落合博満とは何だったのか。

 私は来年で48歳になる。年男というやつだ。
 このくらいの年齢になると、プロ野球の監督のほとんどは、その現役時代から見ている、という状況になってくる。と書いてから確認したら、来シーズンのNPBの監督12人は、ほとんどどころか全員の現役時代を知っている。なるほど、久しぶりの草野球で飛球を追う足がもつれるようになったのも無理はない。

 その監督たちを見ていると、現役時代とはかなり印象が変わった人物もいれば、なるほど彼らしいと思う人物もいる。
 前者の代表格は西武ライオンズの渡辺久信だ。外見の印象もかなり変わったが(トレンディドラマ全盛期に、いかにもそれらしい服装で遊び歩いていた当時の彼から、今の姿は想像しづらい。遊び仲間だったらしい工藤公康の変わらなさぶりも驚異的だが)、それだけではない。ストレート一本勝負のスタイルのままモデルチェンジできずに引退していった渡辺が、ああいう包容力のある指導者になるとは驚きだ。以前このブログでも著書を紹介したことがあるが、台湾時代の経験が、彼のそんな資質を引き出したのだろう。

 一方、「変わらないな、この人は」と思わされる機会が多かった方の代表格が、先ごろ中日の監督を退いた落合博満だった。シーズン終盤に退任が決定した際には、「契約が切れてやめる。それだけ」というようなコメントを残していたが、それも含めて彼らしい「オレ流」を貫いた8年間だったと思う。
 
 何が「落合らしさ」かについては人によって意見があるだろうが、私は「自分の流儀で結果を出す」ことにあると思っている。「結果至上主義」といってもよい。

 現役時代の落合は、すさまじい打者だった。特に、右中間に棒のように伸びていく打球が印象に残っている。が、見ていてさほど面白い選手ではなかった。当たり前に結果を出し、感情を表に出すこともない。打っても喜ばず、凡退しても平然とベンチに戻っていく。投手や捕手から見れば、この見逃し三振も何かの伏線ではないか、球筋を見切られてしまったのではないか、というような疑心暗鬼が生じて、打ち取った気がしなかったのではないかと思う。
 
 現役時代の落合が最初に書いた本のタイトルは「なんと言われようとオレ流さ」という。最年少で三冠王を獲得し、世の中に名を知られるようになった当時から、パブリックイメージも、彼のセルフイメージも「オレ流」だったわけだ。
 かといって、目立ちたがりの反逆児、というわけでもない。たぶん、彼には望む結果を出すための道筋が見えていて、そこを歩いているだけなのだろうと思う。そして、その道筋が他人にとっては面白くなかったり困ったりするものであったとしても、それには一切考慮しない。周囲の事情が彼の道筋と抵触して、はじめて「オレ流」となる。
 退任後に出演したテレビ番組で(日本テレビでの江川卓との対談だったか)、「普通って何?オレは普通だよ」という意味のことを口にしていたが、彼にとっては「普通のことを普通にやってきただけなのに、なぜか他人がとやかく言う」という感覚なのだろう。
 
 現役時代に、制度としては存在していても誰も利用することのなかった年俸調停を初めて申請したのは落合だった。選手会を退会しながら、選手会がフリーエージェント制度を勝ち取ると、初年度に利用して中日からジャイアンツに移籍した。どちらの行動も、何かの規則に抵触するわけではない。ただ、凡人なら「空気」に配慮してやらないだけだ。
 一方で、MLBにはまったく興味を示さなかった。オフのエキシビジョンゲームであった日米野球では、よく日本側の選抜チームに選ばれて活躍し、MLB側の監督に絶賛されていたが、新聞記者らからの「大リーグに意欲は?」という質問には「通用しないよ」「どうせ行けないでしょ」といったニベもない返事をするのが常だった。野茂英雄のように当時の規則を超えてアメリカに渡る、という意欲はなかったようだ(監督就任後のWBCへの無関心ぶりを見ると、本当に国際試合に興味がなかったのかも知れない)。

 つまり、落合は一貫して「規則には従う。空気は読まない」という人物だった。
 規則で許される範囲内で、ぎりぎり最大限のことをやる。明文化された根拠のない空気は無視する。それが彼の「オレ流」だ。
 そうやって、目的合理性を追求してきたという点では、現役時代も、監督になってからも、彼の言動は変わらない。「強打者なのに守備的なチームを作ったのは意外」という声も散見されたが、私は同意しない。落合が、勝つ確率を下げてまで自分の好みを優先する姿は想像できない。目的のためには手段を選ばない、身も蓋もないリアリスト。それが落合なのだ。

 監督になってからの落合は、中日ドラゴンズの勝利のために、あらゆる手を尽くし、実際に勝利してきた。中日ファンにはよい監督だっただろう。中日の勝利を喜びとしない人間にとっては、特に面白くはない監督だった。その評価のギャップが表面化した典型が、例の日本シリーズでの山井降板だったともいえる。

 ジャイアンツファンである私にとっては、落合が率いる中日は嫌な相手だった。手ひどい敗北を何度も見せられた。
 野球のスタジアムにはそういう慣習はないけれど、サッカーの試合では、アウェーの選手紹介の際に相手選手の名が呼ばれた時にサポーターがブーイングをする。手強い選手ほどブーイングは強くなる。その大きさは、裏返しの評価とも言える。
 落合中日監督は、私にとって最大級のブーイングに値する人物だった。中日ドラゴンズのどの選手よりも。
 そして、強くて嫌な落合ドラゴンズだからこそ、勝った時の喜びも、また大きかったのである。
 
 
 落合の監督としての実績には揺るぎないものがある。一方で、「コーチを育てなかった」「選手を育てなかった」という批判がある。

 「選手を育てなかった」という言い方は、正しくはない。現在の投手陣はほぼ落合監督下で育った選手ばかりだ(岩瀬も落合によってはじめてクローザーに抜擢された)。野手でも、井端、荒木、森野、和田、谷繁らの主力は、移籍組も含めて、落合監督の下で1ランク上の選手に成長したといってよいと思う。
 ただし、若い野手は伸びなかった。彼が監督をしていた8年間にドラフト経由で入団した野手に、これまで規定打席に達した選手がいないという(自分で確かめたわけではないが、東京新聞に書いてあったのでたぶん事実だろう)。これをどう評価するか。結論を出すのは来シーズン以降でよいと思う。
 
