禁句。

 どんな立場の人間にも「言ってはいけない一言」というものがある。
 野球日本代表監督にとっては、たとえば次の言葉がそれにあたる。

最初のゲームでバッターにしてもピッチャーにしても、なんかこわごわピッチング、バッティングしていたね。ストライクゾーンがまったくほかの世界でやっているような感じだった。それで戸惑った感じだった

 この大会におけるストライクゾーンが曖昧だったのは確かだ。決勝戦では、1点差の9回裏一死満塁という局面で、四球の判定に不満を示した韓国の捕手が即座に退場になるという異常事態が起こった。苦しんだのは日本だけではない。

 五輪の野球は、<まったくほかの世界でやっているような感じ>ではない。<ほかの世界でやっている>のだ。
 日本には日本の野球があるが、キューバにはキューバが、プエルトリコにはプエルトリコの野球があり、欧州には欧州の野球がある。それぞれが入り混じり、日によって入れ替わりながら現れるのが国際大会というもので、それは今大会に限ったことではないはずだ。

 野球の日本代表が国際大会に初めて参加したのは1972年の世界選手権(現在はワールドカップと名称を変えている大会)で、その時からすでに現場の指導者や選手は同じ問題に直面している。以来、野球日本代表は、その問題に取り組み続け、野球がオリンピック競技となってからは、ずっとメダルという結果を出してきた。
 ひとつ前のエントリに即して言えば、「4年間、キューバを倒すことだけを考え続けてきた」という指導者や選手が、90年代の日本にはいたはずだ。

 その後、大会規定が変更されてプロの参加が認められ、もはやアマチュアだけでは勝てない、と助っ人のようにプロ野球選手を加えた混成チームで臨んだのが2000年のシドニー五輪(正確には前年の予選から)。それでも優勝できないと見るや、次のアテネ五輪からは指導者・選手ともオールプロに切り替えた。

 逆に言えば、野球界は、4年間キューバを倒すことだけを考えていたようなアマチュアの指導者や選手たちから、最大の目標、最高の舞台を取り上げてしまったのだ。
 シドニー五輪でプロの参加が決まった時、私は、これで日本の社会人野球は衰退に向かうだろう、と予測した。
実際、有力な企業野球部の廃部は相次いでいる(正確に言えば、当時すでにバブル崩壊の影響などで縮小傾向があったが、五輪のプロ化はその傾向に拍車をかけたということだろう)。

 くどくどと歴史を繰り返してしまったが、要するに、日本にも<ほかの世界>を研究し、挑み続けてきた歴史がある。
 星野の言葉は、そんな歴史や先人に対する敬意をあまりにも欠いている。

 現場が望んだわけではないにせよ、アテネ以来の五輪日本代表は、「アマチュア野球界から最高の舞台を奪った」という十字架を背負っている。だから、この日本代表は、ファンや国民に対してはともかく、アマチュア野球界に対しては、金メダルを持ち帰るという責務を負っている、ともいえる。
 社会人野球時代に代表経験を持つ宮本慎也はそれをよく知っており、だからこそ彼はあれほどまでに強い責任感をもって五輪に取り組んできたのだろうと思う。たとえば現在日本生命の監督を務めている杉浦正則(同志社大の先輩でもある)のような人々に対して、「金メダルをとらなければ申し訳ない」という気持ちが、彼を動かしてきたはずだ。

 かつてアマチュア時代の五輪で日本代表を率いた人々、日本代表として戦った人々は、星野の言葉をなんと聞いただろうか。
 星野監督は北京五輪の本大会を終えてから、<我々にはもっともっとパワーが必要。パワーで押さえ込むことが備わらなければ国際試合には勝てないんじゃないか>という結論にようやく至ったらしい。今はプロ野球界の一員となっている山中正竹バルセロナ五輪監督は、この言葉をどう聞いただろうか。ソウル五輪の投手コーチとして、もはや技巧派では国際試合に通用しないと考え、野茂英雄や石井丈裕、渡辺智男ら球威と変化球の決め球にすぐれた投手陣を揃えて決勝に進出した経験を持つ山中なら、そんなことは20年も前から判っている、と思ったのではないだろうか。

 いずれにしても、老人たちのご都合主義で始まった、矛盾に満ちた「プロによる五輪代表」という活動は、今回で終わった。MLBが態度を変えない限り、復活は難しいだろう(五輪がUSAで開催される大会で組織委員会がごり押ししてIOCが折れる、というケースはありそうな気もするが)。
 最後には苦いものだけが残ったが、勝利の甘美さがすべてを覆い隠してしまうのとどちらがよかったかといえば、私には判断がつかない。アテネ五輪の後で、今はロサンゼルスにいる黒田が宮本に話したという、「銅で良かったんですよ。あんな準備で金メダルをとってしまったら、みんな『簡単なんや』と思ってしまう」という言葉が思い出される。


追記:
 2008.8.24付朝日新聞に掲載されたロイター発の記事によれば、IOCのジャック・ロゲ委員長は、野球の3位決定戦を視察した際に、<大リーグ選手が参加しない限り、再び五輪で採用されることはないだろうという考えを示した>という。<テニスにはフェデラーやナダルがおり、サッカーではロナウジーニョがいる><大リーグのチームが丸ごと出てほしいと言っているわけではない。ただ、五輪にはトップ選手がいてほしい>というのがロゲの談話。


追記2(2008.8.25)
野球が公開競技として採用され、初めてメダルを争った1984年ロサンゼルス五輪の代表監督として日本を優勝させた松永怜一さんがサンケイスポーツに今大会についての評論を寄せている。
<悔しいし、残念でもあるが、それ以上に憤りもある。ロサンゼルス大会以降、アマチュアが苦労を重ねて積み上げてきた成果が、最後の最後に崩れてしまったからだ。>
<敗因はいくつもあるだろうが、私はオールプロの彼らが、最後まで「箱庭」から抜け出せなかったからだと思っている。>
<異なる野球文化で知らない相手と戦わねばならない。自分の庭でいかに秀逸な技能を誇っても、それを五輪でも発揮できるかとなると、話は別だ。>

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煮え切らないのは現場のせいだけではない。

 準決勝でまたも韓国に敗退。野球の金メダルの夢は潰えた。
 リードしながらも四球や守備のミスが絡んでの失点。出塁はしても走者をホームに迎えることができず投手を援護できない打線。選手選考や監督の采配に不満がないとは言わないが、別の選手起用、別の監督だったら勝てたのかといえば、確信は持てない。
 グループリーグでキューバ、韓国、USAに敗れての4位。それぞれの勝敗は紙一重でどちらに転ぶかわからないものだったが、結果としてこちらに転びはしなかった。

 ただし、日本代表が実力を余すところなく出し尽くしたかといえば、そうは思えない。上述した通り、敗因の多くをミスが占めている。日本野球の美質とはかなり異なる試合運びだった。
 準決勝以後、2日で3試合という厳しい日程の中で、エース上野が1人で3試合を投げ抜き、決勝ですべてを出し尽くして勝利した女子ソフトボールの日本代表とは、かなりの差があったといってよい。

 同じようなもやもやと落差を、サッカーの男女にも感じる。
 女子サッカーは史上最高の4位という好成績を挙げた。準決勝、3位決定戦ともに惜敗したが、特に3位決定戦では、強豪ドイツに対して終始攻め続け、絶望的な2点目を奪われた後もなお、彼女たちは足を止めることなく抵抗を続けた。試合後のテレビ報道では「チャンスは作ったが決定力不足だった」と評する声が多かったが、彼女たちが放ったシュートの多くはゴールの枠内をとらえていた。試合後の選手たちのインタビューでは、もうこれ以上はできないというくらいの試合をやりきった、という充実感が表情に表れていたように感じた。
 男子に関しては、多くを語る言葉を持たない。何もかもが中途半端だったように思う。

 持てる力を出し切った女子は立派だった。出し切れなかった男子はだらしない。
  たぶん、部分的にでも試合を観戦した人の多くが、そう思っているのではないか。
 結果はともかく、この「出し切れなかった感」については、現場、つまり選手と指導者の責任は大きいと思う。
 ただし、すべてが現場の責任に帰するべきだとは思わない。


 私は北京五輪のさほど熱心な視聴者ではなかった。全試合を集中して見たといえるのは柔道の石井慧くらいだ。とはいえ、競技のダイジェストや試合後のインタビューに答える選手たちの映像を見ていると、結果の善し悪しにかかわらず、各々がこの大会に賭けてきたものの重み、気持ちの強さはひしひしと伝わってくる。
 そして、日々その重みを受け止め続けているうちに、一部の競技の選手たちに違和感を覚えるようになってきた。
 それがつまり、男子サッカーと野球だ。

