映画「東京2020オリンピック SIDE:A」

 河瀬直美が総監督を務めた2021年東京五輪(大会名は「TOKYO2020」)の公式映画は「SIDE:A」と「SIDE:B」の2本組になった。プログラムの「イントロダクション」には<『東京2020オリンピック SIDE:A』では、表舞台に立つアスリートを中心としたオリンピック関係者たちが描かれる。『東京2020オリンピック SIDE:B』では大会関係者、一般市民、ボランティア、医療従事者などの非アスリートたちが描かれる>と書かれている。
 
 アスリートがどう描かれているかには興味があったので、上映中の「SIDE:A」を見た。
 大傑作とも思わず、大駄作とも思わない。2時間の上映時間中、さほど退屈せず、それなりに興味深く見た。ただ、河瀬直美はスポーツそのものには興味がないのだろうな、と感じた。
 
 以下、記憶に基づいて書いているので多少の間違いもあるかもしれない。その場合はご容赦されたし。
 
 冒頭は草野球に興じる子供たちなどのイメージカット。
 開会式の国立競技場周辺の様子が映し出され、続いて聖火の日本への到着からコロナの流行、大会の延期決定、世界の主要都市から人が消えた様子、季節が巡って翌年の大会まで、映像が駆け足で示される。
 どの映像がいつの何なのかは、あまり説明されない。我々はこれらの出来事を経験したばかりだから理解できるけれども、後にこれを見る人には難解だろうと思う。
 
 再び開会式。場内の映像は天皇の開会宣言と大坂なおみの聖火点灯くらいで、主としてスタジアム周辺の様子が示される。五輪反対のデモと、花火やドローンに歓声をあげてスマホを向ける人々と。
(デモ隊の人々だけ、顔にぼかしが入っている。合法的に意見を主張するために集まった人たちの顔を隠す理由はよくわからない。顔が映っている他の人すべてに個別に承諾をもらうことが可能であったとも思えない)
 
 ここまでがプロローグ。以後はTOKYO2020に参加した選手や競技団体がオムニバス的に紹介されていく。
 
 登場する人々は、みな社会的なテーマを背負ってTOKYO2020にやってくる。出産と育児。難民。人種差別への反対運動。亡命。競技の存亡。新興競技のカルチャー。女性の文武両道。沖縄。柔道の歴史と伝統。等々(特に背負っていないのは日本の女子バスケットだけだが、主力選手の1人は大会延期と子育てのために引退し、その後もチームを見守る姿が映され続ける)。それらが相互には強いつながりもないまま、順次紹介されていく。基本的にはそれだけの映画である。
 見ていて、朝日新聞あたりが社会面でヒューマンストーリー的な記事にしそうな話ばかりだな、と思った。調べると、実際に朝日で記事になった選手も何人かいる。SDGsに関係ありげなテーマがずらずらと並ぶ中で、なぜか「貧困」には着目されない。
 個々の選手たちが背負うテーマは、実はコロナとはあまり関係がない。大会が予定通り2020年に開催されたとしても、この映画の内容は、ほとんど変わらなかったに違いない。
 
 逆に言えば、実は「SIDE:A」では、冒頭のプロローグを除けば、コロナの影響はほとんど描かれていない。
 五輪を目指した全ての選手にとって、「4年に1度の大会に自身のコンディションを最高の状態にしようと照準を合わせていたのに突然1年も延びたこと(そもそも当初は開催されるかどうかも不明だった)」「パンデミックの悪条件下で練習を続け、選手として成長すること」は、ほとんど誰も経験したことのない難題だったはずだ。TOKYO2020を選手の側から総括するのであれば、それらは欠かせないテーマだと私は思う。「世界がパンデミックに苦しむ中で、自分はスポーツをやっていていいのか」「今の東京でオリンピックを開催していいのか」と自問自答した選手も多かったはずだ。
 けれども、河瀬直美は、これらのテーマをスルーした。世界の選手たちがネットで公開していた“自宅トレーニング映像”が映し出されることもない。「SIDE:B」ではコロナを扱うのだろうけれど「SIDE:A」で扱わないということは、コロナをアスリート自身の問題とはみなさないということだ。それは参加した選手たちの実感とは、かなりかけ離れていることだろうと思う。
 
 そして、五輪出場選手のヒューマンストーリーとしても、この映画は物足りない。
 選手が何を背負って東京にやってきて、プレーを通じてそれをどう表現し、何を持ち帰ったか(あるいは持ち帰れなかったか)。そこまでを描いて、はじめてヒューマンストーリーは完結する。しかし、この映画では、大会前の「背負ってきたもの」を選手が言葉で語り、あとは競技映像が素っ気なく示されて、そのまま終わることが多い。
 選手の成績が示されないエピソードもある。「勝ち負けが全てではない」というのは事実だけれども、選手たちは勝利を目指して東京にやってきた(本番ではメダルにほど遠い選手も、国内予選を勝ち抜いた結果としてそこにいる)。選手が大事にしてきたものを、第三者が横から「それが全てじゃない」と無視する姿勢には、作家の傲慢さを感じる。
 
 競技映像がテーマを雄弁に語っていたのはスケートボードだ。ボードによる妙技の数々の美しさ、勝敗を超えて挑戦を尊び称え合う若者たちのカルチャーは、映像からも十分に伝わってきた。サーフィンでも競技団体のトップが「人々は人間が世界の中心で何でもできると思ってるけどそれは間違い。大事なのは海であり自然なのだ。我々はオリンピックを変えるためにやってきた」のような話を豪語するけれど、競技映像にその言葉を裏打ちするだけの説得力があったとは言えない。他の多くのエピソードでも同様だった。
 
 日本の柔道界がロンドン五輪の惨敗をバネにして、いかに海外から学び、データ分析に活路を見いだしたかを監督とスタッフが語るけれども、それが大野将平の柔道にどう表現されたかは示されない。
 日本の女子バスケットを決勝に導いた米国人監督の哲学は語られるが、それがどう具体的な戦術に落とし込まれたかは描かれない(この大会での日本代表がどんなチームだったかを見せたければ、3Pシュートがばんばん決まる編集をすればよさそうなものだが、決勝戦で映し出されたのは日本選手がゴール下から2Pシュートを決める場面が多かった)。
 
 米国の女子ハンマー投げ選手グウェン・ベリーはBLM運動に熱心な活動家でもあり、国内での選考会の表彰台で国旗に背を向けたとして批判を浴びた。彼女は来日前にネットで浴びた批判を読み上げて「こんなの気にしない」と言い放つが、東京での投擲はふるわず、失意の中で競技場を後にする。が、彼女の投擲のどこに問題があったのか、なぜ敗れたのか、そもそも彼女は表彰台を狙えるレベルの選手だったのか、映画では何も示されない。だから観客は「威勢良く東京に乗り込んだ活動家選手が、競技に負けて帰った」という以上のことはわからない。
 アスリートとは、身体のパフォーマンスで己を表現する存在だと私は思うのだが、この映画が重点を置くのは彼ら彼女らが語る言葉であり、身体で表現しているものを観客に伝えようとする姿勢は希薄だ。
 
 映画のプログラムに目を通すと、この映画がなぜそういう造りになったのか、事情が垣間見える。
 河瀬直美は「競技風景主体の作品ではありませんね?」という質問への答えの中で、<IOCとOBS(オリンピック放送機構)の映像がすべて映画の素材として提供されました。ただ、その映像は競技の勝ち負けに焦点をあてた映像なんですね>と語る(だから自分の映画にはあまり役に立たない、という含意が読み取れる)。
 一方、「プロダクション・ノート」によると、この映画のスタッフは「河瀬総監督と仕事をしたことのあるお馴染みの面々を集めて」とある。
 プロダクション・ノートには2020年2月にバスケット五輪最終予選を撮影した際のことも書かれている。
 <初めてのバスケットの試合本番での撮影は、カメラテストも兼ねる意味合いもあったが、まず感じたことは、やはりカメラポジションの難しさ。世界へ中継されることからFIBAのカメラが優先的に置かれていて、我々の動きはどうしても制限されてしまう。FIBAは試合をお届けすべくカメラを回すが、我々は試合に出ている選手や、指示を飛ばすトムさんを撮りたい。なかなか相容れないのである。1日目の終了後に早速FIBAから怒られる。「あなたの所の監督やカメラマンがFIBAの中継カメラに映りすぎ」>
 
 つまり、映画の中心のひとつにしようとあらかじめ決めていたバスケットをはじめ、スポーツの取材・撮影を熟知した人材をスタッフに招いた形跡はない。だから、この映画には、そもそも「アスリートの身体パフォーマンス映像をもってメッセージを語らしむ」という考えが希薄だったのだろうと思う。
 また、コロナ下で取材が困難な中、スケートボードとサーフィンの競技団体は取材にとても協力的だった、とも河瀬は語る。この2競技が映画で比較的長いボリュームで紹介されているのは、それぞれのカルチャーが河瀬の琴線に触れたから、ということだけでもなかったようだ。
 
 IOCによる公式映画というだけで、本作を五輪礼賛のプロパガンダ作品に違いないと決めつけ、公開前から批判し、河瀬直美総監督を非難する人が世の中には結構いた。その先入観のまま映画館を訪れたのか、「意外にも反五輪的映画だった」との感想を記す人がネット上に散見される。
 私はこれが反五輪的映画であるとは思わない。選手たちのヒューマンストーリーはすべて、五輪が価値ある場である(だから、人々はそこへの参加を妨げるものと戦う)という前提の上に成立している。河瀬直美が着目したテーマの数々は、いわゆるSDGsに親和的なものが多い。近年のIOCはSDGs的な価値観をアピールすることに熱心で、その意味では、IOCから見て好ましい面も少なからずあるだろうと思う。
 
 また、「普段はスポーツに興味がなく、ほとんど見ることもないが、この映画は素晴らしかった」という感想も、いくつも見た。それはそうだろう。これは「スポーツの映画」ではなく、「スポーツ選手のヒューマンストーリーの映画」だから。
 スポーツライティングに対する書評でよく見かける常套句に「単にスポーツを描いただけでなく、人間が描けている」というものがある(私はこれが大嫌いなのだが)。
 この語法を用いるならば、この映画は「スポーツは描かず、単に人間を描いただけの映画」である。そういうのが好きな人には悪くないだろう。
 これがNHKなり民放テレビなり(あるいは海外のテレビ局なり)が河瀬直美を起用して作った「もうひとつのTOKYO2020」的なドキュメンタリー作品であれば、私もわりと好意的に評価したかもしれない。が、これはIOCが公式に残す、ただひとつ(2本だけど)の映画である。
 
 スタジアムの外側を描くという「SIDE:B」は近く公開されるが、今のところ見る意欲はない。東京のスタジアムの外側で2020年から21年にかけて何が起こったかは、河瀬直美に教わるまでもなく知っている。五輪に関する報道ではとやかく言われることの多い(そして、この映画のメイキング番組で深刻にやらかした)NHKも、コロナ一般については良質のドキュメンタリーを量産しており、個人的にはそれで間に合っている。
 IOCやJOC、組織委員会内部での知られざる出来事がいろいろ出てくるようなら別だが、当面は様子見のつもり。
 
 これまで述べてきたような意味性を棚上げすると、この作品で最も印象に残ったのは、競技場面の音だった。
 選手の足音、息遣い、プールの水音から衣擦れの音までが雄弁に聞こえてくる一方で、例えば陸上で隣のレーンを走る選手の足音は聞こえない。映像でいうクローズアップの手法を存分に使っている。すべての音を後からつけたとも思えず、現場での生音を加工したのだろうと思う。無観客大会ゆえにクリアな音が収録できたのだろうとは思うけれど、それだけのはずはない。見事なプロの仕事と感じた。

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北京冬季五輪に関する備忘録。

 ロシアがウクライナに攻め込んだ今となっては北京五輪のことなど遠い過去のようだが、忘れないうちに関連ツイートをまとめておく。

1/31

考えてみれば、コロナでなければ今ごろは、北京五輪前の調整のため、日本で事前キャンプを行う国も結構あったかもしれないな。

 

 2018年の平昌五輪では、日本で事前合宿を行う国が結構あった。当時の日経に記事がある。OAR、すなわち「ロシアからの五輪選手」のフィギュアスケートチームが新潟市で練習したり地元住民と交流する様子を伝えた上で、こう書いている。

韓国までは飛行機で数時間で、時差もない。充実した練習環境を売りに、自治体は事前合宿を積極的に誘致した。新潟市のほか、北海道の札幌市(カーリング、スキー・ジャンプ)や伊達市(スキー・クロスカントリー)、長野県軽井沢町(カーリング)などに各国の選手団が滞在している

 

 日本から北京への移動時間は少々長くなるが、時差が1時間、冬季競技の練習環境も整っている。今回、日本で事前合宿を行った海外チームがあったのか否か確認しきれてはいないが、報道は見当たらなかった。

 

2/1
そういえばアメリカでは選手に自分のスマホ持ち込みを避けるよう勧告してたはずだけど、この人たちは何からSNSに投稿してるのか気になるところ。

東京五輪と北京五輪の“ベッド比較”が話題に。米メディアも指摘「東京大会のアスリートを間違いなく嫉妬させる」

https://news.yahoo.co.jp/articles/28c6c1cf61df1515eacc881de9737dfc40c85b98

 

リンク先はというTHE DIGESTの記事。米国のリュージュ女子代表選手が動画つきで選手村のベッドを絶賛し、米NBCも東京五輪のベッドと比較してこれを紹介したという。東京五輪のベッドが段ボール製だったのは、リサイクル可能な素材で環境に配慮したという名目だったはずだが、そこはあまり気にならない人が結構いるらしい。

 