 原理原則でいえば、新人選手を一軍で使えるレベルに育てるのは、一軍監督の仕事ではない。二軍監督を含めた他のスタッフの仕事だ。一軍監督の仕事は、現有戦力を用いて勝つことだけだ。
 ただし、選手を育てるべきコーチの人事も、落合の意向に大きく左右されていたと聞く。自分で招いたコーチも容赦なく切っていたように見えた。

 しかし、これは落合監督の問題というよりは、球団側の問題だ。球団側が確固たる編成方針、育成方針を持たず、二軍のコーチ人事までも一軍監督の意向に左右されるようでは、その監督が去った後には何も残らない。落合に匹敵するプロフェッショナルが、彼を雇った中日ドラゴンズ球団にはいなかった。それが、今回の奇妙な退任劇を招いたのだろうと思う。

 落合という選手は、プロ野球選手という職業の一つのあり方、むきだしの本質を見せてくれた存在だった。
 そして、落合という監督もまた、プロ野球監督という職業の、むき出しの本質を体現していた。私にはそのように思える。

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無事是貴人。

 中日の岩瀬仁紀の通算セーブ数が286に達し、高津臣吾と並んで日本一になったことを伝える6/13の東京中日スポーツに掲載された、岩瀬の年度別成績を見ながら感心したことが二つある。

 ひとつは、登板試合数だ。プロ入り1年目の1999年にいきなり66試合に登板し、以後昨年までの12年間、すべて50試合以上に投げている。
 こんな投手は他にいない。その後、岩瀬に抜かれて通算セーブ数で2位になった高津が50試合以上に登板したのは、各国リーグ合わせて実働19年のうち4年。3位の佐々木主浩は16年中6年(うち3年はシアトル・マリナーズ在籍時)。4位の小林雅英は12年中4年。
 登板数はクローザーよりも中継ぎの方が多くなる傾向があるが、あれほど投げまくっていた印象のある鹿取義隆でも50試合を超えたのは19年中3年に過ぎない。吉田豊彦でも20年の現役生活のうち、3年連続3回どまり。現役では、藤川球児が中継ぎ時代と合わせても10年中5年、久保田智之が8年中4年。最近ではジャイアンツの越智大祐と山口鉄也が3年連続で50試合以上登板しているが、あと9年もこのペースを続けるなんて、考えただけで気が遠くなるに違いない。
 
 もっとも、1950〜60年代には化け物じみたタフな投手が大勢いて、通算登板数トップの米田哲也は1956年のプロ入りから13年間のうち11年で50試合以上に登板している。先発ローテーションに入りながらリリーフもしていたので、投球回数も毎年200台後半から300台。金田正一も50試合以上投げた年が20年中11回、稲尾和久は14年中9回。梶本隆夫、小山正明など数え始めればきりがないほど、登板試合数の上位には、往年の大投手が並んでいる。

 昔の大投手たちがなぜそれほどタフだったのかを論じはじめたら大変なことになるので(というより私には正直よくわからない)、ひとまず棚上げして、ここではリリーフ専業投手というものが日本のプロ野球に現れ始めた1970年代半ば以降に絞って話を進めることにする。

 重ねて言うが、現代のリリーフ投手として、岩瀬の堅牢さは群を抜いている。
 これほど投げ続けるシーズンが3年も続ければ、たいていの投手は故障するか成績が落ちる。しかし岩瀬の場合、明らかにダメだった年というものがない。防御率が最も悪かったのは2001年の3.30だが、61試合に投げて8勝3敗、特に悪いとは言えない。クローザーに転向した2004年以後は、勝ち数が負け数を上回った年はないのだが、セーブが30も40もあれば文句はあるまい(そもそもクローザーにとっては、勝ち星は必ずしも成功を意味しない)。
 振り返ってみれば2004年の2勝3敗22セーブという数字は多少物足りないが、それは翌年以降の成績が凄すぎることから来る印象で、クローザーとしては及第点だろう。

 私は、プロ野球選手にとって最も大事なことは、「数多くの試合に出て、一定レベルの成績を残し続ける」ことだと思っている。
 毎年百数十もの試合を行うプロ野球では、観客がその大半を見ることは難しい。球場に足を運ぶのはさらに難しい。年に一度どころか、もしかすると一生に一度くらいしかスタジアムで野球を見ることができないファンに対して、選手がなすべき最低限の仕事は「試合に出る」ことだ。「試合に勝つ」とか「活躍する」というのは、その先にあることだ。相手のいることだから、どんなに頑張っても勝てない日もあれば打てない日もある。それでもスター選手がグラウンドに現れ、頑張っている姿を見せれば、ファンは満足はしなくても納得はできる。MLBでいうところのconstancyは、いわば選手の観客に対する誠意の結晶なのだ。
 増して岩瀬はクローザーだから、「姿を現す」ことは「勝利を見せる」ことにほぼ等しい。この「ほぼ等しい」という状況を6,7年も保っているのだから、見事というほかはない。
 
 プロ野球に関する言説では、こういう「丈夫で長持ち」する選手が話題に上ると、よく「無事是名馬」という言葉が持ち出される。これは一体どこから来た表現なのだろうかと調べてみたら、意外なことが判った。「臨済録」に「無事是貴人(きにん)」という言葉があり、競馬好きの菊池寛がこれをもじって言った言葉なのだという。元ネタは禅語というわけだ。

 <当然のことを造作なく当然にやることが平常であり、無事というわけです。いかなる境界に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、「無事是れ貴人」というべきです。>と<臨済・黄檗 禅の公式サイト>に解説が書かれている。
 勝ち試合の9回表になると当然のようにマウンドに立ち、ほとんど表情を変えず、長い腕から“死神之鎌”の如きスライダーを投げ込み、何事もなかったかのように試合を終わらせる岩瀬には、まさに<すべてを造作なく処置して行くことができる人>である。「名馬」よりも「貴人」が彼にはふさわしい。
 
 
 長くなったので、「感心したこと」の2つ目は改めて。前にtwitterに書いたので、知ってる人は知ってると思いますが(笑)。

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えのきどいちろう「F党宣言! 俺たちの北海道日本ハムファイターズ」河出書房新社

