『THE有頂天ホテル』〜三谷幸喜、「その場しのぎ」の集大成。

 今月は三谷幸喜作品ばかり見て過ごしている。『新選組!! 土方歳三最期の一日』、『古畑任三郎ファイナル』3部作、そして映画『THE有頂天ホテル』。
 それぞれに楽しめる力作だったが(イチロー出演の『古畑』は、新春スター隠し芸大会だと思えば楽しめる)、とりわけ印象深いのは『THE有頂天ホテル』だった。

 『THE有頂天ホテル』は三谷幸喜の集大成とも言うべき作品だ。
 出演者の大半は過去の三谷作品で活躍してきた人々だし、戸田恵子や川平慈英のように過去の作品と酷似したキャラクターを演じている出演者もいる。エピソードにもいくつかの反復が見られる。
 大勢の登場人物のそれぞれに見せ場を作りながら動かしていく群像劇は三谷が得意とするところであり、限られた空間と時間の中で次々と発生するトラブルを乗り越えプロジェクトの完遂に向けて突き進むShow must go onの精神も同様だ。そのいずれもが、これまでにない規模で描かれる。
 そして、私が何よりも集大成らしさを感じたのは、多くの登場人物がそれぞれに、その場しのぎの悪あがきをしていたことだ。

 三谷の作品を特徴づける最大のモチーフは「その場しのぎ」ではないかと私は思っている。
 三谷の登場人物たちは、目の前に降って湧いた窮地を、とっさに嘘をついたり、ごまかしたりすることでしのごうとする。だが、その場の思いつきには往々にしてあまりにも無理があり、その無理を通すために彼や彼女はさらに嘘を重ね、綻びを繕うために必死で悪あがきを続ける。しかし、懸命の努力も空しく、結局は破綻してしまうのだ。
 舞台でも、テレビドラマでも、映画でも、三谷作品のほとんどで、そんな人々の右往左往が描かれている(『君となら』や『合言葉は勇気』のように中心的な主題となる場合もあるし、『王様のレストラン』や『新選組!』のようにエピソードのひとつとなる場合もある。『笑の大學』などは、全編その場しのぎの連続といってもいい)。

 『THE有頂天ホテル』にも、そんな男女が次々に登場する。
 舞台は、新年のカウントダウン・パーティーを2時間10分後に控えたホテル・アヴァンティ。登場人物は、イベントの準備に追われるホテルのスタッフと、それぞれにトラブルを抱えた宿泊客たち。
 役所広司演じるホテルの副支配人は、別れた妻と偶然に再会し、つい恰好をつけるために嘘をつく。松たか子演じる客室係は、ある女性客と間違えられ、とっさにその女性客になりすましてしまう。ある賞に選ばれ授賞式に出席するためにホテルにやってきた角野卓造は、自分の秘密を握る愛人を追い回して奇行を繰り返す。伊東四郎演じるホテルの支配人は、道楽が過ぎて人前に顏を出せなくなり、迷路のようなホテルの中を逃げ回って徒に事態を混乱させる。唐沢寿明演じる芸能プロダクション社長や、生瀬勝久の副支配人は、その場しのぎだけで生きているような男だ。佐藤浩市演じる国会議員は、汚職疑惑という深刻なトラブルに直面して、なかなか態度を決められずにいる。
 このほか、数えきれないくらいのさまざまな「その場しのぎ」が描かれ、まさに百花繚乱、映画は「その場しのぎ」展覧会の様相を呈している。
 彼ら彼女らがそれぞれのトラブルをしのぐために懸命な悪あがきを続けるうちに、あちらとこちらの人生が絡み合い、トラブルがもつれ合いながら、いつしか人々は一団となって、ゼロ・アワーに向かって雪崩れ込んでいく。

 役所広司がつく嘘は、かつて三谷が書いたテレビドラマ『三番テーブルの客』で描かれたのと同じものだ。役所がそれを口にした瞬間に、観客はその嘘が破綻を約束された無残なものであることを知る。そして、役所がもっとも恰好をつけたかった当の相手が、最初からその無残さに気づいていることも。
 有能なホテルマンの顏と裏腹に、元妻の前で悪あがきを重ねる役所の姿は、今ふうに言えば「イタい」としか形容のしようがないものだ。三谷は、役所の「イタさ」を執拗に描く。観客は、自分の中のイタさをちくりちくりと突かれながらも、大笑いし続ける羽目になる。
 その笑いは、多少ほろ苦いものではあっても、なぜか後味の悪さとして残ることはない。

