングを明るみに出したのは、2014年に放送されたドイツのドキュメンタリー番組「Top-Secret : Doping How Russia Makes its Winners」だった。日本でもBS1「BS世界のドキュメンタリー」やJSPORTS「THE REAL」の枠内で放送された。ドーピングをして(させられて)いたロシアの陸上選手ユリア・ステパノワと、アンチドーピング機構に勤務していた夫ビタリーの証言や隠し撮り映像をもとに、ディレクターが取材を重ねたものだ。
 その番組の中で、ロドチェンコフはビタリーから名指しで「彼は選手に禁止薬物を売り、使い方をアドバイスする。自分が面倒を見ている選手が検査を受ける時には、陽性反応が出ないよう手をつくす。もちろん金のためです」と批判されている。
 ロドチェンコフ自身のインタビュー映像も出てくる。彼は、疑惑を全面的に否定して、ステパノワ夫妻を詐欺師呼ばわりする。
 
 「イカロス」に登場するグリゴリーは、ドイツの番組で見た不機嫌な男とは別人のような、陽気なおっさんだった。快活で親切で愛犬家、ロシア訛りの英語で冗談を飛ばし、テレビ電話に映る姿はちょいちょい上半身裸。フォーゲルは、グリゴリーのアドバイスに従って薬を自身に注射したり止めたりしながらトレーニングを続けていく。途中、モスクワを訪ねたりもして、2人は親交を深める。
 
 レースでは自転車の故障もあり、好成績は出せなかった。ドーピング検査がどうなったのか、直接には描写されないのだが、成績が悪くて検査の対象にもならなかったのかもしれない。
 フォーゲルはがっかりしたが、グリゴリーの身の上に起きた衝撃はそれ以上だった。2014年12月に、上述のドイツのテレビ番組が放送されて、彼と彼のラボがドーピングに加担していたことが世界中に知れ渡った。
 プーチン大統領やムトコ・スポーツ大臣(ロシアのサッカー連盟会長でもある。グリゴリーによれば元KGBでもある)は政府の関与を全面的に否定した。ラボが勝手にやったことだと切り捨てにかかったわけだ。
 グリゴリーはラボの所長を辞任させられ、ラボ自体も閉鎖される。身の危険を感じたグリゴリーを、フォーゲルはロサンゼルスに招いて匿う。
 そして、ロシアの反ドーピング機関の長だったニキータ・カマエフが謎の死を遂げたことを知ると、グリゴリーは、自分が手を染めていた組織的なドーピングとその隠蔽工作について語り始める。具体的で生々しい証言は興味深い。
 
 
 ネット上などで「イカロス」の感想を見ると、軽妙な前半から一変したシリアスな後半に衝撃を受けた、という人が多いようだ。
 
 私にはむしろ、前半の方が衝撃的だった。専門家の指導によるドーピングの実行を、遊び半分のような軽いタッチで描くやり方は、グロテスクにさえ感じられた。
 
 目的はどうあれ、フォーゲルはドーピングをして大会に出場した。もし彼が優勝でもして、かつドーピング検査に引っかかったら、大会は大きなダメージを受ける。検査をすり抜けた後にそれが映画として公表されれば(当初、この作品はそういうものになるはずだった)、やはり大会はダメージを受ける。
 彼がやったことは、スポーツの世界では犯罪だ(一般社会ではそうではない。だからフォーゲルは自身の行為をつぶさに撮影して公表することができる)。ルーブル美術館から「モナリザ」を盗もうとして捕まった男が「警備の甘さを教えてやろうと思ったんだ」と言っても、誰も相手にしないだろう。それはただの犯罪者だ。検査されて陽性が出れば、彼はそういう存在になっていたはずだ。
 
