議員でも金。

 …と谷亮子なら言うのだろうな。
 国会議員の五輪代表の女子選手なんてことになると、なんだか昔の共産圏っぽいけど。女性の社会進出が進んでいるといわれる国(北欧とか?)に、そういうケースはあるのだろうか。

 今夏の参院選に出馬を予定しているスポーツ関係者が、いつになく目立つ。
 ざっと思い出せるのは、以下の人々。

・堀内恒夫(自民党)
・谷亮子(民主党)
・中畑清(たちあがれ日本)
・石井浩郎(自民党)

 どういうわけか全員ジャイアンツ関係者である。
 堀内、中畑、石井はOB、谷は現役選手の妻。

 一般論として言えば、私はスポーツ関係者や現役スポーツ選手が国会議員になること自体に反対はしない。国会議員はいろんな分野の人材が選ばれた方がいい。スポーツと日本社会の将来によいものをもたらしてくれると期待できる人物なら賛成だ。

 だが、この人たちに(自分に投票権がある場合に)投票するかといえば…上から3人には入れないだろうなあ。特に堀内と中畑。野球チームのマネジメントに成功しなかった人物に、国のマネジメントを託そうとは思わない。
 石井は留保。選手としては好きだったが、議員としてどうかと考える上での判断材料を持ち合わせていない。政治活動から判断することになる。

 ちなみに、立候補したら投票するスポーツ選手を挙げろといわれたら、為末大と答える。

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「伝統」の「文化」は、どこまであてになるものなのだろう。

 3/19の朝、新聞やテレビでは、ワシントン条約締約国会議における、クロマグロの禁輸という提案が否決されたことを一斉に伝えていた。「日本の伝統的な食文化が守られた」というトーンが多いのだが(岡田外相もそんな文脈の発言をしていた)、そういう語られかたに、何となく違和感を覚える。

 素材を地中海からはるばる持ってきている時点で、すでに「伝統的な食文化」は守られてないんじゃないか、という素朴な疑問はとりあえず措くとしても、マグロと江戸前寿司について不思議に思っていることがある。

 私は首都圏のサラリーマン家庭で育った。最近はあまり使われなくなった言葉でいえば「中流」で、寿司というのは「たまにお客さんが来た時に出前でとるご馳走」という位置づけだった。
 その寿司の中に、マグロは赤身の握りや鉄火巻きという形で存在していた。トロなどというものが当時の寿司桶に入っていたのかどうか。私はあまり食べた覚えがない。

 お前んちが貧乏だからトロの入った寿司が食えなかったんだろ、という指摘があるかも知れないから、客観的に定義してみよう。私が食べていたのは、昭和40年代の「近所の寿司屋から出前で取った寿司のうちでいちばん安いもの」だとする(本当に「いちばん安いもの」だったかどうかは知らないが)。それに近い存在を今の東京で考えるなら、「近所のスーパーで売ってるパック入りの寿司(の閉店間際に値引きしたやつ)」あたりに匹敵するんじゃないかと思う。私の家の近所のスーパーで売っているその手の商品に、トロはしっかりと入っている。
 というわけで現在、日本で消費される江戸前寿司の中にトロが含まれている割合は、70年代あたりに比べると、かなり増えているんじゃないかという気がする。今の消費動向が昭和の昔から続いていたとは考えにくい。

 一方、もっと長いスパンで考えると、トロの位置づけはさらに変わる。

 東京の下町には「ねぎま鍋」という料理がある。
 「ねぎ」は葱、「ま」はマグロ。角切りにしたトロを、しゃぶしゃぶのようにさっと湯通しして食べる。旨いのだが、店によっては結構な値段で、決して安いものではない。
 だが、この料理の起源を調べると、決して高級料理ではなく、むしろ庶民の食べ物だったらしい。
 江戸時代には、マグロは赤身をヅケにして食べる魚だったという。トロは保存が利かないので生で食べることが難しく、捨ててしまっていた。それを何とか利用しようと鍋にすることを考案した…というようなことが、人形町の老舗「よし梅」のホームページに書かれている。
http://www.yoshiume.jp/top.html

 江戸前寿司自体も、江戸時代には高級料理ではなかったはずだ。「すし」というのは本来は魚と米を漬け込んだ発酵食品で(琵琶湖畔の「ふなずし」のように)、江戸前寿司はその代用品としての屋台料理であり、要するにファストフードとして始まった。

 だから、1カンだけで私の通常の一食分を超えるような値段の「大トロの握り寿司」というものは、日本の伝統的な食文化の中から生まれてきた食品ではあるが、それ自体を「伝統的な食文化」だと言ってしまうには無理がある。
 現時点でものすごく好まれて食べられているからといって、それだけで「食文化」と言ってしまってよいのかどうか。
 逆に、伝統的な食品でも、現代の日本人が好まなくなってきたものはいろいろあるわけだが、そういう「伝統的な食文化」は守らなくてもいいのだろうか。

 ついでに言うと、マクドナルドのハンバーガーは日本に入ってきてすでに30年以上経っているはずだが、あれはもはや「日本の食文化」と見做してもいいんじゃないだろうか。
 江戸という都市は、参勤交代などの影響で単身生活者の男性が多かったため、寿司、うどん、天ぷらなどのファストフードが発達したという歴史をもっている。ハンバーガーもまた、その歴史の延長線上に登場したものとして捉えれば、「日本の伝統的な食文化」に連なる食品と言えなくもない。


 そう考えると、「伝統の文化」と思われているものが、どこまであてにできるかといえば、結構あやしいこともある。

 最近のニュースで話題になった、もうひとつの「伝統」にも、似たようなところがある。朝青龍のおかげでモンゴルにまで知れ渡った、大相撲における「横綱の品格」というやつだ。

 大相撲を「国技」と呼ぶことに異議を唱える人はあまりいないと思うが、この呼称には、聞けば脱力してしまう程度の根拠しかない。その起源は、相撲界が明治時代に初めて建設した専用競技場を「国技館」と名付けたことにある。要するに、自分たちで「国技」を名乗ってるうちに周囲が真に受けるようになった、ということに過ぎない(真に受けるだけの素地があった、ということでもあるのだろうけれど)。
 「横綱」が番付上の正式な地位となったのも明治以降のことだ。各藩のお抱え力士たちが露天で戦っていた江戸時代の大相撲で、どの程度「品格」というものが重視されていたのかは、よくわからない。

 もしも、「昭和の名力士たちが築いてきた『品格』という伝統を、朝青龍が台なしにしたのだ」と主張する人がいれば、その点には異存はない。
 ただし、その場合の「伝統」とは、たとえば読売ジャイアンツあたりと比較できる程度のタイムスパンということになる。ジャイアンツには「巨人軍は紳士たれ」という標語があるが、さて、これは「日本の伝統的文化」といえるのかどうか。よほど熱心なジャイアンツファンでも、真顔でそう口にするのは恥ずかしいんじゃないだろうか。

 ちょんまげを結って着物を着た人たちがやっているせいか、大相撲に関するすべてが江戸時代から続いているかのような錯覚をしやすいのだが、大相撲とは、時の権力や世相によって姿を変えてきた融通無碍な集団なのだと考えた方が実情に近い。
 その意味では、このところの「品格」や朝青龍の処遇に関する一貫しない姿勢こそが、正しく「大相撲の伝統」にのっとった態度である、と言うこともできるのかも知れない(だからといって相撲協会の姿勢を支持するわけじゃないですけど)。