 オリンピックに出場するほとんどの選手たちにとって、この大会は競技生活における最大の節目だ。多くの選手が「この4年間、このために努力してきた」という意味のことを語る。
 ソフトボールの選手のひとりが「この4年間、アメリカのエースをどう攻略するかだけを考えてきた」と語った記事を読んで、大袈裟にいえば慄然とした。だが、たとえば北島康介は「ハンセンより早くゴール板に触るためには」と考えてきたのだろうし、塚田真希は決勝で当たった中国の選手を倒すために握力を鍛えてきた、と中継のアナウンサーは繰り返し語っていた。ソフトボール選手の言葉は、決して特異なものではないのだろう。

 だが、野球日本代表には、「この4年間、キューバのエースを打ち崩すことだけを考えてきた」選手など、1人もいないに違いない。心中期するものがあった選手もいるだろうが、それを具体的な対策として実行してきた選手がいるとは思えない。昨年の予選を勝ち抜いた経験を持つ選手でさえ、今シーズン開幕後にオリンピックについて聞かれれば「それは代表に選ばれ、合宿が始まってから考えます。今はチームが最優先です」と答えるのが常だった。
 ソフトボールの上野は4年間思い続けてきたが、野球選手たちは4週間にも満たない。
 そして、それ自体は彼らの責任ではない。
 彼らには、ペナントレースとオリンピックの軽重に優先順位をつけることは許されていないといってよい。

 しかし、テレビを見る側は、他の競技と同じような、あるいはそれ以上の期待を彼らにかける。
 今日の野球の準決勝を私は職場のテレビで見ていたが、8回裏に失点を重ねるたびに、同僚が選手や代表チームを口汚く罵った。私とて彼らのプレーぶりには深い失望を味わったが、同僚のように居丈高な態度をとる気にはなれなかった。
 たとえば私が西武ライオンズのファンで、日本シリーズ第6戦あたりでG.G.佐藤が試合を決定づける落球する姿を目の当たりにしたら、スタンドから思い切り罵倒するかもしれない。西武ファンの期待を背負い、怒りを受け止めるのは、プロ野球選手としての彼の義務だ。
 だが、日本代表としてプレーすることの責任をどのように彼が、そして他の選手たちが背負うべきなのか、私はには明確な答えが見つからない。
 それはひとえに、日本のプロ野球におけるオリンピックの位置づけの曖昧さ、世界の野球界におけるオリンピックの位置づけの曖昧さによるものであり、選手の自覚不足などという精神論に収斂できるものではない(もちろん、どんな状況のどんなレベルの試合であれ、8回の佐藤の落球は野球選手としての汚点以外の何物でもないけれど)。

 まったくの感情論として言わせてもらえば、水泳や柔道、レスリング、陸上、ソフトボールなど、この大会のために過去4年間のすべてを捧げてきた選手たちが勝ち取ったメダルと、野球日本代表が得たメダル(今大会では得られない可能性も残念ながらかなりあると言わざるを得ないのだが)が同じ重みであるとは、私には思えない。

 女子ソフトボールでは、表彰式の後、トップ3の各国選手たちが一緒になって、ボールで「2016」の文字を作り、五輪競技への復帰を訴えた。五輪がソフトボールという競技における最高峰の舞台である以上、それは当然の欲求だ。
 だが、野球はどうだ。
 このブログでも何度も書いてきたように、ベースボールの宗主国であるMLBは、五輪に選手を派遣するつもりがない。それはたぶん2016年以降においても変わらないだろう。その方針が変わらない限り、USA、ドミニカ、日本、韓国、台湾、あるいはオーストラリアといった国々は最強チームを編成することができない。
 そんな中途半端な形で五輪に復帰することに、どういう意味があるのだろうか。いっそ、野球が盛んな国で開催される時だけ公開競技として実施する、ということでもいいんじゃないかという気がしてくる。真剣勝負として命(とはいわないまでも選手生命を賭けた戦いを見ることは少なくない)のやりとりをする場にはふさわしくない。
 勝って得られるものの重みと、負けることで背負う傷の深さが釣り合っていない。そんな形で選手たちを戦場に送り込むのはもうたくさんだ。
 今大会のトップ4でいえば、キューバ代表は五輪を最大の目標としている。韓国はシーズンを中断し五輪に集中してきた。USAはMLBを除外して割り切ったチームで臨んだ。良くも悪くも、それぞれのスタンスは明確だ。日本だけが中途半端な位置にある(4年前からの進歩は認めるが)。

 野球は今大会を最後に五輪競技から外れる。世界の野球界において、また日本の野球界において五輪をどう位置づければよいのかを、抜本的かつ徹底的に話し合うには、よい機会ともいえる。
 もちろん、誰がどういうテーブルについて話すのか、という前提に最大の問題があるわけだが、今度こそ誰か本気でそれを考えてくれないだろうか。新任のプロ野球コミッショナーには、ぜひそういう意識をもっていただきたいのだが。


関連エントリ:
五輪競技落選による、MLB一極集中体制の完成。
足りなかったもの。
星野仙一が代表監督にふさわしいと考える理由。
で、野球界は北京五輪をどうするのか。
横尾弘一『オリンピック野球日本代表物語』ダイヤモンド社

 改めて並べると、同じようなことばかりずっと書いてますが。

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横尾弘一『オリンピック野球日本代表物語』ダイヤモンド社

 ありそうでなかった本だ。あるいは、こういうものがなかったこと自体が野球におけるオリンピックの半端な位置づけを象徴している、というべきか。
 タイトルの通り、野球が五輪の公開競技に採用された1984年ロサンゼルス大会から、正式競技としてひとまず最後となる2008年北京大会の予選に至るまで、野球日本代表がどのようにしてオリンピックに臨んできたかを記している。

 タイトルに「物語」とあるけれど、各大会のスター選手の活躍を描いた“名勝負物語”やNumber的“ヒューマンストーリー”を期待して読めば、いささか物足りなく感じることだろう。著者の記述スタイルはむしろ歴史書に近い。それぞれの五輪大会に向けた日本代表が、歴代の監督の下、どのように発足し、4年の準備期間にいかにして強化を試み、本大会に臨んだかが、粛々と記録されている。
 ロサンゼルスから始まる五輪の各大会ごとに1章があてられているが、本大会だけでなく、チームの発足から4年間に行われた大小の国際大会についてもきちんと記されているので、本書は実質的に、日本のアマチュア野球における国際挑戦史でもある(巻末にはそれらの大会すべての出場選手と勝敗、タイトルが記されている)。


 通読してまず感じるのは、日本代表の勝利という目的のために関係者が一丸となって総力を結集することの難しさだ。
 プロアマ混成の2000年シドニー大会、全員プロ選手で結成された2004年アテネ大会において、現場の指導者や選手たちが直面した困難はむしろ国内の野球界にあったのではないか、ということはこのblogでも何度か指摘してきた。
 が、実はそれはプロの参加を待つまでもなく、日本代表という存在に最初からついて回る宿命だったことが、本書を読むとよくわかる。

 草創期の日本代表に対して、選手を派遣する母体である企業は非常に消極的だった。学生球界との関係も密接とは言えず、日本代表は長い間、ほぼ社会人選手だけで構成されていた。
 ロス五輪では社会人と大学生の混成チームが出場したが、これは予選で敗退した日本がキューバの大会ボイコットで急きょ出場することになり、都市対抗との日程調整ができなかったという事情がある(本書によれば、日本代表の事実上のオーナーだった山本英一郎が、それを奇貨として、参加に消極的だった大学球界を強引に説き伏せて選手を出場させた、という経緯もあったようだ)。

 社会人と学生の温度差は以後も続く。87年、社会人野球の団体である日本野球連盟の体協加盟が認められた際に、学生野球の各団体が出したコメントが紹介されているが、どれも他人事そのものだ。とりわけ日本学生野球協会の広岡知男会長のコメントの冷淡さには、今読むと驚くべきものがある。

<社会人が体協に入るのは、それはそれで結構なこと。学生協会は、設立の経緯から他の組織の下部団体にはなれない。体協に入らなければオリンピックに出さないというなら、こちらとしては出ない。オリンピックにも興行的な要素が出てきたし、変わってきている。大学連盟が、五輪に出たいところは出てもいい、と言っているのは協会との関係からおかしなことだ>

 広岡は旧制中学時代の甲子園に出場し、東大野球部では六大学の首位打者となった経験のある、元朝日新聞社長。このコメントを読むと、野球界全体の流れとは無関係に(そして、昨今の奨学生問題に象徴されるように、教育界とも無関係に)「学生野球」という独自の閉じた世界に至上かつ不可侵の価値を見出す人々が、その信念に基づいて学生野球界を動かしてきたのだということを改めて実感する。
(もっとも、広岡はこの4年後には全日本アマチュア野球連盟会長も兼任し、五輪における野球日本代表を推進する立場になるのだが)


