高鳥都「必殺シリーズ秘史 50年目の告白録」立東舎
ブログでの筆名を「念仏の鉄」としていることでもお判りの通り、私は必殺シリーズのファンだ。山﨑努が演じた念仏の鉄が登場する「必殺仕置人」「新必殺仕置人」をはじめ、熱心に見たシリーズがあり、いくつかはDVD-Boxも持っている。とはいえ見ていないシリーズもあるし、関連書籍が出たら何でも買う、というほどのマニアではない。
本書を買おうと思ったのは、著者が「映画秘宝」に掲載したインタビューの一部を読んでいたこともあったが、何と言っても山﨑努のインタビューが載ると知ったからだ。
そもそも過去の出演作一般について語ることが少なく、雑誌やテレビの「必殺」特集などに登場することもなかった山﨑氏が、念仏の鉄を語るという。しかも、ご本人がツイッターで<先日、『仕置人』について話す機会がありました。 楽しかった。 聞き手がよかった。 本になるそうです。>と語っている(これに先行して、『新仕置人』の再放送を懐かしむツイートもあった)。買わないという選択肢はない。
だから、Amazonで予約した本書が手元に届くと、まっさきに山﨑努インタビューのページを開き、舐めるように読んだ。
山﨑氏は、当時のスタッフを「石っさん」「中やん」「高ちゃん」と愛称で呼ぶ。彼にとって『仕置人』の思い出を語ることは、京都映画の思い出を語るのと同じことのようである。
『新仕置人』について<基本的には同じ役を二度と演じない主義の山﨑さんが、なぜオファーを受けたのでしょうか?>と問われて、山﨑氏は<やっぱり楽しかったんだろうね。現場も、それから鉄という役も。また石っさんや中やん、京都映画のみんなと仕事がしたかったんですよ>と答える。ファンとしては感涙にむせぶしかない。
本書に登場する30人の証言者の中で、レギュラーの殺し屋を演じた俳優は山﨑努だけだ(他に大部屋俳優は2人出てくる)。大多数はスタッフである。山﨑が「石っさん」と呼ぶ石原興を筆頭に、撮影、照明、録音、演出部、記録、製作主任・製作補、編集、効果、調音、美術、装飾、殺陣、衣裳、俳優、スチール、タイトルなどの職名が並ぶ。撮影所近くの喫茶店の店主も登場する。テレビの時代劇ドラマの製作に関わる、ほぼ全ての職種である。
『必殺』の映像を象徴する光と影の強烈なコントラストはいかにして生まれたか。奇天烈な殺しの手法の数々は誰が考えていたのか。エンドクレジットで起き上がる中村主水の名前はどう撮影されていたのか。語られるエピソードの数々に、映像作品は、あらゆる要素が人の手によって作られているのだということを改めて実感する。
第1作『必殺仕掛人』から参加している人もいれば、『仕事人』以降の人、短期間携わっただけの人、関わりはそれぞれに異なる。「必殺」に思い入れの深い人もいれば、仕事としてこなしただけというスタンスの人もいる。さまざまな時期、さまざまな立場からの証言を積み重ねることで、『必殺』の制作現場が立体的に浮かび上がってくる。
すべてのスタッフが内容に口出ししながら作っていたのが『必殺』(あるいは京都映画)の特徴、と多くの人が語っている。そんな気風の現れなのか、人物評価にも忖度のない証言が多い。
やはり数多く言及されているのは監督だ。深作欣二、工藤栄一、三隅研二ら、映画界でも実績のある監督たちは、『必殺』の現場でも一目置かれていたことがうかがえる。
面白いのは松野宏軌だ。『仕掛人』からほとんど(全部かも)のシリーズを手がけ、シリーズ監督作は最多らしいが、破天荒なエピソードはない。
演出部の高坂光幸(山﨑努が「高ちゃん」と呼んだ人物だ)は松野について、<いわゆる巨匠ではないし、お人好しだから、みんな松野先生には好きなこと言っていた。それでまた照明部や撮影部というのは、監督にガツンと言ったら自分が偉そうに見える>と語る一方で、<『必殺』というシリーズでいちばん功績があるのは松野先生>とも評し、<新人監督のわりに生意気で、断ったホンも何本かあったんです。松野先生が全部代わりにやってくれた>と述懐している。出来の悪い脚本を引き受けて、どうにか見られる作品に仕立ててくれた、との別人からの証言もあった。
仕事を依頼する人、現場でやりあう人、それを傍らで見ている人。立場や角度によって、松野への見方は微妙に異なる。制作サイドにとっては、困った時に何とかしてくれる職人肌の監督だったようだ。組織の片隅でほそぼそと生きてきた中年男としては、こういう人物に最も強い共感を覚える。すでに鬼籍に入っており、ご本人の証言が読めないのが残念でもある。
本書が本として見事なのは、脚注を入れず、情報をすべて本文中に収容しているのに、それがまったく邪魔になっていないことだ(そういうのが読んでいて邪魔でしょうがない本も世の中にはたくさんある)。
そして、これほど長く続いた膨大なシリーズなのに、証言者が、ええと、あれは確か●●で…などと口にすると、聞き手はすかさず「それは『必殺△△人』第○話の『××××』ですね」と補足する。現場で全ての情報が完璧に出てくるかどうかはともかく、それで話が進んでいくのだから、聞き手がその回や場面をわかった上で聞いていることは間違いない。こういう聞き手でなければ、これだけの証言は引き出せない。著者の高鳥都は1980年生まれ。私よりずっと年下で、『新必殺仕置人』の放送時には生まれてもいないという事実に驚く。
もうひとつ印象的なのは、登場する人たちには『必殺』のことだけでなく、本人の職業歴を聞いていることだ(『必殺』の話しかしていないのはたぶん山﨑努だけ)。映画人・映像人としてのキャリアの中で、どういう時期、どういう位置に『必殺』があったのかを明確にしている。それが積み重なることで、本書は『必殺』半世紀の歴史とともに、映画・映像業界の、時代劇の、そして京都映画というユニークな撮影所の歴史をも浮かび上がらせている。
インタビュー記事における聞き手の存在は、なかなか微妙だ。聞き手が前に出すぎて「いや、あんたじゃなくてゲストの話を聴きたいんだけど」と思うこともあるし、語り手の言い分を(矛盾や記憶違いも)そのまま文字に起こしただけで「もっと仕事しろよ」と言いたくなることもある。普通の読者は、いいインタビューを読めば語り手が素晴らしいのだと受け止め、出来の悪いインタビューを読むと聞き手が無能なのだと思う。
つまり、インタビュー本の著者というのはなかなか報われにくいのだが、本書においては、取材相手の人選、質問、リアクションと情報の提供、原稿の構成、何もかもが素晴らしい。聞き手を著者名にして刊行するのに相応しい本である。
というわけで、著者の高鳥氏には、本書で山﨑努氏が最後に口にしたのと同じ言葉を贈りたい。
「うん、今日は楽しかった。ありがとう。」
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