 ついでに言うと、和太鼓演奏。
 長くなるので詳述はしないが、和太鼓がコンサートホールで演奏されるようになったのは、鬼太鼓座と林英哲が登場して以来の、せいぜい40年くらい前からのことだ。それまでは和太鼓は音楽と見做されていなかった。
 太鼓自体は古くからあるけれど、音楽としての和太鼓の歴史は、いわゆる現代音楽よりも浅い。
 これもまた、日本の伝統文化の中から生まれてきたものではあるが、伝統文化そのものとは言いづらい面がある。

 
 もちろん、伝統的な文化を大事にするのは大切なことだ。
 伝統的な文化の一部をなす事柄について外国人から批判されたり攻撃されたりするのは腹立たしい場合もあるし、反論すべきところは堂々とすればよい。実際、筋違いな攻撃もあるし、差別的な匂いがぷんぷんするような「環境保護活動」もある。

 だが、反論する際の根拠として、「伝統的な文化だから尊重されるべきだ」などという言辞を、その「伝統」と「文化」の内実を深く掘り下げて検証しないままに振りかざしていると、刀のつもりが竹光だった、ということになりかねないので、気をつけたい。


※なお、大西洋のクロマグロそのものについては、三重大学の勝川俊雄准教授のサイトに詳しいまとめがある。
http://katukawa.com/特集/クロマグロ-ワシントン条約

禁輸が回避されたからといって喜んでいる場合ではない、というのが一読しての感想。今回の決定は、今後、クロマグロの減少に歯止めをかけることができなければ、日本がその責めを負う立場になった、ということでもある。

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知事選ってのは候補者に投票するものじゃないんでしたっけ。

 川勝平太が出馬するというので、へえ、これはまた…と驚いて、彼のサイトでマニフェストを読んで、内容はいいと思うけど子供や家族の写真を意味もなくちりばめる手法はちょっとやらしいな、でも彼が当選すれば面白いな、と思ったのが、静岡知事選挙に対する私の関心のすべてだった。
 だから、川勝氏が当選したことは興味深く思うし、熊本の蒲島知事と並ぶ「学者知事」として、これからの仕事ぶりにも注目している。

 …でも、そんな考え方は異端なのかなあ、と選挙結果を報じる今朝のテレビを見ていて思ってしまった。
 普通のニュースでもワイドショーでも、この選挙の結果はもっぱら「民主党の候補者が勝った」「自民が負けた」「政局への影響はどうなる」という角度から報じられている。

 そりゃまあ、それぞれの党本部は、そういう捉え方をしていたのでしょう。あれだけ幹部が応援に駆けつけて、候補者そっちのけで政権交代がどうとかいう話ばかりしているのだからね(テレビがそういう部分だけを切り取って流しているのかも知れないが)。
 でも、知事選はあくまで候補者個人を選ぶものだ。団体戦である議会の選挙なら、政党が勝った負けたという言い方がふさわしいだろうけど、知事選の結果がそんなに政党の優劣に直結するもんなんでしょうかね。

 今回、川勝の対抗馬だった坂本という女性候補について私は何も知らないが、これまた結果が出た後のワイドショーで見た限りでは、相当イヤな感じの人だと感じた。
 自民党の幹部が次から次へと応援に訪れているにもかかわらず、テレビ取材に対しては「私は県民党です。自民党じゃないですから」と平然と言う。自民党の幹部が大勢応援に来られてますが、との質問に対しては、「みなさん私が一緒に仕事をしてきた友達として来ているので、自民党として来ているわけじゃありませんから」と、こわばった笑顔で目線を相手からそらしたまま話す。そうですか、みんなお友達ですか。
 ああ、この人は知事になったら議会での質問や取材に対しても、こうやって子供の言い訳みたいなことを恥ずかしげもなく言うのだろうな、とりつくしまもない官僚答弁をするのだろうな、と容易に想像できてしまう姿で、私がもし静岡県民だったら、こんな映像を一度でも見たら、絶対この人には投票しないと思うことだろう。

 川勝平太に投票した静岡県民の全員が彼の学者としての値打ちを知って選んだとは限らないだろうが、それを棚上げにして、公の場でテレビカメラに写された姿を見ている限りでも、両者の間にはかなりの差がある。むしろ、ここまで魅力に差があるのに、僅差に持ち込んだ自民党の底力は馬鹿にできないのではないかと思うくらいだ(ま、そもそもこんなタマしか出せないという点には大きな問題があるが(笑))。

 民主党にしても、同じ日に行われた兵庫県知事選では独自候補を立てることができず、自民が押す現職に相乗りしている。ま、兵庫は兵庫で事情があるんだろうが、そちらは「事情があるから」と考えたのかどうかほとんど話題にならず、静岡に関しては静岡の事情は問わずに「民主が勝った」と言い立てる報道というのは、なんだかなあ。

 という素朴な疑問でした。

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新聞が崩壊した後のニュースについて。

 はてなブックマークで目についた「新聞業界 崩壊の理由5つ、いや6つ」というエントリを読んでみた。紙媒体の人間としては関心を抱かざるを得ない話題ではある。
 エントリには、毎日新聞の英文サイトでの不祥事をマクラに、標題通りの内容が記されている。

 筆者のChikirin氏が挙げる「崩壊の理由」は以下の通り。

1.市場の縮小
2.マス広告価値の低下
3.販売システムの崩壊
4.編集特権の消滅(価値判断主導権の読み手への移転)
5.記者の能力の相対的かつ圧倒的な低下

 1-3はなるほど的を射ているように思う。
 5は特に根拠を示して論じられているわけではないので、感想はない。


 ちょっと気になったのは4の部分。
 内容の説明としては、以下のようなことが書かれている。

新聞の権力性がどこにあるかといえば、それは「どの記事を紙面に載せるか」という判断権を持っているという点にあるわけです。何を載せ何を載せないか、何を一面にして何を後ろに持ってくるか、それぞれの記事をどの大きさで報じるか。

 これらを通して新聞はそれぞれの事件なり出来事の「価値判断」をするという特権を持っていた。「彼らが大事だと思ったことが一面のトップで大々的に取り上げられ」、たとえちきりんが「これは大事!」と思っても、新聞社がそう思わなければその記事は葬り去られる。これは絶大な権力であったわけです。

ところがネットの出現でこの特権が失われます。

 第一にネットには「紙面の量の制約」がありません。どの記事を載せるか載せないか、という判断は不要なんです。全部掲載しても誌面が足りなくなったりはしない。

 次に一面という概念がない。確かにウエブにもトップページや特集ページはあります。しかし読む人の大半は「検索」したり好みのカテゴリーから順に読み始める。何を大事と思うかは、新聞社ではなく読者が決めるということになった。

 「編集権」が意味をなくした瞬間でした。「デスク」と呼ばれる権力者は、社会の権力者から「新聞社内だけでの権力者」に格下げされたのです。


 このような「新聞ダメ論」をネット上で読む機会は多いのだが、読むたびに思うことがある。ちょうどよいきっかけなので書いておく。

 このエントリに書かれていること自体には、大筋では異論はない(細かいことではいろいろあるが話がそれるので省略する)。
  Chikirin氏が<ニーズがなくなった商品が生き残れることはあり得ないのです。>と書いている通り、世の中の多くの人が新聞を必要としなくなれば、新聞はなくなるだろう。それはそれで仕方がない。

 気になるのは、ここに書かれていないことだ。
 Chikirin氏がいうように新聞業界が崩壊して新聞がなくなったとすると、その後の世の中はどうなるのだろう。
 「世の中は」というより、「世の中のニュースは」どうなるのだろう。


 「ニュースはネットで読むから新聞は要らない」という人は多い。ひとりひとりの行動としては合理性がある。
 ただし、彼らがネットで読んでいるニュースのほとんどは、元をただせば新聞社がポータルサイトなどに売っているものだ。新聞社がなくなれば、それらのニュースも提供されなくなるから、今と同じものを「ネットで読む」ことはできなくなる。