 破綻が避けがたい現実として目の前に迫り、今にも嘘がバレそうになっているにもかかわらず、彼ら彼女らはそれを直視しようとせず、何の展望もないままに、ただただもがきつづける。人生における正しい態度とは到底言い難い。
 だが、その懸命さにおいて、その必死さにおいて、破綻の予感に苛まれるそのヒリヒリした心持ちにおいて、三谷は「その場しのぎ」の男女を許しているのだと思う。
 彼や彼女は最終局面で必ず破綻に直面するけれども、それはむしろ「甘美な破綻」ともいうべきものだ。彼や彼女は、荷が下りたような気分でホッとするだけでなく、しばしば破綻の中から温かいものを受け取り、安らぎと勇気を得ることになる。
 『THE有頂天ホテル』の登場人物の多くには、そのようなハッピーエンドが待っている(待っていない哀れな人もいるけれど)。クライマックスのカウントダウンパーティーを経験した後、観客はたぶん、ささやかな安らぎと、ささやかな勇気を登場人物たちと共有して、映画館を出ることになる。
 ハートウォーミングで幕を閉じるのは、純然たる喜劇としてはいささかズルい手ではあるのだが、見終えた後でこれだけ気分が良ければ、まあいいかという気になる。

 この「その場しのぎ」から「甘美な破綻」に至る流れは、実はそのまま『古畑任三郎』のプロットにもあてはまる。倒叙モノという叙述形式は、(もともとは『刑事コロンボ』へのオマージュとして採用されたのだろうが)その意味で実に三谷の資質に合っている。これほど長年にわたって作られ、人気を保ってきた理由のひとつは、そこにあるのではないかと思う。
 一見、古畑を主人公とした「追い詰める」側のドラマのように見えるけれど、実質的な主人公はそれぞれの回で殺人を犯した人物であり、彼らがいかにして「その場しのぎ」を繰り返しながら「追い詰められる」かを描いたドラマと言うこともできる。
 一応の最終話となった『ラスト・ダンス』は、まさにその「追い詰められる」側の心情をじっくりと描いた作品だった。松嶋菜々子演じる犯人は、役所広司のホテルマン並みに「イタい」のだが、その「イタさ」を描く手練手管を、笑わせるのでなく泣かせる方向に使うとこうなる、という見本のような作品だ(つまり泣かされたわけですが)。さらにいえば、同じ手練手管を感動巨篇に仕立てる方向に使うと、勝ち目のない軍隊を率いて戦い続けることをやめない男を描いた『土方歳三最期の一日』になる(って、こじつけすぎか(笑))。

 三谷幸喜が、どうしてこれほどまでに「その場しのぎ」に固執し、反復するのかはわからない。『THE有頂天ホテル』のように緻密に計算し尽くされた脚本を書く能力は、「その場しのぎ」や「悪あがき」とは無縁のものに見えるけれど、実は彼自身の内なる「その場しのぎ」や「イタさ」への恐怖が、そういうものを書かせる原動力なのかも知れない。
 いずれにしても、三谷の書く作品は、人の弱さやコンプレックスの綾を繊細に描き、それらを笑いながらも蔑んではいない。むしろ弱さへの大いなる共感に満ち、決して品格を失うことがない。
 それが、巷に溢れる凡百の「お笑い」と三谷を隔てるもののひとつであるような気がする。

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器の問題。

 今月初めに、毛皮族の公演を見た。
 若い女性が中心の劇団で、名前のわりには半裸で舞台を駆け回ることが多い。エログロっぽい装いでストーリーがあるようなないような芝居を演じながら、唐突に昭和歌謡が流れると男装の麗人(座長の江本純子)が現れて、レコードの歌詞に重ねてデタラメな替え歌を歌ったりする舞台で、わけがわからないといえばわからないのだが、ジュンリーと自称する江本の強引きわまりないけれど強靱な愛嬌を感じさせる進行ぶりや、突き抜けた明るさが気に入っている(といっても、見るのは今回が二度目なのだが)。

 ふだんは下北沢の駅前劇場を根城にしているグループだが、今回の公演「お化けが出るぞ!!」は新宿の全労済ホール・スペースゼロが会場だった。毛皮族にとっては、初めての中規模ホールでの公演だ。
 客席に座ってみると、えらく違和感がある。会場が変わると、こんなにも雰囲気が違うものかと改めて感じた。

