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東京五輪で日本野球が金メダルをとれた、たった2つの理由。

 東京五輪の決勝でアメリカを破り、全員がプロの代表チームとして初めて金メダルを獲得した直後に行われた坂本勇人のインタビューに、印象深い言葉があった。

 「僕の1つの夢でもあったので、金メダルがとれて感無量です」

 これまでプロとして五輪に出場した野球選手の中に、金メダルを取ることが夢だった、という選手がいただろうか。坂本の言葉は私の耳に新鮮に響いた。

 

 筆者の知る限り、彼らにとって五輪の金メダルは「義務」だった。

 はじめてプロ野球選手だけのチームで臨んだ2003年のアテネ五輪予選。主将を任された宮本慎也は、開幕直前に開いたミーティングで、選手たちにこう語りかけたという。

 「野球には、一生懸命やったんだから負けても仕方ない、という場合もある。だが、この3試合はそうじゃない。言い訳は許されないんだ」

 絶対負けられない試合が、そこにあった。

 

 かつて、オリンピックの野球は「世界のアマチュア球界の最高峰」だった。オリンピック自体がアマチュアリズムの世界だったからだ。

 1984年のロサンゼルス五輪で公開競技となって以来、日本野球の五輪代表チームは、社会人主体のチームに優秀な大学生が加わる形で構成されてきた。ロス五輪で金メダルを獲得した日本は、その後も常にメダルは手にしたものの、頂点に立つことはできなかった。

 2000年のシドニー五輪でプロ選手の参加が解禁され、状況が変わる。対応は国によって異なった。世界最強のメジャーリーグを擁するアメリカ合衆国では、MLBは選手の派遣を容認せず、代表は主に元メジャーリーガーと、有望なマイナーリーガーによって構成されるようになった。韓国やメキシコなど国内にプロリーグを持つ国は、そこを主体にチームを作った。制約なしの最強チームを五輪に送り出せたのは、社会主義国のキューバくらいだったろう(そのキューバも、主要選手がMLB入りするようになった今では他国と同じ状況だ)。

 

 日本の場合、五輪は多くの社会人選手にとっての目標で、五輪に出るためにプロ入りの誘いを断ってきた選手もいる。解禁されたから「では五輪代表はプロ選手で」というわけにはいかなかった。プロの側も、シーズン大詰めの時期にスター選手がごっそり抜けるのは困る。そもそも五輪に選手を派遣する主体はJOCに加盟するアマ団体で、NPBではない。

 様々な話し合いがあったのだろう。結論は「社会人主体のチームに少数のプロが参加する混成チーム」だった。全部で8人、1球団からは1人だけ。松坂大輔らが参加して、予選は突破したものの、本大会では準決勝、3位決定戦と敗れて、五輪で初めてメダルを得られずに終わった。

 

 もはやアマ主体では五輪で勝てない、とアマ球界の偉い人たちも腹をくくったのだろう。次のアテネ五輪に担ぎ出されたのは、2001年限りでジャイアンツの監督を退いていた長嶋茂雄だった。当初は強化本部長という肩書で「プロアマ横断で最強チームを作る」という話だったが、やがて長嶋は監督となり、チーム自体もプロ主体になっていく。五輪に関心の薄いプロ選手でも長嶋に招かれたら簡単には断れまい、という計算もあったに違いない。

 そのスター揃いのチームで主将を任されたのが宮本である。同志社大時代の彼の先輩には五輪3大会に主力投手として出場した杉浦正則がおり、プリンスホテル在籍時にも社会人選手の五輪への思いに触れている。アマ選手の夢を奪う形で自分たちが出場するからには予選敗退など許されない、と考えたことを宮本自身がのちに語っている。それが「言い訳は許されない」という言葉になったのだろう。

 

 中国、台湾、韓国を相手に2つの出場枠を争った予選で、日本は3連勝し、アテネ行きの切符を手にした。異様な緊張感の中で戦った3試合を通じて、チームの一体感も生まれてきた。