 あれほど野球のことばかり書いたり喋ったりしてきた著者にとって、これが初めての野球に関する単著らしい。シンジラレナイ。反面、この本は、そういう立場に置かれるのにとてもふさわしい内容でもある。
 日本ハムファイターズが札幌に移転したのが2004年シーズン。本書はその前年の夏から始まった北海道新聞の連載コラムを、2010年シーズン終了分までまとめたものだ。4人によるリレーコラムだが、えのきどだけが隔週で書いている。
 移転前夜から初年度、新庄フィーバー、2連覇、梨田ファイターズ発足に中田翔の覚醒。もちろん、この間にダルビッシュが大エースになり、田中が引退し、森本や田中賢介ら鎌ケ谷育ちの若手が主力選手に育っていく。2週に1度づつ、7シーズン半にわたって書きためたコラムが、気がつけば北海道ファイターズのクロニクルになっている。
 読み返して思うのは、時評的なコラムでありながら、えのきどは折々に、いま目の前で見ているものの位置づけを論じる。ファイターズの歴史にとって何なのか、彼の野球人生にとって何なのか、北海道というフランチャイズにとって何なのか。一編一編がそのように書かれているから、ひとまとめに読んだ時にも、単なる寄せ集めではなく、ひとつの歴史を綴ったものになっている。コラムニストを本業とする著者の面目躍如でもある。

 連載は北海道の読者を想定して書かれているから、最初のうちは紹介目線である。別に「上から」ではなく、「ぼくの大事な人がそっちに行くから、ぜひよろしくお願いします」という姿勢であり、「ファイターズってこんなチームなんだ、いいでしょ」という少年のような素直な自慢でもある。それがだんだんとタイトル通りの<俺たちのファイターズ>になっていく。

 一方で、道新以外の雑誌などに寄稿したコラムが、その年度の最後にまとめて記載されている。ある意味では、これらが本書の白眉でもある。
 北海道の読者の前では意識して抑えていたようだが、東京生まれ東京育ち東京在住で70年代前半からのファイターズファンで東京ドームに年に何十回も通っていた著者にとって、ファイターズが東京から去ることのダメージは巨大なものがあったはずだ。それでも著者も誰も、移転に反対する声を挙げたりはしない。単に大人しくて控え目だからという性向もあるかも知れないし、著者のように、球団の生き残りを考えたら北海道に移った方がよい、というオトナの判断もあったのかも知れない。
 そんな複雑な思いのたけが、「さらば東京ファイターズ!」「ファイターズが東京を去った日」の2つのコラムに吐露されている。

<最終戦、東京ドームに駆けつけたファンは、皆、少数派としてこの街で暮らす人たちだ。満員の入りでもウェーブひとつするわけじゃない。普段は市井のどこかで肩身の狭い暮らしをしている。万年弱小球団を見て、どこか自分に似ていると思ったのだ。そして、自分を見放すことができないように、弱小球団を見放すことができなかった。>(「ファイターズが東京を去った日」)

 今やファイターズは、ぎっしり埋まった札幌ドームのファンが地鳴りのような声援を送り続ける、地元のナンバーワンチームであり、毎年のように優勝を争う強豪チームでもある。だが一方で、ファイターズの原点はあのまばらで、でも何ともいえずにいい雰囲気のあった東京ドームであり、こういう観客たちだった。だから何だ、という話ではないけれど、「スポーツを観ること」からいろんなものを削ぎ落としていって最後に残るのは、こういう姿であるような気がする。

 そして、そんな球場で弱いチームを長年見続けた著者が、選手ひとりひとりに注ぐまなざしの温かさが快い。田中幸雄の打席に吹く春風を受け、森本ひちょりの心の震えを感じながら、著者は選手たちを眺めてきた。かつて東京ドームのスタンドにいた人々。二軍の若手たちが鍛える鎌ケ谷スタジアム。ここには、プロ野球のあらゆる楽しみ方のサンプルがある。
 「今の野球はつまらなくなった」という年配者の言説を私は信じない。野球そのもののレベルはともかく(それが低くなったとも私は思っていないが)、それを見ることが面白いかつまらないかは、見る側の力量にもかかっているということを、本書を読むと改めて感じる。

 なんだか最後はわけのわからない思い入れを語っている文章になってしまったが、たぶん、「スポーツを観ること」のスタンスにおいて、私は著者に似たところがあるのだと思う。著者は私のような屁理屈をこねることは、めったにしないけれど。
 
 
 
 これが今年最後のアップになります。
 相変わらずの半休眠ブログですが、こんな感じでときどき思い出したように更新するペースが続くことになる見込みです。訪ねてくださる奇特な方々に感謝します。
 皆様がよい年を迎えられますように。

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桑田真澄・平田竹男「野球を学問する」新潮社

 気がついたらもう今年最後の日。
 書きそびれたことはたくさんあって、そのかなりの部分は自分でも忘れてしまったような気がするが(ホントは、その瞬間に書き残しておくのがblogの効用なんでしょうね。来年はツイッターを活用することにするか)、とりあえず、印象に残った本のことを簡単に記しておく。

 最初は前のエントリのように、ひとつにまとめて書き始めたのだが、それぞれ独立させた方が検索でひっかかりやすそうなので、分けて連続投稿とする。読みにくいかもしれないがご容赦を。
 今さらアクセス数を稼ごうとは思わないが、それぞれの本をお勧めしたいので少しでも多くの人の目に触れたい気持ちの表れとご理解ください。

 で、表題書。

 引退後、早大の大学院スポーツ科学研究科に09年春から1年間在籍した桑田真澄と、その指導教官だった平田竹男の対談。平田は日本サッカー協会で2002年から06年までジェネラルセクレタリー(専務理事)を務めた人物でもある。
 桑田が書いた「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」は、大学院でその年度の最優秀論文に選ばれるとともに、日本スポーツ産業学会から濱野賞を贈られたという。この学会は、会長が滝鼻卓雄・読売巨人軍オーナーで、理事長が平田竹男なのだから(で、副会長は奥島孝康元早大総長)、お手盛り感を覚えないわけでもないけれど、それでも、桑田の論文が高い価値を持つことについては疑う余地がない。それは本書を読めばわかる。
 
 桑田は研究のため、プロ野球現役選手に、高校時代の練習に関する意識調査のアンケートを行っており、270人から回答を得ている。質問項目は、練習時間の長さやそれに対する感想、指導者の飲酒・煙草・体罰等の有無、ケガをおしてのプレーの強要、投球数制限の有無、指導者を志望するか否か…など多岐にわたる。
 こんなデリケートな内容のアンケートに270人ものプロ選手が回答し、さらに六大学野球部の選手たちも回答する。この回収率自体が驚異的であり、それはアマチュア(高校野球)とプロの双方で抜群の実績を残し、こと野球に対する真摯な取り組みと高い理論が知れ渡っていて、なおかつスポーツに学問として取り組もうという人物にしかなしえない。そんな人は桑田しかいない。引き合いに出して悪いけれど、小林至では無理だろう(小林氏のスポーツビジネスにおける見識や能力を批判するものではないけれど、現役時代の実績とそれが現役選手たちにもたらす威光に差がありすぎるのだ)。
 
