more than one game.

 FCバルセロナには、MES QUE UN CLUBというキャッチフレーズのような言葉がある。カンプ・ノウ・スタジアムのバックスタンドにも記されている。
 英語で言えばMORE THAN A CLUB、“クラブ以上のもの”であるのだという意思と自負の表明だ。

 昨29日夜に大阪・長居で開かれたサッカーの震災復興支援試合、日本代表-Jリーグ選抜で後者の監督を務めたドラガン・ストイコビッチは、試合後のインタビューの冒頭に、似た言葉を口にした。

"That game was more than one game," said Stojkovic. "I think that the Japanese football family gave a really big heart to the people of Japan."とJapan Timesの記事にある。

 Jリーグにとって東日本大震災が起こった3/11は、前週に開幕し、第2節の試合が行われる前日にだった。リーグはただちに試合をとりやめ、まもなく、約1か月にわたるリーグ戦・カップ戦の中断を決めた。3月下旬に2試合が予定されていた代表の強化試合は被災者のためのチャリティーマッチという位置づけに替えて、予定されていたニュージーランド代表の来日がかなわないと判明すると、代表とJリーグ選抜との試合に変更した。
 仙台や水戸、鹿嶋といった被災地に複数のクラブがあったことも影響しているのだろうが、その対応は、(国内のあらゆる分野の組織直接震災に対処すべき性質のものは別にして)の中でも、迅速かつ的確だったように思う。それだけに、もうひとつのプロスポーツ団体の迷走ぶりも際だってしまったわけだが。

 試合の内容は、こういう時期にしては、というよりも、こういう時期だからこその、気持ちの入ったものだったように思う。
 日本代表には、欧州のクラブに在籍する選手たちが結集した。それぞれのクラブは、Aマッチではない非公式戦と知りつつ、選手たちを快く送り出したようだ。アジアカップに出場した選手はもとより、参加しなかった阿部や、その後スペインに渡ってから代表に加わった家長らの顔もあった。
 「勝敗よりも被災者の力になることが大事だった」と語ったザッケローニ監督は、しかし初めて3-4-3の布陣を敷くというチャレンジで、強化の上でもこの試合を活用した。中盤の左に配された長友は、力強い突進でこのサイドを制圧。日本代表は、遠藤のフリーキックと岡崎の裏に抜ける突破により2点を先行した。

 Jリーグ選抜は、「ほぼ日本代表OB選抜」と呼びたいような顔触れだった。昨年のワールドカップ南アフリカ大会で日本のゴールの前に立ちふさがった中沢とトゥーリオがセンターバックを組み、川口、楢崎、中村俊輔、中村憲剛、小笠原、小野ら、日本サッカーの顔役ともいうべき選手たちが並んだ。
 そんな中で、仙台から参加し10番を背負ったリャン・ヨンギは、豊富な運動量でピッチを駆け回り奮闘した。日本テレビの中継が、アナウンサーの実況においても映像においても、彼をクローズアップする機会が著しく少なかったのは、彼が被災地のクラブから参加した選手だという点を抜きにしても、不当であったと思う。
 
 選手をごっそり入れ替えた後半も、中村俊輔が中盤の低い位置からゲームをコントロールし、選手たちは急造チームとは思えないコンビネーションで代表ゴールに迫った。GKのキックをトゥーリオがヘディングで競り勝ち、前にこぼれることを予期した飛び出しを見せたカズのゴールは、90年代前半に高木と組んだ2トップを彷彿とさせるものだった。バウンドする浮き球の処理の巧さは若い頃から抜きんでいた。

 「まだ苦しい大変な日が続くと思いますけど、日本全体、世界全体でこの危機を乗り越えましょう」

 言葉だけ抜き出せば、さほど特別なものではない。だが、日本サッカーの現代史を築き上げ、国内に知らぬ者のない「生ける伝説」が、この特別な試合で特別なゴールを挙げたことによって得たインタビューの機会に語られたからこそ、カズの言葉は特別な響きをもって人々の心に伝わる。
 
 カズやザッケローニやストイコビッチの名とともにこの試合のニュースが報じられること自体が、そのまま「日本はくじけないぞ」という世界へのメッセージとなる。被災者を元気づけるために開かれたこの試合の意義は、同時にそういう面にもある。彼らは、そのことをよくわかって、この試合に参加し、よく選ばれた言葉でコメントしている。その意味でも、この試合のために帰ってきてくれたザッケローニやストイコビッチには感謝している。
 
 Jリーグ選抜の顔触れに「顔役」という言葉を使ったが、岡田武史やラモスといったOBたちもスタジアムに駆けつけて、募金活動などに協力したという。まさに日本サッカー界の顔役が集まって、ひとつのことをなそうとした。
 それがどのくらい被災者のためになったのかを云々する立場に私ははないけれど、被災地以外の人々の心を奮い立たせ、被災地支援に向かわせる上では、大きな力になったはずだ。

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早すぎる中間試験をクリアしたザッケローニ。

 かつてワールドカップの中間年に開かれていた頃、アジアカップは代表監督にとっての中間試験のような意味合いを持っていた。

 1992年、史上初の外国人監督となったハンス・オフトは、史上初めてこのタイトルを日本にもたらした。就任当初は主力選手(特にラモスだ)との確執が伝えられたものの、夏に北京で開かれたダイナスティカップに優勝して選手たちの信頼を勝ち取り、秋に広島で開催されたアジアカップを日本人の目の前で勝ち取ったことで、メディアを含めた日本のサッカー界を味方につけた。「オフト・マジック」という言葉が広く流布されるようになったのは、この頃からのことだ。アジアカップで彼が手にした信頼は、翌年秋のワールドカップ1994アメリカ大会最終予選の最後の数分まで有効だった。
 
 日本が次にアジアカップをとったのは2000年の秋だった。前年にU‐20日本代表を率いてワールドユースのファイナリストとなり、この年にはU‐23日本代表を率いてシドニー五輪でベスト8に進んだフィリップ・トルシエが、年齢制限のないフル代表にすべての年代を結集し、満を持して臨んだ大会で、日本はグループリーグで圧倒的な得点力を見せつけ、危なげなく優勝した。ワールドカップ1998フランス大会組の名波、シドニー五輪世代の中村俊輔、ナイジェリアワールドユース世代の高原(シドニー五輪でも活躍したが)の3人がベスト11に選ばれるなど、世代的なバランスがとれ、西沢・高原の2トップ、名波・中村のダブル司令塔がそれぞれ機能した理想的なチームだった(振り返ればトルシエの日本代表はこの時期がピークだったかもしれない)。
 翌2001年、フランスとの親善試合で大敗したことから(おそらくはそれまでのエキセントリックで独裁的な振る舞いに対して積もり積もっていた不満が爆発し)、協会内やメディアでトルシエ解任論が持ち上がった時、岡野JFA会長がトルシエを支え、ワールドカップ2002日韓大会まで指揮を執らせることになった上で、このアジアカップ優勝という実績は、大いに役立ったものと想像する。
(と書きましたが、コメント欄の武藤さんご指摘のように、トルシエ解任論が持ち上がったのは2000年春で、シドニー五輪とアジアカップの前。前後関係が間違っていました。失礼しました/2011.2.6)

