令和の名将、世界を制す。

 栗山英樹が5月末をもって野球日本代表監督を退任した、というニュースが流れた。

 実質的な仕事は3月のWBCで終わっており、本人も退任の意向を口にしていたので、それ自体は特にニュースではない。ただ、6月2日に開いた退任記者会見は興味深い。NHK全文を記事にしている。

 <選手がどういう形で集まって来てくれるのかっていうのは、正直プレッシャーもありましたし、そういう中ですべての選手が自分のことを捨てて日本野球のためにというふうに集まってくれた。それだけには本当に感謝しています>

 <たぶん彼らにこれから何度会っても「ありがとな」とたぶん言い続けるんだろうなと、そういうふうに思います>

  なるほど、こういう人がこういう思いでやっていたのだな、と改めて腑に落ちる。

 

 PCのデスクトップを整理していたら、4月上旬にブログ用の文章を書きかけて、そのまま放置していたことに気がついた。上の栗山談話に通じる面もあるので、少し手直しして以下にアップすることにする。

 

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 週刊ベースボールの最終ページに、廣岡達朗のコラム<「やれ」と言える信念>が隔週で連載されている。202345日に発売された4.17号には、「侍ジャパン、2つの勝因」と題した、第5回WBCを総括した文章が載っている。

 廣岡によると、日本の勝因は<一つは投手力が良かったこと><2つ目はWBCが平等ではなかった点>だという。

 1つ目は、大会を見た人なら誰もが同意することだろう。廣岡も<本調子でなかったのはダルビッシュ有、松井裕樹くらい。ほかはみんな一生懸命にやった。そこは評価できる。人選にはほぼミスはなかった>と書いている。

 2つ目はどういう意味かといえば、<日本は勝ちたいから選りすぐりの選手を監督自ら選んだ。だが、ほかの国は金をもらえるから参加するかという程度>なのだという。このブログでも2006年からたびたび書いてきた通り、USAの本気度(の低さ)は常にこの大会の最大の課題なので、廣岡の記述が全面的に間違っているとは思わない。が、今回のUSA代表の本気度は過去5大会で最も高かったように私は思うし、それ以外の国については……廣岡さん、日本プール以外の一次ラウンドはご覧になっていないのかもしれないね。私は大会中にドミニカの選手たちに「WBCか、ワールドシリーズか」と質問する動画ツイートを見て、WBCと答える選手が結構いることに驚いたものだった。

 

 話を廣岡コラムに戻す。アメリカの野球も堕落したとか本気度が足りないと力説するうちに、廣岡は栗山英樹監督を批判しはじめる。

 <そんなアメリカに勝ったからといって栗山監督を実力以上にもてはやす風潮はおかしい。選手任せで細かいサインもなし。これで監督と言えるのか。監督とは組織の頭であり全責任を持ってコーチ、選手を教える人間のことをいう。それが、選手のほうが主導権を握っていた。戦争で指導者が陣頭指揮を執らずに一番後ろから「突撃」と言って誰が付いていくだろうか>

 

 この広岡の評論(と呼ぶのもどうかと思うレベルの文章ではあるけれど)を読むと、むしろ今大会での栗山監督の何が優れていたかが、浮き彫りになるような気もする。

 

 <監督とは組織の頭であり全責任を持ってコーチ、選手を教える人間>と廣岡は定義する。21日からシーズン終了までほぼ毎日、新人を含む選手たちと行動をともにし、選手の起用に関する権限を持つ(さらに契約継続の可否についても影響力を持つ)NPBの監督なら、そうあることが可能なのだろうし、廣岡はそうやって勝ってきたのだろう。

 しかし、代表監督が選手とともに過ごす時間は少ない。栗山は特に少なかった。就任したのが202111月末。WBCの本番前合宿以前に、実際に選手を集めて練習や試合をする機会は2022年のシーズン前と後の短い期間しかなかった(223月に予定されていた台湾との強化試合はコロナ禍のため中止されたので、実際には22年のシーズン後だけだった)。

 

 球団から預けられた選手で勝負するNPBの監督にとっては、廣岡が言うように、選手を教えて育てることは大事だ。代表監督には、その時間は与えられない(とはいえ、ピンポイントの助言ならともかく、監督が事細かに何かを教えなくてはならないレベルの選手は、そもそも代表には呼ばれないだろう)。

 その代わり、代表監督は、選手を選ぶという大きな権限を持つ。ただし、選手にはそれを断る権利があるし、それで職を失うこともない。だから代表監督は、NPB監督のように“人事権”をタテに選手を服従させることはできない。

 とりわけメジャーリーガーの招集は困難だ。廣岡自身もコラムの中で、<アメリカは複数年契約で何十億という額で契約する。ということは、個人的な思惑でWBCに出ることは許されない。出場の可否に関する権利はメジャー・リーグの球団が持っているのだ>と力説している。

 MLBから日本代表に参加した選手たちは、レギュラー候補の若手であるラーズ・ヌートバーは別として、ダルビッシュ有、大谷翔平、吉田正尚、一度は出場を決めたものの故障で辞退した鈴木誠也は、まさに<複数年契約で何十億という額で契約>している選手で、日本代表への招集は容易ではなかったはずだ。

 監督がリストに名前を書いただけで、選手が宮崎合宿にやってくるわけではない。後で<人選にはほぼミスはなかった>と評するのはたやすいが、問題は<人選>した後なのである。組織論としていえばそれはGMの仕事かもしれないが、栗山は交渉を人任せにはせず、自分自身で選手に語りかけることで、実現に漕ぎ着けた。

 

 選手を招集する機会に乏しかった分、栗山は自ら選手に会いに行った。22年のシーズン中、各地の球場で試合を視察し、代表候補選手に声をかける栗山の姿が頻繁に報じられていた。アメリカにも渡り、MLB所属選手たちを訪ね歩いた。

 栗山は2012年から21年まで10年間、北海道日本ハムファイターズの監督を務め、2度のリーグ優勝と1度の日本一を勝ち取った。選手への愛情の深さ、我慢強く選手を育てる手腕は、さほど熱心なファイターズファンというわけでもない私にも強く印象づけられた。今回の代表では大谷のほか近藤健介、伊藤大海が栗山のチームでプレー経験がある。彼らだけでなく、その10年を通じて、他球団の選手たちも栗山の監督ぶりや人柄について知るところはあったはずだ。

 

 ダルビッシュは第2回WBCで胴上げ投手になった後、第3回、第4回大会では出場を辞退したと伝えられた。今年2月には36歳にして6年総額1800万ドルの契約を結んでいる。契約の大きさ、調整の困難さを思えば、参加しない蓋然性が高いはずの彼は、しかし代表キャンプの初日から日本にいて、初出場の若手たちに声をかけ、チームをひとつにまとめていった。優勝した後に勝因を問われてダルビッシュの名を挙げた選手は少なくない。彼のキャンプ参加は、このチームにとって決定的な出来事だった。

 廣岡の例えを援用するなら、監督がいちいち「突撃」と言うまでもなく、選手が自ら突撃していったのが今回の日本代表であり、そんなチームになるように選手を選び、語りかけることが、栗山の最大の仕事だったのだと思う。そうやって集められた選手たちが、試合を通じて自己組織化していった。<細かいサイン>だけが監督の仕事ではない。

 

 ダルビッシュは宮崎キャンプの最中に、栗山についてこう語っている(彼は栗山が日本ハムの監督になる前年に渡米しており、同じチームにいたことはない)。

<やっぱりすごく、自分かなり(栗山監督より)年下ですけど(コミュニケーションが)上手だなと。出るところと引くところというか、選手のことを上げてくれたりとか。人を基本的に傷つけるとか、恥をさらすことは言わないじゃないですか。そういうことって難しくて、日本の指導者ってなかなかいないので、そういうところにすごみは感じます>

 

  廣岡は周知の通り、ヤクルトでも西武でも<人を基本的に傷つけるとか、恥をさらすこと>を口にすることで選手を動かそうとする監督だった。この大会の代表監督が廣岡のように<人を基本的に傷つけるとか、恥をさらすこと>を盛んに口にする人物だったら、ダルビッシュは代表のユニホームを着ただろうか。

 <細かいサイン>を出す技術がどれほど優れていたとしても、それをグラウンドの中で実行するのは選手である。WBCが選手にとってシーズン前の調整を困難にするリスクを伴う大会であり、招集への拒否権がある以上、代表監督は、選手を選ぶ存在であると同時に、選手に選ばれる存在でもある。監督がどれほど素晴らしい人選をしたところで、集まらなければ絵に描いた餅に過ぎない。NPBの監督と日本代表の監督は、同じ名で呼ばれていても、まったく性質の異なる仕事だと思う。

 

 廣岡がNPBの監督を務めたのは197679年(ヤクルト)、8285年(西武)。いずれも下位に低迷していたチームを立て直した。ヤクルトでは弱いチームを鍛えて強くした。西武では、新しい親会社の力で集められたベテランのスター選手たちの再生と、才能ある若手の育成を並行して成功させ、勝ちながら世代交代を進めた。性質の異なる(リーグも異なる)2つの球団を日本一にした、押しも押されもせぬ名将である。選手に対しては、しばしば厳しい言葉をメディアの前でも(時にはメディアを通じて選手の耳に入るように)投げつけた。田渕や石毛など、廣岡への怒りを原動力に戦ったと公言する当時の選手も少なくない。そして彼らは最終的には、優勝を経験させてくれた廣岡への感謝を口にする。彼らには廣岡のやり方が適していたのだろう。

 廣岡が退任してからすでに40年近くが経過した。廣岡の下でプレーした若松勉、尾花高夫、大矢明彦、田渕幸一、田尾安志、石毛宏典、東尾修、森繁和、渡辺久信、工藤公康、伊東勤、辻発彦、大久保博元、田辺徳雄らが監督を務め、その座をすでに退いている(今後またやるかもしれないが)。

 面白いのは、このうちリーグ優勝や日本一を勝ち取った若松、東尾、渡辺、工藤、辻らが廣岡のように選手に対して辛辣だったかといえば、むしろ人当たりは柔らかく、もちろん厳しいところは厳しいのだろうけれど、選手を人として尊重しながら、のびのびとプレーさせていた印象が強いことだ。彼らが選手を<傷つけるとか、恥をさらす>言葉を口にしてメディアで報じられた記憶はほとんどないし、想像もしにくい。それぞれ廣岡から学んだものを自分なりに消化した上で、この時代の若い選手を動かすのにふさわしいやり方で監督を務めていたように見える。

 

 野球界に限らず、世の中一般で、辛辣な言葉を浴びせることで人を動かし育てるという方法論は、成立しがたくなって久しい。成果が出ないだけならまだしも、選手からパワハラを告発されて解任に追い込まれるのがオチだろう(Jリーグでは実例がある)。

 そんな時代に開花した若い才能を集め、彼らが力を発揮できる環境を整えることで勝利を掴んだ栗山は、令和の名将と呼ぶにふさわしい。その手腕が昭和の名将には理解できなかったとしても、この世界一という実績には、傷ひとつ付くことはない。

 

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野球で起きることは、すべて水島漫画の中ですでに起きている。

 水島新司「野球狂の詩」に、東京メッツの老雄・岩田鉄五郎がエディ・ゲーデルという元大リーガーについて語る場面がある。高校生の女性投手・水原勇気のドラフト1位指名を主導した鉄五郎が、入団を拒む勇気を説得するため水原家に通っていた、ある日のことだ。

 

 エディ・ゲーデルは身長約1メートル10センチ、おそらくMLB史上もっとも背が低い選手だ。

 1951年、セントルイス・ブラウンズ(現在のボルチモア・オリオールズ)の選手として、一度だけ打席に立った。オーナーのビル・ベックが、生まれつき体が小さく、パフォーマーをしていたゲーデルを、ある日のダブルヘッダーの間のアトラクションに出場させるとともに選手として契約し、第二試合で代打に送ったのだ。背番号は1/8。クラウチングスタイルで構えるゲーデルに、投手はストライクが入らず、ストレートの四球。ベックはゲーデルにバットを振るなと厳命していたと言われる。

 どんな投手でもストライクを取れそうにない打者の存在をアンフェアとみなしたのか、リーグ会長は試合後にゲーデルの試合出場を禁止し、以後、彼が打席に立つことはなかった。

 