 母体となる諸団体がそんな調子だから、選手たちの意識も揃わない。
 1977年にニカラグアで開催されたインターコンチネンタルカップでは、炭酸飲料をがぶ飲みして体調を崩したり、3位に終わりながら閉会式で記念写真を撮ったりしている選手がいて、監督の松永怜一を激怒させた。
 野球が五輪競技となり、日本代表が相応のステイタスを認められるようになると、別の問題が生じてきた。1992年バルセロナ大会の予選を振り返って、主将を務めた捕手の高見泰範は<バルセロナを目指し、予選はプロセスだと考えている選手と、プロ入りを目指していいプレーをしようとしている選手には、明らかに違いがあった。バッテリーを組んでいても、新谷(博=日本生命、後に西武など/引用者注)との意識の差は感じていました>と話す。
 ロサンゼルス大会から数えて4度目の五輪で、企業や大学の理解も深まり、ドラフト凍結という形でプロからも間接的なバックアップを受けていた1996年アトランタ五輪では、予選リーグ敗退寸前まで追い込まれるが、それも同じ問題がチームに亀裂を生じさせていたからだ、と著者は考えているようだ。

 歴代の監督たちも、意識の統一や一体感の醸成に心を砕いてきた。
 急きょロス五輪を率いることになった松永怜一は、合宿初日の前夜に<敗戦主義者や怠け者、不平不満を漏らす者はいらない。私の言うことが聞けない者は、今すぐ荷物をまとめて帰ってくれ>と選手たちに宣言する。
 1992年バルセロナ五輪を率いた山中正竹は<私は日本代表も自分のチームと思えるような選手を集めようとした><このチームを勝たせるにはどうすればいいか、その中で自分は何をすればいいのかを考えられる選手を見極めようと>と回想する。
 この山中が、最終合宿の最終日に、右肘を痛めていた西山一宇投手をメンバーから外そうとしたが、別の選手を呼ぶことでチームの一体感が崩れるリスクをおそれて思いとどまったというエピソードには、北京五輪代表における上原浩治の処遇の背景を想像させるものがある。

 星野仙一監督が率いる北京五輪の日本代表を見る上で、本書が示唆するところは大きい。メンバーが発表された今、選手たちが集合し、最終合宿を行い、本大会を戦う中で、どのような困難に直面することになるのかを知るためには、この上ない参考書となるはずだ。

 奥付での著者の肩書きは「ベースボール・ジャーナリスト」となっている。社会人野球誌「グランドスラム」を中心に活動しているようだが、私の印象に残っているのは、落合が中日監督に就任したシーズンに密着した『落合戦記』だ。あの落合に信頼されるというだけで一目置かざるを得ないという気になる。著書自体はけれん味のない実直な文章という印象を持っている。本書もまた、そのように記された労作だ。

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北京五輪野球代表についての感想。

 今日、北京五輪に向けた野球日本代表メンバー24人が発表された。

<投手>
上原浩治G、川上憲伸D、岩瀬仁紀D、藤川球児T、ダルビッシュ有F、成瀬善久M、和田毅H、杉内俊哉H、田中将大E、涌井秀章L
<捕手>
阿部慎之助G、矢野輝弘T、里崎智也M
<内野手>
荒木雅博D、新井貴浩T、村田修一BAY、宮本慎也S、西岡剛M、川崎宗則H、中島裕之L
<外野手>
森野将彦D、青木宣親S、稲葉篤紀F、G.G.佐藤(佐藤隆彦)L


 顔触れを見てすぐに思い当たるのは、星野監督は昨年12月の予選のチームを重視した、ということだ。24人中19人までが予選に出場している。以下の5人が入れ替わった。

OUT 小林宏、長谷部、井端、和田一浩、大村三郎
IN  和田、杉内、田中、中島、佐藤

 予選では9人だった投手が1人増えた。3試合で終わる予選と違い、五輪本大会は試合数が多いのだから当然(投手を10人にするか11人にするか、が選考における最大の論点だった、と山本浩二コーチが記者会見で話している)。
 和田、杉内はWBC経験者(杉内はアマ時代のシドニー五輪、和田はアテネ五輪にも出場した)で国際経験に不足はない。田中、中島はおそらく初の国際大会出場になる。GG佐藤も同様だと思うが、アメリカでのプレー経験がプラスになるかどうか。

 昨年の予選では、昨季好調だった選手を中心に選んだ感があったが、今回のメンバーは必ずしも現在の成績や調子を反映してはいない。パの野手陣では打撃ランキング上位の選手が順当に選ばれているが、セではかなり異なる。投手についても涌井や成瀬の勢いは昨年ほどではないし(とはいえ実質2年目の今年も相応の成績を残しているという意味では評価できる)、上原の不振は深刻だ。
 選ばれたメンバーよりもよい成績を残している選手は少なくない。

 つまり星野監督は、現時点での調子よりも、予選3試合を通じて培われたチームの一体感を重視したということだろう。
 シーズン真っ最中で最低限の準備期間しかとれない本大会のために、一からチームを作り直すことは困難だろうから、これは合理性のある判断だと思う。

 この「予選を勝ち抜いたチームを基礎にして本大会に臨む」という当たり前のことが、アテネ五輪では許されなかった。
 当時の代表チームには「本大会出場は1チーム2名まで」という制約が課されたために、首脳陣はチームをいったん解体して組み直さなければならなかった。チームの求心力を担保していたはずのカリスマ監督は病に倒れ、指導者としての実績が無に等しい代行監督が、この即席チームを率いてアテネに赴かなければならなかったのは周知の通り。
 今回、その種の制約が外れたのは、プロ野球界もアテネについていくらか反省したという現れだろうし、アテネでの一部始終を放送席から見ていた現監督の強い意向にもよるのだろう。

 ちなみにアテネ五輪から連続出場する選手は、投手で岩瀬、上原、和田毅、野手では宮本ひとりの計4人。本来なら黒田、松坂、城島、福留なども連続出場して然るべきだが、彼らはこの間にアメリカに渡ってしまった。


 さて、顔触れを見て気になったことがいくつか。


1)宮本を誰が補佐するのか。

 WBCの代表選手が発表された時、宮本不在で誰が主将役を務めるのか、という懸念をこのblogに書いたことがあったが(後に井口の出場辞退に伴い、宮本はメンバーに加わり、私が期待したような役割を果たした)、星野監督は予選の時から宮本を主将に指名していた。故障やよほどの不振でない限り選ばれるのは確実だったし、それが張り合いになったのか、宮本は打撃でも好調を維持している。

 というわけで今回は主将に不足はないのだが、改めて顔触れを眺めると、野手陣は宮本以外は全員若手の感がある。捕手陣3人はベテランぞろいだが、投手陣の把握に相手打線の研究、ブルペンコーチ役と、捕手業務で手一杯になりそうだから、野手陣に宮本を補佐する選手が必要になってくるはずだ。
 WBCではイチローが主将格で宮本が陰のリーダー、という分担ができていたようだし、アテネ五輪では高橋由伸が宮本の相談相手になっていたようだ。今回の予選では井端や和田がいた。

 今季は必ずしも状態や成績がよくない高橋由伸、井端、小笠原らが最終候補に名を連ねていたのは、おそらくそのような含みもあってのことだったのだろうが、結局は3人とも落選。台中でベンチを引き締めていたと思われる和田一浩もいない。

 年齢的には稲葉はベテランだ。実力も充分でレギュラー出場が予想されるから、候補のひとりではある。が、日本ハムでもそうだが、人格的にとても初々しくて、リーダー格とかまとめ役とかいうのはちょっと違うような気もする(あくまでメディアで見た限りでの印象)。

 期待したいのはむしろ、西岡、川崎、青木といった面々。WBCで“イチロー・チルドレン”として売り出した彼らも、今や国際経験ではトップクラスになっている。予選の後で稲葉が「WBC組についていくのに必死だった」と話していたように、今や日本代表の顔でもある。やんちゃな若手という立場にとどまらず、次のWBCでは宮本から主将を引き継ぐくらいの気持ちで取り組んでくれたらいいなと期待している。


2)誰が打線の核になるのか。

 国際試合、とりわけ準決勝以降のノックアウト方式に入ると、チームとしての精神的タフネス、諦めない力とでもいうものがとても重要になると思われる。
 その時に大切なのは、打線のつっかい棒とでもいうべき打者だ。誰もが「○○さんに回せば何とかしてくれる」と信じられる時に、打者たちは線となって敵に立ち向かうことができる。

 前回のアテネ五輪から、逆の例を見出すこともできる。準決勝でオーストラリアに1点をリードされた最終回。先頭打者だった四番・城島は初球からバントヒットを狙って失敗した。
 奥田英郎は著書『泳いで帰れ』の中で<自分が何とかしようとする者の行為ではない。あとは頼むという、責任回避の行為だ。四番がこれか>とこのプレーを罵倒しているが、私も同感だった。城島は好きな選手だが、これはいただけない。日本はそのまま三者凡退であえなく敗退した。

 灼熱の北京で、選手たちは苦しい時に誰の顔を見ればよいのか。監督か?そりゃ違うだろう。宮本主将といえども、試合に出づっぱりでチームを引っ張るのは難しいだろうし、まして「つないだ走者たちを本塁に迎え入れる」という役割ではない。
 健在なら小笠原あたりが担うはずだった役目だが、いないものは仕方ない。ここは新井や村田に頑張ってもらいたい。台中で、単打に徹した新井は頼もしかった。本大会は彼らにとって一皮むけるチャンスでもある。