 そして、対談で語られる彼の「野球道」に対する考えも、そのアンケートの貴重さに相応しい。桑田は、現在のアマチュア野球の思想的背景をなしている飛田穂州の野球哲学を現代に即して再構成しようとする。結論はそう非凡なものではないけれど、最高レベルの実践がそれを裏打ちしている、という点で説得力は圧倒的である。
 対談の中で平田は<ぼくは将来的には桑田さんに、プロ野球のコミッショナーになってほしい>と話している。そして、桑田もそれを否定してはいない。

 私も同感だ。だが、コミッショナーそのものになるには、さまざまな面でハードルがあるし、時間もかかる。さしあたり加藤コミッショナーは、桑田を何らかの形で遇するか、あるいは内々でもブレーンとしてアドバイスを求めるか、どうにかして彼の見識を生かしてほしい。桑田自身がコミッショナーになるには、どうしたって20年やそこらはかかる。そんな先までプロ野球が健在である保証はないのだ。今すぐ彼を生かした方がいい。

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2010年秋の野球とサッカーに関する備忘録。

 多忙でろくに見ていられないうちに、野球でもサッカーでもいろんなことがあった。ありすぎて取りこぼしもありそうだが、個人的なメモとして。
 
●横浜、売却ならず
 TBSが横浜ベイスターズを売ろうとした。プロ野球球団を買おうという奇特な企業が現れたけれども、結局は成約に至らず。
 ベイスターズが弱い理由はいろいろあるだろうが、経営が苦しい理由の中では「横浜スタジアムの使用条件の厳しさ」がかなりの重みを持っているはず。
 成約しなかったこと自体は当事者間の判断だから、いいも悪いもない。だが、売買交渉の最中に横から買い手候補を批判した神奈川県知事は、自身の立場を理解していないように思える。県は、売買交渉を批判できるほど充分なバックアップを球団に対してしていたのだろうか。それは横浜市と球団の問題だ、ということなら、黙って傍観していればよい。
 本拠地の観客動員が不振で自治体の支援も乏しいのであれば、プロ野球球団を欲しがり支援したがっている自治体のもとに移るのは、プロスポーツクラブとしては合理的な判断だ。
 
 
●楽天監督に星野仙一
 年俸が高くて経営者への注文が多い野村監督を切って、12球団で最も安価なブラウン監督にかえてから1年。ふたたび値段の高い星野仙一に切り替えた。
 星野監督に払う年俸額は知らないが、総額ではおそらく野村よりも高くつく。年俸の高い選手を買い集めて巨大戦力を築くのが彼のノウハウだからだ。野村の場合、本人やスタッフはともかく、選手は安い買い物をして力を発揮させるのが上手だった。
 楽天球団にその覚悟があるのだろうか、と思っていたら、さっそく松井稼頭央と岩村を立て続けに手に入れた。野村時代にこのくらい補強していたら優勝できたんじゃないかとも思うが。
 さて、球団経営陣は、これほど短期間での路線変更について、強化方針を説明しているのだろうか。私は寡聞にして知らない。
 
 
●日本シリーズがテレビ完全中継されず
 正確にはそれぞれ地元では中継している。地上波での全国中継がない試合があった、ということ。第1,2戦はTBSが優先的に交渉したが、世界バレー中継があったので断った、と伝えられている。
 このブログを訪れるような野球好きの中には「地上波中継なんかなくてもBSやCSで見た方がいいよ」という人が多いかも知れない。始球式や中継ブースに番宣のためのタレントを送り込む民放のやり口は私も嫌いだ(このブログでも酷評したことがある)。
 だが、熱心な野球ファン以外の人々(要するに「普通の人」だ)の目に触れて、野球の面白さを知らしめる装置としては、やはり地上波テレビは大きい。それは、結果的に盛り上がった第6戦、第7戦に対する反響を見てもわかる。
 とはいうものの3,4戦の視聴率は2ケタに届かなかった。NPBの側も、テレビ局が中継しやすいように歩み寄ることを考えた方がよいのでは。日本シリーズについては、デーゲームに戻す手もあると個人的には思っている。
 レギュラーシーズンも含めて考えると、試合時間の短縮には本気で取り組んだ方がいい。延長の場合は仕方ないが、9回で終わる試合は3時間以内、理想的には2時間半程度に収まらないと、テレビだけでなくスタジアムの観客にとっての負担も大きい。
 
 
●千葉ロッテ、リーグ3位から日本一
 ポストシーズンの途中で「史上最大の下剋上」と言い出したのは里崎だったか。彼の言語感覚のおかげで救われたというか、制度的な矛盾がうやむやになった感はある。
 時にはこういう齟齬が起こるとしても、私はCS制度を支持している。理想的には2リーグ各8球団・東西2地区にして、地区優勝チームどうしがリーグ優勝を争い、その勝者が日本一を争うのが望ましいと思っているが、球団を増やすには、もっとスリム化したビジネスモデルが実現しなければまず無理。悩ましいところ。
 
 
●名古屋グランパス、Jリーグ初優勝
 毎年のように大型補強をしながら「中位力」を発揮しつづけていたクラブが、ようやく適切な道を見いだしたようにみえる。ストイコビッチ監督の戴冠によって、我々は将来の日本代表監督の有力候補を得た、とも言える。

 中日ドラゴンズもリーグ優勝を果たしたから、2010年は名古屋の年だったと言ってよい。ただ、これで両者が黄金時代の礎を築いたかといえば、その点は留保したい。
 グランパスの勝利はストイコビッチ監督と久米一正GMの功績だ。適切な補強が奏功しての勝利だが、結果的に主力選手の年齢構成は高い。絶えざる補強と、育成部門の強化が課題となりそうだ。両者がそろった状態での成功が長く続けば、彼らの手腕がチームの財産として引き継がれる可能性はある。
 一方、中日ドラゴンズはグランパスと異なり、もともと球団の各部門の実力の総和として「上位力」を備えている(その点で今中慎二の「中日ドラゴンズ論」(ベスト新書)は興味深かった。読み物としてすごく面白いというわけではないけれど))。そのチームを、勝ちきれる集団に仕立てたのは、落合監督個人の手腕によるものだろう。ただし、コーチ陣の出入りの激しさを見ていると(たとえば高代や川相の処遇)、その手腕がコーチの誰かに受け継がれるとは考えにくい(この球団の監督人事の歴史を見ると、落合監督が退く時には、落合色の強いと見なされた指導者も一掃される可能性がある)。影響が現れるとすればむしろ、選手として落合監督の下で戦った立浪や井端が指導者になった時かも知れない。
 