 ま、そうは言っても、ニュースを集めて記事を売る、という商売には需要があるだろうから、新聞紙はなくなっても新聞社は存続する可能性はあるし、ニュースが消滅するということには、たぶんならない。
 ただし、そのような形での収入が、現在の新聞社が読者と広告主から得ている収入に匹敵する規模に成長するとは考えにくい。つまり、業界のパイは小さくなる。
 とすれば、ニュースを売る企業どうしの競争はあまり活発でないものになりそうだし、それぞれの企業がニュースの生産に投資できる額も減る。提供されるニュースの品質は悪化すると考えるのが自然だ。ひょっとすると少数のニュース企業による寡占化が、今よりも進むことになるかもしれない。


 そういう形でニュースが流布するようになり、新聞というパッケージがなくなるとする。Chikirin氏が言うところの<編集特権の消滅>した状態がデフォルトになった状況だ。

 そんな状況を想像することは、新聞というパッケージの意味を改めて考えることでもある。
 現行の新聞社は、さまざまな分野のさまざまなニュースを格付けしながら、それらを一括して、その日の新聞として提供している。オール・イン・ワン形式である。

 インターネットではオール・イン・ワンは成り立ちにくい(そもそも「ワン」を囲い込むことが難しい)。
 新聞のオール・イン・ワン機能が消滅すれば、多種多様のニュースソースから送り出されたさまざまなニュースが、それぞれ並列的に世の中やネット上に存在することになる。
 企業や役所の出すニュースリリース、学者による論文、市民記者によるネットニュース、市民ブロガーのコラム。そのほか、さまざまな専門家が自分の専門領域についていろんなことを書く。

 <新聞記事よりおもしろい日本語ブログはたくさん存在する。新聞の論説委員より深い洞察、新聞記事よりも適切なデータ分析、記者の付け焼き刃のようなものとはレベルの違う専門的な知識を、惜しげもなく無料で提供するネット上のサイトは多数にわたる。>とChikirin氏は書く。
 確かにそうだ。新聞に掲載されているひとつひとつの記事や論説が、圧倒的に高いクオリティを有しているとは思わない。専門家の目から見れば物足りないものの方が多いだろうと思う。

 ただし、<新聞の論説委員より深い洞察、新聞記事よりも適切なデータ分析、記者の付け焼き刃のようなものとはレベルの違う専門的な知識>は一か所にあるわけではなく、ネット上のいろんなところに、それぞれ無関係に存在する。それらを読もうとする人は、自分自身の手でネット上を丹念に探し、ひとつひとつを熟読玩味し、それぞれの価値を検証しなければならない。そうやってブックマークを充実させ、信頼すべきソースを編集していく。そういう作業を経なければ、ネット上にある良質な知識を利用することはできない。


 そう考えた時、新聞の持つ機能がはっきりしてくる。
 新聞がほかのメディアと異なるのは、すべてがひとつのパッケージになっていることだ。
 世の中の主だった分野の主だった出来事が、そこそこの水準の記事になって、数十ページの新聞という形をとり、毎日発行される。その集合体に継続的に目を通すことで、人は、世の中全般について、そこそこの水準で知識と見識と判断力を持つことができる(ことになっている)。

 と同時に、それが大量に流布されることで、1人だけでなく「そこそこの水準の知識と見識と判断力」を共有する集団が形成される、という現象も起きる。
 この現象を重視する考え方もある。
 たとえばベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』には、印刷技術の発達がナショナリズムと国民国家の形成に大きく影響したことが書かれている。
 マスメディアが出現し、同じテキストを大勢の人が読むこと(そして、大勢が読んだ、と誰もが知っていること)により、直接会ったことも話したこともないけれど自分と同じ知識の体系をもったはずの人々を仲間(国民)と認識するようになった、とアンダーソンは論じる(本が手元にないのでうろ覚えで書いてますが)。
 最近の本では、岡本一郎『グーグルに勝つ広告モデル』(光文社新書)が、これを、新聞が常識を形成する、という表現で書いている(これも同前。あとで確認して引用部を修正するつもり)。

 インターネットでは、それぞれの利用者が自分の知りたいことを知り、知りたいと思わないことについて知る機会は非常に少ない。
 Chikirin氏が書くように、ネット上では<何を大事と思うかは、新聞社ではなく読者が決める>のだが、読者ひとりひとりにとって何が大事かは異なる。任意の何人かが集まった時に、どの程度の共通項が存在するのかは、はなはだ心許ない。
 「それぞれの立場もお考えもあるでしょうけど、とりあえずこれはみんなにとって大事でしょ」というもの(岡本一郎の表現を借りれば「常識」)を、これまでは新聞が提示していた。新聞が崩壊した後で、新聞に代わって、その役割を果たすものが、果たして存在するだろうか。あるいは、新たに登場するのだろうか。

 もちろん、新聞が提示する「これは大事でしょ」という「常識」の品質に、出来不出来はある。もっと大事な分野や、もっと大事な出来事があるだろう、という不満は批判は常にあるだろうし、そのような意見をフィードバックしなければどんどん質は劣化していく。かつてはよくできた「常識」だったかも知れないが、時代の変化に適応できていない、という面も強い。

 ただ、Chikirin氏の関心は、そういう次元ではなさそうだ。
 <新聞はそれぞれの事件なり出来事の「価値判断」をするという特権を持っていた。「彼らが大事だと思ったことが一面のトップで大々的に取り上げられ」、たとえちきりんが「これは大事!」と思っても、新聞社がそう思わなければその記事は葬り去られる。これは絶大な権力であったわけです。>という記述からは、新聞が独自の価値判断を加えた上でニュースを送り出すこと自体に否定的なニュアンスがうかがえる。

 私は、多少精度は落ちてもいいからそこそこの信頼性をもったオール・イン・ワンの情報源があった方が楽でよい、と思っている。自分自身があらゆる分野に精通し、手頃な情報源を探索して、ひとつひとつの信頼性を検証し、日々それらから情報を入手する、というような作業をするのはとても手間がかかって、自分のようなものぐさな人間にはできそうにない。全面的に信頼できなくても、とりあえずの叩き台としてそれを利用できれば、ゼロから自分でやるよりも効率がよい。
 そういう意味で、現行の新聞は(内容に対する不満や要望はいろいろあるにしても)利用価値があると思うし、実際に代金を払って購読している。

 Chikirin氏のように考える人が大勢を占めれば、新聞は衰退し、私は不便をかこつことになる。
 いや、たぶん、不便をかこつことになるのは私だけではない。世の中のすべての人が、自分の力であらゆる分野の信頼できる情報源を見つけてアクセスする能力を持つようになるとは考えにくいので(そうであれば「ググレカス」なんて言葉を目にする機会は非常に少ないはずだ)、そうではない、という前提でこの先の話を進める。

 悲観的な見通しとしては、新聞が担っていた「常識」が世の中に提供されなくなると、人々は今よりもさらに自分の関心事以外には関心も知識も持たなくなっていくだろう(トートロジー気味な表現ですが)。
 現在でも、ネット上で見かける論争には、それぞれが基盤とする知識や見識がそもそも異なっていて話がかみ合わない、というものが少なくないように思うが、その傾向はますます強まることになるのだろう。まわり中すべての人がそれぞれ別の国からきた外国人、というようなことになる。対話や議論が成り立つだけの共通の基盤が失われた世の中というのは、かなり厄介なことになりそうで気が重い。