 だが、アテネ五輪が開催される2004年になって、最大の求心力であった長嶋が脳梗塞に倒れるというトラブルがチームを襲う。数か月後の本大会の監督など誰が見ても不可能と思われたが、監督の交代は行われず、本番直前の8月になってようやく「長嶋の渡航は断念、ヘッドコーチの中畑清が代行(大会での公式な肩書は中畑が監督)」と決まる。「長嶋ジャパン」という看板を下ろしたらどうなるかわからないような基盤の脆弱さがうかがえる。

 そうでなくてもチームに与えられた条件は厳しいものだった。会期中もペナントレースは続くため、選手選考には「1球団2人まで」との制約を課され、予選からのメンバー入れ替えを余儀なくされた。選手が集合してからイタリア合宿、現地練習を経て試合開始まで、わずか10日間。即席チームである。

 長嶋不在の「長嶋ジャパン」は準決勝でオーストラリアに敗れ、3位決定戦でカナダに大勝して銅メダルを手にする。選手たちには忸怩たる思いもあったのだろう。宮本は後にCSフジテレビ739(当時)の番組で、代表の一員だった黒田博樹の「銅で良かったんですよ。あんな準備で金メダルをとってしまったら、みんな『簡単なんや』と思ってしまう」という言葉を紹介している。

 

 次の2008年北京五輪も野球代表はオールプロで臨み、監督には星野仙一が就任した。すでに、この大会限りで野球が五輪競技から除外されることが決まっていた。

 

 これに先立つ2006年春に、MLB主導の「ワールド・ベースボール・クラシック」が開かれた。参加主体はNPBである。当時ソフトバンクの監督だった王貞治が監督として率いた日本代表は、苦戦の末に勝ち上がり、決勝でキューバを破って優勝、初代王者となった。様々な問題点も指摘され、最初は業界人も野球ファンも「どんな大会?」と半信半疑で見ていたようだが、まがりなりにも一流メジャーリーガーが多数出場した中での世界一である。大会前には多くの選手が出場を辞退した「野球日本代表」は、日本中から絶賛される存在へと飛躍した。プロ選手による「野球日本代表」のブランドが確立したのは、この大会だったといってよい。

 

 翌200712月、北京五輪の予選が台湾で開かれた。星野が選んだメンバーには、宮本をはじめ上原浩治、里崎智也、西岡剛、川崎宗則、青木宣親らWBCの世界一メンバーが多く含まれていた。当時35歳で初代表の稲葉篤紀は、予選の後で「WBC組についていくのに必死だった」と話している。WBCは本番で8試合、事前合宿から決勝まで約1か月をともに過ごしただけに、出場した選手たちの間には特別な一体感が醸成されていたのだろう。

 北京五輪には中国が開催国枠で出場するため、アジア予選の出場枠は1のみ。厳しい条件下ではあったが、日本代表は3連勝して北京行きの切符をつかんだ。

 

 北京五輪本大会の代表には、アテネのように球団ごとの人数制限はなかったが、8月下旬の会期中もペナントレースは続いた。代表合宿が始まってから本番までは、アテネ同様10日程度。星野監督は予選の出場選手を中心に代表を選んだが、シーズンで不振や故障の選手が多く、そのうち数人は、結局は本番でも本来の力を発揮できなかった。予選ラウンドを4勝3敗の4位ギリギリで通過し、準決勝で韓国に敗れ、3位決定戦でもアメリカに敗退。最後になるかもしれない五輪で、日本代表はメダルを逃した。 野球にとっては、東京大会がそれ以来の五輪ということになった。

 

 五輪競技からは外れても、「野球日本代表」の活動は続いた。むしろ活発になったと言ってよい。

 北京五輪の翌年、2009年春に第2回WBCが開催された。読売ジャイアンツと監督を兼任した原辰徳が率いた「サムライジャパン」は準決勝でアメリカ合衆国、決勝で韓国を破り、2連覇を成し遂げた。以後、第3回(2013年/山本浩二監督)はプエルトリコに、第4回(2017年/小久保裕紀監督)はアメリカ合衆国に、ともに準決勝で敗れたものの、日本は唯一4大会すべてでベスト4入りする安定した実力を見せてきた。