 
●FC東京、J2転落
 残念。が、これが今シーズンのパフォーマンスに対する正当な結果なのだろう。選手、指導者、経営陣のすべてにとって。1週間経ったが、今のところ聞こえてくる選手の声は残留の意思を示すものばかりであることが救い(大黒は別だが)。
 広島やセレッソのように、転落以前よりも強くなってJ1に戻る。願うのはそれだけだ。
 
 
●岩隈、ポスティング移籍ならず
 ポスティングシステムが制度化されたのは1998年だった。
95年に野茂が保有制度の空白地帯を突くようにしてドジャース移籍を果たし、翌96年には伊良部が三角トレードでロッテからパドレスを経てヤンキース入り。このへんの移籍がだいぶ揉め事になったことで、NPBとMLBの間に設けられた制度だ。急場凌ぎの暫定措置が、12年たって、そろそろ限界を呈してきた。岩隈には気の毒だが、そういうことに見える。当時とはかなり状況も異なる。現状に合わせて制度を整備すべきだろう。
 私見としては、ポスティングシステムのような特別な制度を設けなくても、両者がそれぞれ備えているドラフト制度とフリーエージェント制度のすり合わせ、および日米間トレードのルール整備をすれば、それでよいと思う。FA制度による海外移籍も制度化されたわけだし、日本の球団が選手にFAでアメリカに出て行かれるのが嫌なら、その前年に対価を得られる形でトレードすれば、それでいいんじゃないだろうか。

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さらばボス。

 南アフリカで行われた祭典で、すっかりサッカー脳になっていたところに飛び込んできたジョージ・スタインブレナーの訃報は、なんともいえない感慨をもたらした。
 昨年秋、新しく生まれ変わったヤンキースタジアムでの初年度にチームがチャンピオンに輝くという快挙を成し遂げたにもかかわらず、その場に姿を現さなかったことで、よほど健康状態がよくないのだろうと想像してはいたが。

 私がスタインブレナーについて知っているのは、すべてメディアを通してのことばかりだ。とはいえ長年眺めてきただけに、折々に思い出はある。
 
 
 2003年、松井秀喜がヤンキースに加わった年にニューヨークに行ったことがある。テレビで流れていたクレジットカードのCMを見て驚いた。
 ヤンキースの若き主将ジーターがスタインブレナーに説教されている。ジーターがカードを取り出して微笑むと、場面は変わってナイトクラブで若い男女に混ざってジーターやスタインブレナーが踊っている。スタインブレナーの浮かれた踊りっぷりに大笑いした。

 ちょうどこの年だったと思うが、ヤンキースの成績が思わしくない時期に、スタインブレナーがジーターを名指しで「ナイトクラブで夜遊びばかりしているからいけない」と批判したことがあった。ジーターも反論していたはずだが、その「事件」をパロディー化したものだということは、英語がよく聞き取れない私にも一目瞭然だった。
 スタインブレナーもずいぶん寛大になったものだ、と妙な感心をしたのを覚えている(CMに出演していたのは本人でなくそっくりさんだという説もあったが、実際はどうなのだろう。いずれにしても、スタインブレナーが本気で怒ればCMの差し止めは不可能ではないだろうから、笑ってにせよ渋々にせよ、彼が認めたのだろうとは思う)。


 それ以前に私が聞いていた彼の風評は、そんな楽しいものではなかった。
 
 
 資料を紐解くと、スタインブレナーがヤンキースのオーナーになったのは1973年。もう40年近くも前のことになる。
 当時のヤンキースは、長い低迷期にあった。その時点までにワールドシリーズ優勝20回を誇った名門も、1964年を最後にその舞台から遠ざかり、黄金時代は遠い夢だった。
 そんな名門に、新たな黄金時代をもたらしたのは、紛れもなく彼だった。だがそれは、メジャーリーグの歴史にはなかった特殊な方法論によるものだった。選手たちによる球団経営陣との待遇改善闘争により、1974年オフに出現したフリーエージェントを、スタインブレナーは買いあさった。

 そうやって手に入れたレジー・ジャクソンら有力選手たちの力によって、ヤンキースは76年にリーグ優勝、77,78年とワールドシリーズ連覇を成し遂げる。だが、その勝利は「金で買った最高のチーム」と揶揄され、球界の嫌われ者となった。
 今にして思えば、新しい(そして経営者やファンには心理的な抵抗の大きい)手法によって勝利を得たことが、嫌われる理由のひとつだったのだろう。彼のやったチーム編成方法は、今では良くも悪くも普通の手段となってしまった。球界の新参者である彼にとっては、旧来のオーナーたちと選手たちとの確執など他人事で、怨みや怒りで目が曇ることなくビジネスとしての最適解を粛々と実行した、とも言える。
 
 
 もっとも、彼がヤンキースファンからも嫌われたのは、ビジネスの手法によるものだけではなく、彼自身のキャラクターに負うところが大きかった。
 当時のリリーフエース、スパーキー・ライルの著書「ブロンクス動物園」(邦訳で読んだのだが邦題を忘れてしまった)にも、スタインブレナーの悪口がずいぶん書いてあったように記憶している。ライルが聞いた風評として、スタインブレナーは生え抜き外野手のロイ・ホワイトが嫌いで、ロイがテレビに映るたびに「なんでこんな奴を首にしないんだ!」と叫ぶらしい、という逸話が書かれていた。ライル自身も、スタインブレナーが新たなリリーフエース、リッチ・ゴッセージを獲得したことを不服としてヤンキースを去った。
 
 
 この黄金時代は短期間に終わり、ヤンキースは1981年(あの忌まわしいストライキの年でもある)を最後に、再びワールドシリーズから遠ざかった。スタインブレナーは相変わらず高額FAを買いあさったがチームの成績には結びつかず、そのことに怒って監督や選手を頻繁に入れ替えた。
 77,78の優勝監督であるビリー・マーチンは、雇っては解雇の繰り返しで、計5度にわたって監督を務めることになった。
 マーチンはヤンキースの50年代のスター選手で、ニューヨークでは絶大な人気があったから、彼と対立してばかりいたスタインブレナーは、余計に悪名を高めることになったはずだ。