 一方、少し楽観的な見通しとしては、ネットその他の情報源のうち、どれが重要で、どれが信頼できて、どれとどれに目を通すべきかを教えてくれる、水先案内人のような人物や機関やサイトが登場してくるだろう。それらが、新聞に代わって、新しい「常識」を世の中に提供してくれるかも知れない。

 ただし、インターネットの宿命として、水先案内サイトそれ自体も玉石混交になることは避けがたい。ある個人なり組織なりが主宰する以上、そこで提供される「常識」には彼らの考え方によるバイアスがかからざるを得ない。
 だから、水先案内サイトを利用しようとする人は、どのサイトが信頼できるかを見極めなければならないということになるし、結局のところは、自分の好みに合ったバイアスのかかったサイトを主に利用するようになるのだろう。もっとも、それらが新聞のように寡占的状況を手にすることは難しいだろうから*、新聞が提供してきたほどには、広汎かつ強力な「常識」が形成されることにはならないように思う。
 また、それらにおけるバイアスが、Chikirin氏のいうところの新聞の<権力>と違うものになるのか、あるいは似たようなものになるのかは、よくわからない。


 Chikirin氏のエントリは、
大変なこった。

 そんじゃーね。
という言葉で締めくくられている。

 新聞業界が崩壊するかどうかは、業界人にとっての問題で、それ以外の人には他人事である。

 ただし、新聞が崩壊した後でニュースがどうなるかというのは、むしろニュースの受容者側の問題だ。
 そして、世の中のニュース状況が、ここまで考えてきたようなことになっていくのだとすると、ニュースを読む側の人にとっても、なかなか<大変なこった。>ということになるかも知れない。

*
と書いたが確たる根拠はない。googleのように圧倒的な寡占サイトがこの領域に出現するようだと世の中不気味だなとは思うが。

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地下鉄に閉じこめられるの記。

 都内某区の家を出たのが午前7時40分ごろだった。最寄り駅から地下鉄に乗ったのが7時50分ごろ。3つ目の駅に着く頃に、「銀座線と南北線が運行を停止しています」と車内放送が流れた。どうしたんだろう、と思っていると、まもなく列車がゆっくりと停止した。
「信号機が消えているため、停車しました。原因を調べておりますので、しばらくお待ちください」
 午前8時ちょうどだった。

 頻繁に流れる車内放送は、謝罪の言葉を機械的に繰り返すばかりだったが、やがて断片的に新しい情報が加わってきた。都内広域で停電が発生し、その影響で信号機が消えたということらしい。列車そのものの電源は別系統なのだろう、幸い車内の明かりも冷房も止まることはなかった。
 乗客たちは平静だった。お盆の最中だけに、ふだんの同じ時間帯よりはすいていたが、それでも座席は一杯で、立っている乗客も結構いた。停車して最初の放送が流れると、時計に目をやって、そのままじっとしている人が大半。動揺の色を見せた人は、私の視界の中にはいなかった。

 私自身はいささか困っていた。平常の出勤途上なら、1時間やそこら遅れても特にどうということはないのだが、この日は羽田空港から飛行機に乗って出張しなければならない。航空会社のダイヤを確認したが、予定の便に乗り損ねると、もう出張先の約束の時刻に間に合わなくなる。1か月近くかけて準備してきた仕事が吹き飛びかねない。
 そういえば家から駅に向かう途中の交差点で信号が消えていた。他の路線が止まっている、と車内放送が流れた時にも降りるチャンスはあったはずだ。何の危機意識も抱かないまま、漫然と立ち往生してしまったことを後悔した。
 広域の停電が原因なら、JRなど他の路線に乗り換えてもダイヤは乱れているに違いないし、また止まってしまうかも知れない。直近の駅までたどり着き、地上に出てタクシーで空港に向かうしかない。幸い、お盆で道路はすいているはずだから、9時までに地上に出れば間に合うはずだ。
 そこまでの目算を立てて、時計をみながら事態の推移を待つことにした。

 車内放送では、停電があったという説明だけで、その原因までは知らされない。電力会社の不具合なのか、送電線がらみの事故なのか。折しも、総理大臣の靖国神社参拝をめぐって国内は騒然とし、近隣諸国からは反発を買おうとしている、その前日である。テロなんてことはないだろうな、という考えも頭をよぎる。
 その勢いで、学生時代に読んだ山田正紀の小説を思い出した。『虚栄の都市』(後に文庫版で『三匹の「馬」』と改題)というタイトルで、正体不明の3人のテロリストが東京に潜入し、下水道などを縦横に動き回ってライフラインをズタズタに分断、都市機能は麻痺するが治安当局は手も足も出ない…という暗澹たる話。確か70年代後半に発表された作品だが、その後の情報通信網の発達と、それに対する社会の依存度の大きさは、当時とは比較にならない。受けるダメージもまた比較にならないだろうな、…などと止まった地下鉄の中で考えるのは精神衛生によろしくない。それ以上考えるのはやめにした。

 30分が過ぎたが、状況に変化は起こらない。車内放送は「復旧作業をしておりますが、運行再開の見通しは立っておりません」という文言のほかには話すことがなくなっていた。
 そろそろ潮時だな、と踏ん切りをつけて、私は目の前の壁にあった非常通話装置のスイッチを押した。
 窓は開かないし、自分の位置から見える範囲には非常用ドアコックも見当たらない。さしあたり私にできることといえば、この装置から車掌に話しかけることくらいしかなかった。
 プラスチックのカバーを押し割ってスイッチを押すと、けたたましくサイレンが鳴り、周囲の人々が驚いた表情でこちらを見る。肩身の狭い思いをしつつ、通話可能のランプが点灯するのを待った。

「どうしました?」

 車内放送と同じ声が、うわずった調子でスピーカーから流れてくる。

「いや、特にどうしたということではないんですが、見通しが立たないのなら、最寄り駅まで歩いていくから、降ろしてくれませんか」

「お、お待ちください」

 さらにうわずった調子で通話が切れた。

 まもなく、運転席のドアが開いて運転士が姿を現した(乗り継ぎの都合で、私は先頭車両の最前部に乗っていた)。

 「今の通報はどなたですか?」と問われて、「私です。次の駅まで歩くとか、列車をそこまでつけてもらうことはできないんですか」と話すと、「今、最寄り駅と連絡をとって、そういう手配をしていますので、しばらくお待ちください」と言われた。それなら結構。「わかりました」と答えて推移を待った。まもなく車内放送でも同じ内容が伝えられた。

 推定50歳前後、白髪交じりで丸顔の温厚そうな運転士は、うわずりっぱなしの若い(推定)車掌に比べると、さすがに落ち着いていた。開いたドアはそのままに、その場の乗客たちにもわかるような形で、最寄り駅や運行センターとの交信を続けた。
 最寄り駅から駅員が救援に来て乗客を駅まで誘導する、と話が決まったところで、運転士は運転席前部のドアを開いた。暗い線路の中に非常灯らしい明かりがぽつりと灯っている。私も含めた乗客たちは、カーブの向こうから駅員が姿を現すのを待った。

 駅員がなかなか着かないので、線路から目を離し、つり革に向かってぼさっとしていると、「信号が点いたんだけど、運行できますか」と運転士がどこかに相談する声が聞こえた。駅員が到着する前に、復旧の可能性が出てきたらしい。運行センターとの話し合いがしばらく続いた末、全線の運行が再開されると決まった。
 運転士は乗客にそう伝えると、「ご迷惑をおかけしました。もうしばらくお待ちください」と頭を下げて、運転席のドアを閉ざした。地下鉄の線路を歩くのは正直なところちょっと楽しみだったので、貴重な経験をしそこねて、いささか残念だった。「まもなく運転を再開します」という車内放送の車掌の声ははずんでいた。