スマホ持ち込みを避ける勧告というのは、この話。

北京五輪には自前のスマホを持ち込むな、米加が選手に警告

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/01/post-97886.php

 

日本は開会式直前にようやく言い出したようで、出遅れた感があった。

https://www.zakzak.co.jp/article/20220204-RIMSL3YIBNJR5L5NWI7OERMTCU/

 

2/3

「またオリンピックか、早いな」と言う人は多いし自分でもそう感じるのだが、考えてみれば92年までは冬夏とも同年開催だった。

まあ、当時は夏冬とも五輪で日本人が活躍する競技は少なかったし、テレビなども今ほど五輪一色で煩くはなかったかも。

 

 1992年まで、冬季五輪と夏季五輪は同じ年に開催されていた。中間年になったのは94年のリレハンメルから。正確な理由は知らないが、マーケティング上の事情は大きいのではないかと思う。

 日本が冬季五輪でメダルを獲得したのは1956年コルチナダンペッツォ(次回の開催地だ)男子回転の猪谷千春の銀メダルが最初で、次が72年札幌での「日の丸飛行隊」表彰台独占。ただし札幌ではこれが全てだった。76年インスブルックが0、以後3大会は1個づつで、再び複数メダルを獲得したのは92年アルベールビル。つまり夏冬の開催年が分かれる頃からである(以来、2006トリノ以外は複数メダルを獲得)。

 その頃までのテレビ中継では、各競技をまんべんなく中継し、世界の有力選手もきちんと紹介していた印象があるのだが、それはメダルが期待できる日本選手が少なかったことと表裏一体だったのだろう(今のテレビは日本のメダリストを追うのに手一杯で、各競技の優勝者すらまともに紹介しなくなっている)。

 

東京五輪では選手の陽性は全部で41人との報道があったから、北京五輪は開会前に既に超えてしまったことになる。東京2020以上に、コロナが成績に影響する事例が出てくるかも。

北京五輪 出場予定の約50人が新型コロナ陽性に

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220203/k10013464101000.html

 

日本の41人は日本で検査したケース(オリパラ合計)だから、その条件で比べるなら、今の北京では「約20人」か。だとしても、やっぱり多い。

 

 

昨年の東京五輪開幕前ごろに連日「コロナでフェアじゃないから、選手のために中止すべき」と開催に猛反対してたジャーナリスト氏は、選手に陽性続出のいま何を書いてるかなとツイートを見に行ったら、このところ北京五輪に全く言及していない。

ホントは選手のことなんか興味ないんすね。

 

自国でコロナが増えそうだから東京五輪に反対したけど外国の五輪は知ったこっちゃない、という態度の個人を批判する気はない。自然な感情だし。

が、「選手のため」「公正な大会のため」に東京五輪を中止すべきと主張した「公器」には、たった半年で辻褄が合わなくなっても平気なのか、とは思う。

 

@VfFo7qFuD6Do7Zw 何かを批判するために「選手のため」とか言い出す人は昔から結構いて、それでも中身が的を射ていればよいのですが、実際にはスポーツ側の機序をろくに考えてない言説が結構多いので、そういう人たちにとっては「たかがスポーツ」なのだろうなと思います。

 

 自分の主張のために選手をダシに使う人たちは、昔から気になっていて、ブログに書いたこともある。東京五輪には、政治・カネ・人権・コロナなど、ありとあらゆる問題が乗っかってしまったから、スポーツ以外の文脈で批判を受けるのは当然だ。

 が、選手でも競技関係者でもなく国内外の選手を数多く取材しているわけでもない「ジャーナリスト」や「識者」が「●●だから、選手のために中止しろ」などと公然と主張しはじめると、こうやってスポーツを利用する人なのだな、と思うばかり。

 

 

2/4

入場行進の前は見てないけど、なんというか、「そちらさんにそれを言われましてもねえ…」感が満載の開会式。素直に国威発揚全開できてくれた方が、それなりに感心できたかも。

 

史上最も小さい聖火かも。台はでかいけど。

 

北京五輪の開会式、遅ればせながら録画で見た。

豪華なショーだけど、それだけだ。

海外からの選手と関係者を開催都市から隔離し、一般客を入れないという異形の五輪なのに、開会式ショーではコロナ禍は無視すると決めたわけか。ちょっと違う気がする。(2/7)

 

東京五輪の開会式は、直前の不祥事の影響もあって全体的にはヨレヨレだったけど、冒頭に「コロナ禍に苦しみ、悩み、打ち勝とうとするアスリート」のダンスを置いたことは高く評価している。あれと選手入場と最小限のスピーチと聖火点灯だけにすれば、むしろ最高の開会式だったかも。

 

東京五輪については、トラブル続出で計画通りにできる状況でなかったという面もあるが、そもそもお祭り騒ぎでスタートするような大会ではないのだから、開会式などなくていいのに、と個人的には思っていた。そもそも五輪自体の肥大化が批判されているのだから、競技ではない国威発揚ショーを競う必要などなく、簡素化に舵を切ることにすれば五輪自体への貢献にもなる。

だから、開会式の後で、ショーとしての出来が悪い、と批判する人がいたことには、当時いささか面食らっていた。今回も同じだ。まして、「北京の開会式はよかった、それに引き替え東京はダメだ」という話には、関心のありようが全然違うのだな、というほかない。

 

2/5

「オリンピックなんか要らない、競技別大会があればいい」という意見、去年の夏前には偉い先生が新聞で語ってたり、今でもツイッタ界でちらほら目にする。

そうなれば、陸上や水泳やフィギュアスケートあたりはともかく、集金力に乏しいマイナー競技が世間にアピールする機会はほぼなくなる。

昨夜の北京五輪開会式や東京五輪の開会式では、小さくて豊かでない国の少人数の選手団も、テレビの前の世界の人々に温かく見守られ、存在をアピールできたけれど、そんな機会もなくなる。

(世界陸上の開会式に選手入場があるかどうか知らないが、あっても見る人は五輪よりずっと少ないだろう)

 

五輪が巨大ビジネスでIOCが巨大集金マシンであることは事実だけど、そうやって集めた金のうち、それなりの割合はマイナー競技や貧困国のスポーツ振興のために使われているはず。

五輪とIOCがなければ、世界の檜舞台に参加する機会や道を失う国や競技は結構あるんじゃないかな。

 

例えば、欧州のどこかで開かれたカヌーの世界大会で日本人が銅メダルを取ったからといって、日本人の大半は関心を持たないだろう。

五輪があるから、マイナー競技の選手がスターになり、競技自体が注目され振興するチャンスが生まれる。

そこに意義を見いだすか、そんなのどうでもいいと考えるか。

 

オリンピックは巨大であり巨額の金が動くから邪悪、とみなす人は結構多いと思う。

そういう面があることは否定しない。

だが、巨大だからこそ、小さくて弱いものを引き上げる力が生まれる、ともいえる。その良さを守りつつ邪悪さをどう減らすかが問題。

 

 なんでこのタイミングでこれを書いたのかはよく覚えていないのだが、ずっと思っている持論のひとつ。

 

2/6

小林陵侑、見事だなあ。こんな不安定な競技で、2本とも安定したジャンプ。素晴らしい。

 

この日はスモールヒルで金メダル。ラージヒルでも銀。小林陵侑はこのほか混合団体、男子団体と4種目に出場、本番で計8回飛んで、失敗と言われるようなジャンプは一度もなかったのではないか。風や環境に左右されるこの競技で、すごい安定感だ。

 

川村あんり、初出場の17歳に「金メダル候補に挙げていただいたのに、メダルが取れなくて申し訳ない」なんて言わせちゃいけないな。解説の上村愛子さんも心なしか目を赤くしてたような。

 

 川村に限らず、若い選手たちがしっかりしていることには感心する。冬季の個人競技の選手は、ワールドカップで海外を転戦することで、人として鍛えられるのだろうか。

 そういえば、スノーボードの選手が服装や記者会見での発言で激しく批判されたのは2010年バンクーバー大会でのことだったが、それから12年、スノーボード界と五輪の間に折り合いがついてきたのかもしれない。

 

 ちなみに、この上の文を書くために検索したら、その国母和宏選手が当時を振り返った2021年のインタビュー記事をみつけた。ご本人の今の感想は以下の通り。

スノーボーダーとしてクソ真面目すぎたんだと思う(笑)。ピシッとネクタイを締めたりするのは、なんかいつもとは違う方向に自分を持っていってることだと思うから、オレはスノーボーダーらしく振る舞っただけ。あれが一番の正解だったと思うし、それがスノーボーダーだから。だから叩かれたけど、別に何とも思わなかったですね

https://backside.jp/interview-048/

 私は当時彼について<ある既成の行動規範に従い、全力を尽して自分をその型に嵌め込もうと振る舞っている、生真面目な青年に見えた>と書いたが、おおむね正しかったようだ。

 

 

2/8

高梨沙羅のスーツで失格、ジャンプでは時々起きることではある。

ただ、個人種目なら自分が大会から消えるだけだが、団体戦でやられると当該選手へのダメージは比較にならないほど大きいだろう。その意味で出場40人中4人、10チーム中4チームというのは、大会運営としてどうよ、という数ではあるな。

 

4人じゃなくて5人だった。「全く新しい方法で」ってのは疑問。せめてシーズン当初からじゃないとトラブルの元でしょ。

高梨沙羅を含め5人が失格「なぜ女子だけなのか?」 各国から怒りと疑問の声

   https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/3982373/

 

氷点下約15度の極寒で筋肉も萎縮する。「寒さが厳しかった分、うまくパンプアップ(トレーニングによる一時的筋肉増大)できなかった」と同ヘッドコーチは分析した

https://www.nikkansports.com/olympic/beijing2022/ski_jump/news/202202070001350.html

そんなことがあるのか。他国も含めた失格続出はそういうことかな。ドイツやノルウェーの方が怒ってる。(2/8)

 

 ジャンプ混合団体。個人で4位、メダルを逃した高梨が1回目に大ジャンプを決めて喜んでいたら失格と伝えられ、泣き崩れる姿は見ていて辛かった。ドイツやノルウェーの選手や関係者は激怒。各国の報道も様々で、大会が終わった今でも、検査方法がいつも通りだったのか違ったのか、事実関係すらよくわからない。

 それでも高梨は2回目をきっちりと跳んだ。高梨だけでなく全員が次々に高得点を挙げて、4人×2回のうち1回が得点ゼロなのに表彰台まであと一歩の4位に食い込んだのだから、この日本代表は凄いチームだった。

 

2/8

今日のミスは自分ではどうこうしようもない。何より自分の感覚で「ミス」ではないので、あれは

終わってすぐこう言えるのは凄いな。だからこそ冒頭のアクシデントの後も崩れなかったのだろう。

https://www.daily.co.jp/olympic/beijing2022/2022/02/08/0015046914.shtml

 

 リンク先の記事が消えていたので、デイリースポーツの一問一答を貼っておく。3連覇を期待された羽生結弦のショートプログラム。私は職場で見ていたが、冒頭の4回転半を失敗した瞬間、周囲から悲鳴があがった。世界中のテレビの前で同時にあがったことだろう。

 それでも羽生は残りのプログラムを揺るぎなく滑りきった。順位は8位。試合後のインタビューでは、驚くほど冷静に状況を分析して振り返っている。

(しかし内心が冷静ではなかったことは、フリーを終えた後のインタビューなどで明かされている)

 

カーリングのロコ・ソラーレも、五輪代表決定戦で2連敗の後、個別要素では何も悪くないし劣ってない、ただ運がないだけだ、だから運命を変えよう、とメンタルを切り換えて大逆転した。

結果が出なくても「やってることは間違ってない」と言えるだけの準備をしてきた人にのみ可能な立て直し方。

 

 結果が出なくても自分を信じられるのは、彼ら彼女らが、やれる準備をすべてやってきたからだろう(もちろん、単なる自信家もいるけれど)。

 

2/10

堂々とひとつの時代を終えた、という感じの感慨があるな、羽生の演技。いやこれで引退かどうかはわかんないけど。

 

でも4回転半は、今季の世界選手権までチャレンジを続けるという選択肢もあるのかな。彼の心身の状態次第か。

 

全部終わったら、「いいものを見せて貰った」という感慨が全てのフィギュア男子。

 

いやもう、一生懸命頑張りました。正直、これ以上ないくらい頑張ったと思います。報われない努力だったかもしれないですけど、確かにショートからうまくいかないこともいっぱいありましたけど、むしろうまくいかなかったことしかないですけど。でも一生懸命頑張りました

https://www.nikkansports.com/olympic/beijing2022/figure_skating/news/202202100000627.html?cx_testId=154&cx_testVariant=cx_undefined&cx_artPos=1#cxrecs_s

 

このクラスの偉大な選手の「一生懸命頑張りました」は、とてつもなく重い。

 

 

2/11

平野歩夢の3本目、凄いな。素人目にも誰より難しい技を連発して、全く失敗しそうにない。ここ一番で最高の演技。

ショーン・ホワイトが最後の滑りを終えた後の表情も印象的。勝って終わるのも美しいけれど、後を追う者に負けるところまでやり切るのも王者の務めなのだろう。 

 

穏やかな笑顔、落ち着いた口調。平野歩夢の優勝インタビュー、心身ともに良い状態だったことがうかがえる。一時の勢いやテンションではなく、持てる力をそのまま出して、勝つべくして勝った、という感じ。いや普段見てない競技に何言ってんだと自分でも思うけど、そう思わせるだけの語り口。

 

 ほとんど4年に1度しか見ないような競技にも、ついこんなきいたふうなことを書きたくなるほど感銘を受けた。平野歩夢選手はいつも落ち着いているけれど、落ち着きの中にも喜びがにじみ出ていて、見ていてとても気持ちのよいインタビューだった。俳優業の人たちは、こういうのをよく見ておくといいんじゃなかろうか。大げさな身振りや叫びではない「心からの喜び」を表現するお手本になる。