 鉄五郎は勇気に、上記のようなゲーデルに関する一部始終を語り、最後にこう告げて、水原家を後にする。

 

 「エディーはもっと野球をやりたかっただろうに」

 

 エディ・ゲーデルの一件は、MLB史の中で、ビル・ベックの破天荒なアイデアマンぶりを示す逸話として語られることが多い(例えば伊東一雄・馬立勝「野球は言葉のスポーツ」中公新書)。私もそういう出来事として知っていた。

 だから、鉄五郎の言葉を目にした時には、虚を突かれた。エディ・ゲーデルをこの観点から語る人はなかなかいない。

 だが、考えてみれば、水島新司なら当然そう言うだろう。

 幸福とは、ユニホームを着てグラウンドに立ち、野球をプレーすることである。

 すべての作品のすべてのページのすべてのコマが、紙面からそう訴えかけてくるような野球漫画をひたすら描き続けてきた水島新司なら。

 

 水島新司が亡くなった。

 2020年暮れに水島新司が画業引退を表明したのを受けて行われたこの対談で、オグマナオトは1977年を水島の全盛期としている。

<『ドカベン』(6年目)、『野球狂の詩』(6年目、この年でいったん連載終了)、『あぶさん』(5年目)、『球道くん』(2年目)、『一球さん』(3年目、この年で連載終了)。さらに、野球マンガ専門誌『一球入魂』を創刊して責任編集長まで務め、この雑誌上で『白球の詩』の連載を開始。あるインタビュー(『月刊経営塾』9510月号)では、最盛期には月に450枚描いていた、と明かしています>

 「ドカベン」が少年チャンピオン、「野球狂の詩」が少年マガジン、「一球さん」が少年サンデー、「球道くん」がマンガくん(後に少年ビッグコミック、ヤングサンデー)、そして「あぶさん」が「ビッグコミックオリジナル」。少年ジャンプ以外の主要少年漫画週刊誌3誌で連載していたのだから、漫画を読む子供ならほぼ全員が水島漫画に触れていたはずだ。

 筆者が浴びるように水島漫画を読んでいたのは、75年ごろから10年ほどの期間。人生で初めて買った単行本漫画は「ドカベン」の10巻と21巻だった(近所の書店の店頭在庫がその2冊だった)。まさに水島漫画の全盛期をリアルタイムで体験し、浴びるように読んでいられたのは幸運だった。

 

 当時の自分や同級生たちは、「ドカベン」の何が好きだったのだろう。

 まずは、その明るさだったと思う。岩鬼や殿馬が口にするちょっとしたギャグは、すぐに仲間内で流行した。みな、「ドカベン」のキャラクターたちが大好きだった。

 山田太郎は,地味な性格だが、どっしりと落ち着いて迷いがなく、穏やかで、それでいて明るく、仲間思いで、誰に対しても優しい。揺るぎなく確かなものがそこにある、という安心感を、チームメイトのみならず読者に対しても与えてくれる。こうやって文章にすると退屈そうな人物だが、破天荒で賑やかなキャラは周囲に大勢いたから、作品そのものは賑やかだった。

 

 そして、どの少年誌にも複数の野球漫画が連載されていた時代にも、水島が他の追随を許さなかったのが、その画力だった。

 山田太郎の力強いスイング。里中智の華麗なアンダースロー。不知火守の、これぞ速球投手というフォーム。打つ、投げる、走る、捕るといった野球の動作を、躍動感たっぷりに、しかも美しく描くことにおいて、水島新司の右に出る者は、おそらくいない。

 「ドカベン」は76年からアニメ化され、それなりに人気もあったはずだが、私は全く興味が湧かなかった。実際に絵が動くアニメよりも、水島が紙に描いた山田たちの方が、はるかに生き生きと動いていたからだ。

 厳密にいえば、水島新司が描くプレー画像は、実際の分解写真とは違う。人間の足はあんなふうにたわんだりはしないし、投手のリリースポイントはそんなに前ではない、という絵もあった。

 けれども観客の目には、野球選手のプレーはそんなふうに見える。水島の絵は、加速感や残像も含めた“人の目に映る野球”を描いていた。

 

 浦沢直樹や江口寿史ら当代の名人上手たちが、水島の訃報に接した際のツイートを見ても、水島の画力がいかに優れていたかがうかがえる。

 

水島新司先生の描く野球漫画は、人間の本当の躍動を描くという革命を漫画界にもたらしたと思っています。私も中学生の頃あの躍動感に憧れ、どれほど先生の絵を模写したことでしょう。素晴らしい作品をありがとうございました。心よりご冥福をお祈りします。>浦沢直樹

 

ぼくにとって水島新司先生は、ちばてつや先生と並んでよく模写した漫画家ですが、このスパイクの裏側とグラブの(中指、薬指、小指を閉じた)描き方は、パイレーツでもそのまんま丸パクリで描いてましたね。>江口寿史

 水島作品は、例えば「文藝別冊」や「ユリイカ」に特集されるような意味での「批評」の対象になることは、昔も今もほとんどない。だが、そういう場で好んで扱われる江口や浦沢は、水島漫画に大いに影響を受けているらしい。

 

 訃報に際して水島について書かれた文章の多くは、「野球狂の詩」における女性投手の登場、あるいは「ドカベン」における競技規則の隙間をついた得点シーンが後に甲子園で実際に起こったことなどを例にひいて、「将来を予見していた」ことを高く評価していた。

 その通りではあるのだが、私にはどこか違和感がある。

 他にも、ドラフト制度を拒否する高校生を描いた「光の小次郎」のように問題提起を強く意識した作品があるのは事実だし、「野球狂の詩」の水原勇気編も、初期には野球協約の壁との闘いが描かれている。

 一方で、「野球狂の詩」には荒唐無稽なエピソードもたくさんある。野球の上手なゴリラが阪神に入団しそうになったり、マサイ族の勇者が代走専門で活躍したり。不動の四番打者・国立玉一郎は歌舞伎の名門の御曹司に生まれ、入団当初は女形と掛け持ちでホームゲーム限定の選手だった。後に実現したかどうかで評価を決めるのなら、これらの作品は大外れだが、もちろん、作品の価値はそんなところにはない。

 

 水島は単に、野球のすべてを描きたかったのだと思う。野球に関わるすべての人々、野球で起こりうるすべての出来事を、何もかも描きたかった。だから、あらゆるプレーの可能性を考え、野球に関する制度を調べ、公認野球規則の盲点や野球協約の理不尽に気づいたら、それを作品にした。

 そうやって描かれた「何もかも」のうちのいくつかが、後で現実に起きた。そういうことだったのではないかと思う。

 水島新司の野球漫画が偉大なのは、将来を予見したからではない。野球で起こりうる、あらゆることを描こうとしたから偉大なのだ、と私は思っている。

 三谷幸喜がドラマ「王様のレストラン」のために捏造したエピグラムに倣って言えば、<野球で起きることは、すべて水島漫画の中ですでに起きている>のである。

 

 「野球狂の詩」は連載当時も好きな漫画だったが、“おっさんくさい漫画”という印象ももっていた。東京都国分寺市をフランチャイズとする架空の球団・東京メッツを取り巻く人々の群像劇だが、全編を通しての主人公は50歳を過ぎても投げ続ける岩田鉄五郎だ。引退間際のベテラン選手を主役としたエピソードも多い。

 ただ、水島の訃報を機に、改めて全17巻を買い直して読んでみると、おっさんが大勢出てくるからというだけでなく、プロットそのものが“おっさんくさい漫画”である。

 

 野球、という最大の属性を取り払ってみると、水島漫画には“貧しくても前を向いて明るく生きる人々の話”がとても多い。とりわけ「野球狂の詩」には顕著だ。

 例えば「メッツ本線」。オールスターで打ち込まれて引退を考え始めた鉄五郎が、かつてバッテリーを組んだ現監督の五利と2人で気分転換に温泉旅館を訪ねたら、駅から温泉までのバスの停留所の名は、2人が活躍したメッツ全盛期の選手の名が打順通りに並んでいた。実は…という話。老いた投手と老いたファンの気持ちが交わる、しみじみと沁みる作品だ。

 そういうエピソードがあるのは覚えていたが、自分が岩田鉄五郎の年齢を超えた今になって読み返すと、当時とは比較にならないほど、深々と心に刺さる(これを描いた頃の水島がまだ30代というのが、ちょっと信じられない)。

 

 水島新司は、貧しさゆえに高校進学を諦めて中卒で就職、働きながら独学で漫画を描きはじめ、大阪の貸本漫画から人気漫画家にはいあがった。“貧しくても前を向いて明るく生きる人々の話”に描かれる人々は、若き日の水島自身であり、水島の周囲の人々だったのだろう。時に野球を断念する若者の話が描かれるのは、高校野球に憧れながら断念せざるをえなかった自身を投影しているように見える。

 ありていにいえば、水島漫画にはベタな人情話が多い。落語であり演歌であり浪花節であり、ごりごりの昭和である。読者が子供のうちは素直に楽しめても、「若者」になると、少々ださく感じられる。そういう話が多い。特に女性観は、今どきの水準でいえばかなり古くさい。東京メッツのエース、火浦健が愛した女性は、幼なじみの家族を支えるために火浦との結婚を諦める。かくのごとく、男女の仲が描かれても「恋愛」より「家族愛」に着地することが多い。

  訃報に接して、何か水島作品を読み返したくなった。昔買っていた単行本の多くは手元になく、すぐには読めない。いろいろ考えた末、連載時にはあまり読んでいなかった「平成野球草子」全10巻を古書で買った。90年代にビッグゴールドに連載された作品だ。プレーそのものよりも、野球に関わる人々の哀歓が描かれ、「野球狂の詩」をさらに人情話寄りにしたような漫画である。

 連載誌も中高年向けであり、当時30歳かそこらの自分の琴線には触れなかったのだろう。が、50代後半の今の私には触れまくる。うかつに外で読むとすぐ泣きそうになるので、家で少しづつ読んでいる。子供の頃は水島漫画で泣いたことなどなかったのに。

 

 水島新司が描く人情話は、「故郷の実家」のようなものだ。子供の頃は好きだったし楽しかったけれど、ある時期から気恥ずかしくなって距離を置いたりする。だが、大人を通り越して老いを感じる頃には、改めてその良さに気づく。

 残念なことに、今は水島の代表作の多くが入手しにくい。どんな事情があるにせよ、早く水島作品が電子書籍化され、かつての子供たちや、今の子供たち、未来の子供たちが数々の傑作を身近に読めるようになることを、心から望んでいる。

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私的プロ野球ベストナイン(平成篇)

 だいぶ遅れたが、昭和篇の続き。

 サンデースポーツの視聴者が選んだ平成のベストナインは以下の通りだった。

 

先発:田中将大

中継ぎ:浅尾拓也

抑え:佐々木主浩

捕手:古田敦也

一塁:清原和博

二塁:山田哲人

三塁:中村剛也

遊撃:松井稼頭央

外野:イチロー

外野:松井秀喜

外野:柳田悠岐

DH:大谷翔平

 

 まあ順当だが、大谷を選ぶならDHではなく、「2WAY」のポジションを用意すべきだろう。

 

 順当と言いながら、私のセレクトはだいぶ違う。

 

●先発投手:野茂英雄(近鉄、ドジャースほか)

 サンデースポーツの投票で、田中が選ばれたのはよいとしても、上位3人(田中、松坂、ダルビッシュ)の中に野茂の名がなかったのは承服しがたい。

 私が思うに、野茂は日本のプロ野球で最も重要な3選手のうちの1人だ(他の2人は三原脩と長嶋茂雄。大谷翔平が二刀流で大成すれば4人目になる)。

 プロ1年目の平成2年=1990年に先発投手のタイトルを独占し、MVPと新人王と沢村賞を受賞。そのまま4年連続最多勝&奪三振王をとり、1年おいて平成7年=1995年に近鉄を任意引退となってロサンゼルス・ドジャースと契約。13勝6敗の堂々たる成績で奪三新王と新人王のタイトルも獲得した。渡米当時は、ルール破りだの通用するわけないだのと非難を受けたが、その成績ですべてを黙らせた。日本のプロ野球選手がMLBに移籍する道を切り拓いたのは彼だ。野茂が日本のプロ野球界すべてを敵に回す覚悟で渡米しなければ、田中も松坂もダルビッシュもメジャーで投げられたかどうか分からない。その意味で、他の選手とは違う偉さがある。