 トルシエの後に代表監督となったジーコが、ワールドカップ予選で危なっかしいマネジメントを続け、解任デモまで行われたにもかかわらず、結局はワールドカップ2006ドイツ大会まで任期を全うすることになったのも、2004年の夏に開催されたアジアカップにディフェンディングチャンピオンとして大苦戦しながらも優勝したことが大きく影響していたと思われる。少なくともアフリカ大陸では数々の輝かしい実績を持つトルシエと異なり、初めて率いたチームが日本代表だったジーコにとっては、これがほぼ唯一の指導者としての実績だったのだから。

 この間、1996年大会でクウェートに敗れてベスト8止まりだった加茂周は、1997年のワールドカップ最終予選の最中に解任された。
 つまり、92年にオフトが初優勝して以来、アジアカップで優勝した監督はワールドカップ(または最終予選の最後)までの任期を全うし、優勝できなかった監督はそれ以前に退任している。「中間試験」と書いた意味がおわかりだろう。

 前回の2007年大会は7月に東南アジア4か国で共同開催され、イビチャ・オシムが率いた日本代表はベスト4に終わった。オシムはその年の暮れに病に倒れて代表監督を退任し、後任の岡田武史が予選を勝ち抜いてワールドカップ2010南アフリカ大会に出場している。結果的にはジンクス通りになっているが、オシムの退任とアジアカップの結果との間には、おそらく関係はない。

 冒頭に「かつてワールドカップの中間年に開かれていた頃」と書いた通り、この2007年大会からアジアカップの開催年は1年繰り上がり、ワールドカップの翌年開催となった。スポンサー営業などの都合で五輪開催年を避けたということなのだろうが、そのおかげで、ワールドカップへの出場やそこでの躍進を現実的な目標とする国にとっては、位置づけの難しい大会になってしまった。「中間試験」としては早すぎるのだ。

 オシムがアジアカップに臨んだのは就任から約1年後だが、前任者がベテラン選手を重用しすぎて世代交代が最大の急務となっており、戦術やトレーニングの面でも異質だったため、ほぼゼロからチーム作りをスタートさせなければならなかった。
 オシムはアジアカップで、酷暑の環境にもかかわらず同じ選手を起用し続けた。準決勝と3位決定戦で接戦の末に競り負けたという結果は、その体力面での消耗が影響していた可能性はある。それでもオシムが同じメンバーにこだわったことについて、後藤健生が当時「オシムはアジアカップをトレーニングキャンプとして使った」というような解釈をしていた。

 アルベルト・ザッケローニ現代表監督にとって、今回のアジアカップはオシム以上に厳しい条件下で迎えた大会だったはずだ。9月に就任し、10月に親善試合を2試合戦った後、2か月ぶりの試合がいきなりアジアカップの本番。しかも日本国内のリーグ戦と天皇杯が1月1日まで詰まっており、事前キャンプで選手全員がそろったのは大会直前だった。
 オシムがアジアカップを「トレーニングキャンプとして使った」のだとしたら、ザッケローニは「トレーニングキャンプとして使わざるを得なかった」と言うのが適切だろう。

 そのカタール・キャンプを、ザッケローニは、これ以上考えられない理想的な形で終えることに成功した。優勝という結果はもちろんのこと、チームの掌握や新戦力の発掘・育成という難しい課題にも一定の成果を挙げることができた。
 選手の顔触れや戦い方、戦いぶりを見ると、今の代表チームは、ワールドカップ2010南アフリカ大会のチームを継承し、なおかつ新世代をそこに加えて、進化しつつあると実感できる。
 中沢、闘莉王という守備の要を故障で欠いたものの、川島、遠藤、長谷部、本田、長友らをそのまま残した現在のチームは、その骨格を南アフリカから継承している。ザッケローニはチームを自分の色に染めることよりも、岡田武史が作ったチームを土台として、弱点を補強し、長所を伸ばそうとしているように見える。
 ワールドカップが終わり、監督が替わるたびに、チームを作り直していた日本代表の近代史から見ると、これは特筆すべきことだ。
(サッカー協会の人脈から選ばれた監督たちが、そのたびにチームをリセットしていたのに、初めて日本とまったく無縁なところからスカウトしてきた監督が最も強く既存のチームに敬意を払っているというのは、皮肉なことともいえる)

 と同時にザッケローニは、南アフリカに行ったがチャンスに恵まれなかった選手たちや、そもそも南アフリカに行けなかった選手たちにチャンスを与え、それぞれが結果を出した。特筆すべきは、吉田、伊野波、細貝、李と4人もの選手が代表初得点を挙げたことだろう。それぞれが試合を決定づける(あるいは死の淵から日本を生還させる)、とてつもなく貴重なゴールだった。2人のベテランの存在があまりに大きかったセンターバックのバックアップ、あるいは後継者候補たちが経験を積んだことにも大きな意義がある。

 大会を通じて、私が最も印象に残っているのは、ピッチサイドに立つザッケローニの表情だ。就任以来、親善試合の間も穏やかで温厚な印象を崩さなかった彼が、しばしば(というよりかなり頻繁に)猛々しく、時には凶悪とさえ言える表情を見せていた。
 表現は悪いが、普段は好々爺にしか見えない元暗黒街の顔役が何かの拍子に往年の貌を垣間見せたような印象を受けた。なるほどこれがセリエAを生き抜いてきた勝負師の貌か、と納得できるものがあり、私には好ましく感じられた。

 2014年大会までは3年半もある。これまでのアジアカップウィナーのように、この勝利がワールドカップでの采配(もちろん予選を勝ち抜けばの話だが)を保証するものではないかも知れない。
 だが、この勝利は今後、ザッケローニ代表監督の仕事をとてもやりやすくするはずだ。その意味で、彼にとって非常に大きな意義を持つ。そして、彼の指導を受ける期間を得た日本代表(とその候補)の選手たちにとっても。

 試合後にザッケローニが言った通り、私は日本国民として、我々の代表チームを誇りに思う。そして、そのチームをアジアの頂点に導いた代表監督も、誇りに思っている。

 さらにいえば、ザッケローニを選んで口説いて極東まで連れてきた原博実技術委員長に感謝する。脳裏に甦る日本代表のゴールは、どれも「いい時間に入った」ものばかりだった。

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佐藤岳「中澤佑二 不屈」文藝春秋

 ワールドカップ南アフリカ大会の後で出た書籍の中で、読む価値のあるものを1冊選べといわれたら、たぶんこれを挙げる。報知新聞記者の著者が、中澤の半生をたどりながら南アフリカ大会でのチームや戦いぶりを記している。
 
 まずは中澤のストイックな生き方に感服する。ここまで自分を追いつめた上に彼のプレーがあるのかと、改めて思い知った。
 そして、ワールドカップ。中澤が出場した2つのワールドカップが、当然ながら本書の大きな山となっている。内部崩壊したドイツ大会と、それに対する反省を抱いた経験者たちがどう南アフリカ大会に臨んだか、という部分を軸に、著者はワールドカップを書く。
 