 

2/14

北京五輪のテレビ中継アナには、競技をよく知っていると感心することが多いのだが、選手インタビュー(現地スタジオ出演も含む)では、「それ、さっき話したろ」と思う質問を重ねるアナが結構いる。

それでも苛立ちも見せずにさらりと答える選手が多いのには感心する。

 

北京五輪のNHK、スタジオでの選手インタビューがイマイチなことが多い中(さっきの小林陵侑インタビューでの青井アナも雑で準備不足)、デイリーハイライトで村瀬心椛に取材する鳥海アナはさすがベテランスポーツアナ、安心して見てられるし、話の中身も濃い。このレベルでお願いしますよNHKさん。2/16

 

 最近はスタジオ解説だけでなく、インタビューも巧みなアスリートOBが増えてきた。もはやアナウンサーに固執する必要はないんじゃないか。まして芸能人など不要(もちろん、例えば村上信五のようにスポーツキャスターとして優れていれば歓迎)。

 

2/15

CASがワリエアの出場を認めた理由は「16歳未満で保護対象だから」「陽性結果が出たのが五輪直前で本人の責任ではないから」だそうだが、これ、両方ともロシアがコントロールできる事項ではあるな。

 

「それなら根本的に出場資格を16歳以上に変更すべきでは」との「日本のフィギュア関係者」および記者の意見に全く同感。今回の裁定では「15歳はドーピング可」も同然で、フェアでも健全でもない。

フィギュア界は以前も若年齢化が問題になって年齢制限を設けたのに、また繰り返されるのか。

ワリエワ15歳だからOKでは五輪の根幹崩れる 不公平ない環境整備を/記者の目

https://www.nikkansports.com/olympic/beijing2022/figure_skating/news/202202140001268.html?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nikkansports_ogp

 

2005年、年度の基準日に14歳だった浅田真央がグランプリファイナルを制した時、朝日新聞などの一部メディアは「真央ちゃんを特例で(06年の)トリノ五輪に出すべき」と言い立て、「いや年齢制限にはフィギュアのために合理性があるから尊重すべき」とブログに書いたら、賛同も得たが叩かれもした。

年齢制限の意義は、この「選手人生が長く続かぬ競技に希望ない」という町田樹の言葉に尽きる。体重が増えては勝ち目がないのなら、フィギュアスケートは子供専用の競技になってしまう。今回、羽生やチェンが見せたような「成熟した演技」も衰退する。

https://www.nikkansports.com/olympic/beijing2022/figure_skating/news/202202050000614.html?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nikkansports_ogp

 

 

 ロシアの女子フィギュアスケーターが12月の大会の検査でドーピング陽性判定が出た、とロシアのメディアが大会中に報じたことで、大会で最も注目される問題になってしまった。すぐ出場停止にすればまだしも、ROCが出場を容認し、提訴されたCASも出場OKとの結論を出したので、特に現場からは猛反発が出た。当然である。祖父の薬だろうが何だろうが、検体が陽性判定を受ければ大会から除外されるのがドーピングコントロールの大前提。特例を認めれば制度が崩壊する。

 問題が発覚する前にワリエアが出場し、ROCが金メダルを獲得した団体は、銀銅の国も含めて大会中のメダル授与ができなかった(そもそも国としての参加は許されず、クリーンが証明された選手が個人として参加しているはずのロシア=ROCが団体戦に出場できるという理路が理解できないのだが)。さらに、最終結論が出ないままワリエアが出場する女子個人では、ワリエアが1~3位になった場合は*つきの暫定順位にする、との話まで出てきた。

 

ドーピングが疑われていたバリー・ボンズが、ハンク・アーロンのMLB記録に並ぶ通算755本目のホームランを打った時、スタンドの観客たちが「*」と書いた紙を掲げて異議を示していたのを思い出す。2/17

 

 ショートプログラムでは完璧な演技で格の違いさえ感じさせたワリエアが、フリーでは転倒につぐ転倒。消沈して氷から降りた彼女を厳しい表情と口調で迎えたコーチにも批判が集まった。

昨夜のフリーの演技とその後の様子を見ると、CASが規則通りに出場停止にすることと、恣意的な判断で出場を容認することのどちらが、より「取り返しのつかない」ダメージを彼女に与えることになったのか、まったくわからない。(2/18)

「取り返しのつかない」悪影響に配慮、CASがワリエワ出場を認めた裁定文公表

https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2022/20220218-OYT1T50233/

 

 そんな異様な状況で出場した坂本花織は銅メダル。ロシアトリオの牙城を崩したのだから見事だった。

 

坂本、良かったなあ。演技中は自信に満ちあふれて見えたのに、リンクを降りるとコーチに抱きついて泣き崩れた。絶望に立ち向かった時間、どんなにかタフな挑戦だっただろうか。

 

2/19

NHKのデイリーハイライト、今日で終わりなの? 明日はカーリング決勝に日本が出るんだから、閉会式の後でもやればいいのに。正直、中国の国威発揚ショーやバッハ会長の演説なんかより、市川さんが解説するカーリング決勝のアフターゲームショーが見たい。

2/20

カーリングは、トリノ五輪のマリリン人気の頃に比べると、俺ら素人のリテラシーがずいぶん上がってきて、競技そのものを楽しめる人が増えてきたんじゃないかな。

試合数が多く、試合時間が長く、選手の役割分担が明確で、一投ごとに戦略があるから、いい試合を見れば見るほど理解が進む。

 

金村萌絵さんの解説も明快で、このショットが何を狙って、それが成功したのか否か、この結果が戦局にどう影響し、日本が次に何をすべきなのか、全部リアルタイムに説明してくれる。ストーンの速度が遅く、選手間の相談が全部聞こえるカーリングならではとはいえ、スポーツ解説のお手本のようだった。

 

ロコ・ソラーレのインタビューでは、いつも吉田知那美の談話に感心する。自分たちの状態を把握し、分析し、打開策を見出し、言葉にして指針を示す力が卓越している。きっと氷の上でもそうなのだろう。中心が1人だけではなく、〝エース〟と〝精神的支柱〟の2頭があるチームだから強いんじゃないかな。2/21

 

最年長メダルが話題のカーリング石崎選手は、たまたまフィフスで出番がなかったけれど、他国代表には40代の選手もいたし、ロコ・ソラーレと日本代表を争ったフォルティウスの船山選手は44歳で現役。将来は、出場選手による最年長メダル記録更新も十分にありそう。2/21

 

それにしても、東京に通年カーリング場のひとつもあれば、今ごろ体験希望者殺到だろうに。スケートリンクは減ってるけども、大人の娯楽としてはスケートよりカーリングの方がずっとハードル低いと思うんだけどね。海外では酒飲みながらプレイもOKらしいし。2/21

 

 予選落ちと思ってインタビューに応じていた最中に準決勝進出を伝えられ、泣き崩れた選手たち。準決勝は大会中でもベストゲームだったのでは(大逆転のデンマーク戦も素晴らしかったが、最後の一投までずっと劣勢だった)。

 平昌五輪と同じチーム、同じ顔触れ(試合に出ないフィフスのみ交代) だったので、こちらも選手たちをよく知っている。平昌の後はうまくいかない時期もあったが、昨年秋の代表決定シリーズの大逆転は本当に見事だった。あそこでチームとして一皮むけたのではなかろうか。

 長野五輪から24年。日本国民の競技リテラシーは着実に向上している。首都圏に競技場ができれば競技人口もレベルも一気に底上げできるんじゃなかろうか。平昌の後で高木美帆が自民党の党大会で「国立のスケート場を」と要望していたが、カーリングも含めて、あっていいんじゃないですかね。

 その高木美帆については、ほとんどツイートしなかった。結構見てはいたのだが「残念!」「やった!」くらいしか書きようがなかった気がする。こんなに数多くの種目に出た選手は橋本聖子以来ではないか。素晴らしい滑り、素晴らしい人間性。幼い頃から見てきた一国民として、成長と活躍を心から祝福している。

 

バッハ会長、何をどう考えたら、ここまで時宜にも場所にもそぐわないスピーチ内容を思いつけるのだろうか…。

本当にオリンピック以外のことは何も視界に入らないのかな。中国がやってること、ロシアがやってることを考えたらとても言えないことばかりだ。

「ワクチンがすべての人に平等に行き渡りますように」

オリンピックのために関係者の接種を優先させた張本人が何言ってるのかとしか。

 

NHKの近ごろの五輪開会式や閉会式の中継って、アナウンサーが妙にハイテンションに盛り上げる、というより勝手に盛り上がってるのが苦手。特に女性アナ。もっと落ち着いて淡々とやってくれればいいのに。東京も北京も、競技はともかく、大会自体は手放しで賛美するようなもんじゃなかったでしょ。

 

 閉会式はテレビはつけていたがあまり興味がなく、ただバッハ会長の挨拶の空疎さだけはひっかかった。ドイツのテレビでは閉会式中継の中でも中国批判をしてたらしい。NHKくらいは盛り上げ一辺倒ではなく是々非々で冷静にやってもらいたい。

2/21

北京五輪の開幕前までは北京や参加予定選手のコロナ感染者数が報じられていたが、開幕してからは選手村内の選手・関係者どころか北京市内の感染者数のニュースすら目にしなくなった。選手が感染すれば当該国でニュースになるから隠せるはずもない。バブル内での封じ込めは成功したということかな。

 これはいまだに数字が見当たらない。そのうち中国から誇らしげな発表があるのかどうか。もはや世界の目はオリパラどころではないけれど。

 

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平昌冬季五輪に関する備忘録。

 もうすっかり夏のような陽気になってしまったが、会期前から会期中にかけて考えたことを、自分のツイッターへの書き込みを参照しながらいくつか(青字がツイート)。

1/22
IOCは核の脅迫に屈した、ということ。/ 北朝鮮 平昌五輪に参加へ、5種目で22人 IOCが承認 www.cnn.co.jp/showbiz/351134 @cnn_co_jpより
 始まる前の最大の出来事がこれ。合同チームで統一旗を振って入場行進、なんてのはまあ好きにすればいいと思う(とはいえ開会式で開催国が自国の国旗を振らないというのは奇妙な光景ではあった)。が、女子アイスホッケーの合同チームというのはないだろう。予選を突破していない国の選手が出場すること、組織力が重要な競技なのに本番直前に未知の選手を加えろとチームに(事実上)強要したこと、の2点において、スポーツに対する尊重のない決定だった。
 
 開催国が政治利用したがるのを止める立場にあるはずのIOCバッハ会長が、むしろ前のめりに嬉々として賛同した様子にも感心しない。この会長は大会後にWADAの反対を押し切ってロシアへの制裁解除を表明した。ノーベル平和賞でも狙っているのだろうか。 
 スポーツの国際大会と政治が簡単に切り分けられるものではないことは承知しているが、これほど露骨な政治利用には辟易する(前回のソチ五輪も「プーチンによるプーチンのための大会」みたいなしつらえだったが)。
 
 開会式では、南北アイスホッケー選手の2人組が、聖火ランナーの最終走者のひとつ手前で、キム・ヨナに聖火を手渡す役を担当した。この時の2人は笑顔だったが、その後、試合をするたびに大敗し、ひとつも勝てなかった後ではどんな心境だったろう。大会中の記者会見で、「北朝鮮の首脳の前でプレーした心境は」と問われた韓国の選手は「別に何も」てなことを素っ気なく答えていた。
 
2/12
しかし時差のない国でやってるオリンピックだというのに、なんだってこんな夜中に決勝をやってるんだろう。選手は大変だ。
 
 女子ジャンプを見ながらの感想だった。男子ジャンプは競技が終わった頃には日付が変わっていたと思う。カーリングも試合数の多い時には深夜に及んだ。
 一方で、スノーボードやフィギュアスケートは決勝が午前10時頃からスタートしたりしていた。
 現地の気象事情はよく分からないが、基本的には極寒と伝えられ続けていたので、野外競技で夜遅くなる場合は選手もかなり大変だったはずだ。
 
 そうなった理由は例によって、巨額の放映権料を支払うテレビ局の都合と思われる。今も五輪の収入のかなりの割合をアメリカのテレビ局が占めているので、アメリカで人気のある競技は、かの地でテレビを見やすい夜の時間帯、極東では午前中に、いいところが行われることになる。
 時差の条件は日本も同じ。2020TOKYOではこの轍を踏まないことを強く希望する。
 
2/13
 
土屋ホームには、スキージャンプの葛西紀明選手兼監督、小林陵侑選手、伊藤有希選手が所属する。自チームの選手が平昌五輪に出場することすら告知できないのがIOCとJOCのルールか。異様というほかはない。高木美帆(助手)、高梨沙羅(学生)の2人がメダルを獲得した日体大のHPにも記載がない。
 
 IOCのスポンサー保護政策は末端でこういう事態を引き起こす。後に毎日新聞がこの件を取り上げた記事の中で、IOCのマーケティング担当者は、そんなことは指示していない、とコメントしていた。JOCの過剰反応という可能性もあるし、スポーツ庁が乗り出して規制緩和される、との報道もあった。正しい方向だと思う。
 
 IOCは4年間のうちのたった2週間だけ選手を預かって大会を開いている団体に過ぎない。残りの3年と49週間、選手を養ったり支えたりしているのは、所属企業やクラブや学校だ。そこを蔑ろにしていてはスポーツは成り立たないのだが、実際にはIOCが君臨している(インターネットにおけるプラットフォームとコンテンツ制作者の関係に似ているかもしれない)。
 IOCやJOCが権利保護を振りかざせば振りかざすほど、オリンピックゲームズの公共性は薄れ、単なる巨大商業イベントになっていく。
 