 野茂は延べ8球団(ドジャースには2度在籍)を渡り歩き、2008年まで投げ続けて123勝を挙げた。いずれ田中が追いつくだろうけれど、まだ先のことになる。

 野茂が渡米した1995年、メジャーリーグは選手会ストライキの最中だった。前年夏から始まったストは労使交渉がまとまらず、渡米はしたものの開幕の目処は立っていなかった。結局、開幕したのは4月24日。大金持ちのメジャーリーガーがさらなる富を求めた身勝手な闘争とみなされ、ファンの目は冷たかった。そんな状況の中で、日本から来た見知らぬ投手が、奇妙なフォームからの快速球と魔球フォークで三振を奪いまくる姿はロスのファンを熱狂させ、「ノモマニア」という新語まで生まれた。

 一方の日本では1995年は1月の阪神大震災、3月の地下鉄サリン事件と、大いに世の中が震撼する中で、海の向こうで大リーガー相手に快投を続ける野茂の姿は、ある種の救いにもなっていた。だからこの年の野茂は、日米両国にとって、単なる一投手にとどまらない存在だったのである。

 コロナ禍に世界中が苦しむ今年だからこそ、あの25年前を思い出す。

 

●中継ぎ投手:山口鉄也(読売)

 山口は面白い投手だった。今どき珍しいほど善良でおとなしい人柄ながら、マウンドに立つと剛腕で打者をねじ伏せる。先発への転向は失敗し、クローザーにも向かず、しかしセットアッパーとしては無類の安定感を誇った。自らの栄光よりも、チームの中で役割を果たすことに喜びを見出しているように見えた。9年連続60試合以上登板(うち3年は70試合以上)と耐久性も抜群。中継ぎをやるために生まれてきたような投手だった。WBCにも二度出場、原監督の世界一メンバーでもある。

 

●抑え投手:岩瀬仁紀(中日)

 「こいつが出てきたらもうダメだ」と相手に思わせることができればクローザーも一流だ。その威圧感においては(そのルックスともあいまって)佐々木主浩の印象は強い。だが、佐々木が日本で本当に君臨したのは4年間(MLBの分を足しても計7、8年)で、優勝は1回だけ。

 岩瀬は本格的にクローザーになったのは2004年。翌2005年から9年続けて「50試合以上登板・30セーブ以上(うち5年は40セーブ以上)」し、その間に中日はリーグ優勝3回、日本シリーズ出場4回、日本一1回だ。クローザーは、どれだけチームを勝たせたかという結果で評価されるべきだろう。

 クローザーになる前は、ルーキーイヤーから5年間、一流のセットアッパーを務めた。ジャイアンツファンとしては、本当に嫌な投手だった。

 

●捕手:城島健司(ダイエー、マリナーズ、阪神)

 本人のキャラは昭和っぽいけれど、昭和の捕手のイメージとは違う。スケールの大きさでは類を見ない。低めのボール球をスタンドに放り込むパワー、座ったまま一塁走者を刺す強肩。華やかな選手だった。平成は名捕手の多い時代だったが「四番・捕手」として君臨したのは城島と阿部慎之助の2人だけだろう。そして城島は、まがりなりにもMLBでレギュラーを務めた唯一の日本人捕手であり、第2回WBCの世界一捕手でもある。

 

●一塁手:松中信彦(ダイエー)

 最後の三冠王だが、白状すると、私はホークスでの活躍はさほど見てはいない。それでも彼を選ぶのは、第1回WBCの印象が強いから。4番打者として全試合に出場、13安打はチーム最多だが本塁打はゼロ、打点は2。とはいえ空砲だったわけではない。11得点はイチローより多いチーム最多。松中は世界の大舞台で一発を求めて振り回すことなく、つなぎの四番として着実に出塁し、懸命に走ってホームベースを踏み続けた。

 第1回WBCは、実際に始まるまでは日本の球界での大会そのもののプレゼンスは高いとは言えず、王監督から代表入りを打診されても断る選手が続出した。そんな状況に異を唱えた松中は、大会が始まってからもチームを背負って戦い、王監督の胴上げを実現した。あの優勝の最大の功労者はイチローでも松坂でもなく、松中だと思っている。

 

●二塁手:菊池涼介(広島)

 長いこと野球を見てきたが、「こんなの見たことないよ」というプレーを次々に見せてくれる。彼が引退して10年くらい経った頃に、菊池を見たことがない人に彼の守備を言葉で説明してようとしても、あまりに現実離れしていて、喋ってる自分に自信がなくなってきそうな気がする。つまらない打球を取り損なうこともあるし、打撃にはムラがありすぎるし、トータルとしては彼を超える選手は何人もいると思うが、それでもあの守備は捨てがたい。

 

●三塁手:小笠原道大(日本ハム、読売、中日)

 最近のプロ野球選手は「マン振り」という言い方をするらしいが、常にフルスイング。あれほどの強さで振り続けて、かつあれほどの打率を残した打者を知らない。さほど大きな体ではなく、アマチュア時代の実績も平凡。それでもプロ入り後の鍛錬であれほどの打者になれることに感嘆する。試合中も手を抜くことを知らないメンタリティ。北海道移転の前年、日本ハムの東京ドームで最後の試合で打ったフェンス直撃の二塁打は忘れられない。

 

●遊撃手:坂本勇人(読売)

 坂本は高卒2年目の開幕戦で二塁のスタメンに起用され、二岡の故障により本来の遊撃に移って、そのままレギュラーになった。確かその開幕戦だったと思うのだが、エラーをした時に全く悪びれない表情をしていたのを見て、なんて神経の太い10代だろうかと驚いたのを覚えている。ジャイアンツで高卒の選手が若くして中心選手になるには、この種の鈍感力が欠かせない(松井秀喜然り、岡本和真然り)。

 早熟の天才肌は20代半ばから伸び悩んだものの、30歳前後からさらに成長を見せている。名遊撃手の多い平成年代にあっても、総合力ではトップグループの一員といってよいだろう。

 

●左翼手:松井秀喜(読売、ヤンキース ほか)

 古今東西好きな野球選手を1人挙げろと言われたら迷わず松井を選ぶ。彼のデビューから引退までを見届けられたのは、見物人としての幸福だった。長嶋監督の育成計画よりは少し時間がかかったけれど、四番打者に定着してからの彼は、揺るぎない確かなものがそこにある、という安心感を見る者に与えてくれた。

 MLBでの打者としての成績はイチローには及ばないし、今後、彼を超える打者も出てくるだろう。ただ、彼はどんな状況でも、どんな立場でも、チームの勝利のために全力を尽くし、相応の結果をもって応え続けた。あれほど次から次へとスター選手を買いあさっては使い捨てるニューヨーク・ヤンキースで7年間も主力選手として活躍するのは並大抵のことではない。放出の3年後に1day契約の引退セレモニーを行い、その後も球団内にポストを用意し続けていることが、ヤンキースの松井への評価を物語っている。

 

●中堅手:柳田悠岐(ソフトバンク)

 フルスイングから飛び出していく打球の凄まじさもさることながら、あの大きな体をあれだけのスピードで動かせること自体が凄い。単純に、何も考えずにただ見ているだけで楽しい選手で、プロ野球という興行で最も大事なのはそういうことではないかと思う。アマチュア時代に無名だった柳田が売り出した頃、新しい時代が来たと感じた。WBCは開かれるたびに「●●がいれば…」と思う大会だが、第4回に彼がいないのも残念だった。

 

●右翼手:イチロー(オリックス、マリナーズ、ヤンキース ほか)

 毎朝、東から太陽が空に上るように、試合に出ればヒットを打った。グラウンドのどこにでも自在に打球を運ぶバットコントロール、単なる内野ゴロを安打にする俊足、幾多の足自慢たちを本塁で茫然とさせた肩、不利な本塁突入でも捕手を混乱させる身のこなし。誰にも真似のできない技を、ひとつならずいくつも持っていた。バッターボックスでも塁上でも外野の守備位置=エリア51でも、ユニホームを着てグラウンドに立っていれば何かを起こす、一瞬も目が離せない、そんな選手だった。オリックス時代は東京ドームの日本ハム戦を何度か見に行った。彼が一塁走者で右方向にヒットが出た時、二塁を蹴って三塁に向かう加速感が好きだった。

 

●DH:ラルフ・ブライアント(近鉄)

 野球とはなんと恐ろしいゲームか、と呆然とした試合がある。1989年10月12日の近鉄ー西武戦だ。激しく優勝を争っていた両チームの、シーズン最後の対戦となるダブルヘッダー。第1試合、大きくリードされていた近鉄は、ブライアントが郭泰源からソロ、そして満塁本塁打を放って同点に追いつき、さらに渡辺久信から勝ち越し本塁打を放って、6-5で勝利した。近鉄の6点はすべてブライアントの本塁打によるものだ。2試合目も敬遠の後、2-2の同点から4打数連続となる勝ち越し本塁打を放ち、近鉄は圧勝して優勝をほぼ手中に収めた。全盛期の西武ライオンズを、ブライアントが1人で粉砕したのだった。長いこと野球を見ているが、あんなのは他に記憶にない。

 それまでブライアントに本塁打を打たれたことがなかった渡辺久信が投じたのは、ブライアントが苦手なはずの高めストレート。失投ではなかった。BS1「古田敦也のプロ野球ベストゲーム」でこの打席を論じた際、当事者の捕手・伊東勤は「なんで打たれたかわからない」と言い、古田も「神がかってた」と言う。当代の名捕手2人にも分析不能、まさに奇跡のバッティングだった。

 

●2WAY:大谷翔平(日本ハム、エンゼルス)

 2018年にMLB入りした大谷が投打で実績を残したことで、MLBには「TWO-WAY」という登録枠が作られた。野球の長い歴史の中で、「初めて●●をした男」は何人もいるだろうけれど、「ポジションを増やした男」が他にいるだろうか(高井保弘を「パ・リーグにDHを作らせた男」と呼んでもいいかもしれないが)。

 ただ、私個人の願望としては、MLBで打者に専念したらどこまでやれるかを見てみたい。160キロの速球を投げる日本人投手は今後も出てくるだろうけれど(というか実際にいるけれど)、メジャーリーガーの球を左中間スタンドにぼんぼん放り込む左打者は、まず出てこないだろう。あのサイズであれだけ巧みにバットを操り、力みのないスイングで本塁打を量産する。MLBにもめったにいない才能だと思う。

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私的プロ野球ベストナイン(昭和篇)

 5月3日のNHK「サンデースポーツ」で、「あなたが選ぶ昭和&平成プロ野球ベストナイン」という企画をやっていた。COVID-19の影響でプロ野球が開幕できず、残念な思いをしているファンのための企画ということだろう(と同時に、競馬以外は試合がないので、伝える中身がなくて困っている番組自身のための企画でもある)。

 ネットで公募していたので参加した。この日の番組で発表された結果は次の通りだった。

 

 【昭和】

先発:金田正一

中継ぎ:鹿取義隆

抑え:江夏豊

捕手:野村克也

一塁:王貞治

二塁:高木守道

三塁:長嶋茂雄

遊撃:吉田義男

外野:福本豊

外野:山本浩二

外野:張本勲

DH:門田博光

 

 順当である。順当すぎて退屈でもある。

 もう昭和の野球を見て記憶しているのは50歳くらいから上に限られるだろうから、投票者の中には、記録や今の知名度を頼りに選んだ人も多いのではないか。そんな印象を受ける結果となった。

 数字で決めるなら人間が選ぶ必要もない。せっかくなので、自分なりにベストナインを選んでTwitterに書き散らしたものを、多少加筆して再録する。そんなわけで、リアルタイムに自分の目で見た印象で決めている(私が明瞭に記憶しているのは昭和51年=1976年ごろ以降)。何人かについては、通算記録よりも、全盛期の瞬間風速的なインパクトを優先した。

 

●先発投手:山田久志(阪急)

 昭和50年代前半、阪急の黄金時代に君臨したエース。なにしろアンダースローのフォームの美しさが卓越していた。昭和51、52年の日本シリーズでジャイアンツは連敗、特に52年は打てる気がしなかった。格のある投手でした。

●中継ぎ投手:永射保(クラウン・西武ほか)