 著者は5月以降の岡田監督には批判的なスタンスをとっている。巷間ほめたたえられた戦術の変更、キャプテンの交替。スイスでのミーティングの成果についても、そう劇的なものとしては捉えていないし、岡田がそれをネガティブに受け取ったかのような書き方でもある。
 ただし、本書の中で著者は岡田自身には取材をしていない。岡田に対するネガティブな見方の根拠は、主に「ある選手」の言葉として示される。それがすべて同一人物なのか、複数の選手なのかも定かではない。
 ワールドカップ後に多勢を占めた「岡田礼賛」の言説が間違っていて本書だけが真実だ、とは思わない。ひとつの結果の背後にはさまざまな要因があり、立場によって見方は変わる。出場した選手、それも、レギュラーと控えとの間だけでなく、試合に出ていた選手たちの見方でさえ、ひとつではないだろう。
 本書では、少なくとも中澤の言葉として語られる部分については信頼が置ける。中澤という1人の中心選手にとって2つのワールドカップがどうであったか、ということだけでも、書き残される値打ちがある。

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木村元彦「社長・溝畑宏の天国と地獄」集英社

 溝畑の存在を知ったのは、著者の木村が「サッカー批評」に書いた記事が最初だったと思う。本書の後書きに紹介されている18号での文章が、たぶんそれだ。
 溝畑はまだ自治省(当時)の官僚だった。大分県に赴任していた時期にトリニータを立ち上げ、ほぼ1人で切り盛りしていた人物が、異動して本省に戻った後もクラブを遠隔操作していることの異常さについて書いていた。記事の中に溝畑の実名は出ていなかったように思う。
 その後、ついに官僚を辞してトリニータの社長となり、背水の陣で経営の最前線に立ったことで彼の名を知った。その後の大分の躍進ぶりは言うまでもないし、ナビスコカップをとった時には彼自身もずいぶんとメディアにもてはやされていた。
 が、そこからの転落も早かった。
 
 本書は、それほど早い段階から溝畑に注目していた著者が検証した、大分トリニータの経営破綻に至る一部始終である。著者は溝畑に対して決して好意的な立場にはなかった。それは「サッカー批評」に発表した一連の記事が示している。それでも溝畑は彼の取材に協力し、木村は是々非々で溝畑の功罪を記していく。
 立場を超えて被取材者の信頼を得られるのはなぜなのか、それは本書を読めばわかると思う。
 
 サッカー界では悪者扱いの溝畑だが、本書を読めば、ひとりの悪役を仕立てて攻撃すれば済むような単純な話ではないことはわかる。私はつい溝畑に肩入れしたくなりそうになったが、読後しばらくして、観光庁長官になった溝畑が、BSフジの「東京会議」という緩い番組で小山薫堂らが訪ねる形で出演し、異様なテンションでおおはしゃぎして、訪ねた小山たちが気圧されたり退いたりしているのを見て呆れた。
 これは確かにある種の怪物だ。私が知っているどんな類型にもあてはまらない人物だ。トリニータを潰した男が長官か、という素朴な反感は私にもあるけれど、たぶん、海外から観光客を日本に招くなどという仕事は普通の官僚にはできないし、なかなかの適材適所かもしれない、という気もしている。
 
 
追記
当初、文中でサッカー批評最新号の犬飼前JFA会長のインタビュー記事が木村元彦氏の手によるものと記していましたが、コメント欄でのA吉氏のご指摘の通り、ミカミカンタ氏の誤りです。当該の記述を削除しました。

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桑田真澄・平田竹男「野球を学問する」新潮社

 気がついたらもう今年最後の日。
 書きそびれたことはたくさんあって、そのかなりの部分は自分でも忘れてしまったような気がするが(ホントは、その瞬間に書き残しておくのがblogの効用なんでしょうね。来年はツイッターを活用することにするか)、とりあえず、印象に残った本のことを簡単に記しておく。

 最初は前のエントリのように、ひとつにまとめて書き始めたのだが、それぞれ独立させた方が検索でひっかかりやすそうなので、分けて連続投稿とする。読みにくいかもしれないがご容赦を。
 今さらアクセス数を稼ごうとは思わないが、それぞれの本をお勧めしたいので少しでも多くの人の目に触れたい気持ちの表れとご理解ください。

 で、表題書。

 引退後、早大の大学院スポーツ科学研究科に09年春から1年間在籍した桑田真澄と、その指導教官だった平田竹男の対談。平田は日本サッカー協会で2002年から06年までジェネラルセクレタリー(専務理事)を務めた人物でもある。
 桑田が書いた「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」は、大学院でその年度の最優秀論文に選ばれるとともに、日本スポーツ産業学会から濱野賞を贈られたという。この学会は、会長が滝鼻卓雄・読売巨人軍オーナーで、理事長が平田竹男なのだから(で、副会長は奥島孝康元早大総長)、お手盛り感を覚えないわけでもないけれど、それでも、桑田の論文が高い価値を持つことについては疑う余地がない。それは本書を読めばわかる。
 
 桑田は研究のため、プロ野球現役選手に、高校時代の練習に関する意識調査のアンケートを行っており、270人から回答を得ている。質問項目は、練習時間の長さやそれに対する感想、指導者の飲酒・煙草・体罰等の有無、ケガをおしてのプレーの強要、投球数制限の有無、指導者を志望するか否か…など多岐にわたる。
 こんなデリケートな内容のアンケートに270人ものプロ選手が回答し、さらに六大学野球部の選手たちも回答する。この回収率自体が驚異的であり、それはアマチュア(高校野球)とプロの双方で抜群の実績を残し、こと野球に対する真摯な取り組みと高い理論が知れ渡っていて、なおかつスポーツに学問として取り組もうという人物にしかなしえない。そんな人は桑田しかいない。引き合いに出して悪いけれど、小林至では無理だろう(小林氏のスポーツビジネスにおける見識や能力を批判するものではないけれど、現役時代の実績とそれが現役選手たちにもたらす威光に差がありすぎるのだ)。
 
 そして、対談で語られる彼の「野球道」に対する考えも、そのアンケートの貴重さに相応しい。桑田は、現在のアマチュア野球の思想的背景をなしている飛田穂州の野球哲学を現代に即して再構成しようとする。結論はそう非凡なものではないけれど、最高レベルの実践がそれを裏打ちしている、という点で説得力は圧倒的である。
 対談の中で平田は<ぼくは将来的には桑田さんに、プロ野球のコミッショナーになってほしい>と話している。そして、桑田もそれを否定してはいない。

 私も同感だ。だが、コミッショナーそのものになるには、さまざまな面でハードルがあるし、時間もかかる。さしあたり加藤コミッショナーは、桑田を何らかの形で遇するか、あるいは内々でもブレーンとしてアドバイスを求めるか、どうにかして彼の見識を生かしてほしい。桑田自身がコミッショナーになるには、どうしたって20年やそこらはかかる。そんな先までプロ野球が健在である保証はないのだ。今すぐ彼を生かした方がいい。