 それから5分ほどで列車はゆっくりと動き出した。最寄り駅のホームに滑り込むと、周囲の乗客の多くが携帯電話を取り出し、「停電で地下鉄に閉じこめられちゃって、30分ほど遅れます」などと話し始めた。車内で自分と運転士以外の人の話し声を耳にしたのは、それが初めてだったような気がする。
 ホームに降り、改札で遅延証明書を受け取って、地上に出てタクシーを拾ったのが9時過ぎ。首都高は予想通りすいていて、予定の便には間に合った。

 後で、クレーン船が高圧線に触れたことが停電の原因と知った。建設会社の一社員がうっかりしただけで、これだけの被害が出る。悪意を持っていたらどうなることやら。

 以上が私が遭遇した事件(未満)の一部始終のご報告。最も印象に残ったのは、復旧を待っていた列車内の静けさだ。乗客の誰もがほとんど口を開くこともなく、動きが起こったのも、運転士がドアを開き、「駅員が誘導して最寄り駅までご案内します」と車内放送が流れた時に、若干の乗客が運転席近くに集まった程度。ほとんどの乗客は、終始何のアクションも起こさないままだった(もちろん、結果から言えば、アクションを起こす必要はなかった)。
 これを「パニックを起こさない冷静な国民性」と褒め称えるべきなのか、「座して死を待つ従順な羊の群れ」と憂うべきなのか。私には判断がつかない。どちらか一方に決めつけられるほど単純なことでもないとは思う。

 翌日、出張先から職場に戻り、仕事をした後、地下鉄で帰宅した。前日閉じこめられたのと同じ路線の列車に乗るという段になって、はじめて少しイヤな気分になった。恐怖心というのは、事態が終わった後からやってくるものらしい。それとも、単に私が鈍いだけなのか。

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「馬鹿な若者が自民党を勝たせた」のか?

 東京新聞に「こちら特報部」という見開きの特集面がある。日々のニュースの中から特定の話題について紙幅を割いて紹介する欄だ。見たことのない人は、週刊誌の2〜3ページの特集記事を想像していただけばよい。複数の識者に意見を聞いてコメントを並べただけで掘り下げ不足の日もあるが、拙速を恐れずに旬のテーマを採り上げているので、たいていはそれなりに面白く読める。

 9月13日付のこの欄のテーマは、「若者はなぜ自民党に投票したのか」だった。
 今回の衆院選では、従来あまり投票しなかった「都市部」「若年層」が動いたことで投票率が上がり、その多くが自民党を支持したと言われている。
 記事の中で根拠として示されている共同通信の出口調査によれば、全国11の比例ブロックのうち、20代前半は、北海道を除く10ブロックで自民党支持者が最多だったという。30代の8ブロック、40代の9ブロックより多いと書いてある。20代後半については言及されていないのは何故なのだろうか(笑)。
 と、まあデータはいささか怪しげだけれども、「若者が自民党に投票した」こと自体は、ここでは疑わないことにする。

 記事は2ページにわたっているが、右半分は12日に渋谷と秋葉原の街頭でつかまえた若者のコメント、左半分はいわゆる識者のコメントで構成されている。それぞれをかいつまんで引用する(カッコ内は私が補足した)。


<若者の声>
●22歳・女性・飲食店員/渋谷
「小泉さんがいいと思ったのは、おれは死んでもいいと言ったこと。格好いいなと思った」「いつその言葉を聞いたのかは忘れたけど…命がけでやってるというのが顏から伝わってきた。だから入れた」
(郵政民営化の中身はよくわからないが)「でも分からなきゃ投票しちゃいけないってわけじゃないでしょ。ほとんど分からないままじゃないの?」

●25歳・男性・会社員/渋谷
「ネットでみんなが自民党を支持してた。何となく行かなきゃと思って」

●21歳・不明・コンビニ店員/渋谷
「亀井さんとか自民党の中の悪いのを敵にしてやったんでしょ、今回は。そういうのをズバッと切ったんでしょ。なんかクールっていうか格好いいじゃない」

●20歳・不明・大学生/秋葉原
(岡田は)「小泉さんに比べて本気度が足りないことが透けて見えてしまっていた。手法は強引でも、やっぱり小泉さんの方がリーダーとして頼りがいがある」

<識者の声>
●藤竹暁・学習院大名誉教授
「今の若者は大学に入りたければ苦労せずに入ることができるし、ニートであってもアルバイトする口はいくらでもある。快楽が簡単に手に入り不満も感じていない。一方で、新しい方向性をほしいとも考えている。そんな若者の気質に小泉的な手法がうまく同調した」
(野党は)「政策を訴えるとしながら、小選挙区でやっていたことは自民党と変わらないドブ板選挙。政策、政策という野党の姿勢が浮いてしまった」

●矢幡洋・矢幡心理教育研究所所長
「個人が何か強い決断をするというドラマを好むようになった。特に今の二十代は、いじめ問題をくぐり抜けてきた世代で、目立てばいじめられるため角が立つことに対する恐怖感がある一方で、強い者の決断を、内容を問わずにリスペクト(尊敬)する。つまり思考放棄だ」

●千石保・日本青少年研究所所長
「改革を止めるなっていうキャッチフレーズは若者言葉。元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッションなんだが、ある意味小泉首相自身が若者化していると思う」
「本来ならば外国との関係はどうするのかや、財政問題はどうかといった、いろんなことを考えた上で投票すべきだが、そんな余計なことを持ち出したってスパッと割り切れないから面白くないと排除されるだけ。民主党がテーマにした年金問題は確かに大事な問題だが、若者向けの言葉になじまなかった」


 記事は結論らしい結論を明記してはいないけれど、「こちら特報部」が、「若者が馬鹿だから自民党が大勝した」と考えていることは明白だ。
 東京新聞は従来から市民寄り・人権重視の姿勢が強い新聞だ。社としても個々の記者も、自民党の圧勝をネガティブに感じていることは想像に難くない。だが、だからといって、こんなふうに、はじめに結論ありきの記事をお手軽にでっちあげることで民主党の敗因を糊塗しようという姿勢はいただけない。

 右半分のページ(若者の声の部分)では渋谷と秋葉原の若者の声を紹介している。上に引用した談話のうち、最初の3人は渋谷だ。渋谷では何人と話し、うち何人が自民党を支持したのかは明らかにされていない。
 秋葉原では、声をかけた約30人のうち自民党に投票したと明言したのは、上記談話の1人しかいなかったという。それなら若者の大多数は自民党を支持していないではないか(笑)。
 記事の末尾で、記者は「きちんと意見を話す若者のほとんどが野党の支持者だ。雰囲気から自民党に入れたなと感じられた若者もいたが口は重かった」と総括している。
 たぶん、彼らの口が重かったのは、自民党に入れたと言ったら、この記者に説教されそうな嫌な雰囲気を察したからではないだろうか(笑)。

 後半の識者たちの声も、かなり恣意的な感想というほかはない。例えば、千石保という人の「改革を止めるなっていうキャッチフレーズは若者言葉」という談話には、どのような根拠があるのだろうか。
 彼らの言葉はパターン化された若者像をなぞっているだけで、具体的な裏付けが感じられないし、示されてもいない。「思考放棄」「スパッと割り切れないから面白くないと排除されるだけ」という彼らの言葉は、彼ら自身にもあてはまるように思う。そして、この記事全体に対しても。
 彼らが暗に示している結論そのものは、もしかすると正しいのかも知れないが、仮にそうであったとしても、結論に至る過程が杜撰でよいというものではない。