 左のサイドスローで、クラウンから西武に生き残り、ワンポイントリリーフでレロン・リーらパの左の強打者たちを苦しめた。YouTubeで動画も見られるけど、最初はオーバースローっぽい動きが途中から切り替わる変則フォームで、タイミングが取りづらそう。

抑え投手:鈴木孝政(中日)

 江夏豊でもいいんだけど、江夏の全盛期は先発の頃だろう。昔のエースは先発の合間にリリーフもやっていた。江夏の場合は抑え専門になってからも、最後まで「先発投手が抑えをやってる」ような印象があった。鈴木孝政は高卒からリリーフエースとして売り出した純正の抑え投手なので彼を推したい(後に先発もやったけど)。とにかく球が早くて手がつけられなかった。

●捕手:中尾孝義(中日ほか)

 本当に良かったのは入団2年目、中日が優勝してMVPになった昭和57年だけだが、その瞬間風速的な印象が強烈。捕手といえば野村や森(や山田太郎)のようなずんぐり型だった時代に、細身の体格で機敏な動きが新鮮だった。肩も強かった。ツバのない捕手用のヘルメットを守備時に使い始めたのは彼だったと記憶している。後にジャイアンツに移籍して、89年の優勝時には主力捕手となった。

一塁手:王貞治(読売)

 なにしろ俺が生まれてから10歳まで、王が本塁打王でなかったことがない(1年おいて、また2年連続)。3割40本100打点が当たり前というのがどれほど異常なことか、気づいたのは王選手の引退後だった。

 若い頃は知らないが、晩年は無茶苦茶に打球が速かったわけでもなく、さほどのパワーは感じさせなかった。けれど、打球はフェンスを越えていったし、極端なシフトを敷かれても引っ張り続け、それでも3割を打ち続けたのだから、何がどうなっていたのか不思議。77年ごろのバッティングを何試合かじっくり見直してみたいところ。

二塁手:篠塚利夫(読売)

 イチローの登場以前は、バットコントロールの巧みな打者といえば彼だった。特に流し打ちは芸術的。守備のグラブ捌きも見事。小柄で華奢、身体能力より技術で活躍した華のある選手。たまに見せた、狙いすまして引っ張った本塁打も爽快だった。

●三塁手:落合博満(ロッテ、中日、読売、日本ハム)

 この手の企画では落合をどこに置くかが難題。サンデースポーツでも、あちこちに名前はあるがベストナインには入っていない。二塁、三塁、一塁でベストナインを獲得しているが、連続三冠王をとった昭和60-61年が三塁だったので、ここがキャリアハイでもある。守備範囲は広くなさそうだが、グラブさばきは上手だったと思う。ともかく打撃技術ではプロ野球史でも片手に入るだろう。右中間に棒のように伸びる打球が強烈。中日時代、パーフェクトを逃した直後の斎藤雅樹からサヨナラ本塁打を打って地獄に叩き落とした苛烈さが印象に残る(笑)。

●遊撃手:石毛宏典(西武ほか)

 昭和の遊撃手は守備の人のイメージが強く、打てる選手も小柄だった。1メートル80以上で守備が上手くて、よく打ち続けた遊撃手は、たぶん石毛が初めて。続いて池山や田中幸雄が現れて、遊撃手のイメージが変わった。常勝西武のリーダーでもある。

左翼手:蓑田浩二(阪急ほか)

 全てにバランスの取れた好選手。売り出し当初は福本の後を打つ二番打者だったが、後にはトリプルスリーを達成する強打者に。守備も巧く、送球が巧みで左翼、右翼ともにこなした。渋い男前でもあった。

中堅手:福本豊(阪急)

 鉄板。この手の企画で最初に満票で埋まる守備位置のはず(笑)。足だけでなく全てに優れ、小さい体で結構本塁打も打った。センターの守備位置は、びっくりするくらい浅かった。後ろの打球に追いつく脚力に自信があったのだろう(昭和の球場は狭かったし)。

●右翼手:秋山幸二(西武、ダイエー)

 西武時代はセンターだけど、ダイエーではライトも守ってたということで。身体能力に優れたアスリートタイプの野球選手は、秋山以前にはほとんどいなかったのでは。今でいう5ツールプレーヤー。ダイエーを初優勝に導いた静かなリーダーシップも見事だった。

●指名打者:門田博光(南海、オリックス、ダイエー)

 若い頃は強肩の右翼手だったらしいが、アキレス腱を切った後の指名打者の印象が強い。小さな体をムキムキに鍛えて30代になってから長打力を伸ばした。漏れ伝わる気難しそうなエピソードが、いかにも当時のパリーグっぽかった(笑)。

 以上。

 打順を組むとしたら、こんな感じか。

(中)福本

(左)蓑田

(一)王

(三)落合

(指)門田

(右)秋山

(二)篠塚

(捕)中尾

(遊)石毛

  3-5番で100本塁打、チーム全体で200本は楽勝。盗塁も福本、蓑田、秋山、石毛で150くらいになりそう。

 

追記

 抑え投手については、実は成績でいえば、佐藤道郎も相応しい。日大からドラフト1位で、野村克也が兼任監督になった南海に入団し、昭和45年に55試合に登板して18勝6敗で新人王と防御率1位。以後、76年までほぼリリーフ専門で382試合も投げている。1年あたり54.6試合だ。しかもほとんどの年で既定投球回数を超えている。セーブが正式記録に採用された74年には13セーブを挙げて初代セーブ王(76年にも)。

 野村とリリーフエースといえば、江夏豊を「野球界に革命を起こそう」と口説いて転向させた話が名高いけれど、「リリーフエース」という存在は既に当時の南海にいたわけだ(佐藤は江夏の加入により先発に転向)。私自身は残念ながら、昭和54年に横浜に移籍した後、力の落ちた晩年しか見ていないので、ここでは選ばないけれど、これほどの投手がほぼ忘れられているのも残念なので、あえて記しておく。

 

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別れを告げに来た男。

 「イチローを、見ないのか」

 

 日本テレビの宣伝コピーに煽られたわけでもないが、3/20の夜に東京ドームで行われたMLB開幕戦、シアトル・マリナーズ対オークランド・アスレチックスに足を運んだ。自分にとって、球場で彼の姿を見られる最後の機会になるだろうと思ったからだ。

 

 マリナーズは日本に着いてから読売ジャイアンツと2試合のオープン戦を戦ったが、イチローはジャイアンツの投手陣を打てず、無安打に終わっていた。

 相手は菅野ではない。今村、坂本工、戸根、桜井ら、さほど実績のない若手投手たちが一生の記念とばかりに投げ込んでくるボールを、イチローのバットは捉え損ねていた。選球眼、バットコントロール、タイミング、何もかもが本来の彼のバッティングではなかった。米国でのオープン戦からの不振を克服できてはいなかった。

 一方で、右翼の守備に立つ姿は、特に衰えを感じさせなかった。3/18の試合で、無死二塁の場面で田中俊太が打ち上げた飛球を、イチローは少し下がって捕り、三塁に投げた。三塁手ヒーリーが胸元に構えたグラブにぴしゃりと収まるストライク送球に場内は湧いた。それがこの試合で唯一の、イチローの見せ場だった。

 見事な送球ではあったが、テレビや新聞が皆「レーザービーム」と報じたのには違和感を覚えた。二塁走者は鈍足のゲレーロで、本気で三塁を狙うとは誰も思わない。イチローの送球は、やや山なりで8分程度の力に見えた。「レーザービーム」と呼ばれたかつての送球と比べるようなものではない。

 並の右翼手なら拍手喝采されてよいけれど、彼はイチローで、そこはエリア51だ。46歳だろうと50歳だろうと、イチローがユニホームを着てそこにいる以上、全盛期と同じ水準のプレーをするはずであり、その自信がなければ彼はそこに立ってはいない。私はそう信じていた。信じたかった、と言うべきかもしれない。

 

 3/20夜。開幕戦の始球式には、マリナーズOBでもある佐々木主浩と城島健司が登場し、打席にはアスレチックスの伝説的英雄リッキー・ヘンダーソンが立った。試合途中のイニング間には、マリナーズ球団史上の英雄ケン・グリフィーJr.の来場も紹介された(彼は試合中ずっとカメラマン席でカメラを構えていた)。本番の緊張感と、祝祭の高揚。いい雰囲気だった。

 

 イチローは9番・右翼手として先発出場した。ジャイアンツとの2試合でもそうだったように、試合が始まる直前まで、三塁側エキサイトシートに歩み寄り、幸運な観客たちが差し出すボールやユニホームにサインを続けた(後にアキ猪瀬が「アリゾナキャンプでもそうだった。イチローさんはルーティーンを守る人だから、あまり見たことのない光景だった」と話していた)。

 3回表、イチローが最初の打席に立つと、満場の客席のあちこちからストロボが光った。スマホが普及してからはあまり見ない光景だったが、この日のためにカメラを持参した観客も多かったのだろうか。私の周囲ではスマホを横に構えて動画を撮影する観客が多かった。せっかく現場にいるのに、彼らが見ているのは打席のイチローではなく、小さなスマホの画面。まあ何を見ようが各々の自由ではある。

 イチローは、アスレチックス先発の右腕フィアーズの2球目を打ち上げ、セカンドフライ。相変わらずタイミングが合っていない。</p><p> その後、5番サンタナの満塁本塁打などもあって、次の4回表、イチローに第2打席が回ってきた。投手はヘンドリクスに交代。何球かファウルを打ち続けて四球を選んだ。二塁にまで進んだが、特に見せ場もなく残塁。

 

 4回裏、いったん右翼の守備についたイチローは、サービス監督から呼び戻された。早くも交代。内野手たちはラインを超えて三塁ベンチ前に集まり、戻ってきたイチローを迎えてひとりづつ抱擁を交わした。

 これはいかんな、と思った。活躍したわけでもない選手を、わざわざ守備位置につけてからベンチに呼び戻すなんて、去り行く選手にファンに別れを告げる機会を与える、はなむけ以外の何物でもない。

 我々はイチローの最後の日々に立ち会っているのだということを、いよいよ認めなくてはいけないようだった。

 

 2017年のオフにマイアミ・マーリンズとの契約が解除され、イチローは所属球団のないまま神戸で練習を続けていた。古巣マリナーズが彼に声をかけ、契約が成立したのが3月。十分なキャンプを過ごせないままシーズンに入った彼の打撃は低調だった。2割そこそこの数字が続き、5月初めに奇妙な発表がなされた。イチローは代表特別補佐に就き、チームに帯同するが、このシーズンは試合に出ることはない。だから引退ではなく、2019年についてはわからない。会見を開いたイチローは、球団に感謝の言葉を述べ、今まで通り練習を続ける、と語った。

 

 そして2019年。イチローはマリナーズとマイナー契約を交わし、招待選手としてキャンプに参加した。打ち上げ間際にメジャー契約が成立し、彼は日本での開幕戦に参加することになった。

 これはヤンキースが松井秀喜を遇したワンデー・コントラクトのようなものかも知れない、という予感は誰もが感じていたことだろう。日本での開幕戦のベンチ入り人数は28人だが、帰国後は25人になる。オープン戦の終盤に無安打が続いたイチローの立場が、カットされる3人の中にいるであろうことは想像に難くなかった。そして彼は来日後も、ジャイアンツとの2試合を含む3試合で1本の安打も打てていない。帰国後も現役生活を続けられると信じるに足る材料は、何一つ見当たらなかった。

 

 翌21日の第2戦はテレビで見た。

 この日の昼間、NHK-BSプレミアムでは、イチローがMLB通算3000本安打を達成した2016年に制作した、3000本を全部見せる番組を延々と再放送していた。画面の中のイチローは、バットを自在に操作して、右に左に中央にと打球を飛ばしていた。これほど簡単そうに安打を量産していた男が今、たった1本を打てずに苦しんでいる。

 

 試合は18:30に始まった。始球式は藪恵壹と岩村明憲。前夜の2人に比べて在籍時の実績は華々しくはないが、一応アスレチックスOBである。打席にはケン・グリフィーJr.が立った。

 イチローは、この日も9番・右翼で先発した。2回の第1打席が三塁へのファウルフライに終わったのと前後する頃、共同通信が<米大リーグ、マリナーズのイチロー外野手(45)が第一線を退く意向を球団に伝えたことが21日、関係者の話で分かった。>と速報した。