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2010年秋の野球とサッカーに関する備忘録。

 多忙でろくに見ていられないうちに、野球でもサッカーでもいろんなことがあった。ありすぎて取りこぼしもありそうだが、個人的なメモとして。
 
●横浜、売却ならず
 TBSが横浜ベイスターズを売ろうとした。プロ野球球団を買おうという奇特な企業が現れたけれども、結局は成約に至らず。
 ベイスターズが弱い理由はいろいろあるだろうが、経営が苦しい理由の中では「横浜スタジアムの使用条件の厳しさ」がかなりの重みを持っているはず。
 成約しなかったこと自体は当事者間の判断だから、いいも悪いもない。だが、売買交渉の最中に横から買い手候補を批判した神奈川県知事は、自身の立場を理解していないように思える。県は、売買交渉を批判できるほど充分なバックアップを球団に対してしていたのだろうか。それは横浜市と球団の問題だ、ということなら、黙って傍観していればよい。
 本拠地の観客動員が不振で自治体の支援も乏しいのであれば、プロ野球球団を欲しがり支援したがっている自治体のもとに移るのは、プロスポーツクラブとしては合理的な判断だ。
 
 
●楽天監督に星野仙一
 年俸が高くて経営者への注文が多い野村監督を切って、12球団で最も安価なブラウン監督にかえてから1年。ふたたび値段の高い星野仙一に切り替えた。
 星野監督に払う年俸額は知らないが、総額ではおそらく野村よりも高くつく。年俸の高い選手を買い集めて巨大戦力を築くのが彼のノウハウだからだ。野村の場合、本人やスタッフはともかく、選手は安い買い物をして力を発揮させるのが上手だった。
 楽天球団にその覚悟があるのだろうか、と思っていたら、さっそく松井稼頭央と岩村を立て続けに手に入れた。野村時代にこのくらい補強していたら優勝できたんじゃないかとも思うが。
 さて、球団経営陣は、これほど短期間での路線変更について、強化方針を説明しているのだろうか。私は寡聞にして知らない。
 
 
●日本シリーズがテレビ完全中継されず
 正確にはそれぞれ地元では中継している。地上波での全国中継がない試合があった、ということ。第1,2戦はTBSが優先的に交渉したが、世界バレー中継があったので断った、と伝えられている。
 このブログを訪れるような野球好きの中には「地上波中継なんかなくてもBSやCSで見た方がいいよ」という人が多いかも知れない。始球式や中継ブースに番宣のためのタレントを送り込む民放のやり口は私も嫌いだ(このブログでも酷評したことがある)。
 だが、熱心な野球ファン以外の人々(要するに「普通の人」だ)の目に触れて、野球の面白さを知らしめる装置としては、やはり地上波テレビは大きい。それは、結果的に盛り上がった第6戦、第7戦に対する反響を見てもわかる。
 とはいうものの3,4戦の視聴率は2ケタに届かなかった。NPBの側も、テレビ局が中継しやすいように歩み寄ることを考えた方がよいのでは。日本シリーズについては、デーゲームに戻す手もあると個人的には思っている。
 レギュラーシーズンも含めて考えると、試合時間の短縮には本気で取り組んだ方がいい。延長の場合は仕方ないが、9回で終わる試合は3時間以内、理想的には2時間半程度に収まらないと、テレビだけでなくスタジアムの観客にとっての負担も大きい。
 
 
●千葉ロッテ、リーグ3位から日本一
 ポストシーズンの途中で「史上最大の下剋上」と言い出したのは里崎だったか。彼の言語感覚のおかげで救われたというか、制度的な矛盾がうやむやになった感はある。
 時にはこういう齟齬が起こるとしても、私はCS制度を支持している。理想的には2リーグ各8球団・東西2地区にして、地区優勝チームどうしがリーグ優勝を争い、その勝者が日本一を争うのが望ましいと思っているが、球団を増やすには、もっとスリム化したビジネスモデルが実現しなければまず無理。悩ましいところ。
 
 
●名古屋グランパス、Jリーグ初優勝
 毎年のように大型補強をしながら「中位力」を発揮しつづけていたクラブが、ようやく適切な道を見いだしたようにみえる。ストイコビッチ監督の戴冠によって、我々は将来の日本代表監督の有力候補を得た、とも言える。

 中日ドラゴンズもリーグ優勝を果たしたから、2010年は名古屋の年だったと言ってよい。ただ、これで両者が黄金時代の礎を築いたかといえば、その点は留保したい。
 グランパスの勝利はストイコビッチ監督と久米一正GMの功績だ。適切な補強が奏功しての勝利だが、結果的に主力選手の年齢構成は高い。絶えざる補強と、育成部門の強化が課題となりそうだ。両者がそろった状態での成功が長く続けば、彼らの手腕がチームの財産として引き継がれる可能性はある。
 一方、中日ドラゴンズはグランパスと異なり、もともと球団の各部門の実力の総和として「上位力」を備えている(その点で今中慎二の「中日ドラゴンズ論」(ベスト新書)は興味深かった。読み物としてすごく面白いというわけではないけれど))。そのチームを、勝ちきれる集団に仕立てたのは、落合監督個人の手腕によるものだろう。ただし、コーチ陣の出入りの激しさを見ていると(たとえば高代や川相の処遇)、その手腕がコーチの誰かに受け継がれるとは考えにくい(この球団の監督人事の歴史を見ると、落合監督が退く時には、落合色の強いと見なされた指導者も一掃される可能性がある)。影響が現れるとすればむしろ、選手として落合監督の下で戦った立浪や井端が指導者になった時かも知れない。
 
 
●FC東京、J2転落
 残念。が、これが今シーズンのパフォーマンスに対する正当な結果なのだろう。選手、指導者、経営陣のすべてにとって。1週間経ったが、今のところ聞こえてくる選手の声は残留の意思を示すものばかりであることが救い(大黒は別だが)。
 広島やセレッソのように、転落以前よりも強くなってJ1に戻る。願うのはそれだけだ。
 
 
●岩隈、ポスティング移籍ならず
 ポスティングシステムが制度化されたのは1998年だった。
95年に野茂が保有制度の空白地帯を突くようにしてドジャース移籍を果たし、翌96年には伊良部が三角トレードでロッテからパドレスを経てヤンキース入り。このへんの移籍がだいぶ揉め事になったことで、NPBとMLBの間に設けられた制度だ。急場凌ぎの暫定措置が、12年たって、そろそろ限界を呈してきた。岩隈には気の毒だが、そういうことに見える。当時とはかなり状況も異なる。現状に合わせて制度を整備すべきだろう。
 私見としては、ポスティングシステムのような特別な制度を設けなくても、両者がそれぞれ備えているドラフト制度とフリーエージェント制度のすり合わせ、および日米間トレードのルール整備をすれば、それでよいと思う。FA制度による海外移籍も制度化されたわけだし、日本の球団が選手にFAでアメリカに出て行かれるのが嫌なら、その前年に対価を得られる形でトレードすれば、それでいいんじゃないだろうか。