 この、ある意味でありふれた記事について長々と批判してきたのは、「電波なる日記(改)」というblogの「野党の驕り」というエントリを興味深く読んだばかりだからだ。管理人のホームス氏は22歳の大学生(院生かも)。今回の衆院選で、地元の民主党代議士の選挙運動を手伝った経験を通じて、民主党の敗因を厳しく描き出している。


 例えば、選挙戦術の一つで、旗を持ってみんなで声を挙げながら商店街などを練り歩く、俗に「桃太郎」と呼ばれるものがあるのだが、私はここでもとてつもない違和感を感じていた。掛け声の内容がおかしい。

「サラリーマン増税に反対の(代議士の名)でーす」。
増税反対か。国債の額をみれば増税やむなしの状況のはずだが。国民も既に覚悟している気配があるのに、そんな事いって、実現性を信じてもらえるのだろうか?
「地下鉄7号線延伸を推進する(代議士の名)でーす」。
 何か、利権政治家っぽいな…。
「中学卒業まで子供手当て。(代議士の名)でーす。」
 バラマキにしか聞こえないのですが…。
「政権交代で日本を変えます。(代議士の名)でーす」。
 この状況で政権交代ができるとでも?聞いている人は嘲笑していることだろうな…。

 こんな調子。耳障りの良い言葉ばかり公約に掲げて実現したことのない旧社会党候補みたいだ、と感じていた。 


 彼が働いていた選挙事務所の幹部たちは、公示段階でも極めて楽観的で、「今回の小泉ブームはただの風にすぎない。2週間の内に有権者も気がつくだろう」という空気が事務所内を支配していたという。気がついていなかったのは彼らの方だった、ということだ。

 東京新聞の記事で藤竹暁が「小選挙区でやっていたことは自民党と変わらないドブ板選挙」と話していたことの実態が、まさにこれである。貴重なレポートだ。全国の選挙事務所で同じことが行われていたのなら、大敗は必然だった。

 優れた観察眼と批評眼(と文章力)を備えているホームス氏も22歳、「若者」の1人だ。もし東京新聞の記者が渋谷の街頭で彼に出会っていたら、記者は彼の談話をどう扱っただろうか。少なくとも「こちら特報部」の視野の中に、ホームス氏のような「若者」は入ってはいない。

 私は東京新聞の報道姿勢について、(時々懸念を感じることはあるけれども)基本的には高く評価している。だからこそ、こんなお手軽なでっち上げ記事で、敗因を若者に押し付けてよしとして欲しくはない。この記事からは、ホームス氏が民主党関係者たちに感じたような「驕り」の匂いが漂ってくる。

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再び、小泉純一郎の言葉について。

 以前、「失われた『失言』」というエントリで、小泉純一郎の言葉の使い方について書いたことがある。小泉が首相になってから失言で職を追われる政治家がいなくなったのは、小泉自身が率先して失言しまくっているからだ、という趣旨だった。

 4月に刊行された保阪正康『戦後政治家暴言録』(中公新書ラクレ)は、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、田中角栄、中曽根康弘ら戦後の政治家たちの主な失言・暴言を、その時代背景とともに紹介しているが、保阪もやはり、小泉の暴言を、従来とは質の異なるものだと感じているようだ。小泉だけでなく、小泉政権下で石原都知事や田中真紀子やその他の政治家たちが口走ったさまざまな暴言・失言を分析した後、本書の末尾近くに保阪はこう記す。

「この社会から真面目に討論する、議論するという姿勢が失われてしまったために、用いられる言葉はますます限られてきて、言論はしだいに死滅していく。政治家にとっても、言葉は命綱ではなく、サービス業者がしばしば用いるおためごかしのツール(道具)と化しているという時代に入っている。」

「政治家と有権者の間の緊張感は常に必要である。その緊張感から逃げているのは有権者である私たちなのかもしれない。だから政治家は言論を軽視し、有権者と握手をし、泣を涙し、絶叫すれば当選するとの錯覚をもつのだろう。その錯覚が、小泉政権下の政治家の暴言・失言につながっていると見れば、私たちは不気味な時代に生きていると気づいてくるではないか。」

 政治家の言葉が「おためごかしのツール」であるのは今に始まったことではないから、ここに引用した保阪の見解は、小泉純一郎に対する説明としては、いささか古臭く感じられる。
 むしろ、そういう嘘臭い政治家たちの中では、彼の言葉が異彩を放っていたからこそ、小泉は多くの人々に支持された。そして、その魅力は今回の選挙でも発動され、再び人々の心を捉えている(少なくとも現時点での世論調査結果においては)。

 だが、例えば「郵政改革さえできずに、どんな改革ができるというのか」という類いの彼の言葉の「強さ」は、国会でイラクのどこが非戦闘地域なのかと問われて「そんなこと今私に聞かれたってわかるはずがない」と答弁した時の、身も蓋もない「強さ」と、どこか似通っている。
 彼の言葉の「強さ」は、事態を極限的に単純化することから生まれる。それは、議論を矮小化し、人々の注意を一点に引きつけ、相手の言葉を無力化するための武器として用いられる時、強い威力を発揮する。それ自体は、彼の政治家としての能力の高さを示すものと言えるだろう。
 だが、彼の言葉は、議論を深め、新しい何かを生み出す方向には向かおうとしない。彼の言葉は、自分と他者との間に線を引き、自分を丸ごと受け入れる者だけを認めることで、人々を峻別する方向に向かう。むしろ、公約不履行を問われて「この程度の約束を守らないことは大したことではない」と答えるような杜撰な言葉を繰り出すことは、「それでも自分を選べ」と人々に踏み絵を踏むことを迫っているような印象さえ受ける。

 小泉の前任者である森喜朗も失言の多い首相だったが、それはあくまで森自身の人間性に属するものでしかなかった。
 しかし、小泉の言葉の軽々しさ(具体例については『戦後政治家暴言録』や前エントリをご参照いただけれ幸甚)は、ひとり小泉の人格にとどまらず、首相という地位や国会という場を無力化していく力を備えているように思えてならない。それらの発言は正式な答弁として記録され、前例としてスタンダード化していくことになる。彼の後任者たちが似たようなことをやりはじめた時、止めることは難しくなる。

 8月に衆院が解散してから、郵政民営化の是非であるとか、小泉政権が残してきた実績であるとか、「小泉改革」と呼ばれるものの内容が米国政府から要求されている「年次改革要望書」とどれだけ似ているかとか、いろんなことについて浅薄ながらも考えてきた。

 だが、結局のところ私にとって、小泉純一郎とは「構造改革者」や「郵政民営化論者」や「靖国参拝者」である以前に、「言語を紊乱する者」である。
 言葉というものの重み、議論というものの意義を、これほど強い影響力をもって破壊し続けている人物は他にいない。石原慎太郎や田中真紀子の暴言とは次元が違う。私には、それが怖い。

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今日が日本の敗戦記念日。

 日本が第二次大戦に敗北した日は、何月何日でしょうか。

 そう問われたら、ほとんどの日本人が8月15日と答えるだろうと思う。
 8月15日は、昭和天皇が敗戦を受け入れることを、ラジオ放送を通じて国民に呼びかけた日だ。いわゆる「玉音放送」である。

 昭和天皇と日本政府がポツダム宣言を受諾することを決め、連合国軍に向けてその旨を通告したのは8月14日。そして、東京湾までやってきたアメリカの戦艦ミズーリ号の上で、日本の代表が降伏文書に署名したのは、今日9月2日だ。
 イラク戦争のように敗戦国の政府が瓦解して降伏する主体が存在しない場合には、戦争の終わりを特定するのは難しい。しかし、日本の場合はそうではなく、極めて明瞭な形で日付が特定できる。アメリカ合衆国は今でも日本に対する戦勝記念日(VJ-Day)を9月2日としている。