2/17
あんな素晴らしい光景を目撃した後に(してないのかもしれないけど)、日本が偉いわけじゃないとかアベ首相がどうとかって…。
 
野暮だね。
 
で、こういう時に「スポーツは国威発揚の場ではない」って言いがちな人は概して、ハリウッドスターがサッカーのチベット代表のユニフォームを着たりすると褒めたたえたりしがちでもある。
 
国威発揚なんてものは、本気でやりあうとろくなことにならないのだから、スポーツの場で子供っぽく張り合ってるくらいでちょうどいい。それが「本気」サイドに取り込まれすぎてもろくなことにならないが、張り合う心情を抑圧しすぎてもろくなことにならない。
 
2/18
まあしかし、フィギュアスケートの選手同士の仲の良さ、互いへの尊敬や共感の強さをみてると、ナショナリズムがどうとか言うこと自体がばかばかしい。フィギュアに大した興味のない外野同士が、フィギュアをダシに勝手に喧嘩してる印象。
 
見たこともない競技の、名も知らぬ選手に「頑張れ!」と声をかける動機の中には、多分に「同じ日本人として」という心情がある。それを不要とか有害とか断言して「五輪は国単位をやめて個人参加にしろ」ということは、実質的に「勝ち目がなく金もないマイナー競技は五輪に参加するな」と言うに等しい。
 
スポーツと政治は完全に切り離せるものではないのだから、互いに都合よく利用してればいいんです。極端に振れすぎてはいけないが、今の日本がそういう状況とは思わない。遅ればせながらスポーツ庁ができ、西が原*にトレセンもできた。首相が少々はしゃぐくらい、いいじゃないかと思います。 https://twitter.com/blackmarines/status/965043745472200704…
*「西が丘」の間違い
 
 日本勢が活躍するにつれて、テレビや新聞の報道、ネットでの騒がれ方が気に入らなかったのか、「日本が偉いんじゃない、お前が偉いのでもない、羽生が偉いのだ」的なことを宣う言説やツイートがとても目立つようになってきた。
 
 それ自体は別に間違ってはいないし、日本人が日の丸を振りかざして大喜びする光景が嫌いだというのはその人の感情だから止められない。それを表明するのもその人の勝手だ。
 ただし、それが日本だけの特異現象で世界の恥であるとか、オリンピックは国別でなく個人で参加できるようにすべきだ、みたいな意見を、文化人とか識者とか呼ばれて世の中にそれなりの影響力を持つ人が言い出すと、またか、とげんなりする。
 
  その種の人々には、スポーツに関しては、他のことに比べて極端に考えなしに適当なことを言い出す手合いが少なくない。ツイートにも書いた通り、スポーツそのものには大して興味も知識もないくせに、スポーツをダシに自分の言いたいことを主張する輩のバカバカしい言説に対しては、はっきりと「黙ってろバカ」と言ってやるのも大事だ。
 
2/18
さっきTLで「小平選手を支援したのが一病院だけなんて、国は恥じるべき。相撲協会の公益法人やめてその金を回せ」みたいなツイートと「そうだそうだ」というレスの山を見たので、確かに病院は偉いけどJOCとスケート連盟からも強化費が出てるはず、と伝えたいのだが当該ツイートが見つからなくて泣く。
 
 この手の「国はもっと選手を支援しろ」的な言説も、マイナー競技が国際大会で躍進するたびに出てくる。女子サッカーがW杯で優勝した時が典型的だった。
  国家財政窮乏の折に何を言ってるのか、と思う。
 
 国のスポーツに対する支援は、環境を整えることが第一だと思っている。上の方にも書いたが、西が丘のナショナルトレーニングセンターとスポーツ科学センターは、着実に成果を上げている。後に高木美帆が自民党大会に招かれて首相に陳情(というか橋本聖子議員&日本スケート連盟会長に言わされた感が強い)していたように、これほど国民に喜びをもたらしている冬季競技の拠点も、あっていいと思う。
 だが、個別競技の栄枯盛衰には、まず競技関係者と選手達自身が責任を持つべきだ。日本人が特に好きでもなく、普及してもおらず、強くもない競技を、国が金と手間をかけて振興する必要があるとは思えない。
(この件は9年前にこのブログで論じた
 
2/14(スピードスケート女子1000mの後で)
小平奈緒は別格の人だなあ。ひとりだけ違うところを見ている感じ。学究の徒のようだ。オリンピックは勝者のメンタリティーの人が勝ちがちな大会だが、さて、500mの絶対女王である彼女が勝ち切れるのか。興味深い。
 
2/18
実力者が実力通りに勝つことが、この舞台では簡単ではない。リンクの魔物が付け入る隙もないほどの、揺るぎない力を積み上げて来たのだろうな。小平奈緒、500メートルの平昌五輪チャンピオン。おめでとう。
 
平昌での日本勢は、大本命だった羽生と小平(500)が金メダルを取り、他のメダル候補と言われた選手たちも、大きく予想から外れたのはモーグルの堀島くらいで、おおむねメダルを取っている。大崩れが少ないというのは、勢いではなく実力が備わってきたということかな。
※この時点ではまだ女子パシュート、女子マススタートは実施されていない。
 
2/26
怪我をおして出場することのリスクもわかっているはずのベテラン選手が、自己責任でそれをやることの重み。そうまでして取りに行った金に届かなかった思いを隠しての冷静な言葉に、心を動かされる。/渡部暁斗の自虐ネタ「よい子はマネしないように…」(日刊スポーツ) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180225-00135119-nksports-spo…
 
 日本の選手たちの成熟、人間性の高さを、これほど強く感じたオリンピックはなかった。
 
  多くの選手が引退するような年齢まで長い時間をかけて競技力とメンタルを積み上げてきた小平奈緒。
 若くして脚光を浴び、停滞と挫折を経験しながら、そこから這い上がって頂点まで登った高木美帆。
 背負うものの大きさに潰えた前回の自分を超えた高梨沙羅。自らの不成績を忘れ、高梨に駆け寄って祝福した伊藤有希。
 右足首の故障が癒えないまま氷上に戻り、強い心で連覇を成し遂げた羽生結弦。
 「ポジティブ」「スマイル」の下に結束し、力を出したカーリング女子。
 常に冷静沈着な平野歩夢。
 渡部暁斗の試合前後の談話も見事なもので、後から骨折とわかった時の言葉も実に素晴らしい。
 
 先人たちへの強い思いを感じさせる選手も多い。高梨沙羅における山田いずみ。渡部暁斗における荻原健司。日本ではマイナーな競技だからこそ、道を拓いてくれた先人の有り難みを認識し、それを引き継いで背負っていこうという思いも強いのだろう。
 こういう、人間性の優れた選手たちが、優れた成績を収めていく姿を見ていると、彼らを我々の代表として送り出せたことを、本当に嬉しく思う。
 
 
2/25
馳議員は、外国人コーチの待遇の重要さも話していた。今大会で躍進した競技の多くはコーチが外国人。彼らの話は聞いてみたい。NHKでまた「勝利へのセオリー」やってくれないかな。
 
 スピードスケートのオランダ人コーチ、カーリングのカナダ人コーチ、いずれも卓越した仕事をしてくれたと思われる。「勝利へのセオリー」は為末大がいろんな競技の指導者に話を聴きに行く番組で、特にフェンシングのオレグ・マツェイチュクの回に感銘を受けたのを覚えている。
 
2/20
鳩山政権時のバンクーバー五輪では日本勢に突出した結果を残した選手がいなかったので、そんな議論になる機会もなかったと思われる。菅首相はW杯で初優勝したサッカー女子日本代表に国民栄誉賞を贈り、「政治利用」との批判が出たが、この賞は出自からして政治利用案件なので常にそう言われる。 https://twitter.com/shinhori1/status/965064574524276736…
 
 安倍首相が羽生結弦に国民栄誉賞授与を検討、という報道に対して「政治利用だ」という非難の声が湧いたことに関するあれこれについて。私の見解は、一言でいえば「ま、いんじゃね」。国民栄誉賞だの総理大臣のお祝い電話だのは、勝者に贈られるアクセサリーのようなもので、彼や彼女の勝利の価値にはほとんど何の関係もない。いちいち目くじらを立てるほどのものでもない。
 
2/22
今更ながら、カーリング日本代表は男女ともに実業団ではなく、地域のクラブチームなのだな。地元生まれを中心とする選手たちを、地域の人々が育て、支え、行政も(おそらく予算規模からは不相応の)専用競技場を作って支援し、みんなで五輪の舞台にまで押し上げた。実にカーリングらしい物語。
 
3/5
LS北見について「マスコミは消費するな、磨り減るぞ」みたいに憤慨してるツイートをよく見るのだが、あの人たちはそんなにヤワではないんじゃないかな。若いけど苦労してきたし、地元に根を下ろした健全さがあるし、何より、本橋麻里は一度この馬鹿騒ぎの洗礼を受けた上でリスタートしてここまで来た。
 
 テレビ朝日の「GetSports」は、ちょいちょいカーリングについての小特集を放送してきたから、今回も五輪の後にやるだろうなと思っていた。期待通り、男女ともチームの歴史を踏まえた特集があった。
 LS北見は、北見を名乗っているが、実質的な地元は常呂町だろう。全国に先駆けて専用ホールを作り、何人もの選手を五輪の舞台に送り出してきた、日本のカーリングの聖地。
 だが、長野五輪の後は、他地域のチームに選手を供給するばかりで、地元に選手が残らない。地元でチームを作ろうよ、と本橋麻里がゼロから作ったのがLS北見だった。ロコ・ソラーレのロコは「常呂ッ子」の「ロコ」だという。
 ゼロから、といっても、いちばん大事な「選手」はいた。ホールもあった。本橋が組織を作り、金を集めた。そこに、札幌や長野で活躍していた選手が、いろいろあった末に戻って来た。そうやってできあがったのが、今回の代表チームだった。
 
 男子のSC軽井沢クラブの地元、軽井沢も、ある意味で日本のカーリングの聖地だ。日本人の多くがカーリングを初めて知った1998年の長野五輪で、会場に選ばれたのが軽井沢だった。その試合を会場の最前列で見つめていた男の子2人が、今回の代表の両角兄弟だ(その映像を「GetSports」で見た時には、ぐっときた)。
 皆が夢中になったカーリングを軽井沢でも普及させようと創設されたクラブで、町中の支援を得て、遂に五輪の舞台にたどり着いた。
 
 男女それぞれが、企業チームではなく、競技の土壌がある土地で、地元で育った選手たちが、地元の人々や企業の支援に後押しされてオリンピックの舞台に立ち、それぞれに活躍した(男子は不本意かもしれないが)ということに、これまでにない価値がある。
 男女とも、選手たちの語る言葉の明晰さ、深さ、訴求力、明るさが抜群に優れているのは、こうした歩みが背景にあるからだろう。
 長野五輪から20年で、日本のカーリングはここまで来た。
 ただ、逆に言えば、チームが自助努力でできる最大限がここまで、とも言えるかも知れない。さらに先に進むためには、競技団体も進化しなくてはいけないのだろう(もちろん、カナダ人コーチを招いたことは、今回の躍進に大いに寄与した大ヒット。何もしていないとは思わないけれど)。

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今更ながらソチ五輪に関するツイート集。

 まったくもって何を今更、という感じですが、個人的備忘録なので。補足が必要そうなところは後で書き足します。

●2/11

スキー界とスノボ界がしっくりいってないのは、世界的な傾向だったのか。サマランチの負の遺産がいまだに残っている、というべきか。/<ソチ五輪>スノーボードの新種目に不満殺到(THE PAGE) http://sochi.headlines.yahoo.co.jp/sochi/hl?a=2010211-00000002-wordleafs-spo…
posted at 16:38:56

練習で何人もケガを負い、有力選手が危険だからと棄権する。そんなコースで強行しているという時点でこの五輪は成功とは言えない。/金メダリストも欠場 スノーボード・スロープスタイルが怖すぎる (動画) http://huff.to/1fUNk5a @HuffPostJapanさんから
posted at 18:08:57

ソチ五輪の開幕前に上村愛子関係の回顧映像を山ほど見たが、モーグル競技におけるエアの技の発達ぶりに驚く。長野五輪でのコサックとかヘリコプターとかって、今見ると牧歌的だ。その後、回転やひねりが加わって技が高度化した分、選手のリスクも高まっているはず。
posted at 18:16:55

承前)冬季五輪の種目のほとんどに、一歩間違えば命を失うか重篤な後遺症を追いかけないリスクが伴っている。4年ごとに見る種目の変更や追加は、そのリスクを増大させる方向に進んでいるように感じる。
posted at 18:18:35

※<追いかけない>は<負いかねない>の誤り。

RTしたダバディ氏の意見自体は正論。ただ、フランスのテレビ局もたぶんフランスが弱い競技はあまり扱ってないと思う。近代オリンピック自体がフランス人が創設した大会なので、フランス人は「五輪の主流」と「自国民の好み」にあまりギャップを感じないで済むのかもしれない、と想像してみる。
posted at 18:25:18

80年代に大学生だった私は「日本ではこれほどスキーが盛んなのに、どうして競技力の向上につながらないのだろう」と不思議に思っていたのだが、競技力が向上する前に裾野の方が狭まってしまったようだ。レジャーと競技は別物だとしても、競技をスポンサードする産業の衰退という意味では打撃かも。
posted at 19:02:12

●2/12

高梨沙羅は残念だった。たった一度の試合でメダルを逃しただけで、W杯での圧倒的な実績が霞んだように見えてしまうのはオリンピックの嫌なところだ。ただ、女子ジャンプ全体としては、誰が勝った負けた以前に、無事に競技を終え、五輪種目にふさわしい競技であると示せたこと自体が勝利だと思う。
posted at 09:09:00