 

 黙って見てろよ、そんなことは皆わかっている。頑なにそれを言わずに試合に出ている本人の心情を汲んでやれよ。そんな気分だった。

 

 4回の第2打席は二塁へのゴロ。いい当たりのようにも見えたが一、二塁間を抜けることはなかった。イチローは右翼の守備についた。前日のようにベンチに退くことはなく、そのまま試合は続行された。

 テレビ各局が「イチローが第一線を退く意向」との速報テロップを流す中、試合中継をしている日本テレビだけがそれをしない、というシュールな状況がしばらく続いたが、中継アナウンサーがとうとう、「試合後にイチローが会見を行う、とMLB広報から発表がありました。内容はイチローだけが知る、とのことです」と告げた。アップになったベンチのイチローの目が赤いように見えた。東京ドームの観客たちにも、スマホを通して、その事実が知れ渡っていったようだった。

 

 そうやって回ってきた7回の打席、無死二塁のチャンスだったが、見逃し三振。悲しいような、しょんぼりしたような、なんとも言えない表情だった。

 彼が三振の後にそんな顔をするのを見たことがない。「これでお前の球筋は読めた」と言わんばかりの傲岸不遜な表情で悠然とベンチに歩いていくのが常だった。何もかもが、最後の時が近づいていることを示していた。

 

 その後もイチローは退かず、8回の第4打席を迎える。変化球に詰まった打球が遊撃手の前に転がる。

 平凡なゴロを、内野手が何のミスもなく捕球して一塁に投げても、内野安打になってしまう。イチローは、内野手にとって悪夢のような打者走者だった。この日の昼間も何度も、そんな映像を見てきた。

 ある意味でもっとも彼らしい打球が転がったけれども、一塁では間一髪アウト。

 これは打撃不振ではなく衰えなのだと、ひとつひとつの打席が物語っていた。

 

 8回裏。選手たちが守備位置につくと、サービス監督がベンチを出てゆっくりと主審に歩み寄る。

 

 その時がきた。

 

 今度は外野も含めたマリナーズの選手全員が、三塁側のラインを超えてベンチ前に集まった。誰もいないグラウンドをイチローが、スタンドに手を上げながら、ゆっくりと走っていく。ファウルラインを超え、一人一人と抱擁を交わす。完全に試合は止まっている。イチローのためだけの時間。ベンチの選手やスタッフとも抱き合う。この日メジャー初先発し、5回2死まで好投しながら、勝利投手の権利を得ることなく降板した菊池雄星が、顔を覆って泣いている。

 全員との抱擁を終えたイチローは、再びスタンドに両手をあげ、グラウンドを去った。もう選手としてそこに戻ることはない。

 

 イチローが去った後も試合は続く。この時点で4-4の同点。前夜敗れたアスレチックスは剛球クローザーのトレイネンを繰り出しマリナーズ打線を抑え込む。延長に入っても得点の気配がない。中継アナと解説陣は終電の心配を始めていた。12回表、マリナーズが勝ち越して、ストリックランドがその裏を締め、5-4でマリナーズが連勝した。イチローはグラウンドに飛び出して選手たちを出迎えた。

 

 イチローが去った後も東京ドームの観客の多くは帰らない。再び彼が姿を現すことを待ち続け、イチローを呼び続けた。私はBS日テレのサブチャンネル142で中継されていたその光景を、テレビで見続けていた。

 おそらく予定にはなかったはずだが、観客の熱意に本人も周囲も動かされたのだろう。イチローが再び姿を現し、グラウンドを一周して観衆に挨拶した。1974年の秋に長嶋茂雄が最後の公式戦で、同じ敷地内にあった後楽園球場で行ったグラウンド一周を彷彿とさせる光景だった。

 

 彼がMLBで最も輝いた時代を過ごした、愛するシアトルのユニホームを着て、チームとともに公式戦で日本に戻り、日本のファンに見守られてグラウンドを去る。こんなにも幸福な形で現役生活を終えることのできる野球選手が何人いるだろうか。偉大な業績にふさわしい、特別な別れだった。

 

 記者会見が始まったのは24時近く。冒頭に「今日のゲームを最後に日本で9年、米国で19年目に突入したところだったんですけど、現役生活に終止符を打ち、引退することとなりました」と明言したイチローは、ひとつひとつの質問に本当に丁寧に、おそらく質問者の予想をはるかに上回る深さで、自らの野球人生を振り返って語り続けた。

 引退を決めたのは「キャンプの終盤」だったとイチローは語った。

 「もともと日本でプレーするところまでが契約上の予定でもあってということもあったんですが。キャンプ終盤でも結果が出せずに、それを覆すことができなかったということですね」

 事実上、2日間の「ワンデー・コントラクト」ではあっても、それを引き延ばそうと試みたけれども、かなわなかった。日本に着いた時には、既にそれを受け入れて、ただ日本のファンに別れを告げるためにやってきた。そういうことだったのだと思う。

 

 午前120分ごろ、「お腹すいたよ」と笑うイチローの言葉を契機に会見は終了した。記者会見自体が素晴らしいショーだった。結局私は18時半から7時間近く、ずっとテレビを見続けていた。

 会見があまりに面白くて、試合を見ていた時の感傷的な気分は消し飛んでいた。イチロー自身も、会見場がしんみりとした空気になるのを嫌って、ちょいちょい笑いをとりにいっていたのかもしれない。ついに最後までカメラの前で涙を見せることはなかった。

 

 会見の全文は、これらのサイトで読むことができる。中継を見られなかった方はぜひお読みになることをお勧めする。もはやイチローの作品と呼んでも過言ではない。

https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/ichiro

https://full-count.jp/2019/03/22/post325131/

 

 

 テレビ中継についても触れておきたい。

 この試合、日本では日本テレビが生中継した。18時から19時まではBS日テレ(試合開始は1830分)、19時から約2時間は日本テレビが地上波で中継し、その後は再びBS日テレがサブチャンネルで中継を続けた。

 地上波で見ることができたのはイチローの第3打席までだった。21時からは単発のバラエティ番組が予定されており、日本テレビは予定を変更することなく試合中継を打ち切った。地上波しか見られないという人たちの怨嗟の声がツイッターに流れ、さっそく<#イチローを、見せないのか>というハッシュタグが作られた。

 

 私自身は21時以降もBS日テレで中継を見続けていた。

 結局、BS日テレは記者会見の最後まで完全中継したので、個人的に感謝している。ほとんどCMが入ることもなかったので、スポンサーもないままでの自主制作だったのではないか。王貞治が756本を打った昭和52年とは異なり、民放も複数のチャンネルを持っているので、こういう方法でファンに応えることはできる(サブチャンネルになると画質はだいぶ落ちるけれども)。

 

 ただし、地上波の日本テレビとしては、さんざんな結果だっただろうと思う。試合途中で会見開催がリリースされたけれども、中継は予定通り打ち切られ、21時からは単発のバラエティ番組が放送された。イチローの最後の打席も、守備位置から退くセレモニーも、地上波での中継が終わった後のことだった(視聴者にとってはどうでもよいことだけれども、中継を続けていれば結構な視聴率が記録されたことだろう)。

 さらに、試合自体が長引き、その後で予定外の場内一周があったため、「NEWS ZERO」は会見冒頭の第一声しか中継できなかった(「引退します」の一言がかろうじて入ったのは、不幸中の幸いだったか)。

 

 日本テレビだけではない。引退会見を生中継した地上波の局はほとんどなかった。フジテレビとテレビ東京がスポーツニュースやニュース番組の枠内で一部を中継できただけだ。完全中継したのはBS日テレと、いくつかのインターネット番組だけだった。

 弾力的な衛星放送と、硬直的な地上波。テレビの強みと弱みを同時に見た気がした。

 

 インターネットの時代になって、テレビの価値や役割が改めて問われている。

 「多くの人が関心を持つ『いま起きていること』を、多くの人にリアルタイムで見せる」というのは、今なおテレビが持っている大きな強みであり、役割でもある(近年とみに多い災害時に、それを実感している人も多いことだろう)。

 イチローの引退会見は、まさに「多くの人が関心を持つ『いま起きていること』」であろうと私は思うのだが、テレビ局は編成を動かしてそれを見せることをしなかった。

 テレビが人々から支持されなくなってきた要因のひとつは、こういうことにあるのではないかと思う。

 

 試合が終わった後、しばらくの間、BS日テレは、再びグラウンドに姿を現わすかどうかもわからないイチローを待ち続ける東京ドームの観客を映し続けていた。そして、私は自宅のテレビでただそれを見続けていた。

 

 起こるかもしれない何かを待って、まだ何も起きていない光景を映し続ける。

 それはある意味で、もっともテレビ的な営みである。

 かの、あさま山荘事件の際にも、人々はそのようにして、何事も起こらない雪山の建物を、固唾を飲んで見守り続けたはずだ(私はまだ幼かったので、あの鉄球以外は、よく覚えてはいないけれど)。

 前夜には自分もそこにいた場所をテレビで見ながら、私はそんなことを考えていた。

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とりあえずCSこのままでもいいんじゃね、という話。

 日本シリーズが面白くなっている。
 戦力差は圧倒的とみられた組み合わせ。初戦は下馬評通りにホークスが圧勝し、そのまま3連勝で大手をかけたものの、試合内容ではベイスターズも着実に押し返していた。そして第4戦で濱口が7回までノーヒットノーランという圧巻のピッチングで初勝利を挙げ、続く第5戦も打ち合いに競り勝って連勝。結果はどうあれ、なかなかいい戦いを見せている。

 ソフトバンクとDeNAという組み合わせが決まった時には、DeNAが日本シリーズに出ることの正統性を疑う声が世の中に満ちていた。シーズンの結果は1位の広島から14.5ゲーム差の3位。「長いシーズンはなんだったのか」という嘆きが、カープファンに限らず、いろんなところから聞こえてきた。
 パのCSファイナルも、ホークスと、15.5ゲーム差で3位の楽天の対戦となったため、これで3位どうしの日本シリーズになったらどうするんだ、という懸念を多くの野球ファンが抱いたことだろう。結果的には、パの代表はシーズンを圧勝したホークスとなったので、日本シリーズもまあ格好がついた次第。
 
 クライマックスシリーズという制度には、常にこういうリスクがある。度々起こるようではシーズンと日本シリーズの重みがまとめて薄れてしまう。かといって、常にシーズン1位チームが勝つようでは、あまり面白くない(というのが見物人の勝手な感情でもある)。
 実際のところ、CSが始まった2007年から今年まで11回のファイナル勝者のシーズン成績を振り返ると、このようになる。

セ 1位8回、2位2回、3位1回
パ 1位10回、2位0回、3位1回

 トータルでは22チームのうち1位18チーム、2位2チーム、3位2チーム。圧倒的に1位チームが日本シリーズに進んでいる。そして、2007年の中日(シーズン2位)と2010年のロッテ(シーズン3位)は、日本シリーズを制して日本一となった。
 3位チームが日本一となれば「なんだかなあ」という印象を持つ人は多くなりそうなものだが、当時レギュラー捕手だった里崎が「史上最大の下克上」というキャッチコピーを編み出したことで、ロッテが勝ち上がっていくことがむしろ快挙であるかのように受け止められ(いや、快挙といえば快挙なんだけど)、日本一になったことを「3位のくせに」と非難する風潮は目立ったなかったと記憶している。
(3位と言ってもこの年のロッテは首位から2.5ゲーム差という僅差だった。また、敗れた中日は2007年にシーズン2位から日本一になったのだから、制度に文句を言う筋合いでもない)

 話を戻す。
 これまでのCSでは、計22のシーズン1位チームのうち、18チームはCSを勝ち抜いた。81.8%の勝率である。これを人々がどう評価するか、ということになるが、まあちょうどいいレベルなのではないか、と私は思う。野球における「勝率81.8%」は、シーズン勝率としても、特定チーム同士の対戦成績としても、まずありえない圧倒的な数字なのだから、結果としてはシーズン1位チームに優位な制度となっていると考えてもよさそうだ。
 