 並行して、2015年には世界野球ソフトボール連盟(WBSC)主催のプレミア12が創設された。国際野球連盟(第2回からは世界野球ソフトボール連盟)が各年代のランキングをもとに招待する12の国と地域が参加する。メジャーリーガー不在の大会ではあるが、日本は第1回大会で3位、第2回(2019年)には優勝した。

 

 この間に日本代表には大きな変化があった。

 2013年のWBC終了後、社会人、大学、女子、若年層など、すべてのカテゴリーの野球日本代表を「侍ジャパン」の愛称でユニホームを統一。プロの日本代表の監督には小久保裕紀が就任し、2017年に開催予定の第4回WBCを目指して、代表を常設化することになった。

 サッカーのように定期的に公式な国際大会が開かれるわけではないにせよ、WBCやプレミア12以外にも、従来はその場限りの選抜チームが出場していた日米野球なども「小久保ジャパン」が戦うことになり、首脳陣と選手が代表チームとして活動する機会は格段に増えた。

 

 第4回WBCの終了後に小久保監督が退任し、まもなく稲葉が代表監督に就任した。

 稲葉は2008年の北京五輪で初めて代表に選ばれ、09年、13年のWBCにも出場した。2014年に現役を引退すると、すぐに日本代表の打撃コーチとなり、そのまま17年のWBCまで務めて、小久保の後を引き継いだ。つまり、選手、コーチ、監督と立場を変えながら、北京五輪以来の主要な日本代表の大会に参加し、成功も失敗も経験してきた。プロ化以後、これほどまでに日本代表を知り尽くした人物は他にいない。2009年のWBCは選手として、19年のプレミア12は監督として、それぞれ優勝したけれど、稲葉は「五輪の借りは五輪で返す」と言い続けた。

 

 長々と昔話をしてきた。ご覧の通り、プロの参加が解禁されて以後の野球五輪代表の立場は、実に奇妙かつ矛盾に満ちたもので、私はこのブログでもしばしばそれを指摘してきた。

 五輪の全競技を見渡すと、出場するほとんどの選手にとって、この大会は競技生活における最大の節目であり、中でも上位に入賞するような選手は、ほぼ例外なく、直近4年間(今回は5年間だ)を五輪の金メダルを取るために捧げてきた。

 野球も、アマチュア時代はそれに近かった。4年間、キューバを倒すことを考え続けた選手もいただろう。だが、アテネや北京の野球日本代表に、そんな選手はおそらく一人もいなかった。主力として予選を勝ち抜いた選手でさえ、本大会について聞かれれば「それは代表に選ばれ、合宿が始まってから考えます。今はペナントレースが優先です」と答えるのが常だった。

 他の競技の選手は4年間、金メダルを思い続けたが、野球選手たちは4週間にも満たない。彼らには、ペナントレースとオリンピックに軽重をつけることは許されていなかったし、「日本プロ野球にとって(メジャーリーガーが参加しない)オリンピックとはいかなる位置づけの存在なのか」「そこで目指すものは何なのか」を、誰も彼らに示さないまま、ただ「金メダルのために頑張れ」とだけ言ってきたように思う。

 それでも、日本社会でオリンピックはあらゆるスポーツの大会を圧して人気があり、そこで得た金メダルは、(一部のプロ競技を除けば)同じ競技の他のあらゆるタイトルよりも価値があるものと見做される(その競技の世界では、必ずしもそうではなかったとしても)。

 そこに、この五輪の難しさがある。

 

 2020年大会の開催都市が東京に決まり、1回限りの追加競技として野球(とソフトボールほか)が採用された。

 地元開催とあって、NPBは初めて五輪開催中にペナントレースを中断した。直前の強化合宿が始まったのは初戦の9日前で、それだけを見ればアテネや北京と同じだが、今回はすでに4年がかりで稲葉監督が作ってきたチームがあった。

 稲葉は、投手陣は今季好調な若手を多くピックアップし、野手陣は2019年秋のプレミア12優勝チームを中心に、24人の代表を選抜した。ペナントレースで調子の上がらない選手や故障した選手が多いことを批判するメディアも少なくなかったが、稲葉はメンバー発表後に出演した「報道ステーション」で、選考基準を問われて「ジャパンに対する思い、日の丸を背負って戦うという情熱ですね」と答えたという。 