3)一塁コーチを誰が務めるのか。

 3つ目は、ものすごく細かい話。五輪ではベンチ入りスタッフの数も非常に絞られる。コーチは山本浩二、田淵、大野の3人だけ。山本が三塁コーチ(これも懸念したのだが、台中では無難にこなした。北京でも頑張ってもらうしかない。暑さが心配だが)を務め、田淵はベンチで星野監督の相談相手、となると一塁コーチは控え選手がやることになる。
 台中ではほとんどの時間帯を宮本が務めていた。走者たちへの指示ぶりは堂に入ったもので、まず不安はない。だが、宮本が試合に出ている間は、誰が代わるのか。

 予選で宮本不在中の一塁コーチャーズボックスに立っていたのは井端だ(アテネ五輪の予選でもやっていた)が、今回は選ばれていない。予選での中日・阪神勢の使われ方を見ていると、荒木、森野ら中日勢が候補と思われるが、選手としてはともかく、コーチとしては心許ない気がする(なんて書いたら失礼だろうか。中日ファンの皆さん、どうでしょうか)。
 スタッフが少ないだけに、試合に出ない選手の役割も普通のチームより重くなる。ベンチの選手たちの表情や態度にこそ、チームの一体感は現れるものだ。


 懸念としていくつか書いたが、このくらいのことはおそらく監督も考えた上でのセレクトのはず。選手たちが、大きなチャンスと捉えて取り組んでくれたらいいと思っている。
 あとは選手たちが開幕までによいコンディションに仕上げて本大会に臨めることを祈るばかり。

追記(2008.7.23)
代表チームの選考は、最終的には監督の専決事項だと私は思っているが、ファンやメディアから批判や異論が出るのは避けられないことだし、異論のある人は言えばよいとも思う。ただし、ファンの酒場談義なら好き嫌いだけで声高に論じてもよいけれど、メディアが批判を表明するなら、相応の根拠は示して貰いたい。

こんな判りきったことを書くのは、今週の週刊朝日の中吊り広告に呆れたからだ。

<やはり中日、阪神偏重で、今年の成績よりも「コネ」が優先!?
  星野ジャパン このメンバーじゃ勝てるわけない!>
http://publications.asahi.com/syukan/nakazuri/image/20080801.jpg

 記事の内容は二宮清純、小関順二、玉木正之らのコメントをつぎはぎしただけのお手軽なもの。個別には傾聴すべき部分もあるが、誰かが「中日阪神偏重だ」とか「コネ優先だ」とか「このメンバーじゃ勝てるわけない」などと明言しているわけではなく、中吊りと記事との整合性は低い。週刊朝日では、中吊り広告が記事とは別に独自の見解を主張することがあるようなので気をつけたい。

 昨年のアジア予選で、普段やらないような苦しいロングリリーフや、ブルペン捕手など試合の外側での地味な仕事を任されていたのが中日・阪神勢だったことは、3試合をきちんと見ていれば誰にでも判ったことだ。今回のメンバー構成を見ても、彼らが同じような役回りになることは容易に予想がつく。人数は多くとも優遇されたとは言い難い(そもそもぶっちぎりで首位独走中の阪神から3人というのは、決して多くはない)。
 そんなことには触れようともせず、人数だけ数えて「偏重」だの「コネ」だのと騒ぎ立てるような振る舞いを「下衆の勘繰り」という。06年のWBC日本代表には千葉ロッテから8人が選ばれたが、あれも誰かのコネだったというのか?

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オーバーエイジ枠は手段であって目的ではない。

 野球における五輪の地位をどう考えるのか、てな話は、このblogで何度も書いてきたのだが、サッカーにおける五輪の地位というのも、同じくらい奇妙なものだ。

 メキシコの銅メダルまでさかのぼって語ろうとは思わないが、かつてはアマチュアの大会だったものが、84年ロサンゼルス大会では「プロ容認、ただし欧州と南米はワールドカップ不出場選手のみ」という奇妙な規定に変わり、92年バルセロナ大会からは23歳以下に限定、さらに96年アトランタ大会から「年齢制限外の選手を3人まで使ってよい」ことになって現在に至る、というのが五輪サッカーのレギュレーション小史である。

 FIFAにとっては自前のワールドカップこそサッカー界で最大の大会だから、他の大会は格下にしておきたい。IOCはすべての競技で五輪を最高水準の大会にしたいし、特にサッカーは試合数が多く集客が望める人気競技だから一流選手を出してほしい。2つの国際団体のせめぎ合いの結果として出てきた妥協案が「U23+オーバーエイジ」になったのだと理解している。

 そのような妥協の産物である大会に、どういう姿勢で臨むかというのは、これはもう各国が独自に判断するしかない。伝統的には、南米やアフリカは比較的熱心で、欧州はやる気が薄い、という傾向があったように思う。
 欧州主要国では21,2歳でビッグクラブの主力だったり、主力に手が届きそうな選手は珍しくなく、そういう選手はたいてい五輪には参加しない。そもそも同じ年の6月に欧州選手権が開催されるので、代表選手は当然ながらそちらを優先する。
 一方でブラジルのように、他の主要大会では優勝しているのに五輪だけ金メダルがない、という理由で国民から追い立てられるように優勝を狙っているらしい国もある。
 「世界」といってもその実態は一様ではなく、どこかのやり方を真似しても意味はない。日本は日本の事情に応じて取り組み方を決めればよい。

 というわけで、日本の事情を考えてみる。
 日本では、五輪の社会的地位は非常に高い。44年前の東京オリンピックの成功体験がいまだに影響しているのかもしれない(その後の札幌、長野の2度の冬季五輪も、成功といってよいと思う)。
 たぶん、世界の主要競技の趨勢は、五輪から競技別世界選手権に重心を移しつつある(少なくとも両者が同等になりつつある)のではないかと思うが、日本では今も圧倒的に五輪のステイタスが高い。そういう国民の視線が、必ずしも五輪が世界一の大会ではない野球やサッカーにも、大きな影響を与えている。
 だから、国内での人気を維持するために、五輪に出場し、ある程度勝ち進むことが必須となっている。

 一方、サッカー界内部の都合としては、将来A代表入りが期待される(あるいはすでに選ばれている)有望な若手に国際経験を積ませることが重要になってくる。欧州や南米、アフリカの強豪国、あるいはその選手たちと直接対戦する機会の少ないJリーガーにとっては、五輪本大会は貴重な機会だ。長い目でみればA代表の強化に役に立つ。

 ちょうどオーバーエイジ制度が作られた96年アトランタ五輪から、日本は4大会続けて五輪に出場することになることになった。
 これまでの3大会では、枠をどう使ってきただろうか。

 96年アトランタ五輪で、西野監督はオーバーエイジを起用しなかった。結果はグループリーグ敗退。とはいえ2勝1敗、優勝国ナイジェリア、銅メダルのブラジルと同組で、かつブラジルに勝ったことを考えれば、大健闘といってよい。
 ただ、私的な感想をいえば、あのチームにカズや井原がいれば結果は違っていたかも知れない、という思いは残る。あのチームには城のほかに信頼に足るFWがいなかったし、ナイジェリア戦の終盤、精神的なもろさを露呈した守備陣に、精神的支柱となれるリーダーがいたら、とも思う(これが、たらればの結果論であることは承知している)。

 彼らの起用が見送られた理由はわからない。ただ、Jリーグが発足した時からこの96年まで、西野はずっとJFAで仕事をしていた(オフト監督時代には山本昌邦と一緒にスカウティングを担当していたはずだ)。日本リーグ時代に監督経験があったわけでもない。当時の西野には、指導者としてプロのJリーガーを扱うだけの力量がなかった、あるいは、その自信がなかったということだったのではないかと私は思っている(93年ごろ、テレビ解説をしていた西野が中継を通してカズと話す場面を見たことがあるが、「西野?誰だっけ?」というカズの軽口に絶句していた)。

 2000年シドニー大会では、GK楢崎、DF森岡、MF三浦淳が起用された。2勝1敗で決勝トーナメントに進出、アメリカにPK戦で敗れてベスト8。結果は悪くないが、もっと勝てたのでは、というもやもやを抱いたファンは少なくないだろう(2002年のワールドカップでもほぼ同じことが言えるのだが)。
 当時のトルシエ監督は、A代表と、この前年に行われたU20世界選手権の監督を兼任しており、3世代の代表が同じコンセプトの戦術で指導されていた。選手自体もかなり重なっており、合同で合宿をしたこともあったように記憶している。オーバーエイジは3人とも20代半ば。戦術理解、年齢差、監督との関係、いろんな意味で障壁は小さく、無理のない起用だったと思う。