10年契約を結んだ外野手デーブ・ウィンフィールドをチームから追い出すためにギャンブラーを使ってスキャンダルを探させた、という行為によって1990年から2年間の資格停止処分を受けたこともある。このニュースを聞いた時には、錯乱したとしか思えなかった。

 それからまもなく、90年代後半にジョー・トーリ監督によって新たな黄金時代が築かれた。が、それを担ったのは、主として生え抜きの若手選手(と地味な外様のベテラン)だった。
 その後、スタインブレナーが再びジェイソン・ジアンビらの高額FAを買いあさりはじめると、皮肉なことにヤンキースは、ポストシーズンにまでは進めても、チャンピオンの座からは遠ざかることになった。黄金時代を築いたジョー・トーリも、結局は彼によって解雇された。
 一昨年には2人の息子にオーナーの座を譲り、経営の一線からは退くことになった(その後も相変わらず口出しはしていたから、実質的なボスはやはり彼だったのだろうが)。
 
 
 言動の善し悪しや好き嫌いは別として、スタインブレナーは落ち目だったヤンキースを最強のブランドに復活させた(今世紀に入ってから、国民のほとんどが野球のルールも知らないであろう北欧や北アフリカの土産物店でヤンキースの帽子が売られているのを見て驚愕したことがある)。
 YESという専門テレビ局を開設し、ニューヨークに本拠を置く他競技のチームとの提携も進めた。スタジアムの改装という大事業も成し遂げた。
 勝敗だけでなくビジネスの面でも、彼が優れた経営者であったことは疑う余地がない。
 
 昨秋、その新しいヤンキースタジアムの初年度にヤンキースがチャンピオンを勝ち取った時、球場のスコアボードのスクリーンには、トロフィーの画像とともに、「ボス、これはあなたのためのものだ」という文言が映し出された。
 インタビューされた監督や選手たちは、口々に「スタインブレナー家の人々と一緒に優勝できて嬉しい」と、どうやら本気らしい笑顔で語っていた。
 いつのまにかスタインブレナーは、慕われるボスになっていたらしい。
 
 
 20世紀半ばあたりまではMLBにも名物オーナーと呼ばれるような人物が何人もいたが、球団の資産価値が上がりすぎた今では、共同経営体制がほとんどで、オーナー個人が顔を出すこと自体が珍しい。レッドソックスのジョン・ヘンリーのような例外もいるが、彼にとっては球団経営はビジネスそのもののように見える。
 FAという新しい制度を最大限に活用したスタインブレナーはMLBにとって新時代を拓いたオーナーだったが、同時に、現場に口を出さずにはいられない球団への偏愛ぶりは、むしろ彼の前の時代のオーナーたちを思わせる。最後の名物オーナーと呼んでもいいかもしれない。下で働きたくはないけれど、外から眺めている分には面白い人物だったし、振り返ってみれば愛すべき人だった気もする。
 
 
 さまざまな人が彼を追悼する言葉を述べているが、「尊敬するオーナーという以上に、友人だった」というジーターの言葉が印象に残る。

 ともかくこの40年近くの間、彼には楽しませてもらった。感謝とともに冥福を祈る。

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ヒデキがブロンクスに戻った日。

 4月13日。ヤンキースの本拠地開幕戦。平日のデーゲームだからぎっしり満員とはいかないが、テレビでざっと見た感じでは、7割くらいは入っていそうだった。
 松井秀喜がグランドスラムでデビューを飾った時も、本拠地での初試合は確か平日のデーゲームだった。この時期のニューヨークは、夜に野球をするには寒すぎるのかも知れない。

 試合前に、昨秋のワールドシリーズに優勝した記念の指輪の贈呈式が行われた。選手が1人づつ名前を呼ばれてはグラウンドに姿を現し、ジラルディ監督から指輪の入った箱を手渡された。
 ピンストライプの男たちが出そろった後に、場内アナウンスが流れる。

 「もうひとり、チャンピオンリングを渡す人がいます。昨年まで7年間ヤンキースで活躍した、昨年のワールドシリーズMVP。背番号55、ヒデキ・マツイ!」

 反対側のベンチ前でアナウンスを聞いていた松井の目は、確かに潤んでいた。
 喝采を浴びながら、小走りにグラウンドに出た松井は、ジラルディから指輪を受け取った。
 セレモニーが終わると、ピンストライプの男たちが小走りに駆け寄って、松井に抱きついた。A-RODが、ポサーダが、リベラが、そしてジーターが。思いがけない光景だった。

 まもなく試合が始まった。4番DHで先発出場した松井は、1回表、二死一塁の場面で打席に立った。
 客席から大きな拍手が起こり、歓声が沸き、そして、スタンドの観客は次々と立ち上がって、見慣れない色のユニホームを着た、見慣れた左打者を歓迎した。
 
 そして、歓迎の儀式はそこまでだった。
 ペティートの初球が外角低めに決まると、今度はペティートに対する歓声が起こった。
 試合前の記者会見で「ヤンキースファンは複雑なのでは」と問われた松井は「複雑じゃないと思いますよ。ヤンキースファンはいつでもチームの勝利を願っている」と答えた。その通りだった。
 
 
 ヤンキースタジアムは、かつて移籍後のティノ・マルティネスを遇したように松井を迎えるだろう、という昨秋の予測が実現したことを、私は嬉しく思っている。

 だが、欲を言えば、この歓声がブーイングに変わる光景も見てみたいと思っている。ヤンキースが松井によって脅かされている、と彼らが感じる瞬間を。
 願わくば、今年の10月ごろにでも。

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木村拓也コーチの冥福を祈る。

 こんなことだけは書きたくなかった。回復を祈っていたのだが…。

 ジャイアンツの木村拓也コーチが今日の未明に亡くなった。
 2日の試合前にくも膜下出血で倒れ、病院に運ばれたが、意識が戻らないままの死去だったという。
 まだ37歳。私よりもずっと若い。

 日本ハムや広島時代から知ってはいたが、ジャイアンツファンの私にとっては、いま、彼について思い出すのはジャイアンツに来てからのことばかりだ。

 木村がジャイアンツの選手になったのは2006年のシーズン途中だった。
 原辰徳が2度目の監督に就任したシーズン。開幕当初は首位を走ったが、まもなく故障者が続出し、満足に先発オーダーも組めないような、どん底の時期だった。この年、広島の監督に就任したマーティー・ブラウンによって二軍に落とされたままの木村に、ジャイアンツが目をつけたのだろう。山田真介との交換トレードによって、木村はジャイアンツにやってきた。交流戦の最中、6月初旬のことだ。