 それなのに日本人が「8月15日」を「終戦記念日」にしているのはなぜか、という問題については、佐藤卓己『八月十五日の神話』(ちくま新書)が詳細に分析している。一言でいえば、それは戦後メディアが作り上げた「神話」だ、というのが佐藤の考えだ。そして、メディアがなぜそうしたかといえば、旧盆という死者を追悼する伝統行事との結びつきが大きい、と佐藤は考えている。卓見だと思う。

(スポーツ系blog(笑)としての関心から言えば、夏の甲子園もまた事実上お盆の行事の一環であり、それ故に坊主頭や女人禁制が長年守られ、頑ななまでの倫理性が要求されるのだ、という佐藤の考えは傾聴に値する。ただし、旧日本軍が、上官が理不尽に一兵卒を殴りまくることが日常化した組織であったことを考えると、甲子園の優勝校で部長が部員を数十発殴っただけで優勝を取り消すの取り消さないのという騒ぎになるのは、いささか皮肉な現象でもある)


 「8月15日」を「終戦記念日」とする風習には、2つの点で、まやかしがある。

 ひとつは、上述の日付の問題。
 戦争には必ず敵が存在する。敵がなければ始まらないし、終わりもしない。その意味で戦争とは、徹底的に国際関係の中に起こる現象である。
 だが、「玉音放送」をもって戦争の終結とする認識の中に、相手国は存在しない。あれは日本国民に向けた内輪の宣言であり、対戦国に対するものではない。「玉音放送」がそのまま世界中に放送されたと思っている人はいないだろうが、ではアメリカやイギリスや中国はいかにしてそれを知りえたのか、という疑問は、例えば甲子園の黙祷中継の中からは生まれようがない。

 もうひとつは「終戦」という言葉の持つニュアンスだ。
 「終戦」は、勝敗に対してニュートラルであり、まるで自然現象として戦争が勝手に終わったかのような印象を与える。「敗戦」の苦々しさは、そこからは綺麗に漂白されている。
 日本がアメリカと戦争をして敗けたことを知らない若者が一定数存在するらしいという噂をしばしば耳にするが、これが「敗戦記念日」と呼ばれていれば、少なくとも日本が戦争で敗けたことだけは自動的に認識されるはずだ。

 この2つのまやかしに共通する心性は、「徹底的に内向き」であることだ。日本人の外交感覚の欠如は、例えばこのような事象によって日々涵養されているのだろうと思う。

 8月15日に黙祷を捧げることをやめろとは言わない。死者を悼む儀式は必要だ。上述の本の中で佐藤卓己は「ひとまずは戦争責任の議論と戦没者の追悼は、その時空を切り離して行なうべきだと考える。そのためには、お盆の『8月15日の心理』を尊重しつつ、夏休み明けに『9月2日の論理』をもつべきだろう」と書いている。
 「八月一五日を『戦没者追悼の日』、九月二日を『平和祈念の日』としたい。八月一五日のお盆に慰霊供養を行い、九月二日には近隣諸国との歴史的対話をめざすべきだ、と私は考える。すなわち、民俗的伝統の『お盆=追悼』と政治的記憶の『終戦=祈念』を政教分離するのである」
 9月2日の存在を国民に認識させることが、まず必要だと私も思う。8月15日だけでは足りない。

 偉そうに書いてきたが、私自身も、敗戦が確定した日が9月2日であることをはっきり認識したのは、つい数年前に過ぎない。私が間抜けなだけならよいけれど、そういう人が圧倒的に多いのだとしたら、それはやはりいささか間違ったことだと思う。今日のテレビ欄に、敗戦に関する特集番組は見当たらない。8月15日前後には、あんなにたくさんあったのに。

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戦争を知らない世代が語る戦争のリアリティ。

 知人に紹介されて、こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社)という漫画を読んだ。
 広島に落とされた原爆をテーマにした漫画だが、このテーマで誰もが頭に浮かべるであろう中沢啓治『はだしのゲン』とは、ずいぶんと肌合いが違う。

 100ページあまりの薄い単行本は、3つの短編で構成されている。
 「夕凪の街」は、昭和30年の広島が舞台だ。主人公のOL皆実は、原爆で父と姉と妹を失い、家も失って、老いた母と2人、「原爆スラム」と呼ばれるバラック街で暮らしている。一家には幼い弟もいるが、水戸の伯父夫婦に預けられて暮らすうちに、本人と伯父夫婦の希望により養子になった。
 皆実は、靴をすり減らさないために会社の行き帰りを途中まで裸足で歩くほどの貧乏ではあるが、それなりに穏やかな日常を過ごしている。しかし、それは表面上のことに過ぎない。ささやかな幸福に恵まれそうになると、心の奥にしまい込んでいた感情が噴き出してくる。大勢の人を見殺しにし、遺体をまたぎ、時には遺品を盗んで生き延びてきたという罪悪感。みんな死んでしまったのに自分だけが生き残ったという不条理。

 “しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
  愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思いだし
  すべて失った日に引きずり戻される
  おまえの住む世界はここではないと 誰かの声がする”

 そんなトラウマを乗り越え、ようやく幸福をつかもうとした皆実を、しかし、“誰か”は見逃してはくれなかった…。

 「桜の国」(一)(二)は、そこから数十年を経た次の世代、皆実の弟の子供たちの物語だ。(一)は1987年、(二)は2004年という「現代」に生きる子供や若者たちの何気ない日常の奥底に、今も原爆という古傷は刻みつけられたままであり、ちょっとしたきっかけで鮮血を滲ませるのだ、ということを思い知らされる。60年の時を経ても、原爆はいまだに一家につきまとうことをやめてはくれない。

 作品の中には、静かな時間が流れている。登場人物たちは、声高に叫んだり、訴えたりはしない。それぞれが、背負わされてしまった過酷な運命にかろうじて折り合いをつけながら生き続けている。彼らは誰も責めはしないけれども、そのやりきれない哀しみは、どんな大きな叫びよりも、読む者の心に沁み通ってくる。

 こうの史代は1968年生まれ。広島市出身ではあるが、肉親に被爆者がいるわけではない。あとがきには、「原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に『よその家の事情』でもありました」とある。それでも、広島で生まれ育った以上、さまざまな形で原爆について知らされながら育ってきたにも違いない。

 腰巻きに記された、みなもと太郎の推薦文に、こんな一節がある。
「これまで読んだ多くの戦争体験(マンガに限らず)で、どうしても掴めず悩んでいたものが、ようやく解きほぐせてきた思いです。」
 それがこうのの力量によることはもちろんだが、同時に、1968年生まれの漫画家が21世紀に描いた、という時代背景に与るところも大きいのではないかと思う。


 今年に入ってから、若い世代の手による戦争ルポをいくつか目にした。
 西牟田靖『僕の見た「大日本帝国」』(情報センター出版局)は、70年生まれの著者が、サハリン、台湾、韓国、北朝鮮、旧満州、ミクロネシアなど、かつて日本の統治下にあった土地に残る「大日本帝国」の痕跡である建造物を訪ね歩くノンフィクション。
 下道基行『戦争のかたち』(リトルモア)は、78年生まれの著者が、トーチカ、掩体壕、砲台など日本国内に作られた軍事施設の跡を訪ねて撮影した写真集だ。
 それぞれに新鮮な印象を受けた。それはおそらく、著者たちがこの戦争についてあまり多くを知らず、自分の目に映ったもの、自分が人々から聞いたことだけを積み上げて作品を構成したことから来ている。