 駅前劇場は、とにかく狭い。定員は180人、客席に通路らしい通路も少なく、椅子は前にも横にもくっついていて、客同士がひしめきあうように座ることになる。天井も低い。私が見た時は夏だったが、冷房もあまり効かない。ただ座っているだけで、むんむんと人いきれの熱気が充満してくるようだった。
 スペースゼロは、天井が高い。定員は560人くらいで駅前劇場の3倍以上入るが、容積率では何十分の一という感じだ。多目的ホールのために客席の桟敷は仮設式で、床の下にも空間がある。そのためか暖房があまり効かず、師走のホール内は、いささか肌寒い。

 観客の心理を形容する言葉には、「熱い」「熱気」「寒い」「冷えている」など、気温からの比喩が多い。もちろん心理面を表す言葉ではあるけれど、実際の体感温度が心理面にもたらす影響も、少なからずあると思う(サッカースタジアムのように、観客自ら歌って踊ってアツくなる場合は別ですが)。
 公演初日のスペースゼロの客席は、文字通り寒かった。開演が40分も押して、心がすっかり冷えてしまったせいもあるのだろう。客は冷ややかで、ノリがもうひとつだった。出演者たちも、台詞や転換の段取りにおける細かなミスを連発して不安げだったが、同時に、このだだっぴろい空間を、どう御せばいいのか、戸惑っているように見えた。ステージの上では舞台装置や出演者の人数、演出に工夫をこらして、いつもより広い空間を埋めていたけれど、客席の広さは、どうにももてあましているようだった。才気と自信が全身からほとばしるような江本ほどの舞台人でも、こういうことがあるのか、と、いささか衝撃を受けた。

 毛皮族の名誉のために書いておくと、一週間後の公演最終日にもう一度見に行った時には(我ながら物好きだと思うが)、台詞や段取りのミスはすべて解決し(当たり前だ(笑))、転換はテンポよく行われ、客席はいい具合に温まって、よく盛り上がった大団円となった。ふだんよりも広い器への適応を、彼女たちはどうにかやり遂げたようだった。


 今週初めに、林英哲の和太鼓のコンサートを聴いた。
 会場は、初台のオペラシティコンサートホール。
 演奏が始まって、おや、っと思った。林のコンサートは3、4回聴いたことがあるが、聴き慣れた和太鼓の音とは全然違う。他所行きの音、とでも言えばよいだろうか。
 だが、楽器も叩き方も、見たところ普段と変わりはない。どうやら、ホールの音響特性によるものらしい。

 タケミツ・メモリアルの別名を持つこのホールは、97年にオープンしたコンサート専用ホールだ。ホームページを見ると、「現代の最新音響技術を用いて、設計いたしました。これにより、ホール自身が、分離よく明瞭に響き、引き締まった低音とメローで艶のある音色を持つ巨大な楽器となります。」と書いてある。

 クラシック音楽に最適になるように設計されたホールに、和太鼓の音は想定されていなかったのかも知れない。残響が長すぎて、うわんうわんという唸りが強すぎる。アタック音も明瞭に聴き取れるのだが、要するに唸りとアタック音が分離して、肝心の「太鼓の音」らしい部分がどうも聴こえてこない。
 一方で、共演者たちのマリンバや尺八の音色は実に味わい深く響く。土井啓輔の尺八が一節鳴っただけで、もう胸が熱くなるほどだ。確かにメローで艶がある。
 そして、共演者クリストファー・ハーディが使うさまざまなパーカッションの無機的な音も、エッジが立って必要十分に明瞭に聴こえる。たぶん、この会場にはこういう楽器の方が合うのだろう。
 私の席はステージに近かったので、太鼓の演奏の迫力は満喫できた。藤田嗣治をテーマにした新作の太鼓組曲は、林と若い仲間たちの演奏の充実ぶりを存分に示す力作だった。ただ、肝心の音に対する違和感は最後まで拭えなかった。

 プログラムの曲目がすべて終り、カーテンコールに続いてアンコール演奏が始まる時、思い立って、最後列に移動してみた。
 驚いた。ここでは、まぎれもなく「太鼓の音」がしている。前の方で聴くと、どうもしっくりこなかったフレーズが、最後列ではゾクゾクッと体を震えさせる。どうやらこのホールで和太鼓を聴くなら、あまりステージに近すぎない席の方がいいらしい。
 クラシック用のホールはいくらでもあるが、和太鼓の音響特性を生かすために設計された音楽ホールなどというものは、どこにも存在しない。和太鼓奏者である林は、おそらくどこのホールで演奏する時にも、この種のギャップを埋める作業を繰り返しているのだろう。先駆者の苦心というものは、こういう見えないところにも存在する。

 まるで関係のないふたつの舞台だが、どんなに美味しい料理も器を変えると、まるで別の味になってしまうことがあるのだと、それぞれに示していた。怖いものだ。

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