 そこで例に挙げたのは、プレミア12で不振で代打を送られた後も、ベンチで率先して応援した坂本の態度だった。

 

 東京五輪の初戦、選手たちが緊張もあってか苦戦したドミニカ戦の後、AERA.dotは「山田哲人、坂本勇人…侍ジャパンの選手選びのツケと采配に早くも不安」と題した記事を載せた。西尾典文記者は<今シーズンのプレーぶりよりも、実績を重視してメンバーを選んだことの“ツケ”が早速出た格好と言えるだろう>と書いている(とはいえ坂本はその試合でサヨナラ安打を放っているのだが)。

 以後4試合。日本は金メダルを勝ち取り、山田はMVP、坂本はベストナインに選ばれた。稲葉監督は自分が信じた選手選考で最高の結果を出した。

 

 冒頭に挙げたように、坂本は東京五輪での金メダルを「夢だった」と話している。

 彼は1988年生まれの32歳。この代表チームでは田中将大、大野雄大、柳田悠岐と並ぶ最年長の学年だ。坂本は2006年秋のドラフトで読売ジャイアンツに指名され、翌07年に高卒でプロ入りした。06年春に第1回WBCで日本が世界一になった時点では、まだ高校生だ。

 つまり、今回の代表選手は皆、WBC創設以降の日本代表の活躍ぶりを、プロを目指す野球少年として見ながら育ってきた。ここで述べてきた大人の事情による葛藤など目に入らず、他のスポーツにいそしむ少年少女が代表選手を仰ぎ見るように「侍ジャパン」に憧れてきたとしても不思議はない。

 五輪がアマチュアの最高峰だった時代を肌で知らなければ、宮本が抱いてきた屈託やプレッシャーが彼らを縛ることもないだろう。もちろん、坂本自身が先のインタビューで「僕らにしかわからない部分があった」と語っているように、地元五輪で金メダルを、という期待からの重圧はあっただろうけれど。

 五輪での5試合で、坂本や山田哲人は、バントや右打ちをごく自然にこなしていた。打席に立つ坂本や甲斐が「こうしましょう」と告げた策は自分の考えと一致していた、と大会後に稲葉は語っている。アテネや北京の選手たちにも代表チームへの帰属意識はあっただろうけれど、練度が違う。もはや日本代表は即席チームではない。

 

 野球の五輪代表には金メダルを取るために4年間生きてきた選手などおそらく一人もいなかった、と書いたけれど、今回の日本代表には少なくとも1人、「五輪で金メダルを取る」ことを4年間考え続けてきた人物がいる。稲葉監督だ。コーチ陣もそうかもしれない。その執念が、代表を我がチームと思う選手たちに伝わらないはずはない。

 長嶋ジャパン発足から数えて19年目にして、野球五輪代表は「4年間、金メダルを取るために生きてきた指導者」と、「代表を『自分のチーム』としてプレーする選手たち」を得るに至った。プロ野球界も彼らに妙な枷をはめることはなかった。

 

 MLB選手が出場しない以上、過去の五輪でも、日本代表の戦力は他の参加国に劣ることはなかったはずだ。その力を発揮できなかった最大の要因は、ここまで延々と書いて来た通り、五輪に対するプロ野球界のスタンスが中途半端で、代表チームと選手たちに無用の制約を課していたからではなかったか。

 それがようやく除かれて、選手たちが素直に目標に向かうことができたのが、TOKYO2020で金メダルを掴めた最大の理由だと私は思っている。

 

 今後の五輪野球がどうなるか、WBC、代表監督人事がどうなるかは、まだわからない。ただ、今回うまくいった要因については、NPBは二度と間違わずに継承してもらいたい。そして、次に開かれるWBCには、日本人メジャーリーガーの多くが参加できるよう交渉力を発揮してほしい。

 次の大会には、それができる余地は十分にあると思う。大谷翔平がいない世界大会など、アメリカの野球ファンからブーイングが起きるはずだ。

 

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