これを読む限り、IOCも国際スキー連盟もひどい組織だ。今大会でのいろんな出来事が腑に落ちる秀逸な記事。これもオリンピックの現実。/五輪との共存、スノーボーダーが抱えるジレンマ  :日本経済新聞 http://s.nikkei.com/1l8hHH8
posted at 09:18:21

カーリング女子ってトリノ五輪の頃には、いかつい西洋人のおばさんに、ちっちゃな日本女子がけなげに挑んでいたのに、8年経ったら、相手は美少女で、こっちは子持ちのベテランになっている。こっちの事情はいいとして、他国の若年化の理由は気になる。アスリート化が進んでいるとか?
posted at 21:00:15

●2/18

ソチ五輪でノルディック勢の活躍が目立つ。長野五輪の時は地元開催に向けて各競技とも長期間、お金をかけて強化したそうだが、その後は景気も低迷し、実業団チームの廃部が相次いだ。そんな環境下でこれほどの成果を出したのは、長野以上の偉業と言えるかも。
posted at 11:11:44

今朝の「モーニングバード」に出演してジャンプ団体を解説した船木和喜が、終わり際に「長野の後、大会に観客が大勢来てくれたが(強化につながらずに)減ってしまった。それは国や連盟の責任。今度は同じ失敗を繰り返さないでほしい」とさらりと言ったのに驚いた。現場の危機感はすごい。
posted at 11:19:46

●2/21

フィギュア女子フリーは見応えがあった。これほど上位陣が次から次へと“やりきった”感のある演技を見せてくれるとは。次から次へとミスする「負の連鎖反応」は(男子フリーのように)時々あるけれど、この「正の連鎖反応」を生んだのは、真っ先に“やりきった”演技を見せた浅田だったのかも。
posted at 04:17:16

承前)新鋭たちは4分の間にも成長する伸び盛りの勢いを見せ、ベテランたちは集大成を見せようという気持ちがほとばしり、その中でキム・ヨナだけは、綺麗にまとまった演技だったけれど強い気持ちが感じ取れず、それがもしかすると逆転を許した要因のひとつだったのかも。単なる素人の印象ですが。
posted at 04:22:36

承前)出遅れた実力者が先に滑って一気に高得点を挙げたりすると、普通は後から滑る上位陣にプレッシャーを与えるのだろうけれど、かえって皆に勇気を与えてしまうあたりが、浅田真央という人のキャラクターなのかも、と思ったり。
posted at 04:27:42

承前)ともあれ浅田真央のフリーは素晴らしかった。氷の上に立った表情からも強い気持ちがうかがえたし、演技が始まってからはただただ涙をぼろぼろこぼしながら見守るしかなかった(昼間の職場とかでなくてよかったよ)。このフィギュア史に残る映像の実況がポエムでなく鳥海アナで本当によかった。
posted at 04:33:01

で、メダル争いとは無縁だったけど、カナダのオズモンド、フランスのメイテら、それぞれに魅力あるスケートだった。難しい二国間関係の中で出場したグルジアのゲデバニシビリの滑りにも感慨深いものが。フィギュアは勝負を棚上げしてそれぞれの演技を観賞できるのが他の競技にない楽しみ。
posted at 04:52:44

Mao Asadaで検索をかけると、世界中のフィギュアの著名スケーターたちが浅田のSPの失敗を悲しんだり励ましたり、フリーの演技を絶賛したり。ファンだけでなく、スケーターたちの間でも、とても愛されていたことがよくわかる。
posted at 05:17:31

毎日新聞の主催講演でメディアが大勢取材に来てると知っていながら失言の嵐。彼が組織委員長として海外に出た時に何が起こるかと考えるだけで恐ろしい。/荻上チキ・Session-22森喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言 書き起し http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/02/ost-259.html…
posted at 09:40:02

@falsapartenza 「みんながいい演技できますように」という願いの通りになりましたね。誰かが凄い演技をしたオリンピックは何度もありましたが、こんなに大勢が競技人生のハイライトになりそうな演技をしたオリンピックって、ちょっと記憶にありません。いいものを見た一夜でした。
posted at 10:02:00

それにしてもNHKの「全力応援!」ってCMみたいなのに登場していた選手は、浅田といい高梨といいアイスホッケー代表といい、女子はことごとくよい成績にならなかった印象があるのは気のせいか?誰かメダル取った選手も出てたっけか。
posted at 10:18:14

RTしたダバディ氏の意見、感覚的には同意する面もあるのだが、「エレガンス」「オーラ」をどう数値化するのかという難題はフィギュアスケートにとっては永遠の課題。採点方法も、手直ししながら今がある。「今」の情勢を見極めて、高い点を得られる演技を組み立てる戦略も含めての競技ということ。
posted at 10:28:17

森喜朗氏の例の講演の一部。<なぜ日本はこんな時間になるかというと、(中略)(巨額の放映権料を払う海外の)放送局が一番自分の国に、一番いいゴールデンアワーのときに放送を流すということになるんですね。>。他人事みたいに言ってないで、2020年大会ではそんな事態を阻止してもらいたい。
posted at 10:37:02

森喜朗氏の講演について、全文を読めば問題ない、というツイートを散見するが、リード姉弟を日本に帰化させた(もともと米在住だが日本国籍)とか、葛西が負けて当たり前という気持ちでやっているとか、スノボが自由奔放だから各競技団体のやり方が正しいのかどうかとか、細部がアバウトすぎて困る。
posted at 10:44:14

承前)組織委員長として高齢すぎると言われる話の流れで<ロンドンオリンピックの時に、組織をやった人がジョン・コーツと言って、金メダルをとったかつての陸上の選手だったそうなんですが、>とあるが、これはセバスチャン・コーと混同してるんじゃないだろうか。
posted at 10:45:40

承前)<ヨーロッパの人たちは半そでのTシャツですよ。プールで泳いでるくらいですから。あったかい。><ソチは暖かくて綺麗で美しく過ごしやすかった。そういう状況の中で選手たちは思い切ってスポーツやれた> 暖かすぎて困った選手も大勢いたと思うのだが。これは冬季五輪ですぞ?
posted at 10:51:50

承前)<マスコミというのは、そこのところだけ取るんですよ。前後の話は何にも書かないでね。><だけど政治家じゃなきゃいいんだよな。何しゃべっても。政治家だとまあ色々なこと言われるんですが。>あなた、組織委員長ですが。ある意味で政治家よりも公的な立場なんだけど。
posted at 10:53:36

承前)とまあ、揚げ足をとってくれといわんばかりの不適切な発言の連続。これを全部読んだ上で、「全文読めば問題ない」「一部を切り取って批判してる」と判断する理路がよくわからない。身内感覚であけすけに何でも喋ることで支持を得て来た政治家なのだろうけど、今の立場でその手法はまずいですよ。
posted at 10:56:07

@falsapartenza 今回はJSPORTSで全米とか全欧とかカナダとかの選手権でちょっと(女子だけ)予習してからオリンピックを見たので、海外の選手も誰も彼もみな愛おしい気分で見てました。メダルと関係ない位置でも、素敵な演技がたくさん見られるのがフィギュアの魅力ですね。
posted at 11:01:09

@yusuketsuiki まあ、森さんがこういう人だというのはわかりきったことなので、組織委員長に彼が選ばれてしまう背景の方が問題ですし、そこを考えるともっと暗澹たる気分になります。確か、財界人に頼んだけど全部断られたので森さんにお鉢が回って来た、という流れでした。
posted at 11:07:14

@falsapartenza マルケイのようなベテランがキャリアの中でも最高級の演技をする姿は、本当に見ている方も嬉しくなりますね。元帥には次に頑張ってもらうということで。彼女は不満そうな顔も魅惑的です(笑)。
posted at 11:10:24

採点競技を印象評価と一致させるためには、例えば全部の競技が終わった後で審査員が協議して順位を決める、という手もある。芸術分野の賞は大抵この方法。滑走順の早い選手が不利になる傾向などは防げる。でも、全部終わって何時間も経ってから結果発表、というのが五輪で許容されるかどうか。
posted at 11:16:45

承前)1人の演技や滑走、ジャンプが終わるごとに点数を順位を出すのが絶対的な前提なのであれば、やはり最初の選手と最後の選手をまったく同じ基準で採点することは、どれほど近づく努力をしても限界はあると思う。採点を後から修正できない、というのも公平性を担保するための大前提だし。
posted at 11:18:56

●2/22

前に書いた「モーニングバード」での船木選手の発言、念のため録画を見直してみた。正確には以下の通り。「長野オリンピックの後、お客さんが増えて、子供たちもすごい増えたんですよ。でもその後、選手たちは頑張って努力をずっと続けてたんですけども…」
posted at 20:47:00

承前)「やっぱり低迷していくにつれて、その数が少なくなってしまったんです。今回メダルを取ったことによって、またお客さんが来てくれるはずなんですよ。選手は技術を磨くのは当たり前で努力しているんですが、やっぱりそのお客さんを手放してしまったのは…」
posted at 20:48:05

承前)「国だったり連盟だったりの責任だと思うので、二度と同じ失敗を繰り返してもらいたくないんです」。重要な問題提起だったのに司会者もコメンテーター陣も拾わずに、「それにしても葛西さんは素晴らしいですね」的な話題に戻ってしまったのは、なんだかなあという感じ。
posted at 20:51:01

為末さんには、こういう粗雑な仕事をして欲しくないなあ。「少ない」というそもそもの前提を確かめることから始めるのが科学的な姿勢では?/[為末大]ソチ五輪“競技を分析した記事”が少ない理由〜分析とドラマとマスメディア[連載19]為末大学 http://japan-indepth.jp/?p=3412
posted at 21:37:41

承前)新聞にも分析的な記事はなくもないが、元選手による解説コラムなどはネットに出さない社が多いようなので、ネットでだけ新聞記事を見る人には分析が少ないという印象が形成されるかも知れない。為末さんがどうかは知らないが。ま、「情緒的な記事が多い」という見出しなら特に異論はないのだが。
posted at 21:55:11

承前)あと、NYタイムスに優れた分析が多いのは確かだが、世界トップレベルの1紙だけと比べて「日本のメディアは」と語るのは乱暴。米の他紙、欧州の主要紙はどうなのか。実は他も日本と似たり寄ったりで、NYタイムスだけが突出して分析記事が多い、という可能性もある。
posted at 21:59:06

承前)このへんは昔からよくいる「欧米では」論にも似たところがある。「欧米では」論者たちが実際に接してきた「欧米」は社会の上澄みのごく一部だけで、そこと日本全体を比較して「だから日本はダメだ」とか言ってると思われる場合がある。比較するなら対象はきちんと選ぼう、という単純な話。
posted at 22:03:45

●2/23

エキシビジョンの滑りを見ていて、浅田真央は最後まで、おしゃまで可愛くてちょっと儚げな“真央ちゃん”のままだったな、としみじみ思った。どんなに実績を重ねても、観る者に「自分がついていて支えてあげなくては」と思わせるようなところがあって、それも彼女の大きな魅力だったのだろう。
posted at 08:34:49

承前)10代で全国区になった荒川静香や安藤美姫が、その後、年齢とともに成長して雰囲気を変えていったのと比べると、浅田真央の印象は14歳の頃とほとんど変わらない。23歳になった女性に「おしゃま」もないものだが、しかし彼女に限っては、そんな形容が似合ってしまう。
posted at 08:49:52

承前)フィギュアスケートの歴代メダリストを思い浮かべても、他国のトップクラスの選手は大抵、力強く、アグレッシブで、自信に満ちている。羽生もそうだが、儚げでfragileなままトップに立つ選手は、日本以外では珍しい。そのへんが「カワイイ」ものを好む日本人の感性なのかな、と思ったり。
posted at 09:02:08

録画してあったNHK BS-1の「BS世界のドキュメンタリー/ソチオリンピックへの道」を見て驚愕した。我々が涙した競技会場建設等のために家を追い出された人が大勢いる。五輪利権での官僚の腐敗もすごい。3/4の午後6時から再放送、必見です。http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumbe/detail/140127.html…
posted at 09:13:42

●2/24

ソチ五輪の閉会式は、朝になって録画をちらちら見た程度だが、開催国の国家元首がこんなに画面に映り続ける閉会式中継は記憶にない。五輪は国でなく都市が開催するものだったはずだが、ソチ五輪に限っては誘致から本番まで終始プーチンの大会だったようで。
posted at 12:15:36

●2/25

しかし、夏季五輪では、伝統あるレスリングまで外そうかというくらい無理矢理種目を絞っているのに、冬季五輪では、開かれるたびに知らない種目が増えているのが解せない。
posted at 12:02:42

ソチ五輪では久しぶりに雪上の競技で多くのメダルを獲得した。ただ、国内では施設も大会も少ない競技が多いようで、フィギュアのように五輪効果で裾野が広がり競技力向上につながるかというと、どうなのだろう。海外遠征しないと力がつかない、という環境下では、結局は強化費次第ということになる。
posted at 12:09:50

@ushios1 そればっかりじゃ困るけど、そういう発想と動きもなくては困るし、それだけで「メダルや勝利でしか測れない」と決めつけてよいものでしょうか。冬季五輪を見てると、特に野外競技では、結局は海外遠征に選手を何人送り出せるかが、強化において決定的であるように思われます。
posted at 12:21:36

@Mahal ハーフパイプでスキーもやる、というのはまさにそういうケースなのでしょうね。スノーボードはアメリカでプロ競技として盛んなスポーツですから、スノボの種目が増えるのはアメリカのテレビ局の意向、という可能性もあるかと思います。
posted at 12:32:58