 このblogにも書いたことがあるが、移籍間もない時期のある試合で、木村は5番打者として先発出場していた。たぶん本人も驚いたのではないかと思う。当時のジャイアンツは連敗に連敗を重ね、一時は最下位に沈んでいた。彼の加入で事態が劇的に好転した、とは言えないけれど、木村はボロボロのチームを支えた1人だった。

 翌2007年からジャイアンツは立ち直り、リーグ戦では3連覇を果たす。木村は主として二塁手として活躍した。この間、ゴンザレス、アルフォンゾといったメジャーリーグの二塁手が加入したけれど、シーズンが進むと、結局は木村が二塁を守っていた。代打や途中出場でも結果を出し、どのポジションに回してもそつなくこなす。昨年、捕手が払底した試合で、古巣のポジションについたこともあった(引退後のインタビュー記事を読むと、ただ受けるだけでなく、サインを出してリードもしたという)。

 監督にとってはありがたい選手だったに違いない。そして原監督も木村を大事にした。どこでも守れるのが売り物だった木村を、原は二塁にほぼ固定して起用した。試合終盤はともかく、ある時期から、木村が先発出場するのは二塁がほとんどになった。二塁手として考えていると監督に言われて精神的に楽になった、というようなことを引退後のインタビューで木村は話していた。

 木村は、原巨人のもっとも苦しい時期を支えてくれた選手であり、その後の黄金時代を築いた主要メンバーでもあった。
 テレビで散見する明るい性格は、チームの雰囲気によい影響をもたらしていたはずだ。二遊間を組んだ坂本や、二塁のレギュラーを狙う若い内野手たちにとって、よい手本でもあったことだろう。移籍直前、ブラウン監督に干されていた状況を考えれば、木村自身にとってもジャイアンツにとってもよいトレードだったと思う。
 
 
 
 日本のプロ野球で、ユニホームを着てグラウンドで倒れ、そのまま命を落とした人物を、私はほかに思い出すことができない。ご家族を残しての急逝には、本当に言葉もない。
 ただ、残されたお子さんたちには、ぜひお父上を誇りに思ってほしい。
 プロ入り後にスイッチヒッターに取り組み、あらゆるポジションをこなし、求められる役割を笑顔で果たし続けることで、プロ野球選手として生き延び、最後まで必要とされる選手だった彼の足跡は、私のような組織内で生きている凡人たちに勇気を与えてくれた。王貞治やイチロー、松井秀喜といったスーパースターとは違う形で、見事なロールモデルだった。

 だが、誰よりもしぶとい選手だった彼が、こんな形で世を去るなんて。
 
 
追記(2010.4.8)
 木村が今年のNPBの新人研修会でルーキーたちの前で講演をした内容が、ジャイアンツの公式サイトに紹介されている。是非お読みください。「ロールモデル」と書いた意味がおわかりいただけるはず。

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正力賞はもっと選手にあげてもいいんじゃないだろうか。今年は別ですが。

 2009年の正力賞受賞者が原辰徳に決まった。
 WBCの優勝監督であり、セントラル・リーグのシーズン優勝、CS優勝、そして日本シリーズの勝者。王貞治座長がいうとおり、「国民投票をしても1位になる」に違いない。原の受賞には何の異論もなく、祝福したい。

 ただ、記事に添えられた歴代受賞者リストを眺めると、いささか複雑な気分になる。2000年の松井秀喜を最後に、選手がいない。今世紀に入ってからは監督しか受賞していないのだ。今のプロ野球には「プロ野球界最高の賞」に値する選手がいないのだろうか。

 全体に監督が受賞する年が多いけれど、過去には選手の受賞も結構ある。
 近年の受賞選手は94、95年のイチロー、97年の古田敦也、98年に佐々木主浩、そして2000年の松井と続く。野球界の顔役とも言うべき重量級の選手が並ぶ。現在のNPBに、彼らに匹敵する重量感のある選手は、確かにいないかもしれない(もっとも、現時点で感じる「重量感」には、その後の彼らのMLBや選手会での足跡も加味されているので、当時の重さを思い出すのは難しいのだが)。

 だが、さらにさかのぼると、それほど重量感のある受賞ばかりでもなかった。
 83年の田淵幸一の成績は、規定打席にも満たない凡庸なものだ。西武ライオンズがジャイアンツを破って2年連続日本一になったことと、彼のそれまでの実績に対する功労賞という意味合いが感じられる。87年の工藤公康は、防御率1位とはいえ15勝4敗、それほど突出した数字ではないし、彼はまだ24歳だったから功労賞ということもない。92年の石井丈裕も工藤の例と似たようなものだ。

 反面、例えば90年代最高級の投手である野茂英雄、00年代最高級の投手である松坂大輔は1度も受賞していない。外国人選手の受賞もない(外国人監督では2005年にバレンタインが受賞している)。

 こうやって眺めてみると、もう少し賞を出す側がアグレッシブになっていいんじゃないか、という印象を受ける。
 賞が創設されて30年を超えたが、選考委員会は5人程度のプロ野球OB(とジャーナリスト1人)で、こぢんまりとしている上に、入れ替わりつつも高齢化が進んでいることも、影響しているのかも知れない(若返った沢村賞選考委員会とは対照的。若くても保守的な人もいるが)。

 高齢化そのものや、保守的であること自体を、非難するつもりはない。ただ、「これがなくても野球は成り立つ」という要素をひとつづつ除いていった時、最後に「監督」と「選手」が残ったとしたら、除くべきがどちらであるかは明白だろう。
 軽々しく与えては賞の権威を損なう、という考え方もあるかもしれない。だが、結果として野茂、松坂、金本知憲、さかのぼればランディ・バース、落合博満(07年に監督で受賞)といった一時代を作った選手たちの名が受賞者リストに並んでいないことは、この賞の権威をいささか損なっている(たとえば、筒井康隆に授与しなかったことが直木賞の、村上春樹に授与しなかったことが芥川賞の権威を、いささか損なっているように)。選考する人たちは、そういうことも少し怖れた方がよいのではないかと思う。

 正力賞が、その年のプロ野球に最も貢献した人物、という趣旨の賞であれば、まず選手の中から対象者を探し、適切な候補がいなければ監督を検討する、というくらいの段取りでもいいんじゃないだろうか。王さんが座長になったことで、次回からいくらか変化が現れることを期待する。

 しかし、この賞の第1回受賞者も王貞治なのだな。国民栄誉賞と正力賞という2つの(権威があるらしいけれど選考基準がはっきりしていないという共通点を持つ)賞は、どちらも1977年に王貞治に与えるために創設された、といってもよさそうだ。当時の王貞治が日本にとってどういう存在だったかを、改めて痛感する。

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「ジャイアンツファンのみなさま、ニッポンイチになりました!」

 ホントに勝ったの? これで日本シリーズ終わったの? もう闘わなくていいの?

