対象となっている本を読まずとも意見を書く気を起こさせてしまうのがブログというものではないんでしょうか。
私ははてな市民ではないが、はてなブックマークは時々見る。
もともとは自分の書いたエントリがそこであれこれ言われていることをアクセス解析で発見したのが、はてなブックマークとの出会いだった。初めて見た時は、批判コメントも結構多いエントリだったので、よってたかって陰口を叩かれてるようなイヤな気分になったが、仕組みがわかってくれば慣れてくるし、それなりに動揺は収まる(ま、そもそも私の書くものにつくブックマークが2ケタになることは稀だし)。
今は自分のブログへのブックマークよりも、折々に何が話題になっているかを知るために参照している。
で、このところ、梅田“ウェブ進化論”望夫氏のブログとtwitterでの発言が注目を集めているのが目についた。
ご存知でない方のためにかいつまんで経緯を説明すると、梅田氏が自身のblog「My Life Between Silicon Valley and Japan」で、水村美苗の著書「日本語が亡びるとき」を紹介したのが発端(エントリのタイトルは<水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。>)。
梅田氏はとにかくこの本に感激したようで、このエントリで絶賛している。
<内容について書きだせば、それこそ、どれだけでも言葉が出てくるのだが、あえて今日はそれはぐっとこらえておくことにする。>と書いているけれど、そうはいいつつも内容にも触れており、その紹介の仕方に、梅田氏の本書に対する思い入れが色濃く反映している。こらえきれてないと思う(笑)。
で、このエントリに対して、はてなブックマークでは数多くのコメントがついた。批判的なものもそれなりの割合で含まれている(が、そうでないものも結構ある)。
これらのコメントが梅田氏にはお気に召さなかったらしく、twetterで以下のような文章を公表した。
<はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。>
で、こっちの方には再びはてなブックマークで、今度はかなりの批判や反発が集中している。
はてなブックマークのコメント内容の是非を論じようとは思わない。梅田氏に好意的なもの、中立的なもの、理性的な批判、単なる悪口に近いもの、いろいろ混ざっている。
そこに<バカなもの>が<多すぎる>かどうかは、梅田氏の主観に基づく判断だから、妥当性を云々しても仕方がない。仮に500件のコメントの10%が、誰の目にも<バカなもの>だとしても、10%だから少数派と考えるか、50件もつくのは多すぎると考えるかは、考える人次第だ。
私が気になったのは、梅田氏がtwitterに書いた文章の後半だ。
<本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。>
梅田氏は元のブログのエントリにこう記している。
<多くの人がこの本を読み、ネット上に意見・感想があふれるようになったら、再び僕自身の考えを書いてみたいと思う。>
しかし、現実には彼が望んだようには(まだ)ならず、ネット上に「日本語が亡びるとき」への意見や感想があふれる前に、彼のエントリに対する意見・感想があふれることになった。彼はそれがお気に召さないようだ。
梅田氏はアルファブロガーにしてベストセラー作家であり、ネット世界でも現実世界でもかなりの影響力を持つ論客だから、こういう言動は彼にとって自然なものなのかも知れない。
が、私はこういう物の考え方には違和感を覚える。理由は二つある。
第一に、文章というものは、ひとたび公表してしまったら、読まれ方や反応を書き手が制御することはできない。
梅田氏が「自分のエントリを読んだ人には『日本語が亡びるとき』を読んで感想をネットに発表してもらいたい」と望んだからといって、読み手がその通りの行動をとるとは限らない。梅田氏の希望に沿って動く人もいれば、そうでない人もいる。それを決めるのは読み手であって書き手ではない。
読み手が意図したように動いてくれない時に書き手がすべきことは、己の文章の力不足を反省することであり*、あるいは別の表現で効果が出るまで働き掛けることであって、読み手を批判することではない、と私は思っている。
第二に、ブログというメディアの形式そのものが、個別のエントリに書かれたことだけに対する反応を誘発するようにできている(こういうのをアフォーダンスというんでしょうか)。はてなブックマークも同様だ。
ブログがそれ以前に存在したウェブサイトと異なっていたのは、個々のエントリごとにコメント欄があり、トラックバックが可能で、直リンクを貼ることができる、というような点にある。