 当時は、チーム力をアップさせるという点で、この3人にどれほどの効果があるのだろう、と思った。
 が、今にして思えば、むしろ、アトランタ世代でありながらアトランタ五輪に出場していない3人に国際経験を積ませる、という意味があったのではないだろうか。
 2年後のワールドカップ日韓大会で、楢崎は正GKとなり、森岡はフラット3の要として開幕戦に先発した(試合中のケガでリタイアし、以後は“バットマン”宮本にその座を譲らざるを得なかったが)。三浦もシドニー五輪と同年のアジアカップや翌01年コンフェデカップに出場している。シドニー五輪の時点で、トルシエが3人を2年後のワールドカップのレギュラー候補と考えていた可能性は高い。

 2004年アテネ五輪で、山本昌邦監督はGK曽ヶ端、MF小野を起用した。FW高原も呼ぼうとしたが、彼が2002年ワールドカップを断念する原因となった血栓塞栓症の再発により果たせなかった。結果は1勝2敗でグループリーグ敗退。
 この件についてはだいぶ前に少し触れたことがあるが、本大会直前にチームの心臓部を取り替える、というやり方にはあまり感心しなかった。構想通りに高原も参加できていれば結果は違ったのかも知れないが、すでに代表の主力だった2人にとってどれほどのメリットがあったかは判然としない。他の選手についていえば、山本が掲げていたキャッチフレーズ「アテネ経由ドイツ行き」を実現させた選手は、駒野と、直前に故障した田中誠の代わりに呼ばれた茂庭の2人だけだった(南アフリカに行きそうな選手は6,7人、あるいはそれ以上になりそうだが)。

 で、ようやく話は北京五輪代表にたどりつく。
 反町監督が6月30日に発表した合宿メンバーは20人。本大会のエントリー枠は18人で、基本的にはこの20人が最終候補と考えられる(故障中の長友など、リスト外から最終メンバー入りする可能性を残している選手もいるが)。
 リストに入ったオーバーエイジはMF遠藤のみ。FW大久保も招聘しようとクラブと交渉を続けていたが、結局断られて断念した、と伝えられる。

 過去3回のケースと比較すると、反町構想はアテネにおける山本昌邦のそれに似ている。
 ただ、遠藤は状況によってはサポートタイプの仕事もできる選手だ。メンバーに加えたが最後「遠藤のチーム」にせざるを得ない、ということにはならないように思う。そこは小野とは違う。

 遠藤は、キャリアと実力のわりに、代表では恵まれてこなかった。日本が準優勝した99年のU20世界選手権では、稲本の不振によりレギュラーの座を得て活躍したが、同世代が出場したシドニー五輪は予備登録メンバーとしてスタンド観戦。02年、06年のワールドカップにも出場していない(06年はベンチ入りしたが試合には出られなかった)。
 現時点で遠藤は日本のA代表のもっとも重要な選手のひとりであり、2010年にも主力と期待されている。遠藤自身も出場経験のない五輪に意欲をもっていると伝えられる。
 そんなわけで、遠藤の招集は理解できる。
 ただし、8月の北京は滞在するだけで健康に支障をきたしそうな土地でもある。9月以降のワールドカップ最終予選に悪影響を及ぼす懸念が少しでもあるならば、それを犠牲にしてまで出場することはない、とも思っている(発熱で検査入院、と伝えられるだけになおさらだ。彼は内臓疾患で長期休養を余儀なくされたこともあるのだから)。

 一方、反町監督が大久保を欲するというのは解せない。
 五輪は普通のサッカーの大会よりも登録できる選手数が少なく、全部で18人しか連れて行けない。大久保のように退場の多い選手を選んだら、貴重な登録枠のひとつを数試合にわたって空費するリスクが大きくなる。北京に二十何人も連れて行けるのなら別だが、18人枠がある以上、大久保選出には賛成しがたい。

 いずれにしても、オーバーエイジに誰が選ばれるのか、という点だけに集中した報道にはいささか疑問が残る。
 ここまで書いてきたように、まず考えるべきは「北京五輪で何を目標にするのか」ではないだろうか。

 代表人気の盛り返しを狙って、どんな手を使っても北京での好成績を求めるのか。有望な若手によい経験を積ませ、「北京経由南アフリカ行き」となる選手を増やすのか。そのどちらに重点を置くかによって、オーバーエイジ枠の使い方は変わってくるはずだ。
 それとは別に、年代別世界大会に出場しそびれた中堅選手に国際経験を積ませる、という使い方だってありうる。
 また、ワールドカップ最終予選(と、順調にいけばその後の本大会)を控えた岡田代表監督にも、北京五輪はこういう選手起用をしてこう戦ってほしい、という希望は、たぶんあるのではないかと思う。

 そして、以上のどれを五輪の主目標とするか、という判断は、反町監督ではなく、JFAが決めるべき性質のことだ。
 そこを明確にしようとしないのはいつものことだが、まったく感心しない。

 ちょうどこの夏は会長の改選期となり、なかなか方針を出しづらい時期ではあるけれど、そうでなくても川淵現会長はその種のビジョンを明確にすることがまずなかった(あれほどよく喋るのに、肝心のことははっきりしないのだ)。次の会長が誰になったとしても、会長としてやるべきことをやり、現場に任せるべきことは任せる、というメリハリのあるリーダーシップを発揮してほしいものだ。
 今のまま五輪に突入してしまったら、どんな結果が出たとしても、それをどう評価すればよいかという基準が、私にはよくわからない。

 あるいは反町監督が、表向き口にはしないけれど、内心では密かに上のどれかの目標を定め、照準を絞っている、という類の腹黒さを備えていてくれたら、それはそれで頼もしいのだけれど。


追記:
JFAは7/14に北京五輪に臨むU-23日本代表メンバー18人を発表。反町監督が当初構想していた大久保は神戸が派遣を拒否、遠藤は体調不良のため、オーバーエイジ枠の起用はなくなった。

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伴走者が脱落する時。

 スポーツライターの石田雄太に『メダルへの伴走者』(出版文化社)という著書がある。1998年、ちょうど10年前に刊行された本だ。96年のアトランタ五輪、98年の長野五輪(刊行は大会直前の1月末だから、試合結果は反映されていない)を題材に、スケート、スキー、陸上など、主要な五輪競技における用具開発者たちの歩みを描いている。

 最終章の第六章では、「気まぐれな人魚の水着」と題して、アトランタ五輪に臨んだ水着メーカーの苦闘が描かれている。

 当時の水連は、五輪においてミズノ、デサント、アシックスの3社から水着の供給を受けていた。ただし、大会ごとに男子競泳、女子競泳、その他(シンクロ、水球、飛び込み)の3部門に分けて、持ち回りで供給を依頼していたようだ。
 とはいうものの強制力はなく、選手が「普段着ているこのメーカーの水着がいい」と言い出せば、誰にも止めることはできなかった。予選での泳ぎに納得できなかった選手が、決勝で突然、別の水着を着てプールサイドに現れる、ということも充分に起こりえた(事実、ソウル五輪での鈴木大地は、水連が決めた水着でなく、普段から着慣れていた別のメーカーの水着で決勝に臨み、金メダルを取った、というエピソードが紹介されている)。
 だから、供給メーカーの担当者たちは、選手たちが最後まで自社の水着を使ってくれることを祈りながら、スタート台に立つ選手を見つめることになる。本章は、そんな知られざる苦労が軸になっている。

 10年後の6月。五輪代表選手たちにSPEEDO社のLZR RACER(レーザー・レーサー)着用を認めるか否か、という論争は、個々の選手の選択に任せる、という結論で決着した。性能に明白な差が認められる以上、合理的な結論だと思う(水連は時間をかけすぎた、という批判はありうると思うが)。


 今、『メダルへの伴走者』を読み返してみて思うのは、水連と水着メーカーとの取り決めが当時のような緩いものであれば、そもそもこういう論議は起こりえなかった。選手がレーザー・レーサーを着る、と決めれば、それまでだったからだ。
 水連と3社との契約がどのように変わったのか具体的には知らないが、10年前よりも水連に提供される利益は大きくなり、その分、水着着用を義務づける拘束力が強まった、ということなのだろうと思う。それ自体は特に悪いこととは思えない。
 また、メーカーが選手個人と契約を結ぶ、ということも、当時は行われていなかったのではないかと思う。競泳のアトランタ五輪代表選手はほとんどが学生で、数少ない社会人選手も、所属チーム名を出身校で登録している選手が多い。水泳の強化を担ってきたのは、あくまで学校とクラブだった。


 とはいうものの、メーカーの開発競争じたいは、今に始まったことではない。『メダルへの伴走者』にも、水着の開発史が紹介されている。

<一九八四年のロサンゼルスオリンピックの頃から、開発者たちの主眼は「水と水着との摩擦抵抗」というところに向けられ始めた。女子競泳の水着は、ここ十年、飛躍的な進化を遂げてきたといわれるゆえんである。
 デサントと常に開発の先頭を競ってきたミズノが、イギリスのスピード社とライセンス契約を結んで販売している<SPEEDO(スピード)>という水着ブランドでは、一九八八年のソウルオリンピックのために、新素材「アクアピオン」を開発した。
(中略)
 その翌年の一九八九年には、デサントが巻き返す。アディダス社と提携するブランド<arena(アリーナ)>で、超極細ポリエステル製の糸を使った新素材「ストラッシュ」を開発、表面の凹凸を極端に減らすことに成功したため、水の抵抗をこれまでの自社のものから一二パーセントカットできるようになった。
 また競泳用水着のサプライに新規参入してきたアシックスも、一九九二年に世界初のポリプロピレン、ポリウレタン混合の新素材を使った<P2>で、水を吸わないポリプロピレンの特性を生かして、水の抵抗を抑えにかかった。>