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そしてフットボールは続く。城福にも、東京にも。

 久しぶりの味スタに着いた時には、朝からの冷たい雨はすっかり上がり、陽射しが痛いほどに晴れ上がっていた。恒例のブラジルデーだったが、サンバの行列には少し風が冷たかったかも知れない。
 試合前のスタジアムに、さほどいつもと違う様子は感じられなかった。ただ、監督の名だけが違っていた。城福浩から、大熊清に。

 城福監督解任の報に接したのは、ちょうど1週間前だった。
 残念の一語に尽きる。
 私は城福監督が好きだった。スタジアムで観客に語りかける時の、情熱がほとばしるような語り口が好きだった。彼が目指したサッカーも、それがうまくいっていた時のチームも、好きだった。
 サポーターからも、選手からも、おそらくはクラブ経営陣からも、彼は強く支持されていたように思う。それは、指導者としての手腕や実績によるものという以上に、彼のパーソナリティーによるところも大きかったのではないか。

 今シーズン、私が味スタを訪れたのは昨日が初めてだった。テレビでもろくにチェックできてはいないので、今季の試合内容を云々する資格はない。
 ただ、これまで報じられてきた城福や選手たちのコメントを散見した範囲では、内容がよいが結果が伴わない、という状態が続いていたという印象を持っている。
 それは、クラブの経営陣にとっては悩ましい状況だったはずだ。
 内容が悪ければ、修正することによって上がり目を期待することはできる。だが、内容はいいのに結果が出ない、という状況は、何をどうすれば勝利につながるのかわからない、ということでもある。
(開幕直前に米本を故障で失った後、効果的な補強ができていない、という点はひとまず措く)

 私の理解では、城福監督は「理想と情熱と信念の人」だ。
 高い理想を掲げ、燃えるような情熱で指導し、結果のいかんにかかわらず信念は揺るがない。自分たちのサッカーをやり通した先に結果が待っている、と考えるタイプの指導者であることは、過去の言動から容易に想像がつく。

 補助線として、岡田武史と比較してみればわかりやすい。
 岡田はマリノス時代、優勝した翌年に、高い理想を掲げてシーズンを始めたが、思うような結果がついてこなかったため、手堅いサッカーに切り替えて連覇を成し遂げた。私自身がこの年のマリノスをつぶさに見ていたわけではないが、本人がさまざまなインタビューでそのように語っている。その前の札幌時代についても、彼は「最初は『代表監督として恥ずかしくないサッカーを、とか考えていたが、1年やって変わった。現状の戦力を踏まえて、J2で勝つサッカーをしなければ』というような話をよくしている。
 ワールドカップ南アフリカ大会でも、彼は同じように、本番直前にいくつかの目立った変更を行い、好結果に結びつけた。

 だが、城福はそれをしない監督だ。そう理解しているからこそ、クラブもぎりぎりまで耐えた。耐える臨界点が「J2自動降格圏」という順位だったのだろう。そこに落ちた時、クラブは決断を下した。

 驚いたのは後任の名だった。
 大熊は私がこのチームを初めて見た時の指揮官だった。
 「初めて見た」というのはJ1に昇格した2000年ではなく、1997年の天皇杯だ。大熊が率いたJFL所属の「東京ガス」は、Jリーグの3クラブを破って準決勝に進出し、鹿島に敗れた。私は東京ガスについても大熊についても何の予備知識もなかったが、さほど傑出した能力のない選手ばかりのチームが、よく組織され、気力も充実して、J1の強豪に食らいついていく試合を見て好感を抱いた。試合後の監督会見での大熊も印象的だった。まったく悪びれた様子もなく、自らの戦術と敗因について胸を張って堂々と語る姿に、グッドルーザーという言葉が浮かんできた。自分と同年齢ということもあって、当時33歳の青年監督に好印象を持ったのを覚えている。

 その後、東京ガスはFC東京と名を変えて、Jリーグ参入をめざすと宣言し、2000年にJ1にやってきた。アマラオとツゥットの2トップを生かして、堅い守備からカウンターで一斉に相手ゴールに襲いかかる、泥臭く、気迫に満ちたサッカーに魅了され、以来、FC東京贔屓を自称して、今もこうして年に数度は味スタのスタンドに座っている。

 だからといって、大熊が帰ってきたから無条件で支持する、というほどの個人的な思い入れがあるわけではない。むしろ、大熊復帰と聞いた瞬間に頭に浮かんだのは、当時と今の東京は戦術も顔触れもこれほど違うのに、大熊が帰ってきてそのまま通用するのだろうか、という懸念だった。

 とはいえ東京が大熊が去った後で成長したのと同様、大熊も東京を離れてから、さまざまな経験を積んできた。
 2001年限りで監督を退いた(後任が原博実だった)大熊は、2003年と2005年にU-20代表監督としてワールドユースを戦い、いずれもグループリーグ通過に成功している。徳永、今野、平山、梶山、中村北斗、前田俊介は、この時に大熊の下で戦っている。
 そして、2006年にはイビチャ・オシム代表監督のコーチとなって日本代表に加わり、監督が岡田に変わった後も引き続きコーチを務めて、ワールドカップ南アフリカ大会にも参加した。
 そんな経験は、彼を指導者として進歩させているだろうか。そうあってほしい。


 復帰した大熊が率いた最初の試合は、味スタに大宮アルディージャを迎えた9/25のホームゲームだった。大宮は目下、残留圏を争う相手であり、勝ち点では3点、東京を上回っている。ぜひとも勝つべき相手、勝つべき試合だった。

 準備期間が短かったせいもあるのだろう。先発メンバーと布陣は、故障した梶山の不在などはあっても、これまでとさほど大きくは変わっていない。
 試合開始から、選手たちは「勝つべき試合」に相応しく振る舞った。
 平山が頭で落として森重がシュート。平山のクロスに大黒が飛び込む。椋原のクロスをリカルジーニョがシュート。東京の選手たちは次々と大宮ゴールに迫ったが、ネットを揺らすことはなかった。0-0のままハーフタイム。近くに座っていた、年季の入った風情の観客が、「胸張って帰ってこい!」と塩辛い声で叫んでいた。

 後半も同じような展開が続いた。平山が何度もシュートを放ち、交替して入った大竹のフリーキックはバーの少し上を超えていった。圧倒的に攻めながらゴールを割れない。大熊は何度もピッチサイドに出ては何事か叫んでいたが、アジアユースのスタンドに響き渡った大声といえども、味スタではスタンドまで聞こえてはこなかった。