朝日新聞の潮記者が、JOCが競技団体に「予算がいくらあればメダルを取れるのか計画を立てて」と求めたことに憤っている。しかし、国からの強化費を競技団体に配分するのもJOCの重要な機能のひとつ。各団体の計画と予算もなしに交付金額を決めたら大問題だ。彼は何を憤っているのだろうか。
posted at 13:06:57

●2/26

こないだ見たドキュメンタリー番組によると、ソチの中心部は亜熱帯気候なのだそうな。山間部にはもともとスキー場があったから、五輪会場全体が、というわけではないにせよ、驚きだ。/ソチが大丈夫なら熱海でも開催できる http://www.nikkansports.com/sochi2014/colun/ogishima/news/f-sochi-tp0-20140225-1262658.html… #ソチ五輪
posted at 00:11:27

@ushios1 一過性で終わってほしくないのは同感です。強化と普及は車の両輪、どちらが欠けてもその競技の(あるいはスポーツ全体の)将来が危うくなるのだと思います。
posted at 22:17:52

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五輪追加競技の3候補に関するツイート集。

 今更ですが、これも記録ということで。

●5月25日
ブラジルでの最後の1競技を決めるIOC理事会が近づいて、どこが残るか的な報道が増えてきたが、率直に言って、レスリングと争うのでは、他の競技は分が悪いと思う。五輪の歴史におけるレスリングの存在感は群を抜いている。理事たちもレスリングを落として「しまった」と思ってるだろうし。

もともと野球は、大抵の都市に競技場がないという大きなハンディキャップを背負っている。五輪のスリム化がテーマの昨今、仮設球場を作ってくれる奇特な都市も少なかろう。今後は、野球が盛んな国で五輪が開催される時に臨時で種目に加われればいい方、という感じじゃなかろうか。

●5月30日

野球・ソフトボールが最終候補に残ったと言われても、嬉しさよりも懸念しか湧いて来ない。ここまでIOCに振り回されたあげくに落とされたら、野球界には何が残るのか。2015年から始めるというIBAFプレミア12を、五輪競技を目指して7回制で試行、みたいなことになるのだろうか。

IBAFにとっての女子野球の位置づけも釈然としない。ワールドカップがあって日本は3連覇しているというのに、五輪競技でソフトボールを野球の女子部門として扱うとなると、仮に採択されても五輪から女子野球は排除される(男子のソフトボールも然り)。それも変な話。

IOCは各競技団体に、五輪の都合に合わせた改革を強要しているが、そもそもIOCにそんな権限があるのか、IOCにこそ改革が必要ではないか、ということはもっと問題視されてよい。そもそもレスリングほどの大きな競技団体から委員が選出されていないこと自体がおかしいだろう。

(以下2件はクリケットに関するaugustpartyさんとのやりとりから)
@augustoparty なるほど。IOC側は関心があるが、競技側にその気がない、ということのようですね。自前でやっていける競技は五輪に頼らなくてもよさそうなものですが、テニスやゴルフの動きを見ていると、やはり何かしらの魅力なりメリットなりがあるのでしょうね。

@augustoparty で、「出ない自由」の話に戻しますが、五輪に深く関わった競技にとっては結局はIOCとのパワーゲーム、というのはご指摘通りだと思います。ただ、彼らが掲げる高邁な理想からして、そんなゲームは見たくない、ということは、観客の立場としては言っておきたい。

3競技が残った要因に関する報道をみていると、いかにIOCの言うことを聞いて組織を変え、競技方式やルールを変えたか、ということばかり。まるでIOCが忠誠心を競わせているかのようで、傍目にあまり気分のよいものではない。しかも、そこまでやらせておいて結局2つは落とすのだから。

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レスリングが五輪中核競技からの除外候補入りした件についてのツイート。

2月13日

●レスリングが五輪競技からの除外候補に。IOCの要職に人を送り込んでいないと、こういう事態が寝耳に水の状態で起こることになる。他のやばかった競技は理事に働きかけて脱落を免れた、とのIOC理事談話がスポーツ紙に紹介されていた。

●といってもFILAの会長はスイス人。どういう人か知らないけど、IOC本部はローザンヌだしIOC委員にもスイス人は大勢いる。FILAはグレコローマンの廃止を阻止したり女子の正式競技化を実現したり、決して政治力のない競技団体ではなさそうなのだが。

●日本の利害を棚上げしていえば、レスリングがないのに柔道やテコンドーをやっている五輪というのは、やはり奇妙だ。投票したIOC理事たちも「レスリングが落ちるはずがない」と思って自分が関与する競技を優先したら、ホントに落ちちゃってびっくり、みたいな心境なのかも。

●JOCとしては、追加候補にレスリングと野球・ソフトボールが入っているのは悩ましいところだろう。空手もある。どれかひとつを推すのは難しいが、それで動きが鈍れば、他の競技にもっていかれかねない。

●それにしても、日本以上にトルコにとっては衝撃だろう。メダルが期待できる数少ない競技がレスリングなのだから。2020年の開催候補地3都市のうち2都市で盛んな競技を、その大会から除外しようなどという決定を平気で下すという点でも、IOCの理事連中は相当おかしい人たちだと思う。

●古代オリンピックの人気競技で近代五輪も第1回のオリジナル種目。競技人口は知らないがほぼ世界中に普及し、着衣以外に道具は要らず、会場は体育館でいいからコストも少ない。福田会長によればロンドン五輪では連日満員の人気があった。それでも外すだけのどんな理由があるのだろう。

●そして、プロではない競技にとって、五輪競技か否かは競技そのものの死活問題となる。IOCの理事たちは「競技側が努力しろ」みたいな態度だけど、自分たちがレスリングという伝統ある競技を滅ぼすスイッチを押したという自覚と覚悟があるのだろうか。

●柳澤健「日本レスリングの物語」(岩波書店)を数日前に読了したばかりなので、心情的にレスリング贔屓になっている。近年のスポーツライティングで有数の名著です。柔道や学校の指導者暴力が問題になっている時期に読んだので、余計に、日本にとってレスリングがどれほど大切かを痛感している。

●@joe10avant 他国の事情は知りませんが、日本のアマチュア競技は、メディアの扱いにおいてもスポンサーの獲得においても公的な援助においても、五輪競技か否かで決定的な差がつきます。それは競技側の責任という以上に、世の中側の関心が五輪次第という面が強いからだと思います。

●@joe10avant ウィキペディアによると女子レスリングの世界選手権金メダリストは20人いるそうですが、五輪メダリスト以外の十数人の名を挙げられる人が日本にどれほどいるでしょう。競技団体がどう位置づけようと、競技外の人たちの興味はオリンピックに集中しているのが実情でしょう。

●次原悦子氏のツイートにあるように、まめにロビイ活動してないと無視されるのがIOC理事会の実情なのだろう。あの程度の少人数で議決するのだから、賄賂や接待が効きそうな世界ではある(実際にやってるのかどうかは知らんけど)。FILAはそのへんで油断があったのでは。

●書いたつもりで忘れていた。レスリングが五輪競技から外されそうな理由として考えられること。種目数が多すぎる。男女の種目数の非対称。競技自体が地味でテレビ受けが悪い。メダルがアジアや欧州の辺境に集中し、西欧が弱い。…前に挙げた「残すべき理由」を凌駕するほどの欠点だろうか。

●<IOCはさらにFILAの意思決定機関に選手代表が入っておらず、女性委員会はなく、理事会に医事専門家もいないなどと指摘した。>そうだとしても、いきなり外すかね。まず勧告するとかはないのかIOCは。/「レスリングは人気度で低評価:イザ!

●こちらのblogが興味深い。サマランチの息子がIOC理事で、近代五種の競技団体副会長。分かりやすすぎる。レスリング関係者はIOC理事どころか委員にも見あたらない。これでは2020年の開催都市もマドリードが有力ということか。

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ロンドン五輪に関する覚え書きツイート集。

7月26日
●スペインはボール保持力では上回り、日本のペナルティエリア前までは攻め込むのだが、綺麗に崩すことにこだわって、結局シュートに行く前に潰されていた。いくら巧くても、あそこまで単調だと怖さは半減する。諸大会のアジア予選で苦戦する時の日本を見ているようだった。

●それにしても権田と徳永ががっちり守って無失点勝利は嬉しい。終盤の逃げ切りで山村投入の時には、「なぜ米本を登録しない!」と叫んでましたがw

●ま、しかし客観的に見れば昨日の試合は「再三突き放すチャンスを作りながら、とどめをさせなかったまずい試合」だな…とスペイン相手に言える幸福。

●普通に見れば強いチームなんでしょうけど、スペイン代表だと思うと、試合開始から5分くらいで「なーんだ、イニエスタもシャビもいない普通のチームじゃん」という気がしたのは確かです。選手たちはどうだったんでしょうね。 @knt_m 2.このスペイン代表にはイニエスタとシャビがいない。


8月9日
●このところ猛烈に忙しくてロンドン五輪はろくに見ていないが、圧倒的に面白かったのが柔道の松本薫。準決勝で、スタスタと歩いてフランス人選手を追い詰めていく様子は、「野生の王国」か何かで獲物を仕留めるネコ科の肉食獣を見るようだった。今の日本からでも、ああいう選手が生まれるんだなあ。

●柔道は惨敗と評価されているようだが、どの国旗の下でも結局中国人が出てくる卓球などを見ていると、発祥国がいつまでも王座を独占しているようでは、その競技が世界に普及したとは言えない気もする(ま、卓球発祥の地は中国ではないけれど)。

●柔道のナショナルチームを見ていて不思議なのは、このところずっと最重量級のスターが監督を務めていること。現在の篠原は確かコーチ経験もないまま、いきなり代表監督になったのでは。歴代の4番打者を監督に据えたがる読売巨人軍に似た伝統の澱の匂いがする。

●水泳あたりでは「メダリストを育てた指導者を重用する」方針が感じられる。「メダリストを指導者として重用する」柔道よりも合理性がある。

●訂正。篠原監督は引退後は母校の天理大で指導者をしていた。代表コーチの経験がないまま代表監督に抜擢されたという点は異例。

●@knt_m アマチュア競技では「どんなスター選手も恩師には頭が上がらない」のが普通な気もしますが、競技団体の中枢には、また別の力学があるのかも知れませんね。

●@toronei 階級の間に序列があるということですか。軽量級と重量級では技術にも違いがありそうですけどね。野球なら四番打者より二番あたりの方が監督向きに見えますが、柔道ではどうなんだろうか。

●@toronei 「柔よく剛を制するのが柔道だ」と体重別に反対していたのにね。だいたい、加納治五郎は160cmなかったと聞きます。三船十蔵十段も。
※「三船十蔵」は、「三船久蔵」の誤り

●しかし、いつからテレビの五輪中継はこんなに応援モード一色になってしまったのだろう。NHKニュースのアナウンサーまで「応援しましょう」と言うのは違和感がある。昔はもう少し冷静だった気がするが。もっとも、もっと昔は「前畑ガンバレ」だったわけだから、気のせいかも知らんけど。

●競技団体の国際感覚の欠如を批判するメディア自身も、国際感覚が欠如した報道をしているということですかね。 RT @KeigoTakeda 柔道などを見てると「日本はなぜ負けたか」という視点が圧倒的に多くて「相手がなぜ勝ったか」という分析が少ないのが気になる。

●まあ、フィギュアスケートのように同じような顔触れで何年も戦い続けている競技ならともかく、番狂わせの多いノックアウト方式の柔道のような競技では、優勝者のバックグラウンドまできちんと把握して報じるのは容易ではないとは思う。とはいえ優勝者に関する報道が、もう少し多くてもよいのでは。

●あと、水泳の鈴木聡美が「神田コーチにメダルをプレゼントできて嬉しい」みたいなことを言うのを聞いて、あの萩原智子を育てた山梨学院大の神田コーチが、とうとう「メダリストを育てた指導者」になったのか、と、ちょっとじーんと来た。地方で独自に頑張ってきた指導者が結果を出す姿はいいものだ。

●それにしても、誰もがブラッターそっちのけでテレビカメラを向いてしまうとは…こんなに軽んじられるFIFA会長ってw

※サッカー女子の表彰式での日本代表選手たちの振る舞いについての感想

●これほど強く、競技人口も多いUSAでさえ、女子サッカーリーグがまた活動停止。女子サッカーの基盤が苦しいのは日本だけでなく、たぶん世界共通の事情。しかし、決勝を見ての通り(2つの準決勝も)、これだけの素晴らしい試合ができるのだから、目の前で見ていたブラッターに、一肌脱いで貰いたい。
 
 
8月12日
●国がものすごく強化に力を入れているというわけではなくとも、これほど多くの競技に(さほど知られていない競技も含めて)世界トップクラスの選手やチームがいるというのは、なんだかんだいっても日本は豊かな国なのだと思う。

●英国のエンタテインメントといえば007とモンティパイソンとクイーンくらいしか知らないが、ロンドン五輪の開会式と閉会式を見る限り、それで十分な気がしてきた。しかし、エリック・アイドルが歌うAlways look on the bright side of lifeを聞けるとは感動。

●「選手のための五輪」を標榜して当選したロンドン五輪だけど、閉会式は「選手のための五輪」じゃなかったなあ。どっちかというと「ボランティアのための慰安パーティー」みたいな印象。豪華すぎるおまけのために非難されたNHKは、ちょっと気の毒な気もする。

●あれが文化行事だということであれば、競技会とは独立した「五輪記念コンサート」としてやればよい。閉会式の場で、選手を立ち見の観客扱いしたまま延々とコンサートをやるというのは、筋論を言えば、なんか違うという気はする。選手もみな喜んでいたのなら、それはそれでいいんだけど。
 