 「夕凪の街」では、ある登場人物が原爆の放射能によって被爆の10年後に命を失う。脚注のような「解説」で、こうのはそのことについて「原爆症は、被爆後数年経って発症する事が珍しくありません。(中略)説明不足でしたので補足させて頂きます」と書いている。
 単行本にこのような解説が載るということは、雑誌掲載後に、死因は何だったのか、という問い合わせでもあったのだろう。1964年生まれの私は、この作品を読んでそれが理解できない読者がいる、ということに驚きを覚える。私の年代では、それは常識のうちだったが(こうのにとってもたぶんそうだ)、今はそうではない世代がいるということだ。

 西牟田や下道も、ひょっとするとそれに近いレベルで、第二次大戦についての知識を欠いているのかも知れない。だが、その知識の欠落は、彼らの作品にとって決してマイナスになってはいない。むしろ、それが新しい価値を生み出しているように私には思える。

 実際に第二次大戦を経験した人々による手記や経験談、経験をもとにした議論は、すでに大量に存在する。私がこれまで接し、この戦争に関する知識や意見を形成するもとになったのは、そういう文献や資料、創作物(映画やテレビ番組、漫画を含む)だ。
 それらのほとんどすべては、強く強く何事かを「訴える」ものだった。この戦争を肯定する立場であれ、否定する立場であれ、書き手の情念やイデオロギーを「訴える」という面においては共通していた。極端に言えば、はじめに「訴え」があり、それを裏付ける形で事実がついてくる。そんな印象さえ受けることが多かった。とりわけ学校教育の場で戦争について教えられる場合には、あらかじめ定められた感想(「戦争はいけないことだとおもいます」「いのちは大切にしなければいけません」)に向かって誘導されることが常だった。

 それ自体が誤ったことだとは言わない。ただ、「訴える」ことを最優先にしていた人々にとって、共通経験であり自明の理であり説明するまでもなかった諸々の体験を、ある時期以降の日本人は共有していない。私の親は子供時代に起こった戦争を記憶しているけれど、西牟田や下道の両親は戦後に生まれたか、戦争をほとんど記憶していない可能性が高い。60年経てば、ほぼ2世代が入れ替わる。自分が戦争を体験していないだけでなく、「身近に戦争体験者がいたことがない」という世代が、すでに社会の一定部分を占め始めている(下のエントリーで書いた「『戦争を知らない子供たち』の子供たち」だ)。

 そういう人間に何かを伝えようとする時に、いきなり「訴える」ことは、必ずしも有効ではない。大切なのは、まず知らせることだ。知識の欠落は埋めることができる。むしろ、知らないがゆえに、彼らは戦後60年の間に支配的だったさまざまなイデオロギーの洗礼をも受けておらず、彼ら自身が調べた事実にニュートラルに向きあうことができたのではないだろうか(知識の欠落が、イデオロギーの洗礼に対して抵抗力を持たないという弱点になる可能性もあるかも知れないが、彼らにおいてはそうなってはいない)。
 読む人によっては、彼らの作品は問題意識を欠き、物足りないように見えるかも知れない。だが、西牟田や下道の作品には、「問題意識」が横溢した既存の文献にはない、2005年なりのリアリティがある。それは、同じように知識を持たない若い世代や未来の日本人たち、そして日本人以外の人たちに対しても力を持ちうる種類のリアリティであるように感じられる(みなもと太郎の推薦文も、そういうことを言っているのではないだろうか)。

 戦後60年という年月を経て、この国では、ようやくさまざまな呪縛を離れて、戦争について考え、語ることができる土壌が生まれてきたのかも知れない。
 30年というサイクルを2度も経験している小野田寛郎元少尉(敗戦後も29年間にわたって戦い続け、帰国後にブラジルに移住してから30年が経った)を取り上げたテレビ番組が相次いで制作されたのも、そのことと無縁ではないように思う。

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星新一のメディア・リテラシー論。

 一世を風靡した小説家でも、世を去って数年経つと、書店から著作が消えてしまう、ということはよくある(だからといって価値がない、とは限らないのだが)。一方で、何年経っても文庫の棚に一定の地位を占め続ける小説家もいる。SF作家の星新一は、後者に属しているようだ。

 70年代を小中学生として過ごした私は、本を読む習慣を持つ同世代の人たちの多くがそうであるように、星新一の著作を浴びるように読んで育った。そして、この世がままならぬことばかりであること、人生がほろ苦いことを教え込まれた(手塚治虫についてもそうだが、星の著作を「子供に夢と希望を与えた」と形容する人がいるというのが、私は不思議で仕方ない)。

 現在でも新潮文庫をはじめ、いくつかの文庫で彼の著作を読むことができるようだが、カタログを見ると、収録されているのは小説ばかりだ。私は彼のエッセイが好きだった。

 実物が手許になく、上述の理由で再入手も難しそうなので、うろ覚えの記憶で書くしかないのだが、印象に残っている記述がある。幼い頃、彼が父だか叔父だかに、どこかの名所旧跡を案内された時の思い出として書かれていた一節だ。
 星の父(か叔父)は、幼い星のために、名所の案内板に書かれた解説文を読み上げては、最後に「…ということになっとる。」と付け加えるのが常だったという。
 公の権威ある情報として記されている情報であっても、鵜呑みにはしない。かといって、無闇に疑ってかかるのでもない。「一応は書いてあることを受け入れるけれど、間違っているという疑いを捨てるわけではない」という姿勢を、「…ということになっとる。」の一言は示している。
 
 SFの特徴は物事を相対化して見ることにあるのだ、と星は書いていた。誰もが何の疑いもなく信じている前提を崩してみたらどうなるか。確かに、星が書いていた小説は、そんな一種の思考実験が多かった。そんな文脈の中で、このエピソードも紹介されていたと記憶している。

 メディア・リテラシーと呼ばれるものの要諦は、この「…ということになっとる。」にあるのではないかと私は思っている。
 新聞を読み、ニュースを聞いて、「…ということになっとる。」と言った後はどうなるか。自分で考えるしかない。
 この記事ではこういうことに「なっとる」、でも次の記事ではああいうことに「なっとる」、ちょっと辻褄が合わんぞ……。
 ひとたび「…ということになっとる。」と呟いてしまったら、そこから先は、あらゆるニュースを付きあわせて検証しながら読まざるを得なくなる。これは、ものすごく面倒くさい。

 「…ということになっとる。」は、判断を留保するということだ。
 入力した情報を確定せず、修正可能なままにしておく。コンピュータ上でそういうことをやりすぎると、ものすごくメモリを食う。データを確定してハードディスクに保存していかなければ、いずれパンクしてしまう。
 人の脳でも事情は同じだ。人間が物事を信じやすくできているのは、脳のワーキングメモリの負担を軽減するためだと聞く。「とりあえず信じる」という形で処理していかなければ日常生活が立ち行かなくなるし、火急の際に判断が遅れかねない。

 だから、限度はある。あるけれど、それでもニュースに接するたびに、「…ということになっとる。」と心の中で呟いてみることは、無駄ではない。
 ひとつの情報源を鵜呑みにせず、自分なりに検証したうえで、納得できれば受け入れる。そこまで手間をかけていられない場合は信用しておくが、「とりあえず」という留保を忘れない。その面倒くささに耐えて、はじめて自分なりに世界を把握することができる。

 …というようなことを、私は星新一から教わったつもりでいる。実際に星が、新聞やテレビに接する時に「…ということになっとる。」と思いなさい、と勧めていたかどうかについては、あまり記憶に自信がないけれど、このところメディアについていくつか書いたり議論したりしていてこの挿話を思い出したので、とりあえずまとめておく。

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