 69分、大宮の長身FWラファエルのシュートが、バーから地面に跳ね返り、ゴール外に出たところを権田がおさえた。ゴールだと思ったラファエルはゴール裏右の大宮サポーターの前に走っていったが、主審がノーゴールと判定すると、両手を振り回して抗議した。いやな感じがピッチ内に漂っていた。
 後で映像を見ると、ラファエルのシュートはバーからゴール内の地面に当たり、それから外に出てきたことがわかる。東京の選手たちも薄々そのことに気付いていたのだろうか。プレーが受け身に回り、足が重くなったように見えた。憤慨した大宮は怒りに任せて攻め立てる。ラファエルのクロスから金久保がヘディングシュートを決めたのは、わずか4分後だった。
 大熊監督は右サイドバックの椋原に替えて前田俊介を送り込んだが、ゴール前を固める大宮の前に攻撃の糸口がつかめない。そのまま逃げ切られて試合終了。赤青のユニホームの多くは、膝に手をついて動かない。場内を半周し、サポーターに挨拶して戻ってきた選手たちの表情の重苦しさが、先の見えない迷路にはまりこんだチームの現状を何よりも物語っていた。

 東京が放った20本のシュートのうち、ひとつでもゴールに結実していれば、立ち直りのきっかけになったかも知れない。中盤を仕切る梶山がケガで不在の中、何度もいい形を作りながら、あと数センチが届かなかった。
 「内容はよいのに結果が伴わない」という病理は、監督が変わった後も持ち越されてしまった。

 試合後の記者会見で、大熊は「サッカーの本質が抜けてしまえば戦術も空虚なものになってしまう。球際や攻守の切り替え、考えて走り数的優位を作ること、ボールを回すことなど、一つというよりも足りないことを追い続け、かつ得点して勝つことを求めていきたい」と語っている。
 
 
 アマチュアとプロの違いは何か、という問いに、プロ野球の選手か監督の誰かだったと思うが、「プロは負けても試合が続く」と答えたのが印象に残っている。「勝ったり負けたりするのがプロ野球だ」と王貞治もかつてどこかで話していた。
 Jリーグの試合は原則週1回、多くて2回。東京はリーグ戦で3連敗、すでに10試合勝ちがない。最後に勝ったのは7/25だから、もう2か月も前のことだ。考える時間はたっぷりある。選手も指導陣も経営陣も、さぞしんどい思いをしているに違いない。

 それでも次の試合はやってくる。特効薬などというものは、そうそうあるものではない。大熊が言う通り、球際で頑張り、素早く攻守を切り替え、数的優位を作るために走ることを、それぞれが懸命にやり続けるしかないのだろう。
 このチームで、その3点にもっとも秀でていた長友は、すでにここにはいない。だから、他の選手が長友のように、あるいはそれ以上に、彼のように振る舞うしかない。
 球際で頑張り、懸命に走るのはこのチームの伝統だ。浅利が引退し、藤山が去ったくらいで途切れてしまうようでは、チームの遺伝子とは言えない。
 選手たちには、ぜひとも頑張ってもらいたい、というほかにない。
 負けても次の試合があるのは、観客にとっても同じだ。どんなことになっても、私は選手たちを見放したりはしない。そして、私以上に熱心なサポーターが大勢いる。

 東京を去った城福も、遠くない将来、どこかのチームを率いることになるだろう。あれほどの指導者を、必要とするチームがないなどということは考えられない。次の場での成功を祈っているし、いつかまた東京を率いてくれることを願っている。

 負けても負けても、フットボールは続く。敗れた選手たちにも、敗軍の将にも、彼らを応援する観客にも。遠くない未来に、スタジアムで笑顔で再会できることを願いながら。

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原博実技術委員長を支持する。協会には注文がある。

 次のサッカー日本代表監督選びに、いささか時間がかかっている。
 約1か月間、南米や欧州で交渉にあたっていた原博実・日本サッカー協会技術委員長が帰国し、昨日(24日)、経過報告の記者会見を行った。スポナビに掲載された一問一答を読むと、彼らしい率直で誠実な会見であったように思える。

 会見で説明されたここまでの経過をまとめると、次のようになる。
 原がワールドカップを決勝まで視察し、日本代表の分析と課題に関するリポートを担当の大仁副会長に提出して、新しい監督選びについての方針を決定した。そこで固まった方針に基づいて、具体的にリストアップされた候補者たちとの交渉に入り、複数の候補と話をもってきた。交渉した相手のうち、ペジェグリーニとバルベルデには残念ながら断られた。現在も最終的な条件を提示して返事を待っている相手がいる。

 まったくもって筋の通ったやり方である、と私には思える。日本サッカー協会が、これほどきちんとした手順で代表監督選びを進めたことは、これまでなかった。ハンス・オフト、ファルカン、加茂周、岡田武史、フィリップ・トルシエ、ジーコ、イビツァ・オシム、岡田武史と、ワールドカップ出場が現実味を帯びるようになった時期からの監督の就任経過を思い起こしても、ここまできちんと経過が説明され、それが納得のいくものであった、という例はない。

 にもかかわらず会見ではこんな質問が出たようだ。

<7月22日から1カ月以上もかかって決められなかった。今後、われわれ(メディア)に「決められる」と提示できるものはあるのか?>
<交渉中の細部の詰めがこちらにはまったく伝わってこない。大仁副会長も把握していないところがあるし、小倉会長は大仁副会長に任せているし、何がどうなっているのかさっぱり分からない>
<1カ月以上かけて原さんが話をまとめることができなかった。その人が「ペジェグリーニはダメでしたね」と笑っているが、決められなかった人がこの先、決められるのかと聞きたい>
<万一、今回の交渉が決まらずに9月の代表戦で原さんが代行監督となった場合、責任をとって技術委員長を辞任する覚悟はあるか?>

 これらの質問は、質問の形をしているが実はそうではない。質問者が回答者に期待しているのは、生産的な回答ではなく、謝罪(あるいは屈服)だからだ。自分の立場で日本のサッカーに何らかの貢献をしようという意思は、寸分も読み取れない。たぶん、公の場で壇上の人間に頭を下げさせたいという歪んだ欲望に溺れてしまった人間が、会見場に紛れ込んでいたのだろう。

 それとも彼らは、ワールドカップでの日本代表の戦いが総括されることもなく、次の監督選びの方針が明らかにされることもなく、もちろん交渉経過が報告されることもなく、ある日突然、次の監督の名が発表されてきた(あるいは「言っちゃったね」という形で知らされた)、これまでの協会のやり方の方が好ましいとでも思っているのだろうか。

 いみじくも原委員長が会見で話した通り、<今はあえて世界に出ていって、世界的な人に交渉している>のであり、<あえてそこで勝負をして>いる。
 まさにこれはチャレンジであり、戦いなのだ。かつて協会は、(確かオフトの次あたりに)テレ・サンターナにオファーを出して、求められた金額の大きさにすごすごと引き下がったこともあったようだが、今やっている交渉は、そんな次元ではなく、もっと現実的なものだろう。
 
 協会がこれまでの監督選びとはやり方を変えた。そのこと自体は支持する。独裁的と評判の悪かった前会長も、この点は評価に値する。
 原委員長には、ぜひ、よい結果を出して欲しいと願っている。

 ただし、協会に対しては、これでいいんですか、という懸念もある。
 一連の経過の中で、ワールドカップでの日本代表の戦いぶりを分析し、課題を挙げ、新しい監督に求める条件を洗い出す、という作業を原技術委員長が担うのは、職掌として適切なことだと思う。選手としても指導者としても一定の実績をもった人物が果たすべき役割だろう。