 
8月13日
●サッカー女子日本代表が南アフリカ戦で引き分けを狙ったことが批判されていたことを、うかつにも最近まで気づかなかった。バドミントンの馬鹿げた敗退行為の煽りを食ったというほかはない。佐々木監督の判断はサッカーでは常識だし、中2日で6連戦という日程自体が異常なのだから、自衛策もやむなし。
 

8月14日
●ところで、ロンドン五輪の間、これほど暑くて辛かったのに、この時期にオリンピックをやろうなどと東京都知事はまだ本気で考えているのか? 7・8月の東京は、野外競技の選手たちに提供する競技環境としては最低レベルだ。屋内競技の選手だって、東京に滞在するだけでコンディションを崩しかねない。

●オーバーエイジ、過密日程、少ない登録選手数。五輪はサッカーの大会としてはかなり特殊だ。たぶん他の競技でも、五輪だけの特殊な環境や規定の下で戦わなければならないケースがあるのでは。五輪が最高峰という競技の場合、本来とは違う環境下ですべてが決してしまうのは辛いだろうな。

●承前)例えばマラソンは本来、夏にやるものではないし、女子レスリングでも小原選手は自分本来の階級が削減されたことによって苦しみ抜いたと聞く。五輪は罪作りな大会でもある。

●7月下旬にあったソフトボール世界選手権で女子日本代表が42年ぶりに優勝したことをマスコミが報じない、五輪から外れた競技に冷たいと批判する声がある。ごもっともではあるのだが、そんな時期に世界選手権を開催する競技団体のセンスに、より大きな問題があるんじゃないかとも思う。

●@toronei 冬季競技に顕著ですが、毎シーズン、W杯を転戦して積み上げた結果によって年間チャンピオンが決まるのに、世間では4年に1度の五輪の金メダリストの方が通りがよかったりする。五輪は、競技の外側の世の中一般に対するショーケースという意味合いが強いのでしょう。
 

8月17日
●五輪の競技直後やテレビ出演でのインタビュー等を見ていると、言葉によるメッセージ発信力は、競技別に見ると水泳選手が突出して優れており、柔道選手が突出して劣っているという印象が残る(プロとして訓練と経験を積んでいるサッカー選手は別として)。それぞれの育成過程と関連がありそうに思う。

●「彼女たちは日本のサッカー史上初めて、日本人以外の人たちの心を揺り動かすことに成功した」Numberロンドン五輪臨増p.29の金子達仁。相変わらず適当なことを書いている。99年ワールドユースで本山雅志のドリブルがどれほど地元のナイジェリア人たちを熱狂させたか、忘れてしまったのか。

●もうひとつ。「岩渕真奈は、決勝戦の83分にあった場面を、絶対に忘れないでほしい」。笑顔で一杯の表彰台で、ただひとり不機嫌な表情を崩さなかった岩渕に対して、わざわざこんなことを書く野暮さ加減には恐れ入る。こんなレトリックだけの空疎な文章を、金を払って読まされるのは腹立たしい。

●テレビで見ているだけでも、日本代表のアウェー戦のスタンドで日本を応援している外国人の姿を見かけることは珍しくない。私がワールドカップのテレビ中継で見ただけのルーマニアやナイジェリアに心を動かされたりしていたように、日本の試合に心を動かされた外国人がいても不思議はない。

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小川勝「オリンピックと商業主義」集英社新書

 ワールドカップの開催年には、地味だが興味深いサッカー本がよく刊行される(なぜか白水社からよく出る)。五輪の開催年には、地味だが興味深い五輪本がよく刊行される(北京五輪の年には武田薫の「オリンピック全大会」が出た)。そういう年でなければなかなか出せないような、貴重な資料であることが多い。
 これもたぶん、そんな1冊となる。

 小川勝はスポーツニッポン出身のスポーツライター。プロ野球や五輪競技を中心に書いている。
 私にとっては、「Number」で連載している記録コラムの印象が強い。記録中心の書き手というわけではないけれど、スポーツを数字から語ることに、現在、もっとも長けたひとりだと思う。
 サイバーメトリクスのような複雑な数式を駆使するわけではなく、小川が扱う数字は、主に公開情報や、それらに多少の加工を加えたくらいのデータだが、そこからの分析や考察が優れている。数字の向こうでプレーしたり采配をふるったりしている生身の人間に対する洞察が優れているのだと思う。数字を読む面白さを味わわせてくれるという点では、私にとっては故・宇佐美徹也以来の書き手だ。

 その著者が、「オリンピックと商業主義」を正面から取りあげた。ただし、タイトルから「黒い輪」のような暴露本・IOC糾弾本を予想した人がいたとしたら、それはちょっと違う。
 どう違うのかは、小川自身が序章の中で書いている。

オリンピックに対して、我々には二つの立場が提供されている。
 一つは--こちらが多数派だが--オリンピックを、古代オリンピックから続くアスリートの崇高な祭典ととらえ、舞台裏の事情はさておいて、テレビの前に(あるいは観客席に)座るという立場である。
 もう一つは、舞台裏の事情に目を向け、オリンピックにまつわる利権のシステムを追及し、国際オリンピック委員会(IOC)が掲げている理念との馬鹿馬鹿しいほどの乖離を指摘して、近代オリンピックを批判するという立場である。
  (中略)
 この二つの立場が、議論のテーブルに着くことはほとんどない。前者の数があまりに多いため、後者の声はメディアの片隅に追いやられている。前者は、後者の声を無視するか、あるいは軽い一瞥のあと、部屋に紛れ込んだ虫でも払いのけるように排除してしまう。一方、聞く者が少なければ、後者の声はどうしても過激になる。聞こうとしない者たちに対して冷笑的になっていく。そしてますます、両者の距離は遠のいていくように見える。
 本書は、この両者の間に端をかけようとする、ささやかな試みである。

 <オリンピック>を別の言葉に置き換えたくなるような今日このごろだが、どんな分野においても、こういう書き手は貴重である(こういうスタンスを取ると、なかなか熱烈な支援者やファンはつきにくそうだが)。
 
 本書のスタンスも、記録を扱う手付きと似ている。本書で扱われるのは、不正な金の流れを示す極秘資料、というようなものではない。著者は、各大会の公式報告書などから、それぞれの大会の収支やその内訳を示し、それらがどのような変遷を辿ってきたか、変化の背景に何があったのかを解説していく。つまり、原理的には誰でもアクセスの可能な公開情報から、「オリンピックと商業主義」の流れを追っていく。資料を集めること自体はスポーツジャーナリズムに携わる人ならさほど難しくないはずだが、こういう形でまとまったものは、あまり記憶にない。そして、そんな平凡にも見える作業の中から、意外な事実がいくつも浮かび上がってくる。

 オリンピックの商業主義への転換点といえば、1984年のロサンゼルス五輪、というのが定説だ。
 著者は、<大筋において間違いではないものの、(中略)現実はもっと複雑で、入り組んでいる>として、それ以前の大会から商業化への兆しはあったこと、ロサンゼルス大会では、商業化の事実はあっても明確な弊害は見られないことなどを指摘していく。当時のロサンゼルスをはじめ、開催都市の関わり方も多種多様であることに改めて気づく。IOCや企業以上に、開催都市に大いに問題があったケースも散見される。
  一方、まだオリンピックが厳格なアマチュアリズムに支配されていた1964年の東京五輪で、代々木第一体育館の電光掲示板にHITACHIの文字が入っていた、というエピソードは、まだマーケティングなどというものを誰も意識していなかった牧歌的な時代であることを印象づける(日立は電光掲示板を寄付しただけで、そこに名前を入れる対価を支払ってはいなかったという)。

 そうやって、さまざまな事象を歴史の時間軸の上に置くことで、スポーツメーカーのマーケティング、テレビ放映権料など、オリンピックに大きな影響を及ぼす金の流れが、いつからどのように始まり、どう変化してきたか、それぞれの大会で開催地の自治体や組織委員会が大会を(主に財務面で)どのように運営してきたか、貴族主義的だったIOCがどのようにオリンピックをビッグビジネスに変えてきたか…といった、オリンピックと商業主義を考える上での重要なファクターが、わかりやすく整理されていく。

 坦々と記述されてはいるけれど、著者は単なる客観中立の書き手というわけではない。
 例えば北京五輪で水泳と体操が「午前決勝、午後予選」という競技時間になったことに対して、<こうしたコンディション調整を強いるスケジュールが、選手にとってベストの競技環境であるはずはない><彼らが尊重したのは、米国のテレビ局のCM売り上げの方だった><この意味で北京大会は、かつてないほどひどい形で商業主義に陥った大会だったと言える>と厳しく批判している。
 一方では、テレビ放映の便宜のために行われる競技のルール改正について、<商業主義の弊害として取り上げられる事柄>と指摘しつつも、個々のケースを検討し、すべてが競技の本質を損ねるとは言えない、としている。

 商業主義とは何を指すのか、オリンピックにおいて失われてはならない価値は何なのか。
 小川は、前提となる概念をひとつひとつ確認しながら、論を進めていく。まったく当たり前のことなのだが、この「当たり前」の手続きをきちんと踏まえることのできる書き手は、案外多くはない。

 2012年のロンドン五輪は、「選手のためのオリンピック」を標榜して招致合戦を勝ち抜いた。そんな性格の大会において、商業主義はどんな相貌を見せるのだろうか。
 本書は、そんな観点からロンドン五輪を見るための、絶好の手がかりになるだろう。

 なお、「おわりに」の中では、私が当ブログの中で再三批判してきた、東京都の五輪誘致活動についても言及されている。<「オリンピック開催による恩恵」をPRすることばかりに重点が置かれている>という現状認識は私と同じだが、著者がそこで示した代案には少々意表をつかれた。なるほど本書の締めくくりにふさわしい提案である。

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バンクーバー五輪に関する覚え書き。

 ご無沙汰しました。
 年明けから環境がいろいろ変わって多忙になり、スポーツ見物もblogの更新もままならない状況が続いています(今日のJリーグ開幕戦も味スタ欠席です)。ディック・フランシスや藤田まことの逝去にも、冬季五輪の最中にも、結局更新しそこねたので、そろそろ開店休業を宣言せざるを得ないかなとも思ったのですが、これが3か月ぶりですから、宣言するまでもないですね。

 というわけで今後は従来のような形での更新は難しくなりそうですが、当面は自分のための備忘録としてblogを使うことにしようかと思います。いろいろお約束や宿題を果たせないままで恐縮です。
 「自分のため」とはいえコメント欄は従来通り空けておきますので書き込んでいただいて構わないのですが、レスには少し時間がかかると思いますのでお含み置きください。

 で、今さらながら、バンクーバー五輪を(主に職場でちらちらと)観ながら思ったことをいくつか。

・リュージュの練習中にグルジア人選手が死亡したことが、私にとってはこの五輪での最大の出来事だった。
 原因として、難易度が高くスピードが出るコース設計が指摘されている。一定水準のレベルに達した選手が練習しただけで事故死してしまうようなコースを作ることも、あたかも選手の技術の未熟さに起因した事故であるかのように発表することも、五輪組織委員会の振る舞いとしては信じがたい。ほかにどれほど素晴らしいことが起こったとしても、大会としては失敗と捉えるのが妥当だと思う。

 これが例えば、1シーズンに各地を転戦して何試合も行い、勝った選手が莫大な賞金を手にすることのできるような形式の大会であれば、そこまでは言わない。選手は自分でリスクとリターンを天秤にかけて、出場するか否かを選ぶことができる。
 だが、オリンピック・ゲームズというのは4年に1度の一発勝負。大多数の競技の選手にとっては選択の余地のない、唯一無二の大会なのだ(テニスのような例外もあるが)。
 選手の側に出場を忌避する自由が事実上存在しない以上、主催者は全力を挙げて、可能な限り最良の環境を選手に提供する義務があるし、安全性に最大限配慮するのは大前提ではないか。その覚悟のない人たちに、五輪を開催する資格はないと思う(私が酷暑の下での五輪開催を酷評してきたのも同じ理由だ)。

 しかし、実際には、危険な競技はリュージュだけではない。
 前回のトリノ五輪で、スノーボードクロスという競技を見て複雑な思いを抱いた。
 見世物としてはスリリングで面白い。だが、あれほど転倒やコースアウトが多いようでは、勝敗に運が介在する度合いが大きすぎる。金メダルの値打ちを他の競技と同等に捉えるには少し抵抗を覚える。1シーズンに何度も戦うツアー形式なら、シーズン全体を通せば実力の高い選手が順当に上位になるのだろう。だが、4年に1度の一発勝負には向かない競技なのではないか。
 そう思っていたのだが、今回はスノーボードのみならず、スキーにも同様のクロス競技が生まれている。冬季五輪は見世物性を高める方向のベクトルに支配されているようだ。

 「滑る」「飛ぶ」という動作がほとんどの冬季五輪は、どうしたって事故が起きやすい競技が大半ではある。だが、「それにしても…」と思うような出来事が大会のたびに増えていくようでは将来が心配だ。
 もともと足元が不安定で、土の上では決して実現しないような速い速度で動く競技の中では、フィジカルコンタクトは、致命的な打撃を選手の肉体に与えかねない(だから、最初からフィジカルコンタクトを前提としているアイスホッケーの選手たちは、あらゆるスポーツの中でも最上位に入る重装備で試合に臨む)。
 スキーやスノーボードにフィジカルコンタクトを持ち込むという動きに対しては、いつか悲惨な事故を招くことになると懸念している。それが、限られた選手と限られた観衆の間で行われる競技の中での出来事なら口出しするつもりはないが、オリンピック・ゲームズには相応しくない。