 そんなはずはない、もっとシーズン1位チームが負けているはずだ、という印象を持つ人もいるかもしれない。私も集計してから「あれ?」と思った。これは理由がある。
 両リーグが足並みを揃えてCSを始めた2007年に先立って、パ・リーグは2004年から3年間、独自のプレーオフを実施した。そして、04年、05年と続けて、シーズン1位だったホークスが敗れた。この結果を受けて、06年にはシーズン1位チームに1勝のアドバンテージが与えられたが、この年のホークスは3位で、アドバンテージがむしろ不利に働いたという皮肉な現象も起こった。
 ホークスにとっては踏んだり蹴ったりの理不尽なポストシーズンだったのだが、敗れた王監督はぐっと堪えて、制度批判をしなかった(唯一、1位チームが待たされる期間が長すぎることには苦言を呈していたが)。賛否ありつつも、セも採用して現行のCS制度が始まり、存続しているのは、この王監督の苛烈な自制心のおかげだと私は思っている。彼ほど影響力のある人物が本気で怒って文句を言ったら、制度自体が持たなかったのではないか。
 そして、これらの試合そのものの白熱ぶり、面白さもまた、制度の定着に一役買ったに違いない。当時、このブログにえらく熱い観戦記(テレビですが)を書いたのを覚えている。
 
 現在のCS制度のデメリットとして指摘されるのは「レギュラーシーズンの重みが薄れる」「レギュラーシーズン勝者にとって不公平である」という点にほぼ尽きている。
 一方、メリットとしては「CS自体が注目され、客が入り、テレビでも放映される」「シーズン終盤の消化試合がなくなり、真剣勝負の試合が増える」という2点が大きい。商業的にも品質的にも価値の高い試合が増える、ということだ。
 もう10年以上前のことだから皆忘れているかもしれないが、ポストシーズンが日本シリーズしかない時期、優勝が決定した後のリーグ戦の内容は酷いものが多かった。どのチームも目標を見失い、勝敗度外しで若手を起用したり、露骨な個人タイトル狙いの選手起用があったりした。優勝を狙えそうにない戦力の球団にとってはペナントレース全部が消化試合のようなものだったかもしれない。
 が、客観的に見て優勝は無理だろうというチームにとっても、3位であれば現実的な目標になりうる。優勝が決まって以後も、2位と3位を争うチームが2〜4チームはあるわけで、そうなると、いわゆる消化試合はほとんどなくなり、勝ちにこだわる戦いが増える。その点は導入時の狙いが実現されていると思う。
 CSそのものの面白さは説明するまでもないだろうし、レギュラーシーズンの試合のテレビ放送が激減した現在の状況では、CSが一部とはいえ民放地上波で放送され、熱心なプロ野球ファンではない人々の目に触れる機会となっている現状は、プロ野球にとって貴重なものとなっている。
 
 というわけで、メリットとデメリットを天秤にかけてどう評価するかはそれぞれお考えもあるだろうが、私は現行のCS制度は悪くないと思っている。
 理想論を言えば両リーグ2チームづつ増やして東西2地区に分け、それぞれの1位チームがプレーオフを戦って、勝った者どうしが日本シリーズを戦うのが公平だし、そうなれば良いと思っている。が、もしそれが実現したら、我々は、その理不尽さのないポストシーズンに、少なくとも当初はちょっとした物足りなさを味わうかのもしれない。

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続・公式戦を引退試合にするのは、あまり感心しない場合もある。

 10月7日に、山本昌が最後の登板を果たした。ナゴヤドームではなく広島で。展開次第では出番を作るのが難しくなると判断したのか、「打者1人限定の先発」である。結果は1番打者の丸をニゴロに仕留め、「史上初の50歳登板」は幕を閉じた。
 広島は、試合前にスクリーンに山本昌の足跡をまとめた映像を流し、降板に際しては新井から花束を贈ったという。手厚いおもてなしである。
 
 一方でこの試合は広島にとっての今季最終戦。「勝てばCS」という大きなものがかかっていた。MLBからの黒田復帰で膨れ上がった優勝への期待に背いて低迷した今季、雪辱を果たす最後のチャンスだった。
 だが、山本昌が降板した後も打線はふるわず、5位の中日に完封負けを喫して、希望は潰えた。
 もし前田がこのオフにMLBに旅立てば、今季は前田と黒田が二本柱として並び立つ最初で最後のシーズンだったことになる。前田が抜けたカープが、その穴を即座に埋めることは難しい。黒田も今年は活躍したものの、突然成績が落ちることが起こりうる年齢ではある。
 そう考えると、カープにとってこの試合は、何としても勝たなければならないはずだった。

 山本の「サヨナラ登板」が、勝敗の帰趨に影響したかどうかはわからない。ただ、もし私が広島カープの選手であったなら、試合前の映像や試合中のセレモニーを見て、「ウチの球団、こんな大事な時に何やってんだろうな」と鼻白んだかもしれない。広島は10/2の中日戦でも、選手としての引退を表明した谷繁に対し、試合前に記念の映像を流し、ベイスターズ時代の同僚である石井琢朗コーチから花束を贈呈したという。ずいぶんと手厚いおもてなしである。
 (最終戦の翌日、広島は東出の引退を発表した。生え抜きの主力選手だった彼には、シーズン最終戦でファンの前で挨拶する機会は与えられなかった)
  
 今年の野球界は有力選手の引退ラッシュだ。オリックスの谷、西武の西口、楽天の斎藤隆、DeNAの高橋尚成、阪神の関本。中日は特に多く、山本昌、谷繁のほか、和田と小笠原も引退だ。
 シーズンを通して低迷し、早々にCS進出の望みがなくなったこともあってか、中日は4選手それぞれ別の日に「最後の出場」と、セレモニーの機会を設けた。しかも谷繁は古巣・横浜スタジアム、山本昌は前述の通り広島だ。
 私にとっては、皆、売り出した時から見てきた選手だから、引退となれば感慨もあるし、最後の勇姿を映像で見れば、じいんと来るものもある。それでも、この中日球団の振る舞いは、やりすぎと感じる。
 
 以前から、引退の決まっている選手を公式戦にサヨナラ出場させて「引退試合」と呼ぶ風潮には違和感を抱いている。このブログで反対意見を書いたエントリをアップしたのは、2007年のことだった(このエントリのタイトルに「続」とついているのは、そういうわけだ)。
 それから8年経って、風潮は衰えるどころか、ますます盛んになっている。
 
 折しもプロ野球界では、ジャイアンツの福田聡志投手が野球賭博に関わったことが発覚し、大問題となっている。この種の教育についてはしっかりしている球団だと思っていたので、報道に接した時には強いショックを受けた。残念で、悔しくて、忌々しい。

 野球協約では、野球賭博で自身が所属する球団に賭けた者は永久資格停止(いわゆる永久追放)、野球賭博をしたり、その常習者と交際した者は1年または無期の資格停止、という厳しい罰則を定めている。

 プロ野球の選手や指導者が野球賭博に関わることが、なぜ許されないのか。
 賭博自体が犯罪である。また、それが反社会的組織の資金源になることも好ましくない。が、それだけなら一般人も同じだ。
 プロ野球選手が特に許されない理由は、賭博が八百長につながる可能性があるからだ。賭博に携わる人々が、自身に有利な結果を求めて、チームや選手を思い通りに動かそうとする可能性がある。
 八百長は、英語でMatch fixingという。あらかじめ勝敗を決めてしまう、という意味だろう。NPBがファンに提供する商品は、どちらが勝つか判らない真剣勝負である。Match fixingが行われると、それがたとえ特定の1試合だけであったとしても、他の試合についても勝負の真剣さが疑われ、プロ野球全体の商品価値が著しく損なわれてしまう。
 
 八百長が行われた試合でも、160キロの剛速球や飛距離150メートルの本塁打を見ることはできるかもしれない。ひとつひとつのプレーの質は、物理的には他の試合と変わらないかもしれない。
 だが、例えばシーズンオフに行われる日米野球では、目を見張るようなプレーをたびたび見ることはできても、心臓を鷲掴みにされるような緊張や興奮、感動を味わうことはない。両チームの選手たちが勝利を目指して懸命に戦う姿があればこそ、ファンは試合に熱中し、情緒を揺り動かされる。

 ラグビーW杯イングランド大会で、日本が南アフリカに勝った試合を見て、ハリー・ポッターシリーズの作家、J・K・ローリングは「こんなの書けない」とツイッターに書いたという。
 細かく言えば、彼女はこういう物語を書くことはできる。だが、一流の作家が技巧と情熱を尽くして同じ物語を書いたとしても、読者にあの試合と同じ感動を与えることは、ほぼ不可能だろうと思う。それはまさに、小説では試合結果を作家がfixせざるを得ないからだ。どうなるかわからないものを同時進行で見ているからこそ、その結果に観客は興奮し、感動する。
 
 そういう大前提を踏まえた上で考えれば、すでに引退を表明した選手、とりわけ、シーズン中に実力で一軍に上がることができなかったり、故障ですでにトップレベルのプレーができないとわかっている選手を試合に出し、さらに試合を中断して花束贈呈などのセレモニーを行うことは、手放しで称賛するようなことではない、と私は思う。試合の前や後でセレモニーを実施するだけならともかく、それが試合そのものに侵入するというのは、好ましいことではない。
 
 だから、福田の野球賭博関与が発覚し、それを厳しい論調で批判していたメディアが、その2日後には山本昌の最終登板を無批判かつ感傷的に伝えていることが、私には奇異に感じられる。この人たちは、選手が野球賭博をすることがなぜいけないのかを、真剣に考えているのだろうかという疑問さえ抱いてしまう。

 これが、上位進出の可能性も潰え、もはや真剣勝負としての価値にも乏しい消化試合であれば、そんな試合にも足を運んでくれるファンのためのサービスにもなるし、あまり目くじらを立てなくてもよいかもしれない(ただし、個人タイトルの帰趨に直接影響するような場面での登場は避けるべきだろう)。
 だが、CSの導入によって、その種の消化試合は著しく減った。ホームチームの最下位が確定していても、対戦相手には懸かるものがある、というケースが頻繁にある。そもそも、消化試合を減らし、シーズン終盤まで真剣勝負を増やし、観客の興味を引きつけることが導入の目的だったのだから、当然である。
 だから、今のプロ野球では、引退選手のサヨナラ出場は、なかなか難しいはずなのだ。それでも無理に出場させようとすると、今回の山本昌のようなことになる。
(もし「史上初の50歳登板」という記録を作らせることも目的だったのだとしたら、そんなやり方は記録に対する冒涜でもある。宇佐美徹也さんが存命だったら、激怒されたのではなかろうか)

 引退試合はオフのファン感謝デーか翌年のオープン戦でやればよいではないか。公式戦でファンに最後の挨拶を、というのであれば試合後にセレモニーをすればよい。無理に公式戦に出場させることはない。
 だいぶ前のことだが、ヤクルトの鈴木健が最終打席で三塁側に打ち上げたファウルフライを村田修一が(十分取れる位置にいたにもかかわらず)捕球しなかったことが、美談のように伝えられた。今年も楽天の斎藤隆の最終登板で、細川は明らかなボール球を振って三振した。
 村田はその後、広島の佐々岡の最終登板で本塁打を打ち*、観客から「空気の読めない奴」と冷たい視線を浴びた(と、その日スタンドにいたという知人が話していた)。結局は、相手チームの選手までもが、真剣勝負ではない何かの片棒を担ぐことを無言のうちに求められる。衆人環視の中で、投手と打者の対戦がfixingされていく。

 最後に出場する選手は嬉しいだろうし、相手チームも含めて選手や監督たちも感動するだろう。スタンドのファンも喜ぶ。球団も潤う。誰も損をしない、いいことづくめのように見える。
 一方で、こういうやり方は、「1打席、1人分くらいいいじゃないか」が「せっかくだから花を持たせてやろうよ」「なんでそこで空振りしないかな」とエスカレートしていく。そこでは、目には見えず、小さいけれども、何かが確実に損なわれていく。
 長年活躍した選手の労を報い、功績を祝福し、次の人生に送り出す、せっかくの機会なのだ。できるだけ瑕疵のない方法で実現されることを望んでいる。
 
 
*前のブログにも書いたように、村田はこの本塁打により初の本塁打王のタイトルを獲得し、高橋由伸はこの本塁打により、タイトルを取り損ねた。おそらく高橋は打撃タイトルに縁のないまま現役生活を終わることになりそうだ。