 しかし、その作業から浮かび上がった候補者を日本に連れてくる、という交渉事を担うのに最も相応しいのが原博実か、といえば疑問だ。彼には監督の経験はあっても、監督を選んだ経験はない。それはクラブでいえばゼネラルマネジャーの仕事だ。
 そして、原にその任を全うするだけの人的なサポートが与えられているのかどうかは、会見や報道から伺い知ることはできない(さすがに何人かのスタッフは同行しているようだが)。

 協会はかつて平田竹男という人材を経産省から専務理事に迎え、ジェネラルセクレタリーという英語名まで冠して(皆さんご存知の人物の趣味だ)、国際業務にあたらせた。ジーコ時代に欧州や南米の強豪との対戦が実現したことは、ジーコの顔のおかげだと評価する人も多かったようだが、平田の交渉力に与った面も大きかったはずだ(その仕事の一部は著書「サッカーという名の戦争」に記されている)。彼は2006年に協会を去ったが、今も協会にいて代表監督候補との交渉に当っていたら、経過はずいぶんと違っていたものになったかも知れない。この面で平田に匹敵する人材が今の協会にいるとは考えにくい。

 つまりは、これまでと違う試みをするのなら、違う体制も必要だということだ。
 強化担当の技術委員長が、技術的な面だけを見るのなら、現場の指導者経験で十分だった。日本に縁があり、協会ともすでに関係のある人物に監督をオファーするのなら、それほど難しくもないだろう。
 だが、今回のように、アウェーでの交渉事を一手に担うというのであれば、それなりの力量が必要になる。例えば、グルノーブルから祖母井秀隆会長を引き抜いてくる、というようなやり方がよいのかも知れない。

 原博実が現在取り組んでいる交渉は、協会にとっても新しい挑戦だ。Jリーグのクラブが個別的にやったことはあっても、協会が組織的に取り組んだことのない戦いである。
 日本代表チームががワールドカップで戦った結果、何ができて、何が足りなかったのかを分析し、次の監督人事や代表のコンセプトに生かそうとしている(んだよな?)ように、この交渉そのものについても、その過程を分析し、今後の技術委員会の在り方や体制、代表監督選びの方法に生かしていくことを望む。
 そういう面も含めて、原委員長の戦いを見守りたい。

 現時点で代表監督が決まっていないことが異常な事態だとは必ずしも思わない。武藤さんが論じているように、来年1月のアジアカップは、そのための短期体制を組んで臨んだってよいと思う(そもそも、こんな時期にアジアカップが組まれることの方が異常なのだ。そうなった経過はよく知らないが)。

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続・中沢佑二という保証。

 南アフリカ大会が始まって、カメルーンに勝って以後、ネット上では「岡田監督に謝ろう」という言説が数多く飛び交っていたようだが、私自身が今、謝りたいと感じているのは、中沢佑二に対してだ。

 中沢については2004年にこんな文章を書いたことがある。ちょうど岡田監督の下でマリノスが2連覇していた頃だ。Jリーグにおける彼の絶頂期といってもよいだろう。あれからもう6年も経つのだな。
 以後も、彼の人格やプロフェッショナリズムに対する敬意を失ったことはない。だが、近年、代表やJリーグにおける彼のパフォーマンスを見ていて、全盛期の能力を失いつつあるのではないかという懸念を拭うことができなかった。国際試合では、一対一の攻防で振り切られる場面をしばしば目にした。
 もちろん、失点の矢面に立つのが最終ラインの選手だからといって、その失点に関する責めのすべてを、その選手が負うべきでないことは判っている。ピッチのもっと前の方で、別の選手によってなされるべき作業がなされないまま、最終ラインの選手が不利な状況に直面し、それが失点につながることは多い。
 だが、そんなケースにおいてさえ、相手を跳ね返して日本のゴールを守ってくれる、と私は彼を信奉していた。高い信頼、というよりも、ほとんど言いがかりに近い期待である。そして、もうその期待が満たされることは二度とないのだろうな、と近年はなかば諦めていた。

 だから、南アフリカにおける彼の活躍には目を見張った。
 グループリーグで戦う3チームのうち2チームがオランダ、デンマークという「巨人の惑星」であるにもかかわらず、高さで崩された失点は皆無。長身の相手選手たちに向けたハイボールも、読みのよいヘディングで、ほぼ競り負けることはなかった。危険な場面ではシュートコースに身体を投げ出した。何度でも、どこまでも。
 190センチ近い長身にして、あれほど出足よく機敏に、そして献身的に動けるとは。この大会にむけて、彼がどれほどの対策を積み、細心の注意を払ってコンディションを整えてきたのか。大会に入ってからも、どれほどよい状態で試合に臨んでいたのか。そういうことが、何の知識もない人間にも伝わるほど、試合の中で余すところなく表現されていた。

 大会を通じてまったく集中を切らすことなく、不安定な場面のなかった闘莉王とともに、この4試合は、中澤の生涯のベストパフォーマンスになるのではないか。それほどの見事な戦いだった。
 4試合で2失点という堅い守備は、もちろん組織で守った成果だし、GK川島のファインセーブも数え切れない。だが、中澤があの位置であれほどの強さを発揮したことが、前後の選手たちの支えになったことは想像に難くない。
 中沢佑二は、やっぱり偉大な保証だった。疑ってごめんなさい。そして、ありがとう。あなたは日本が世界に誇れるセンターバックだ。
 
 
 南アフリカ大会の4試合を通じて痛感したことのひとつは、「やはりゴールに近い位置の選手が決定的なのだ」ということだ。
 ゴールから遠い、つまりピッチの中央に近い位置でプレーする選手たちに日本の強みがある、というのは90年代か、もっと前から続く日本サッカーの特徴だ。もちろん今大会でも、その位置の選手たちはよく闘った(もちろん、誰もがよく闘ったから好成績を残せたわけだが)。
 だが、2勝1分1敗、という好結果をもたらした直接的な要因は、本田の2ゴール1アシストであり、4試合で2失点という守備の堅さだ。点の取れる選手がいれば勝機は生まれるし、ゴール前に高くて俊敏で強いディフェンダーが2人いれば、どんな相手ともそこそこいい試合はできる。

 大会後のメディアやネットの論調を眺めていると、登録FWが先発出場できず、MFの本田がワントップを務めて成果を挙げた、という結果から、FWの養成が急務、とする主張はよく目にする。
 一方、中澤の後継者をどうするのか、という議論は、さして活発ではないように感じる。
 が、きわめて単純な言い方をすれば、高くて俊敏で屈強なセンターバックが中澤ひとりしかいなかったドイツ大会は1分2敗で、中澤と闘莉王の2枚揃った今大会は2勝1分1敗。ほかにもさまざまな要因があることはわかっているが、両大会におけるセンターバックの違いと結果との間に、因果関係がないとは思えない。