そのためブログにおいては、どのようなコンセプトで作られ、書き手が何者で、これまでどういう言説を積み上げてきたか、ということと無関係に、リンクをたどって、あるいは何らかの検索語を頼りに、そのエントリだけを訪れて、そのエントリだけを読み、そのエントリだけに反応する、という読み手が現れることになる。
エントリそのものをろくに読まずに文句をつける人や、エントリ内に紹介されたリンク先にさえ目を通さずに批判的コメントを書く人は、この世界の中に大勢いる。そういう世界で、金を出して(借りてもいいけど)本を買って全部熟読してから物を言え、というのは非常に高いハードルだ。事の是非は措くとしても、望み通りの反応が多数派を占めるとは考えにくい。
また、梅田氏の当該エントリは、ブログのエントリとして発表された時点で、そこで話題にしている本とは別に、それ自体が独立した作品となっている。従って、そのエントリ自体も論評の対象になることは避けられない。
だから、<本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。>という疑問に対する回答は簡単だ。ブログというメディアがそういう気を起こさせるようにできているからだ。
もちろん、ブログ主が、明白な誤読を含むようなコメントに対して「原著にはこう書いてあるのだから、あなたの意見は前提が間違っている。原著を確認されたし」というような反論を加えるのは正当なことだ。「元の本を読まずに間違った前提で批判すること」全体を批判するのもよしとしよう。それを<バカなもの>と呼びたいなら、それはそれで結構だ。
だが、「本を読まずに意見すること」自体を批判するのは、少なくともブログの世界では通用しないように思う。
実際、当該のエントリには、梅田氏自身の意見や紹介の仕方など、原著にはない要素が色濃く含まれており、善くも悪くも「梅田氏の文章作品」になってしまっている。決して<本を紹介しているだけのエントリー>ではないのだから、それに対して何らかの意見を抱く人が現れるのは自然な反応だ。
はてなブックマークの仕組みにも同じことが言える。
ブックマークしている側は、そもそも元のエントリの書き手に読ませるつもりでコメントを書いているわけではない(ことが多いらしい)。だが、ひとりひとりは私的なメモのつもりで書いたかもしれないコメントが、当該エントリについたブックマークのページとしてまとめられると、大勢でよってたかって噂や悪口を書いているように見えてしまう。はてなブックマークへの批判と、それに対するはてな市民からの再反論が噛み合わない原因のひとつはそこにある。** そもそも<バカなもの>が発生しやすい仕組みになっているのだ。
梅田氏の反応には、そういう意味では「今さら何をおっしゃいますか」と思わないでもない。あなたが絶賛してやまなかった「はてな」というサービスは、ずっと前からそういうものだったじゃないですか、と。
私のような、プログラムも書けず、仕組みも判らずに、ただ提供されたサービスの上で文章を書いているだけの無知な人間から見れば、インターネットの世界を知り尽くしているように見える梅田氏に、なぜその程度のことがわからないのか(あるいは、わかろうとしないのか)、とても不思議だ。
ちなみに、問題の「日本語が亡びるとき」も駆け足で読んでみた。興味深い本だとは思うが、梅田氏がそこまで興奮するようなものなのかどうか、私にはあまりピンと来なかった。
英語が普遍語としての存在感をどんどん増していくと、<放っておけば日本語は、「話し言葉」としては残っても、叡智を刻む「書き言葉」としてはその輝きを失っていくのではないか>(梅田ブログより)という問題意識は理解できる。
だが、本書を読む限り、水村が日本語の「輝き」として至上の価値を置いているのは日本の近代文学のようだ。その価値は絶対的で検証不要なものらしく、本の中で論証されることもない(日本語の素晴らしさが語られている部分はあるが、今の小説がダメなことは自明とされており、近代文学と現代小説の違いは、口語体と文語体の違いくらいでしか説明されない。それが重要なのだと言われればそれまでだが)。近代文学は理屈抜きで偉く、現代文学は理屈抜きで無価値らしい。
私が水村の危機感を共有できないのは、私が無学かつ不調法にも近代文学の値打ちがわかっていないからなのだろう(水村作品を読んだこともなかったし)。もともと、文学は特権的に偉いのだ、という態度を取る人を前にすると、とりあえず三歩くらい引いてしまう癖が私にはある(日本語を使う者として古典を尊重する気持ちはあるし、教養の足りない己を恥じる気持ちもあるが)。