・国母選手の一連の騒動も、そういう枠組みの中で捉えるのが適切なのではないかと思っている。
 国母を擁護する言説をいくつか目にしたが、勝利よりも自己表現を上位に置くスノーボードのカルチャーに言及したものが多かったように感じる。本当にボーダーの文化がそういうものなのであれば、それは五輪という大会とはあまり親和性が高くない。
 そういうスノーボードがなぜ五輪競技なのかといえば、長野大会の際のサマランチの独断によるもので、要するにビジネス上の要請によるものだろう。

 世間では、JOCが国母を出場停止にしようとしたと誤解している人も多いようだが、私が目にした報道の範囲では、事実はむしろ逆だ。国母が属する競技団体である全日本スキー連盟が彼の出場辞退(ま、事実上は連盟による出場停止)を申し出て、JOCを代表する立場にある橋本聖子団長がそれを却下したという経緯だったと記憶している。
 全日本スキー連盟といえば長らく堤義明が君臨していた団体だ。堤は、経営する西武鉄道に組合を作ることを許さなかったと伝えられるような体育会体質の経営者であるからして、スキー連盟にその影響が色濃く残っているであろうことは想像に難くない。そのような競技団体がスノーボードを所管していること自体に無理がある。スキー側もスノボ側も、望まない「結婚」だったのではないだろうか。

 にもかかわらず、メダルが期待できるのはスノボばかり、というところに、スキー連盟上層部の鬱屈が蓄積されていたであろうこともまた、想像に難くない(もちろん、それはスノーボード側の落ち度ではまったくないのだが。メダル有望といえばモーグルもあるが、モーグルという競技は、カルチャーとしてはアルペンやノルディックよりスノーボードに近そうな印象を受ける。違ったらすみません)。
 このように、ビジネス上の都合のために封じ込められていたさまざまな矛盾が、現場でああいう形になって噴出した、という見方もできるだろう。

・国母その人に対する感想を言えば、生真面目そうな人だなあ、ということに尽きる。
 彼がカナダの空港に降り立った時の服装も、合同記者会見で「るせえなあ」「反省してまーす」と口走ったことも、地方都市の駅前でよく見かけるような「反抗的な男子学生」の典型的な振る舞いによく似ている。
 上述したような擁護者たちによれば、スノーボードのカルチャーは「自由」がキーワードのようだが、私が目にした範囲での国母は、最初から最後まで少しも自由に見えなかった。ある既成の行動規範に従い、全力を尽して自分をその型に嵌め込もうと振る舞っている、生真面目な青年に見えた(内田樹がよく書いているような「型通りの逸脱者」そのものだ)。彼が属する世界では、ああいう型通りの振る舞いをすることに正義があるのかな、と感じた。
 だとすれば、ひとたびその行動規範が否定されてしまうと、もはやどう振る舞ってよいのか判らないに違いない。橋本聖子団長と2人で行った記者会見で、隣の橋本団長の顔を伺わなければ何も答えられなかった国母の姿は、そんなふうに見えた。

 五輪という場を離れれば、彼は賞金大会で活躍するプロなのだから、基本的には(反社会的にならない範囲であれば)どのように振る舞おうと彼の自由だ。そこから生じる利益も不利益も、すべて彼自身に跳ね返るのだから、それを引き受ければよいだけのこと。
 いや、五輪においてもその原則に変わりはない。ただし、五輪という大会を見ている人は、規模においても質においても、彼が普段出場している大会とはまったく異なるのだから、異なる反応が出てくるのは必然的な帰結である。
 必ずしも五輪に最上の価値を置かないらしいボーダーが、金にもならず制約ばかりの五輪の場にあえて出て行くという行為の中に、普段とは異なる「見ている人」たちに自身の競技をアピールしたいという目的があるのだとしたら、国母の振る舞いは、その目的にとって合理的とは言えなかった。それだけのことだ。

・今大会は、気温が高い上に雨も降り、野外競技は気象条件の悪さにかなり影響されたようだ。ふだんから風や降雪の影響を受けて運不運に慣れているはずのジャンプの現場からも不満の声が聞こえてくるというのは、よほどのことだったのだろう。モーグルだったかスノボだったか、降雪を見越して用意された立ち見席が雪不足で使えず、前売りチケットを払い戻して大損害が出ている。モーグルで日本選手が奮わなかった理由に「雨のせいで雪が水を含みすぎて、体重の重い選手でないとスピードが出なくなっていた」ことを挙げたスポーツライターもいた。
 これが異常気象だったのか、バンクーバーという開催地においては起こりうる範囲内のことだったのか、開催地を選定したIOCはよく検証して反省すべきだろう。
 次回のソチはロシアの保養地だそうだから、ロシアの都市としては気温はわりと高いらしい。大丈夫なんだろうか。

・フィギュアスケートについては、男女6人全員入賞という結果に感銘している。どちらも3番手の健闘が見事だった。女子については「キムヨナさん、おそれいりました」というしかない。

・最後に、私と同い年のスケルトン越和宏選手、お疲れさまでした。順位は奮わなかったが、2本目以降は滑るたびにタイムを挙げていったところに、彼の真骨頂があった。

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で、東京は五輪招致活動を続けるのだろうか。

 2016年の五輪開催地に東京が選ばれなかったこと自体は、招致活動が始まったころから予想していたので驚きはない。落選を伝えるニュースの中では「北京の翌年では早すぎた」とか「『なぜ東京か』が見えなかった」などと敗因が語られているが、それらは立候補して計画書が発表された時点からわかっていたことだ。

 結局のところ、リオデジャネイロにおける「南米初の五輪」という単純明快なアピールポイントに勝る何かを、東京の招致活動に当たった人々は、提示することができなかった。
 最後は「環境」にポイントを絞ったようだが、すでに94年の冬季五輪で「環境に配慮したオリンピック」を掲げたリレハンメルが選ばれており、夏季大会はシドニーでも北京でも「環境五輪」をアピールしている。もはや環境に配慮するのは当然のことで、スローガンとしてのインパクトはない(だいたい、調査団にお台場の予定地を見せておいて「環境に優しい大会にします」と言っても説得力はなさそうだ。ま、お台場における環境改変はすでに終わっているので、そういう意味ではあの上に何を作っても「自然破壊」ではないだろうけど)。

 石原慎太郎都知事は、都庁サイト「知事の部屋」内の「都民のみなさんへ」というページで、先月初め、次のように語っている。

<誰が何を考えているか、本当にわからない。そういう点でね、まあやっぱり、どういうんでしょうかね、できるだけ冷静に、選手のためを思ってね、競技の進行がスムースに行って、安全に行われて、しかもそのための環境が整備されたりしないかってことは、あちこちのオリンピックを主催してきたIOC(国際オリンピック委員会)の連中ですから、そういう経験踏まえてね、冷静に正確に判断してもらいたい。それならば私は東京は自信を持っていいと思うんだけど、なかなかそうも言い切れない戦いだけに、非常に先が読めなくて、最後の努力をすべくコペンハーゲンに参りますが、これは、まあ、みなさんもひとつ応援に来てくださいと済むところじゃありませんから、日本で祈っててください。>(9/11更新分)

 財政、設備、運営技術、安全性といった面で、東京(あるいは日本の主要都市)に充分な開催能力があることは、おそらくIOC評議員の多くが理解していることだろう。だが、五輪開催地はそれだけで決まるものではない。北京で五輪が開催されたことも、単一競技の大会ではあるがサッカーのワールドカップが南アフリカ共和国で開催されることも、石原都知事が言うような面だけではない別の理由によって決まっているはずだ。
 それを広い意味でいえば「政治」である。長年政治家として生きてきた石原都知事がそれを理解していないというのは解せない。ついでに言うと、「南米で初の五輪を!」という単純で骨太の呼びかけが、どれほど理屈抜きで人の心を動かす力を持っているかについて、政治家より長く文学者として生きてきた石原慎太郎が理解していないらしいことも解せない。文学者というのは人の心を動かす専門家ではないのだろうか。

 と、都知事に対する嫌味はこのくらいにして、少しこの先のことを考えてみたい。

 終わった途端に2020年五輪の招致を話題にする向きもある。引き続き2020年の立候補を目指すかどうか、JOCはまだ態度を明らかにしてはいない。
 今回の尽力を無駄にしないためにも続けて立候補することが大事だ、という考え方はあるだろうし、実際、続けて立つことで開催を勝ち取った例もある。「北京が終わったばかりなのに」という印象も、次回にはいくらか薄れるだろう(それでも、アジアでは1964東京、1988ソウル、2008北京で20-24年周期という過去の実績に比べると、まだ早いのだが)。

 ただし、立候補するのはJOCではない。招致活動の主体はあくまで都市にある。
 だから、まず問題になるのは、東京都が引き続き次回を目指すのか、ということになる。

 都知事にとって、この落選の最大の問題は、150億円と言われる招致費用が無駄に終わった事実だ(150億全部が都の出費かどうかは知らないが)。
 現地での記者会見では、さっそく責任問題や辞意の有無を問う質問もあったと伝えられた。
 辞職については本人が即座に否定したようだが、私も辞職を求めようとは思わない。東京が国内候補地に決定した後に都知事選挙が行われて再選(三選)されたのだから、彼は「都民の信任を得た」と主張することができる。

 しかし、それでもこの落選が大きな失敗であることに変わりはない。7月の都議選で与党が過半数を割ったこともあり、今後の議会運営は非常に厳しいものになるだろう。
 石原は前回の当選時に4選への不出馬を表明しているが、任期は2011年4月まで続く。
 2020年五輪の国内候補地選考が前回の4年後だとすると2010年。来年だ。都はすぐにでも方針を固めなければなるまい。だが、議会はそれをすんなり認めるだろうか(そもそも都は他にも難題をいくつも抱えている。都民にアピールできそうな唯一のテーマが五輪誘致だったのだが、それもこの落選で難題に転じた)。

 この落選を経験した都民が、次の機会にどのような態度を示すかも、まだ予測がつかない。関心の薄かった都民にとって、この落選によって五輪招致が「悲願」に転じるのか(サッカーのワールドカップ出場が93年のいわゆる「ドーハの悲劇」によって国民の悲願に変わったように)。あるいは、そんなものに金をつぎ込むよりも今の生活を何とかしろ、と反発を抱くのか。
 
 そして、東京以外の都市の立候補となると、さらに事態は難しいように思える。
 第二の都市である大阪も財政状況は厳しいし、他の都市となればなおさらだ。オリンピックのような巨大プロジェクトを立ち上げる余力がそもそもない。
 そして、2016年の国内候補地選定において、JOCが福岡に対してどのような態度をとったか、そして破れた福岡の首長が市民にどう遇されたかを、各自治体の長たちは見ていたはずだ。それでも立候補しようという都市が現れるのかどうか。
 ま、現名古屋市長あたりなら、言い出しかねない気もするのだが。
 
 落選決定の翌日の報道を見ると、石原都知事の責任を論じる記事は散見するが、JOCに対する批判はほとんど見当たらない(石原都知事と竹田会長ではニュースバリューというか、ありていに言えばスター性にかなりの差があるという事情もあるのだろう)。
 だが、日本の落選の原因に、報道されているような「顔が見えなかった」「世界的スターの不在」があるのだとしたら、JOCの責任は大きい。プレゼンテーションで登壇した室伏広治や小谷実可子には失礼な言い方になるかも知れないが、あそこに北島康介や浅田真央が立っていたら、そんな問題はなかったはずだ(あるいは、村上春樹が登壇すれば相当なインパクトだったかも知れない。JOCにそんなことが可能かどうかは知らないが)。

 そもそも「去年、北京でやったばかり」の2009年に選考が行われるとわかっていながら国内で立候補を呼びかけたのもJOCだ。JOCがなぜ2016年の五輪招致活動を始めようと思ったのか、私にはいまだに合理的な理由がみつからない。

 私は東京五輪の計画に関して<東京のために五輪を利用しようという意図が目立ち、五輪のために何ができるのかという感覚が希薄>と批判したことがあるが、都市側がスポーツ界の事情や感覚からズレているのは、ある程度は仕方ない(コミュニケーションの達人であるオバマ大統領でさえ、「近所で五輪が開かれれば嬉しい」みたいな演説をしているのだし。もっとも、滞在時間などを見ても、彼にとって今回の招致活動の優先順位はさほど高くなかったようだが)。
 だからこそ、スポーツ界の住人であり、IOCの一員であるJOCが、その不備を補うことが必要だったはずだが、それは充分に果たされなかった。

 東京都知事には議会での質問が待っている(五輪招致に不満だとか、2020年招致に反対だという都民の皆さんは、地元の都議に陳情してネジを巻きましょう)。
 だが、JOCにはそのように、外部の第三者の目で検証される場がないし、そもそも内情もよく見えない。報道機関各位には、都知事に責任を問うのはひとまず都議会に任せて、JOCにこそ、じっくり総括を迫ってもらいたい。

追記)2009.10.4
石原都知事は帰国後の会見で敗因について語り、「政治的なもの」について言及したらしい。

<同知事は「目に見えない歴然とした政治的なものが絶対にある。昔の自民党の総裁選みたいなもの」とし、IOC内の力学で落選したとの認識を示した。>時事通信10月4日15時12分配信

 ここで都知事が言っている「政治」とはおそらくIOCの幹部や評議員の間の力関係ということだろう。「政治」というよりは「政局」に近い。私がエントリ本文中で「政治」と書いた時に想定していた概念はもっと広いものだが、ま、別に一致しなくてもよい。
 それにしても、政治を職業とする人物が、「政治的なもの」における争いに敗れた、と公言して恥じる様子もない、というのは奇妙な光景である。「政治的なものが絶対にある」って、そんなことも知らずに立候補して150億円も使ったのかこの人は。

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