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スポーツ選手に与えられる、最上級の褒め言葉。

 イチローのMLBでの通算安打数がベーブ・ルースに近づいたとか並んだとか抜いたというニュースを、このところよく目にする。そのたびに多くのメディアがベーブ・ルースを「野球の神様」と形容している。例えばこのように。

イチロー“神様”ルース超え2875安打も…マーリンズ泥沼8連敗 スポニチアネックス 5月23日(土)
 
 これ以上の褒め言葉はなさそうだし、ベーブ・ルースは「これ以上ない褒め言葉」にふさわしい選手でもある。ただ、自分はそこそこ長くMLBを見て、その歴史にも日本人の平均よりは通じているつもりだったが、ベーブ・ルースが「野球の神様」と呼ばれているとは知らなかった。出典を探そうとネットを少し検索してみたが、なかなか見つけることができない。例えばWikipediaを見ると、日本語版の「ベーブ・ルース」の項には、冒頭の概要部分に<野球の神様と言われ、米国の国民的なヒーローでもある>と書かれている。が、英語版の<Babe Ruth>の項目の同じ部分には<Nicknamed "The Bambino" and "The Sultan of Swat">とあるだけだ。Bambinoはもともとはイタリア語で「赤ん坊」や「坊や」の意味。Sultanはイスラム世界の君主で、swatは「激しく打つ」「長打」などの意味があるから、Sultan of Swatは「打撃の帝王」くらいの意味か。そもそも彼の本当の名前はジョージ・ハーマン・ルイスであって、ファーストネームとして扱われているベーブ自体が「赤ちゃん」という綽名である(「坊や哲」「お嬢吉三」みたいなものか)。
  
 日本野球には、「神様」と呼ばれた人物がいる。代表的なのが「打撃の神様」川上哲治だ。卓越した技術と成績に加え、厳格で人を寄せ付けない人物像、求道的な打撃への姿勢、そして「球が止まって見えた」という発言に代表される神秘性などが相まって、「神様」という綽名が定着したのだろう。
 赤坂英一が川相昌弘について書いた「バントの神様」という本もあるが、これは川相の綽名として定着したというほどではない。ただ、ひとつの分野、ひとつの技術に精通した人物を「○○の神様」と呼ぶことは、日本ではさほど珍しくないように思う。
 
 「神対応」「神回」というような形容がごく普通に使われる昨今の風潮を見ても、日本人にとって「神」は、尊敬する対象ではあっても、さほど畏怖されるものではないらしい。人間を「神」と呼ぶことに対するハードルはかなり低い。
 そんな日本にあっても、1人の選手を「野球の神様」と呼んだ例は記憶にない。「野球の神様」は、例えば「野球の神様が助けてくれました」みたいな談話に代表されるように、野球というゲームを司る絶対者、というようなニュアンスで語られるのが一般的だろう。
 
 ルースの人柄は「ベーブ」と呼ばれたことからもわかるように、子供っぽくて、よく言えば天真爛漫、悪く言えば自分勝手な人だったようだ。彼自身はヤンキースの監督になりたかったようだが、声がかかることはなかった。その意味では、川上哲治とはかなり異なるキャラクターだったようだ。
 
 なぜルースが「野球の神様」と呼ばれたことになっているのかを見つけることはできていないのだが、ネットで検索すると、この形容が、昨年、大谷翔平が達成した10勝&10本塁打に関する記事に多用されていることがわかる。
 
大谷“野球の神様”に並ぶ!96年ぶりの10勝&10発
 
 ベーブ・ルースといえばホームラン。普通なら「伝説的な長距離砲」とでも呼んでおけば済むのだが、この話題で彼の名を出す時ばかりは、それでは物足りない。投手としても優れていたことを同時に示さなくてはならないからだ。大谷の凄さを示すためには、なぞらえる相手も偉くなくてはならない。形容に窮した誰かが、えいやっと「野球の神様」にしてしまった、てなことだったのではないか…と想像したのだが、Yahoo!知恵袋にはそれ以前にもルースを「野球の神様」としている質問があるので、昨年から突然呼ばれ始めたのではないらしい。
 
 この件が気になるのは、そもそも一神教が支配的な社会で、人間に対して「神」という綽名が定着したりするものなのだろうかという素朴な疑問があるからだ。
 上にも書いた通り、日本では偉人をすぐに神様と呼びたがる。ペレも「サッカーの神様」とする記事をよく目にするが、ペレといえばキングと昔から決まっているので、これには強烈な違和感がある。ジーコにも「神様」という形容がよく使われたが、これは彼の日本での業績に対する尊称だから、まだしも納得できる。
 スポニチや他のメディアがルースを「野球の神様」と決めて勝手に使うのならともかく、「大リーグで“野球の神様”と呼ばれた」などと書いてあると、誰が呼んでるの?と気になってしまう。 
 イチローがルースの通算安打数を抜いたことはSIなど米メディアでも話題になっていたが、ルースの名は形容抜きで記述されている記事が多い。日本のスポーツメディアにとって長嶋茂雄が説明不要な人物であるのと同様、ベーブ・ルースという名前は、USAのスポーツメディアにとっては説明不要な名前なのだろう。
 
 MLBの「神様」といえば、私の頭に浮かぶのはルースではなく、テッド・ウィリアムズだ。彼は日本では「打撃の神様」と呼ばれていた。米国のwikiでは<Nicknamed "The Kid", "The Splendid Splinter", "Teddy Ballgame", "The Thumper" and "The Greatest Hitter Who Ever Lived",>とされている。たくさんあるが、神に類するものはない。
 
 ただ、彼には神にまつわる有名なエピソードがある。
 現役最後の試合の最後の打席で本塁打を放ったウィリアムズは、観衆のスタンディングオベーションにも、ベンチを出て応じようとはしなかった。なぜ手を振ってやらないんだ、と問われて、「神様というものは、手紙に返事を書かないものだ」と答えたという。たとえば伊東一雄・馬立勝「野球は言葉のスポーツ」(中公新書)に紹介されている。もっとも、実際にはこれはウィリアムズ自身の言葉ではなく、作家のジョン・アップダイクがこの場面を評して書いたものらしい。米国版wikiにも<Williams' aloof attitude led the writer John Updike to observe wryly that "Gods do not answer letters.">とある。
 
 私自身は現役時代のウィリアムズを見たことはないが、このエピソードは知っていた。知っていたから驚き、胸を熱くした場面がある。1999年のオールスターゲームでのことだ。
 この年のオールスターはボストンのフェンウェイ・パークで行われた。始球式に招かれたのは地元レッドソックスの生ける伝説、テッド・ウィリアムスその人だった。彼がマウンドに立つと、両リーグの選手たちが、みな集まって握手を求めた。選ばれたスターたちを野球ファンの子供に戻してしまう、スターの中のスターが彼だった。
 始球式の後、ウィリアムズはカートで場内を回った。立ち上がって拍手を贈る観客に向かって、ウィリアムズは高々と手を振っていた。< He proudly waved his cap to the crowd — a gesture he had never done as a player.>“選手としては決してやらなかった仕草だった”、と米国版wikiには書かれている。神が人間に戻った瞬間だった。
 
 「神」でもうひとり、思い出すスポーツ選手がいる。とあるゴールについて「ディエゴの頭と神の手が決めた」と語った、あの人物だ。マラドーナには「神の子」という綽名もあったようだが、これまた出典がすぐには見つからない。奔放な性格は、伝えられるベーブ・ルースのそれに似ているが、ディエゴはベーブと違い、希望通りにアルゼンチン代表の監督になった(成功はしなかったが)。
 
 マラドーナと綽名について語るならば、マラドーナにつけられた綽名よりも、「マラドーナという綽名」の方が意味があるかもしれない。彼が活躍した80年代半ばから90年代にかけて、卓越した技術を持つ中盤の選手は、よくマラドーナになぞらえられていた。「カルパチアのマラドーナ」と呼ばれたゲオルゲ・ハジ、「砂漠のマラドーナ」と呼ばれたサイード・オワイラン。日本にもいたはずだ。あのころ、世界中に何人のマラドーナがいたことだろうか。

 日本野球で最初の三冠王、中島治康は「和製ベーブ・ルース」と呼ばれていた。早稲田実業の期待の長距離砲、清宮幸太郎も、リトルリーグの世界大会で米国メディアに「和製ベーブ・ルース」と呼ばれたそうだ。ルースもまた、綽名をつけられることよりも、綽名となることにふさわしい。
 
 スポーツ選手にとっては、「神様」と綽名をつけられることよりも、自分の名が他人の綽名に冠せられることこそ、最上の栄光なのかもしれない。

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もう「統一球」なんてやめちゃったらどうですか。

 昨年、規定を逸脱して飛ばなすぎたボールを内緒で品質改善したことが問題になったプロ野球の統一球が、今度は飛びすぎるというのでまた問題になっている。「プロ野球界の和田アキ子」とも言うべき存在である星野仙一楽天監督もお怒りのようだし、その楽天の正捕手にして選手会長の嶋も問題視している。

 もちろん、プロ野球の使用球は反発係数が一定の範囲となるよう定められているのだから、製造元であるミズノは、その規定に沿ったボールを納入する義務がある。各球団の指導者と選手は、ボールが規定に沿ったものであるという前提の上でプレーしているのだから、違った場合に文句を言うのは当たり前ではある。

 ただ、メディアで見られる監督、コーチ、選手、あるいは球団の経営陣の声は、怒りの感情の濃淡はあれど、「規定通りの球にすべし」という方向では一致している。となれば、ミズノが謝罪して、規定に沿ったボールを納入すれば一件落着ということになる。でも、それでいいんでしょうか。これはそういう問題なのか?
 


 そもそも統一球は何のために始まったのか。導入を決めた2010年8月にNPBが発表したプレスリリースをNPBの公式サイトで読むことができる。加藤良三コミッショナー(当時)の声明文に、こんな記述がある。

<2009年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)などで選手、関係者が国際試合で日本のボールとの様々な違いに戸惑うケースがあることを目の当たりにいたしました。 それをきっかけに春季キャンプの視察などで現場からのボールに関する意見や要望をお聞きし、まずは国内の使用球を統一することにしました。その統一した結果として、国際試合でもNPBの選手のボールに対する違和感が少なくなることを期待しています。>

 そう、思い起こせば統一球が導入された主目的は、選手が国際試合で戸惑わないようにするため、ということだった。
 その効果はどうだったか。2013年のWBCの後には、こんな記事が見られた。

「似て非なる」ものだった統一球とWBC球(スポニチ)

<統一球を手にしたことのある松坂(インディアンス)は、握ったときの感触も含めたその類似度について「大リーグ球を10としたら、統一球は3くらい」と表現する。違和感を感じていたのは投手だけではない。内川は「打ったときにすかすかした感じ」と力が伝わらない様子を訴えた。さらに送球がすっぽ抜けて失策にならないように、低い球筋を徹底する指示も出ていた。>
<与田投手コーチは「全ての選手と言っていいくらい、苦しんでいた。滑ると思うあまり無意識のうちに力が入る。統一球ではあり得ない腕や肘の張りが出る」と指摘する。>

 統一球を公式戦で使っていたにもかかわらず、選手はWBCの使用球に、ものすごく戸惑った。加藤コミッショナーの意図は達成されていない。この段階ですでに「統一球」は失敗だったと言ってよい。
 
 
 統一球が始まったのが2011年。ミズノとの契約は2年間で、2シーズンを終えた時点で見直しを行うとされていたはずだった。だが、2012年オフにどの程度の話し合いが行われたのか明らかにされないまま、翌2013年にも統一球は使われ続け、そして「飛ばなかったボールを内緒で品質改善した問題」が発覚した。
 昨年、この問題が発覚した際には「飛ぶボール」という表現がずいぶんと使われていたので誤解している人がいるかも知れないが、昨年のボールは規定の反発係数の範囲内だった。規定外だったのは、その前の2年間である。つまり、「統一球」は最初の年からすでに、契約上のスペックを満たすことに失敗していた。
 そんな苦い経験をしたはずのメーカーが、今年再び品質管理に失敗したというわけだ。世の中にはミズノを罵る論調が目につくし、まあ非難されても仕方のないことだとは思うけれど、ここまで失敗続きだと、根本的な疑問が湧いてくる。

 そもそも現行のスペックを満たすことが、1メーカーに可能なのだろうか?
 