 4年後のブラジル大会を考えると、35歳になる中澤が今回と同等のパフォーマンスをすることは困難だろうし、闘莉王も決して若くはない(現役引退を口走っているという報道もあるが、さすがにそれはどうだろう)。そして、今大会で岡田監督が23人に加えた岩政もすでに28歳だ。
 4年後、8年後にこのポジションの主力を担えそうな若手を岡田監督は帯同しなかった。サポートメンバーのうち唯一のDF酒井高徳もサイドバックや中盤の選手で、センターバックではない(身長も176センチと高くはない)。
 今回のメンバーを見渡すと、岡崎、森本のいるFW、本田、長谷部、今野がいる(バックアップ兼サポートの香川もいる)MF、長友、内田の両SB、川島が大本命となったGKと、4年後につながる顔触れがいる他のポジションに比べ、センターバックだけがブラジルへの展望を欠いている。岩政を含めた誰が出場するにせよ、センターバックだけはワールドカップ初出場の選手が2人(ま、1人か3人かもしれないが)並ぶことになる可能性が強い。

 北京五輪代表には優秀なセンターバックが何人かいたし、オシム時代の日本代表に招集された選手もいる(残念ながら私には個人名を挙げて推挙するほどの見識がない)。まずはそのあたりが候補になるだろう。
 次の日本代表監督が誰になるにせよ、最初に整備しなければならないのは、このポジションだと思う。前の方の選手は、むしろ今は海外に出て、個としての力に磨きをかけてほしい。代表がチームとしてまとまっていくのは、しばらく先でよい。若い両サイドバックやGK川島も海外移籍が決まったり、オファーが集まっているというのは喜ばしいことだ。

 だが、センターバックには、代表が国際大会でめざましい成果を挙げなければ、海外に出るチャンスも生まれてこない。まずはJリーグと代表監督(五輪世代の監督も)が連携し、優れた素材によい経験を積ませるようにしてもらいたい。*
 もちろん、その過程では、中沢と闘莉王の2人にも、これまでと、そして今回の経験を、続く世代に伝えてほしい。若手の前に立ち塞がって競争を強いる、という面も含めて。


*
次回のアジアカップはカタールで2011年1月に行われる。欧州ではこの期間にリーグ戦が行われている国が多い。その意味でも、この大会は欧州組の招集は控え目にして、Jリーグに在籍する若手を中心に臨むのがよさそうだ。ま、センターバックに欧州組はいない(であろう)から、本エントリの趣旨とは直接は関係ないことになるが。

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幻想の終わり、夢の続き。

 残念。

 ほかに言葉がない。日本代表の冒険は、ここで終わってしまうのか。

 負けたことよりも、ベスト16止まりという結果よりも、このチームをもっと見続けていたかった。
 大会が始まってから1試合ごとに目覚ましい成長を見せたこのチームが、どこまで行けるのかを。
 それが断ち切られてしまったことが、何よりも悔しい。
 
 
 南アフリカ大会は、ある意味で、日本のサッカー界が囚われてきた幻想に終止符を打った、という意味を持つことになるんじゃないだろうか。
 「日本選手は技術が高い」とか、「中盤のパス回しなら一流」とか、そういうところをストロングポイントと考えて岡田監督はチームを作ろうとしてきた。前任者の「日本代表の日本化」という宣言が鮮烈に印象に残っていたこともあり、そういう基本姿勢を疑う人、否定する人は、ほとんどいなかった(岡田監督の技量でそれが実現できるのか、という懸念や批判はあったにしても)。

 しかし、岡田監督は、23人のメンバーを決定し、日本を出発した後で、それまでのやり方に見切りをつけた。イングランドやコートジボワールなど強豪国との戦いで通用しないことを悟ったのだろう(岡田監督は、主力選手の数名がコンディションを崩していたことも理由に挙げていた)。
 まず守備を固め、相手に囲まれても勝負できる能力の持ち主を前線に配した。日本選手の組織力や連携、タスクに忠実な精神力といった特徴は、主として守備において発揮された。

 つまりは弱者の戦法を取ったのだ。そのやり方でカメルーンを倒し、オランダには屈したが、フリーキックという従来からの武器によってデンマークをも倒してベスト16に進出した(もっとも、その時、従来からの一番手キッカーはベンチに座っていたわけだが)。

 ただし、弱者の戦法ではあっても、2試合目、3試合目と大会が進むにつれて、チームは、攻撃的な闘い方を少しづつ模索しはじめた。本田だけでなく、松井や大久保、遠藤、長谷部、岡崎らがコンビネーションの片鱗を見せはじめた。3試合目が終わった後に岡田監督が会見で話していた通り、自分たちのどこまでが通用し、どれが通用しないのかという見極めを、選手たちが肌で理解しはじめた、ということなのだろう。

 ベスト8を争うパラグアイとの試合も、入り方はこれまでと大差なかった。
 パラグアイといえば思い出すのは1998年フランス大会。GKチラベルトを中心とした、しぶとく守り抜くチームで、延長の末、ブランのゴールデンゴールに散ったフランス戦は、あの大会の白眉のひとつだった。
 だが、そんな私のイメージよりもパラグアイは攻撃的だったし、選手たちは日本よりも早く疲れ始めていた。パラグアイは幾多のチャンスを作ったがミスも多かったし、試合が進むにつれて守備にも隙を見せ始めていた(とはいえゴール前の堅さは最後まで変わらなかったが)。

 岡田監督の用兵は、延長突入を意識していたのか、仕掛けが遅かった。
 松井や大久保を下げるのはそれまでと同じ。だが、阿部を下げて中村憲剛を入れた起用は、大会で初めて見せたものだ。阿部がピッチからいなくなるのも、中村憲剛が入るのも、初めてだった。
 中村はトップ下に入り、遠藤と長谷部が中盤の下がり目にポジションをとった。両翼には岡崎と玉田。トップには依然として本田が張っていたが、それ以外は従来の岡田監督による日本代表の形のひとつだ。長短のラストパスを出せて、かつ自身も前線に飛び込んでいける中村憲剛は、疲れの見え始めたパラグアイに対して効いていたと思う。
 つまり、このチームは、遠藤ー長谷部というラインの後ろに阿部を置く形と、前に中村憲剛を置く形、2つのオプションを手に入れた。相手との力関係や状況に応じて、この2つを使い分けながら戦うというやり方が見えてきた。

 だから、中村投入後に1点を取って勝ち上がることができたなら、日本代表はさらにバージョンアップを重ねることができただろう。一度は見切りをつけた戦い方を再構築して、このレベルの相手にも通用するところまで磨き上げることができたかも知れない。
 そのチャンスを失ったことが、何よりも残念だ。

 岡田監督は、たぶんこの試合を最後に代表監督を退任するのだろう。
 次が誰になるのかは知らないし、今はそこまで頭が回らない。
 ただ、誰が次期監督になるにせよ、岡田監督が見せた弱者のリアリズムと攻撃の可能性、双方を踏まえて前に進むようなチームを作って欲しい。
 そうなった時に、南アフリカでの彼らの闘いは、さらに輝かしいものになるはずなのだから。

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