 これほど細かい話を知っているのは関係者だけだろうが、オリンピックのたびに選手たちが身に付けている水着の形状が変わっていくことには、普通の視聴者も気付いているはずだ。
 道具の性能によって成績が変わることは、スポーツ界では少しも珍しいことではなく、それは競泳においても例外ではない。

 にもかかわらず今回のレーザー・レーサーが日本の水泳界に大きな衝撃をもたらしたのは、その成績向上幅の大きさもさることながら、それが日本以外のメーカーから登場したことにあったのではないかという印象を、私は持っている。

 上の引用部分で気付いた方も多いと思うが、かつてミズノは日本におけるSPEEDOのサプライヤーだった。両社の契約が解消されたのは昨年の今ごろのことらしい。Wikipediaの記述によると、世界的なブランドとしてのSPEEDOの成功において、ミズノの技術力が寄与した面はかなり大きなものだったようだ。

 だが、ミズノは創業100周年を機に、SPEEDOとの契約を解消し、自社の水着ブランド「ミズノスイム」を立ち上げ、看板選手として北島康介とや武田美保と契約し、チームも結成した。自社の技術力をもってすればSPEEDOを凌駕できる、という自信もあったのだろうと思う。
 書いている方の素性は不詳だが競泳水着事情に非常に詳しいblog「ぱ〜まねんとヴァケーション」の、契約解消以前に書かれたエントリからも、そのような周囲の評価がうかがえる。

 レーザー・レーサーが発表されたのが今年2月。3年をかけて開発した、と謳っているから、ミズノと提携していた当時から開発は始まっていたことになる。ミズノがこの新型水着の存在をどこまで把握していたのかはわからないが、結果からいえば、レーザー・レーサーの存在が、SPEEDOをミズノとの契約解消に踏み切らせた、という面もあったのだろう。

 いわば、見限った相手から強烈なしっぺ返しを食らったようなものだから、ミズノにとっては衝撃も大きかったに違いない。
 水野正人会長はJOC副会長でもあるから、日本のスポーツ界および水連への影響力も当然ながら大きいはずだ。レーザー・レーサーの出現から、昨日の「五輪での着用容認」決定まで、外部から見れば動きが鈍いのではないかと思えるほどの時間をかけて、水連が慎重に検討を進めてきたのは、このミズノの存在の大きさとも無縁ではないだろう。上に紹介した「ぱ〜まねんとヴァケーション」の最近のエントリでは、契約解消の経緯に触れつつ、ミズノの姿勢を厳しく批判している。ここに書かれたミズノの政治力行使ぶりがどの程度事実なのかはわからないが、ありそうな話だと思わせるだけのリアリティはある。
 とはいうものの、最終的にはレーザー・レーサー容認という結論が出たのだから、現時点でこれ以上の批判は無用だろう(今後の水連のオフィシャルサプライヤー契約のあり方については、この教訓を反映したものにしてもらいたいが)。あとは本番までにどこまでその性能に迫れるか、ミズノにもデサントやアシックスにも期待したい。


 ただし、水連は容認しても、メーカーと契約している選手にとっては、すんなりレーザー・レーサー着用というわけにはいかない。彼ら彼女らは、五輪でそのメーカーの水着を着用することが義務づけられているはずだ。
 今朝(6/11付)の読売新聞の解説に、こんな一説がある。

<問題は弱い立場にいる契約選手だ。ある代表関係者は「契約があるため、公の場でLZR着用希望を言えずに困っている選手がいる」と打ち明ける。メーカーが開発競争で敗れたことに起因する話とはいえ、双方に不幸を招いてしまった。>

 読売の記事では、水連は「各社と個人の話。その過程で問題があれば(水連として)相談に乗る」とコメントしている。解説記事は<水連が選手を守りたいのなら、今こそ水泳界の指導者として積極的な問題解決に乗り出すべきだ。>と不満そうだ。

 率直にいうと、こういう論調には違和感を覚える。
 選手とメーカーとの契約には、水着のほかにもさまざまな利便の提供が含まれているはずだ。選手は、水着を含めて、そのメーカーが供給する競技環境がベストだと判断したから契約を結んだのではないだろうか*。F1レーサーがシーズンの途中で「あっちのチームのエンジンの方が優秀だから、あっちに乗り換える」と言い出すようなものだ。

 もちろん選手にとってもメーカー側にとっても難しい局面ではある。自社製品で勝ち目の薄い戦いに挑むべきか、他社製品でもメダルを獲得できる可能性が高い道を選ぶべきか。どちらを選んでも完全な満足は得られない。
 だが、メーカーと契約し、事実上のプロ選手として競技活動を続けているのであれば、そこは選手自身がメーカーと正面から話し合い、最善の道を探るべきだろう。
 上にリンクした「ぱ〜まねんとヴァケーション」には、オランダの強豪ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドが契約メーカーに違約金を払ってレーザー・レーサーを着用している、と紹介されているが、それもひとつの解決方法だ。

 そのような大人としての話し合いができないのであれば、選手は、水着だけを提供されていた10年前と同じ位置に戻るしかないのではないだろうか。

 善くも悪くも、この10年でアマチュアスポーツ界はずいぶんと遠いところまで来てしまった。選手にとっても、伴走者たちにとっても。


*
 この一連の議論は、あくまで、選手が最高水準の競技環境を契約メーカーから提供されている、という仮定のもとに書いている。もし、契約はしていてもアルバイトしないと食べていけない、なんてレベルであれば別。
 また、昨年5月以前にミズノと契約した選手も、同列にはとらえられない。北島康介が最初にミズノと契約した時、彼はSPEEDOのアドバイザリースタッフだった。途中で水着を変えたのはミズノの方なのだから(途中で話し合いはあったのだろうけれど)、北島に選択肢を与えないようでは道義的に疑問だ。

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44年前の聖火リレー。

 市川崑監督の映画『東京オリンピック』の冒頭では、確か、アジア各国を東京に向かって走る聖火ランナーの姿が映し出されていた記憶がある。

 調べてみると、1964年の東京五輪では、確かに聖火がアジアを通過している。
 ギリシャ・オリンピアのヘラ神殿跡で採火式が行われたのが8/21。ギリシャ国内を走ってアテネに着いた火は、“シティ・オブ・トウキョウ”と名付けられた特別機で東京に向かったのだが、直行したわけではない。JOC公式サイトの東京五輪特集ページには、こう記されている。

<ギリシャから日本までは、イスタンブール(トルコ)→ ベイルート(レバノン)→ テヘラン(イラン)→ ラホール(パキスタン)→ ニューデリー(インド)→ ラングーン(ビルマ)→ バンコク(タイ)→ クアラルンプール(マレーシア)→ マニラ(フィリピン)→ ホンコン(ホンコン)→ 台北(台湾)と、11の中継地を経て、9月7日に沖縄に到着した。>

 このページにはルートの地図も載っている。途中まではともかく、ビルマ(現在はミャンマー)から東は、第二次大戦の戦場となった地域だ。戦争の終結から19年目。各地には、複雑な思いで聖火を見送る人もいたのではないかと思う。


 東京五輪の聖火リレーは、なぜこのようなコースを辿ったのか。
 NHKのテレビ番組「その時歴史が動いた」では、昨年1月に、「東京オリンピックへの道 ~平和の聖火 アジア横断リレー~」と題して、この聖火リレーを取り上げている。残念ながら私は見ていないが、番組サイトに概要が示されている。

<戦争で多くの教え子を失った田畑は、戦後、平和の祭典としてのオリンピック開催に再び挑戦する。しかし待ちかまえていたのは、アジア諸国の根強い反日感情だった。
田畑は、日本が平和な国を目指していることを伝えるため、戦争被害を与えたアジア諸国を10万人の手でつなぐ大聖火リレーを計画した。アジアの人々は東京への聖火を受け入れてくれるのか。
平和の祭典を目指した東京オリンピック、その知られざる長く険しい道のりを描く。>

 「田畑」とは当時の日本水泳連盟の田畑政治会長。元朝日新聞の記者・役員で、JOCの幹部、1964年の東京五輪誘致の中心人物のひとりだ。1940年の東京五輪(戦争のため中止)誘致にも尽力したらしい。