 日本のプロ野球では、2010年まではミズノを含む4社がボールを提供していた。球団ごとにメーカーを選んでいたので、社によって生産量は違ったのだろうが、いずれにしても、すべてのボールを供給している現在よりはずっと少なかったはずだ。
 統一球の導入が決まった時期の新聞記事によると、<12球団が昨年1年間で使用した一軍試合球は、練習やブルペンなどでの使用も含めて約2万5000ダース>(読売新聞2010年8月24日付、記事中の「昨年」は2009年のこと)だという。
 上述のNPBのプレスリリースには、ミズノが供給するボールの新旧スペックを比較した表がついている。これを見ると、原材料の牛革とウール糸は、それまでの国産から中国製に切り替えたことがわかる。同社は統一球を生産するために中国・上海に工場を作った。価格もそれまでから2割以上下げたというから、相当な企業努力をしたはずだ。というか、かなりの無理をしたんじゃないか。中国製=粗悪品と決めつけることはできないが、日本の熟練工が手縫いで作るボールと同じ品質のものを、始めたばかりの海外工場で作れるとも思えない。
 この生産体制の結果が、度重なる規定違反。となると、もはや「統一球」が求める量、品質、価格をすべて満たすことは、同社の能力を超えていると考えた方がよさそうだ。

 硬式野球ボールにおける国内シェアは知らないが、スポーツ用品メーカーとしてはミズノは押しも押されぬ大企業だ。そのミズノにして品質管理ができないのなら、一体どのメーカーにそれが可能なのだろう。


 MLBの使用球はローリングスが1社で供給している。<年間使用量は約11万ダース。工場はコスタリカにあり、不測の事態に備えて年間使用数の25%の備蓄がある>(読売新聞2010年9月1日付)という。
 この記事には<大リーグ機構(MLB)では「ケン・グリフィーが新人の時と、(今年の新人の)ストラスバーグが投げているボールは同じ」と、同品質の球を大量に安定供給し続ける能力を評価する>とあって、ローリングスは量と品質をともに満たしているように読めるけれど、アメリカに渡った日本人選手の評価はかなり異なる。
 例えばスポーツライターの二宮清順は、2012年春にこう書いている。
<多くの評論家が既に指摘していることだが、メジャーリーグの公式球は日本のそれと比べると滑りやすく、縫い目の山が高い。昨シーズン、ボルチモア・オリオールズからレンジャーズへ移籍した上原浩治は、物憂げな面持ちでこう語っていた。「日本の(高品質の)ボールに比べたら天と地ほどの違いがある。米国のボールはひとつひとつ全て違う。しかもツルッツル。まだ悩んでいます」>

Numberwebにもこんな記事があった。
<「日本のボール製造技術とメジャーの技術(メジャー公式球はローリングス社製でコスタリカの工場で生産されている)を比べると、製品の均一性では日本が圧倒的に勝っているんです」
 その関係者はこう案じていた。
「メジャーの場合は飛ばないといっても、データ上の数字と実際の数字ではムラがある。同じ公式球でも飛距離の差は10フィート(約3.04m)から20フィート(約6.08m)は当たり前という世界で、ときにはそれ以上のときもあるのが実情です。ただ日本の技術で飛距離を抑えた低反発のボールを作ったら、ほぼその規格で仕上がってくる。全部が飛ばないボールになるということです」>

 MLBのボールは、メーカーは統一だけど、日本人の目から見れば品質は統一されていないのが実情のようだ。

 長くなったので、話を整理する。

・統一球導入の目的は「選手が国際試合に戸惑わないこと」だったが、2013年のWBCでは、その効果はなかった。
・統一球の導入から4シーズンのうち3シーズンで反発係数の逸脱が著しく見られたことからして、現行の「統一球」が求める価格と品質と量のすべてを満たす能力はミズノにはない。日本の他社にあるかどうかは未知数。
・MLBのボールの品質のばらつきは日本よりも激しい。従って米ローリングス社がボールの品質を「統一」する能力は日本のメーカーよりも低そうだ。

 こうなると「統一球」は、実体のない概念に近い。そんなものはもはや幻に過ぎないと考えた方がよいのではないだろうか。
 NPBがこれ以上「統一球」に固執する意味が、どこにあるのだろうか。

 私は、「統一球」が規定の反発係数を逸脱したこと自体については、是正は必要だが、そんなに大声で非難するようなことだと思ってはいない。
 そもそも野球というのはアバウトな競技だ。屋根のないスタジアム(それが本来の姿だが)では、風の強さや向き、湿度によって飛距離は影響される。打席から外野フェンスまでの距離や、フェンスの高さも球場ごとに違う。MLBでは左翼と右翼で形状がまったく異なる球場を平気で使っている。内野の芝も、人工芝と天然芝では反発係数は相当異なるはずだ。そういう環境の中で、ボールだけを精密に品質管理しても、あまり意味はないんじゃなかろうか。野球は飛距離を競う競技ではないし、1試合の中で同じ品質のボールが使われている限り、両チームにとっての公平は担保されている。
 さらにいえば、反発係数を定めているのは公認野球規則ではない。それは、国内リーグのアグリーメント、つまり申し合わせ事項に過ぎない。各球団が合意すれば変更することも可能な数値である。もちろん、各球団の合意なく、またプレーする現場に知らせることなく変更してしまうのは「約束事」を破ったのと同じだから、各球団や現場には怒る権利があるし、逸脱は是正されるべきだ。しかし、透明性さえ確保されていれば、あとは定期的に粛々と点検し、間違いがあれば是正していけば、それでよいと思っている。

 「統一球」が導入される以前までは、NPBの試合球の品質はメーカーによってかなりのばらつきがあり、つまり主催球団によって使用球の品質も違った。ミズノの球はよく飛ぶと定評があったことも、こちらの小川勝の記事に詳しい。
 目下お怒りの星野仙一監督も、現役時代にはホームとビジターでは違う品質の球を投げていたはずだ。彼は昔からいろんなことに怒っていたが、ボールの品質に文句をつけていたという記憶はない。2010年までは誰もがそれでやっていたのだから、そこに戻ることに大きな問題があるとは思えない。
 
 「統一球」を試みたこと自体を批判しようとは思わない。試験的に導入したけれど、メリットが少ないので元に戻す。それでいいじゃないですか。
 幸い、このアイデアを始めたお方はすでに球界を去っているのだから、今やめても傷つく人はあまりいないだろうし。


追記(2014.4.16)
 この記事を見ると、2010年段階ですでに12球団すべてがミズノのボールを使っており(うち4球団は他社製品と併用している)、NPBにおけるシェアは圧倒的。統一球になったことで生産量は増えただろうが、たぶん倍増もしていないだろう。原材料を中国産に切り替えたことは、増産よりも値下げのためという意味合いが大きかったのかも知れない。


追記2(2014.4.22)
本日付の朝日新聞朝刊スポーツ面には、詳細な特集記事「FOCUS BASEBALL2014」<統一球「想定外」の連鎖>が掲載されている。興味深いのは以下の記述。
 
<反発係数を一定にするのは技術的に難しい。このため海外の主要プロリーグは反発係数を公表していない。関係者によると、韓国は4社による競合、台湾は1社独占だが、いずれも反発係数の測定結果は未公表だ。大リーグはローリングス社の独占だが、そもそも反発係数の測定すらしていないという>

 つまり、1国のプロリーグの公式戦で試合するボールのすべてを1社が提供し、反発係数を厳格に管理する、というような事業には前例がない、ということだ。そんなことが可能なのかどうかについては、以下の記述が大いに参考になる。

<日本車両検査協会によると「個体差があり、同じ1ダースの中でも反発係数に100分の1単位で幅が出ることもある」という>
 
 今シーズンのアグリーメントが定める反発係数は0.4034〜0.4234である。100分の2の間に収めることが要求されているのに<100分の1単位>で幅があるようでは、サンプル検査をした<同じ1ダースの中>にも違反球が含まれている可能性が高い。
 
 私がこの記事を読んで得た結論は単純だ。やっぱり無理なんじゃないの?

 

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NPB統一球変更隠蔽に関するツイート集。

これまた「今さら感」ですが、まあ一応継続中の事案ですし。しかし、調査するのに第三者委員会作るほどの大きな組織なのかNPBって。


●6月12日
「飛ぶボールでした」じゃなくて、去年が「飛ばなすぎるボールでした」ということだな。昨年、仕様から外れたボールを使っていたことが、そもそもの問題。そのミスを隠すために、嘘に嘘を重ねた結果がこの騒ぎ。お粗末すぎるNPB。

ボールの仕様の変更自体は、規則の範囲内であれば、公表すればよかっただけのこと。根本的な問題は、そもそも統一球は国際試合に対応するために導入したはずなのに、今年のWBCで選手たちが大会球にすんなり対応できていなかったのでは?という点。ここをしっかり検証しなければ意味がない。

昨年のボールが規定外になってしまったのは、技術的な問題。今年、仕様の変更を隠していたのは、組織の誠実さの問題。どちらがファンに嫌われるかは明白だ。NPBは自ら問題の次元を深刻な方向に導いてしまった。過去に不祥事で泥沼にはまった企業の轍を見事に踏んでいる。外交、下手すぎ。

ただ、野球のボールの品質が記録にどれほど影響するかは、あまり神経質になっても仕方ないのでは。ドーム球場でなければ試合ごとに気象条件が異なるし、外野フェンスまでの距離やフェンスの高さもまちまち。バットの品質だって選手が選べる。MLBのボールの品質はかなりバラツキがあると聞く。

嶋選手会長は労働環境が変わったことをデメリットのように語っていたけれど、野球の成績は相対的なものだから、ボールが飛ぶようになったことで得をする選手もいるわけですね。

統一球の件、選手や球団が文句を言うのはわかるけれども、一部の新聞が「ファンに対する裏切り」と批判しているのがよくわからない。個々の選手にとっては損得があるだろうけれど、野球全体のレベルが変わったわけではないし、見世物としての価値が損なわれたとも思わないのだが。

●6月13日
2010年までは5種類くらいのボールでも普通にプレーしていた選手たちが、統一球になったら飛ぶの飛ばないのと文句を言い出した。つまり、統一球の導入は選手の環境への対応力を弱めている。その上、MLB球やWBC球への適応にも効果がないとなれば、統一球という仕組み自体をやめた方がよい。

コミッショナーは、隠蔽がどうこうというよりも、当初の2年間の試行期間が過ぎても、ろくに功罪を検討せず、統一球を使い続けていることによる混乱に対して、大いに責任を感じて対処してほしい。むしろ、いろんな球が混在している方が、選手の国際試合への対応力は高まるんじゃないの?

@south_zonnbi まあしかし、よく打つ人が加入したからという面もありますしね。西武は統一球1年目の2011年より本塁打が減ってるけど、これは要するに中村がいないから。
※楽天の本塁打が今シーズン急増したことについて

@south_zonnbi もちろん、全体的に本塁打が増えてることは間違いないです。個人的な印象としては今年くらいでちょうどいい。だから、ボールの品質を調整したこと自体は間違ってないと思うんですけどね。MLBは貧打の年が続いた時にストライクゾーンを調整したとも言われてますし。

統一球の件、各球団の見解に温度差があって面白い。コミッショナーの選任方法の問題にまで踏み込んでいるのは楽天だけかな。昨年、再任に2球団が反対したと報じられたが、その一角なのだろう。RTした党首さんのツイートの通り、問題の根幹はコミッショナーを誰がどう決めて何をさせるか。

そう考えると朝日新聞の「加藤やめろ」キャンペーンは奇異に映る。RTした党首さんのツイートのように、問題はコミッショナーを誰がどう決めて何をさせるか。西村編集委員は加藤氏の辞任が「野球ファンの幸せにつながる」とか書いてるけど、留飲が下がるだけで、何かが改善されるわけではない。

@augustoparty ポジショントークとしては、「コミッショナーの選任や動向が一部の球団の意向に沿いすぎていることの弊害」という論調に向かいそうなものなのに、今回は加藤氏への個人攻撃に終始しているのが不思議です。
※朝日新聞の論調について

@augustoparty そんなところかもしれませんね。ドラフト裏金問題を激しくやってた頃は、払う側だけが悪で受け取る側はイノセント、学生野球は一方的に被害者という奇妙な論調でした。今回は、加藤氏が悪いと言ってる限り、ブーメランになる心配はないですね。

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