 「イカロス」の中でフォーゲルに指導したようなことを、グリゴリーはロシアの多くの選手に対して行っていた(ビタリー・ステパノワによれば、金を貰って)。
 「イカロス」の後半、IOCの関係者とフォーゲルのミーティングの席で、かつてグリゴリーの(表の)仕事を手伝ったことのある女性が怒りを露わにグリゴリーを非難する場面がある。フォーゲルが「彼は命がけで告白したんです」と説得し、一同の関心を今後の対応に向かわせたことで糾弾は収まったが、彼女の怒りは全く正当なものだ。
 「イカロス」の中で、ムトコ大臣はグリゴリーを嘘つき呼ばわりするが、「Top-Secret」ではグリゴリーがステパノワ夫妻を詐欺師と呼ぶ。グリゴリーは、もともとはムトコ側の人間なのだ。
 
 そうと知らずに、あるいは選択肢のない状況でドーピングをさせられた選手たち、ロシア選手の不当な能力の向上によって不利益を被った世界中の選手たち、公正さを偽られた試合を見せられた世界中の観客たちにとって、グリゴリーは加害者以外の何物でもないのだが、「イカロス」の犬好きで陽気なグリゴリー、国を追われて怯えるグリゴリーを見ていると、それを忘れそうになる。
 彼が懸念する通りに命まで狙われているとしたら不当だけれども、グリゴリーが職を追われ、スポーツ界から追放されること自体は、彼がやってきたことに対する正当な処分である。彼らを告発したステパノワ夫妻も、祖国を離れざるを得なかった。
 「イカロス」に、グリゴリーの「罪」を観客が意識させられる場面はほぼない。ソチ五輪の後でロシアがウクライナを侵攻したことについて「プーチンを調子付けてしまったかもしれない」とグリゴリーが後悔を口にする場面はあるが、ドーピングそのものに対する反省の弁はない。
 その意味では、「イカロス」だけを見ても、ドーピングの手口に関する知識が増えるだけで、ドーピング問題について認識が深まることは、あまりないかもしれない。
 
 
 この作品は、2人の男の奇妙な友情物語でもある。ひょんなことで知り合い、共同作業をするにつれて友情が深まり、人生の岐路を共に過ごすことになる。作品の最後、2人が別れる場面には胸を打たれる。
 それにしても、グリゴリーはなぜ「ドーピングと検査逃れを指導してほしい」というフォーゲルの依頼を受けたのだろう。警官に窃盗を指導してくれと頼むような話で、まともな感覚を持った専門家であれば、キャトリンのように断るはずだ。金のため? フォーゲルからグリゴリーに報酬が支払われたのかどうかは描写されていない。
 グリゴリーは、あまりに日常的にこの手の作業をやりすぎて、それが「危ない橋」だという認識さえ失っていたのかもしれない。
 
 窮地に追い込まれていくグリゴリーを、フォーゲルが匿おうと思った心情も興味深い。
 どう考えても、関わったらやばい人である。「ホントは悪い人だったのか、じゃあこれまでだ」と手を引くという選択肢もあっただろう。作中のフォーゲルは飄々として、渦中の人物を抱え込んで一山当てよう、などと考えるタイプにも見えない(結果的にはそうなったわけだが)。友人の窮地を見るに見かねて、という感情が作用したのだろうか。
 後半、フォーゲルが「親しい友達が犯罪者になってしまった」みたいなことを口にする場面がある。実際には彼は「自ら求めて犯罪者と親しくなってしまった」のであり、ドーピングの指導を受けている間にそのことに気づかないのはどうかしているのだが、そんな人だから、こんな傑作をものにすることができたのかもしれない。
 
 
 ここまで「イカロス」の欠落について批判めいたことも書いてきたけれど、とにかく「イカロス」はいろんな意味で見る価値がある。何より、面白い。
 「Top-Secret」の中では悪の組織の一員としての硬直的な面しか見せない人物が、実はこんなに気のいいおっさんだという面が見られるのは貴重だ。そして、「悪の組織」に切り捨てられた時、人はどう振る舞うのか、どう振る舞うべきなのか、という点についても、深い示唆を与えてくれる。
 
 だから、「イカロス」が日本の映画館で上映されることがあれば、その時はぜひ「Top-Secret」と2本立てにしてほしい。あるいはNHKはぜひ、この機会に「BS世界のドキュメンタリー」で「Top-Secret」を再放送してほしい。両方を見ることで、ドーピングというものが理解できるようになるはずだ。「イカロス」だけでは、ややバランスが悪いのである。

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