 番組は、“聖火リレーは成功、平和ニッポンはアジア諸国に受け入れられました、めでたしめでたし”というトーンでまとめられていたらしい。「テレビ批評的視聴記」というサイトでは、そのようなまとめ方に疑義を呈している。 
<侵略戦争の許しや反日感情をスポーツ大会で測る(悪く言えば請う)というのは、田畑の考えたスポーツと国際問題の別離とは言えないものである。オリンピックや競技大会を平和のアピールの場にしようという発想の起点からして、論理的には国威発揚や代理戦争と性格を同じくするものである。>

 まっとうな見解だと思う。NHKの番組サイトに紹介されている田畑の言葉は、国威発揚のために五輪を利用しようという点で、終始一貫している。

 東京五輪における最終聖火ランナーは早大陸上部の選手、坂井義則だった。五輪代表になれなかった一陸上選手が、大会を象徴する最終走者に選ばれた理由には、彼が、広島市に原爆が投下された日に、広島県内(山間部の三次市)で生まれたことが大きく影響している。
(「最終聖火ランナーは原爆の落とされた広島出身の人にやってもらいたい」という田畑の言葉も残っている)

 要するに、東京五輪の聖火リレーは、コース選定から最終走者まで、全体が政治的アピールの場として設計された示威活動だった、と言うことができる。
 “平和の祭典を開催することで、平和を愛する平和国家に生まれ変わったことを世界に知らせたい”というのは、あくまで日本の主観的な目的であって、相手がそのように受け取ってくれたかどうかは、また別の話だ。

 上記のNHK番組サイトの中に、戦後の五輪誘致に際して田畑と岸信介の間にあったやりとりが紹介されている。
<「平和を願ったオリンピックを開催すればアジアの国々も日本は変わったと感じてくれる」「戦争を起こした日本が、都合よく世界平和などといってオリンピックを開催できるような立場ではない」>
 「日本」を「中国」に入れ替えれてみれば、私の心情は岸に近い。同じように感じる人も多いのではないだろうか。


 オリンピック大会における聖火リレーは、ヒトラー政権下のドイツで開催された1936年のベルリン大会に始まる。以後、採火したギリシャから開催国までは何らかの交通機関を利用しつつ運ばれ、国内では走者によってリレーされるのが通例だった。上述の東京大会も、その原則から大きく外れてはいない。
 聖火リレーが世界各地を巡ったのは、2004年のアテネ大会が初めてで、過去の五輪開催都市を中心にリレーが行われた。

 1896年の第1回以来、ほぼ1世紀ぶりに発祥の地で開催される記念大会のために特別に行われた行事を、北京五輪で踏襲する理由が、IOCの側にあるとは考えにくい。北京側の強い意思によるものだろうし*、それが今、こうして墓穴を掘っている。
 そう嗤ってしまうのはたやすいのだが、こと聖火リレーについていえば、我々がやってきたことも、今の中国とそう大きな違いはない。


 上の方に引用した東京オリンピックの聖火リレーのルートをよく見てもらうとわかるが、東京への聖火は中国を通ってはいない。
 中国が拒否したとか日本が遠慮または警戒した、というわけではない。
 中華人民共和国が成立し、中華民国政府が台湾島に移った後もIOCが中華民国の加盟を認めていたことを不服として、1958年に中国はIOCを脱退した。復帰するのは1979年。そのため、東京五輪に中国は参加していない。不参加国を通る必要もないから、聖火リレーのコースに中国を加えるという選択肢は、最初から存在しなかったと思われる。

 もし東京オリンピックに中国が参加していたら、聖火リレーは中国を通っただろうか。その時、聖火は無事に中国を通過することができただろうか。
 長野での聖火リレーのテレビ中継を見ながら、そんなことも考えた。


*
スポンサーの意向が影響した、という報道もある。
http://office.kyodo.co.jp/sports/olympics/beijing/47news/034746.html

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武田薫『オリンピック全大会』朝日新聞社

 サブタイトルを「人と時代と夢の物語」。朝日選書の一冊だ。主にマラソン、テニス、野球を取材してきたベテランのスポーツライターが、オリンピック・ゲームズの誕生から2004年のアテネ大会まで、大会ごとの出来事を描いた通史。奥付の発行日はちょうど本日、できたての新刊だ。

 通史とはいっても322ページ(資料編を除く)とコンパクトで、この種の本にありがちな平板さ、読みづらさとは無縁だ。各大会の話題は少数のエピソードに絞り込まれ、そのひとつひとつが、短い記述ながらも深い余韻を残す物語となっている。
 初期大会の牧歌的かつ破天荒な出来事は微苦笑を誘うし、著者自身が取材してきた近年のマラソンについては、あまり知られていない事実も織り込んで、ひときわ文章に力がこもる。

 と同時に、武田はひとつひとつのエピソードに、それぞれの大会と時代を象徴する背景を重ね合わせる。初めて半袖の服と膝までのスカートでコートに立った女子テニス選手スザンヌ・ランラン、プロ野球でのプレー経験が発覚して陸上の金メダルを剥奪されたジム・ソープ、“プラハの春”に蹂躙された体操の華チャフラフスカ。
 28の大会に通底してきたいくつかのテーマが絡み合い、通読した時にはオリンピックという大会そのものの素顔が浮かび上がってくる。

 万国博覧会の添え物のようにして始まった初期大会では、スポーツの社会的地位の確立が最大のテーマだった。二度の世界大戦の経験は、政治利用とのせめぎ合いだった。

 ナチスドイツの政権下で開かれた1936年のベルリン大会は、そのユダヤ人差別政策を理由に開催を反対する声もあったが、後のIOC会長ブランデージは開催を強硬に主張しベルリン大会を実現した。それは人種差別を是認したのではなく、「政治からの独立」という方針の帰結だったが、その結果、ベルリン五輪はナチスドイツの国威発揚に大いに利用されることになる。
<スポーツは政治からの独立性を保ったといえるのだろうか。果たして、スポーツに独立性など存在するのかーー。>と武田は書く。
 ただし、アーリア人の優越性を主張するナチスドイツ政権下で開かれたこの大会で、100mをはじめとする陸上短距離の主要4種目で金メダルを獲得したのは、アメリカの黒人選手ジェシー・オーエンスだった。まったく、オリンピックというやつは、一筋縄ではいかない。

 戦後の大会の中でも人種差別と南北問題、パレスチナ問題、冷戦など、さまざまな政治問題がかわるがわる大会への侵入を図る(そして、オリンピックはしばしば防衛線を突破され、大会の中に政治の侵入を許してしまう)。

 それだけではない。アマチュアリズムとプロフェッショナリズムとのせめぎ合い、女性アスリートの勃興、商業化、そしてドーピング。オリンピックという大会そのものが、常に内外の何事かと闘い続けてきて、今もそれは続いている。
 第1回大会のマラソンを制したギリシャの羊飼いに始まり、第28回大会でハンガリー選手のドーピング違反で繰り上げ金メダルとなった室伏広治に終わる、108年間にわたる壮大な群像劇の中には、近代スポーツに関わる主要テーマのすべてが含まれているといってよい。
 オリンピックとは何か、近代スポーツとは何かを知りたい人には、絶好の入門書となるだろう。

 なお、1964年の東京オリンピックの項には、当時の新聞に掲載されたある小説家の文章が紹介されている。

<優勝者のための国旗掲揚と国歌吹奏をとりやめようというブランデージ提案に私は賛成である。
 (中略)
 私は以前、日本人に希薄な民族意識、祖国意識をとり戻すのにオリンピックは良き機会であるというようなことを書いたことがあるが、誤りであったと自戒している。
 民族意識も結構ではあるが、その以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通して人々が知り直すことの方が希ましい。>

 当時32歳だった彼が、44年後の現在、招致しようとしている東京オリンピックの基本理念は以下の3点だ。

<1 東京をさらに成熟した都市に発展させ、都市と地球の未来を拓きます>
<2 日本が誇る最先端技術と独特の感性や美意識を融合させ、新しい価値を創出します>
<3 次代を担う子どもたちにスポーツの夢と喜びを広め、オリンピックが生み出す有形無形の財産を未来に引き継ぎます>

 44年前の自戒はどこへ消えたのやら。開催都市への利益誘導を冒頭に掲げる基本理念に、選考に当たる評議員たちは何か感銘を受けるだろうか。本書を通読したばかりの目には、この基本理念は、オリンピックの流れというものに、あまりに無頓着な代物に映る。

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柔道の国際的地位は嘉納治五郎の政治力によって築かれたのではなかったか。

 開幕に先立つ国際柔道連盟総会での理事選挙で現職の山下泰裕が落選し、開幕日には、重量級を背負う鈴木桂治と井上康生が2回戦で相次いで微妙な判定で敗退。リオデジャネイロでの世界選手権は、日本の柔道界にとって試練の場となっているようだ。

 判定そのものが正当なものかどうかを語る資格は私にはない。そもそも試合映像を見ていないし、見たところで判断できるほどの知見はない。ただ、報道によれば、どちらも審判員が集まって協議した末の判定であり、鈴木の試合ではビデオ映像を見返すこともしている.
 ならば、これを誤診と決めつけるよりは、これが国際柔道連盟の判定基準なのだと考えるほうが生産的だ。少なくとも、日本の柔道の指導的立場にあり、対策を講じていかなければならない立場の人々にとっては。