 試合が終わっても、そんな気分がなかなか抜けない。
 勝利監督インタビューで、原監督が「ジャイアンツファンのみなさま、日本一になりました!」と高らかに叫んだところで、ようやく実感がわいてきた。
 ジャイアンツ、日本一。7年ぶりの日本シリーズ優勝。

 シーズン中も試合を見たことがなかったわけではないが(JSPORTSでは、よく朝から前夜のパ・リーグの試合の再放送をしていたりする)、こうやって毎日戦いながら、じっくりと見ていると、日本ハムは実によいチームだと改めて痛感する。
 どの打順からも打つ、二死からも打つ。小技も利くし、ミスが少ない。反対方向に打ちながら次打者へ次打者へと繋いでいく打線からは、じわじわと追い詰められる恐怖感を覚えた。
 そして守備が素晴らしい。スタジアムで見ていても、右中間、左中間に飛んだ打球は、どれほどよい当たりでも、グラウンドかフェンスに当たるまでは、誰かに取られそうで安心できない。田中―金子の二遊間はもともと定評があるが、三塁の小谷野は体型に似合わぬ機敏で柔らかい動きだし、一塁の高橋は捕手出身だけあって、こまめに投手に声をかける。
 野手陣には、どの選手も喧嘩が強そうな風貌と雰囲気があるし(鶴岡を除く)、ブルペンは若くて勢いがある。
 
 
 振り返ってみれば、1勝目はかろうじて逃げ切ったという記憶しかないし、2勝目も結果的には3点差がついたが8回表に山口が乱れた時は相当危なかった。3勝目は試合時間の大半を劣勢のまま過ごし、最後の数分間でうっちゃる展開だったし、4勝目の今日も、9回2死でなお一打同点、本塁打で逆転サヨナラ、打席にはシリーズでもっとも怖い四番・高橋、という局面だった。
 要するに、安心して見ていられた勝利などひとつもない。なかなか優勝の実感が湧かなかったのも当然だ。
 シリーズMVPに選ばれた阿倍の第一声は、お約束の「最高です!」だったが、まるで勢いがない(第5戦のサヨナラ本塁打の後とは大違いだ)。シリーズの感想を問われて、「苦しかったです」と言ったのは、掛け値なしの実感だろう。シリーズを通じて好調だった投手など思い出せない。
 いちばん良かったのは第2戦で内海の後を継いだ東野だが、その東野が先発した今日は、初回に高橋の打球を手に受けて降板。緊急登板の内海以下の5投手は、それぞれコントロールが定まらない。捕手としては精魂尽き果てたことだろう。

 
 両エースがどちらも故障で登板不能の見込みと伝えられていたシリーズ前には、それならジャイアンツの方が有利だと思っていた。ダルビッシュは日本ハムにとって絶対的なエースだが、グライシンガーはジャイアンツにとって有力なローテーション投手の1人に過ぎない。
 それだけに、第2戦でダルビッシュが登場した時には、情勢は逆転したように感じた。しかも始球式には新庄だ。札幌ドームが異様に盛り上がったのがテレビ画面からもありありとわかった。あそこで新庄を連れてくるとは、反則としか言いようがない(笑)。

 
 上述のように投手陣は安定感を欠き、打線は3・4・5番がもうひとつ、とりわけ四番のラミレスが冴えない。コンスタントに良かったのは二番の松本くらいで、シリーズ男と呼べるような存在は現れなかった。
 調子の良い選手が多かったわけでもないし、第4戦はシーズン中でもあまり見られない、集中を欠いたひどい試合だった。チームとしての完成度はまだまだだ。
 それでも、ジャイアンツは勝った。野村克也が昔から「勝ちに不思議の勝ちあり」と言うけれど、まさにそんな感じのシリーズだった。

 
 得点した場面を思い起こすと、効果的な本塁打もあったものの、集中打で走者を還した場面が目に浮かぶ。
 第1戦の決着をつけたのは代打・李のタイムリーだったし、第3戦、空中戦での均衡から抜け出したのは、二死からの坂本が選んだ四球がきっかけとなった。
 9回裏の本塁打2本でひっくり返した第5戦も、届かなかった1点差にようやく追い付いたのは、代打・李の韓国式避けない死球と、代走・鈴木の初球から当り前のように走った盗塁、そして代打・大道がしぶとく食らいついて二塁手・田中の頭を越えたタイムリー。今日も6本しか打てなかった安打のうち4本が得点に結びついている。
 シーズン中は3割近い猛威をふるった日本ハムの代打陣は結果が出ず、シーズン中はさほどの打率ではないジャイアンツの代打陣は、しばしば試合を決める働きをした(それはクライマックス・シリーズからの流れでもある)。
 ばたばたした局面もあったけれど、チームはここぞという場面で高い集中力を発揮した。

 
 原監督の胴上げは、いつまで続くんだろうと思うほど回数を重ねた(全部で10回だったらしい)。
 テレビ画面に映った胴上げの輪では、誰ひとり、外側を向いている者はいなかった。
 チームの誰もが同じ方向を見ていた。
 この苦しい競り合いの連続を抜け出す、最後のひと押しとなった何かが、胴上げの光景に現れていたような気がした。

 そして、その何かを築き上げたものは、きっと原辰徳の、どこまでも空高く抜けていくような明るい声と、あの笑顔だったに違いない。
 
 
 それにしても今週は贔屓チームが次から次へと優勝する。こんなことがあっていいんだろうか。
 
 
 あと、日本シリーズのラジオ中継で井端、テレビ中継で立浪の解説を聞いたが、2人とも実に説得力があり、他球団の選手のことをよく見ており、話も面白い。解説でもコーチでも今すぐ一流になれそうな選手が、2人も試合中のグラウンドにいたのだから、なるほど中日は強いわけだ。

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