水村が本書の中で、日本語を救う方法として提唱している政策自体は肯定するが、それによって、本書が危惧するような日本語の危機を救えるのかどうか(つまり、対英語のうえで効果があるのか)は、これまたピンとこない。
そもそも、古典や近代文学が読まれなくなったのは、英語が普遍語になってきたせいなのだろうか? 水村が尊重してやまない「文学」とは、もともと日本国民のうちでも少数の人々が愛好してきたものだったし、今でもそうだということなのではないだろうか(ここは検証の必要があるが)。それなら英語エリートよりも日本語エリートを養成することが先だ。裾野を拡げるという意味で多くの子供に古典や近代文学を叩き込むのも意味のあることだとは思うけれど。
(というように考えていくと、このブログでよく扱ってる野球やサッカーの若年層への普及の話題に似てくるのだが、文学がスポーツや音楽より貴い、とは私は必ずしも思っていない。スポーツや音楽が養ってくれる非言語コミュニケーションは、人が生きていく上で、言語コミュニケーションと同等かそれ以上に大切なものだと思う)
私には、同じ本について書かれた小飼弾氏のエントリの方が納得しやすい。ちなみに弾氏は<文化的教養に欠ける私は、「文明的」にそれを主張することができるが、著者のようにそれを文化的に主張することが出来ない。>と書いている。私には「文明的」な説明の方がわかりやすいようだ。
また、水村の本で言語学について言及した部分では、言語社会学の知見に対する敬意がいささか不足しているような印象も受ける(私もこの分野に詳しいわけではないので偉そうなことは言えないが。この点については少し勉強してみようと思う)。
ちなみに、梅田氏のもとのエントリは、水村について次のように説明している。
<水村美苗という人は寡作の作家なので、僕のブログの読者では知らない人もいるかもしれないが、五、六年に一度、とんでもなく素晴らしい作品を書く人だ。本書は「本格小説」以来の、水村作品を愛好する者たちにとっては待望の書き下ろし作品であるが、その期待を遥かに大きく超えた達成となっている。>
この文章からわかるのは、梅田氏が水村作品を愛好しているということだが、水村作品のどこがどのように素晴らしいのかはまったく判らない。梅田氏の価値判断を尊重する人なら「そうか、きっと素晴らしいんだな」と思うだろうし、そうでない人にとっては、何だかよく判らないままだ。ここまで書き手がファン意識を前面に出していると、水村作品に接したことのない読み手には、「すべての日本人がいま読むべき」という主張が素直に受け取りづらくなる。
だから、<本を紹介しているだけのエントリー>としても、この文章はあまり成功していないように思う。
結局、私もエントリーについて意見を書いてしまいましたが、本は一応読みましたのでご容赦を(笑)。
追記(2008.11.11)
「日本語が亡びるとき」の書評もネット上にぼつぼつ見られるようになってきた。現時点で、私がもっとも傾聴すべきと感じたのは【海難記】というblogに書かれたこちら。私が上に書き散らした疑問点のいくつかも含めて明晰に論じられ、たいへん説得力がある。<なにより許せないのは、現在の日本で日本語で書いている作家たちに対する、彼女の徹底的な侮蔑であり、その侮蔑のベースにある無知である。>というくだりに、ほぼ同感。
梅田氏は、このような本格的な(水村本への)批判を踏まえた上で、これに対抗しうる<僕自身の考え>をご自分のblogに書くべきだろう。
*
このケースについていえば、たとえば「日本語が亡びる」という概念を取り違えた批判的コメントが結構あるけれど、梅田氏のエントリの中で、水村が考える「亡びる」の意味は、後ろの方にさらっと記されているだけで、明示的に説明されてはいないので、誤解する人、わからない人が多少いても仕方ないかな、という印象は受ける。
**
はてなブックマークに関しては、彼自身が取締役として、その仕組みを作る(変えうる)側にいるのだし、しかもかねてから批判の多い仕組みを改良する試みが行われている最中なのだから、<立場を離れて>利用者を批判するという振る舞いは感心しない。しかも、はてなじゃない別のところでの発言だし(「立場を離れて」というのはそういう意味なのか?)。
ま、「ウェブ進化論」などを読む限り、おめでたいくらいにネット性善説の立場をとり続けているように見える梅田氏(戦略的にそうしているのだろうとは思うが)にして、この程度のことでキレてしまうというのは、なかなか興味深い出来事ではある。
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