 日本の審判と海外の審判の間には、さまざまな傾向の違いがあると言われている。井上・鈴木の敗北に関する記事の中でも、「後から技を掛けた方がポイントになるのが最近の国際大会の傾向」(国際柔道連盟・川口孝夫審判委員/東京新聞9/14付夕刊)、「外国には反応が良すぎる場面を、見た目でポイントに取る審判がいる」(全日本柔道連盟・上村春樹専務理事/読売新聞9/14付夕刊)など、国内外の判定基準の違いに言及する専門家は多い。

 傾向の違いというだけでなく、国内大会と国際大会ではルールそのものも違う。全日本柔道連盟公式サイトの柔道資料室を開くと、「国際試合審判規定(国際ルール)解説」と「講道館試合審判規定(国内ルール)解説 」が並べて記載されている。
 たとえば、国際ルールでは「指導」は回数によって「効果」「有効」「技あり」「一本」と同等の意味を持つ(つまり4回指導を受けたら敗戦)が、国内ルールではポイントとは無関係。また、国内ルールに「効果」は存在しない。試合場のサイズや試合時間も異なる。

 海外の選手は常に国際ルールで試合をしているが、日本の選手は国内では講道館ルール、国際試合では国際ルールを使い分けることを余儀なくされる。さまざまな歴史的・思想的な背景があってこのような事態になっているのだろうけれど、現実に目の前の試合を戦う上では、これは日本の選手だけが背負っているハンディキャップだ。全日本柔道連盟は、あえて自国選手に不利になるダブルスタンダードを採用しているということになる。

 たとえばカラー柔道着の採用問題の時、あるいはこのような判定に対する考え方のギャップが(主に日本に不利な判定という形で)露呈した時、日本の柔道家たちは「外国人は柔道に対する理解が足りない」と嘆くことが多い。
 しかし海外から見れば、「『柔道』と『Judo』は違う」というのが、身も蓋もない現実なのではないだろうか。

 斎藤仁日本代表監督は鈴木の敗戦の後、「柔道じゃねえ」「こんなの政治だよ」と吐き捨てたと伝えられる。
 彼の中では、柔道と政治とは相容れない概念であり、政治は唾棄すべきものらしい。


 だが、講道館柔道の歴史を紐解いてみると、そういう考えはいささかナイーブに過ぎるのではないかと思えてくる。

 現在、世の中で「柔道」「Judo」と呼ばれている競技は、嘉納治五郎が創立した講道館柔道をいう。打撃を主としない組み手による格闘技はそれ以前にも多数存在し、多くは柔術を名乗っていた(「柔道」は嘉納の造語ではなく、講道館以前からも存在していたが主流ではなかった)。
 いくつかの流派の柔術を学んだ嘉納が、武術だけでなく智育、体育、徳育にも効果のある武道を目指して講道館柔道を創始したのが明治15年(1882)、弱冠23歳の時だ。明治18年から開催された警視庁武術大会で力量を天下に示したことから社会に認められ、海軍兵学校や学校での正課として採用され、全国に普及していった。

 こう書くと、まるで川が上流から下流に流れるが如く、柔道がその素晴らしさによって自然に広まっていったような印象を与えるが、それほど簡単はなずはない。海軍や学校の正課に採用される過程では、さまざまな交渉や根回し、プレゼンテーションや諸手続きが欠かせなかったはずだ。
 そこを順調にクリアし、並み居る他流派を押しのけて、短期間で「柔術」界を代表する存在に講道館柔道を育て上げた嘉納治五郎の手腕は、尋常ではない。嘉納の自伝を読んでも、これらの過程で具体的に何をやったのかはほとんど記されていないけれど。

 嘉納は優れた武道家であると同時に、東京帝大を卒業して学習院教授や東京師範学校(後の東京教育大、現在の筑波大の前身)校長、文部省の局長などを歴任した教育官僚でもあった。後には貴族院議員にもなっている超エリートだ。学生時代から培った政界・官界での人脈、教育行政や学校経営における手腕は、講道館の制度・組織を整備し、政府や軍、教育界によってオーソライズされていく上で、大いに役に立ったことだろう。

 嘉納はまた、アジアで最初の国際オリンピック委員会メンバーでもある。藤堂良明「柔道の歴史と文化」(不昧堂)によれば、明治42年(1909)、駐日フランス大使ゼラールが友人で近代五輪の創始者ピエール・ド・クーベルタン男爵の依頼で、アジアを代表して日本からオリンピック委員を迎えたいので適当な人物を推挙してほしい、との依頼を受けた。

<ゼラールはクーベルタンの依頼に応じて、日本国政府外務省に助言を求め諸方面に意見を求めた結果、講道館柔道創始者であり高師校長として生徒に長距離や水泳を奨励しスポーツの先覚者であるということで、嘉納が推薦されたのである。>(同書)

 すらっと読み流してしまうところだが、柔道が五輪競技に採用されたのは1964年の東京オリンピックが最初。この時点ではまだ欧州でもあまり知られておらず(欧州で最初の講道館道場「武道会」がロンドンに開かれたのは1918年)、オリンピック競技会において柔道はアウトサイダーでしかない。
 にもかかわらず嘉納治五郎が外務省や諸方面に推挙されてオリンピック委員になったのは、講道館柔道の創始者であることに加えて、東京高等師範学校校長という彼の立場が大きくモノを言っているに違いない。(注1)

嘉納は以後、オリンピック委員として精力的に活動した。五輪大会への選手の選出母体として大日本体育協会を設立し、初代会長にも就任した。ストックホルム五輪とアントワープ五輪には団長として参加。第12回五輪(1940年)を東京に誘致する上でも、嘉納の力は大きかったようだ。
 1938年、日中戦争に突入していく中で、日本での開催を危ぶむ声が強まり、IOCはカイロで総会を開いた。
<厳しい応酬の中で嘉納の必死の英語での抗弁が行われた。白熱した論議の結果、東京と札幌(冬季)両大会の開催は最終的に承認された>と「柔道の歴史と文化」は記す。諸外国の委員を相手に孤軍奮闘して、議論を現状維持まで押し返したのだ。この一事をもってしても、嘉納の交渉力の見事さが伺える。
 しかし、嘉納はこの後、カイロからアメリカを経由して帰国する最中の船上で病没。後に日本は東京五輪の開催を返上し、幻に終わる。

 恥ずかしながらこれまでは、講道館柔道の創始者で学習院の先生、という程度の知識しかなかったが、ちょっと調べてみただけでも、この嘉納治五郎という人物、実に凄い人だ。日本のスポーツ界では空前絶後の巨人ではないか。柔道だけにとどまらず、彼がいなければ日本のスポーツ界や体協・JOCの在り方、IOCにおける日本の地位は、ずいぶん今と違うものになっていたかも知れない。

 日本の柔道界の指導者たちが、嘉納治五郎の教えを学び、守り、広めるために尽力していることは疑いがないし、貴いとも思う。だが例えば、長く日本代表監督のような立場にあるような人物なら、畳の上だけでなく、畳の外で嘉納が成し遂げた超人的な偉業についても学び、受け継ぎ、同じように戦っていくことを、少しは考えた方がよいのではないかと思う。

 自分たちが世界に柔道を教えたのだ、という歴史を棚上げして現状だけを見れば、世界の「Judo」に日本だけが「柔道」で立ち向かわなければならない現在の国際大会は、並み居る「柔術」に講道館だけが「柔道」で戦った警視庁武術大会 に似ている。そのくらいの危機感を持って畳の内外であらゆる手を尽くさなければ、「Judo」を「柔道」に引き戻すことは難しいのかも知れない。


 それにしても、そもそも日本の柔道界は、何故にあれほどまでに海外に柔道を普及させることに熱心だったのだろうか。機会があれば、もう少し調べてみたい。

(注1)
嘉納治五郎がIOC委員に選ばれた経緯については、こちらにも詳しい。

(追記)2007.9.18
武藤文雄のサッカー講釈/サッカー狂から見た柔道世界選手権>というエントリで武藤さんが、サッカーの各国のスタイルの違いになぞらえて、次のように書いている。
<様々な国の人々が「柔道」を自国なりに解釈し、日本と異なるスタイルで戦ってくるところが、国際試合の面白さだと思うのだが。>
確かにそうとも言える。そう考えると、これはひとつ前のエントリ<「引いた相手から簡単に点は取れない」って、そりゃそうなんでしょうけど。>に通じる問題でもあるな。「相手が組ませてくれないから柔道にならない」と日本の柔道家たちが言い始めてから、いったい何年経つのか、と。
今朝の「とくダネ!」では谷亮子の優勝を扱ったコーナーで日下部基栄が「相手は組ませてくれない。日本の選手と組んだら負けだと思っている。それで日本の選手は苦戦している。でも、組ませてくれなくても投げられるのが亮子先輩なんです」と話していた。なるほど。

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