対象となっている本を読まずとも意見を書く気を起こさせてしまうのがブログというものではないんでしょうか。

 私ははてな市民ではないが、はてなブックマークは時々見る。
 もともとは自分の書いたエントリがそこであれこれ言われていることをアクセス解析で発見したのが、はてなブックマークとの出会いだった。初めて見た時は、批判コメントも結構多いエントリだったので、よってたかって陰口を叩かれてるようなイヤな気分になったが、仕組みがわかってくれば慣れてくるし、それなりに動揺は収まる(ま、そもそも私の書くものにつくブックマークが2ケタになることは稀だし)。
 今は自分のブログへのブックマークよりも、折々に何が話題になっているかを知るために参照している。

 で、このところ、梅田“ウェブ進化論”望夫氏のブログとtwitterでの発言が注目を集めているのが目についた。

 ご存知でない方のためにかいつまんで経緯を説明すると、梅田氏が自身のblog「My Life Between Silicon Valley and Japan」で、水村美苗の著書「日本語が亡びるとき」を紹介したのが発端(エントリのタイトルは<水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。>)。

 梅田氏はとにかくこの本に感激したようで、このエントリで絶賛している。
<内容について書きだせば、それこそ、どれだけでも言葉が出てくるのだが、あえて今日はそれはぐっとこらえておくことにする。>と書いているけれど、そうはいいつつも内容にも触れており、その紹介の仕方に、梅田氏の本書に対する思い入れが色濃く反映している。こらえきれてないと思う(笑)。

 で、このエントリに対して、はてなブックマークでは数多くのコメントがついた。批判的なものもそれなりの割合で含まれている(が、そうでないものも結構ある)。

 これらのコメントが梅田氏にはお気に召さなかったらしく、twetterで以下のような文章を公表した
<はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。>

 で、こっちの方には再びはてなブックマークで、今度はかなりの批判や反発が集中している


 はてなブックマークのコメント内容の是非を論じようとは思わない。梅田氏に好意的なもの、中立的なもの、理性的な批判、単なる悪口に近いもの、いろいろ混ざっている。
 そこに<バカなもの>が<多すぎる>かどうかは、梅田氏の主観に基づく判断だから、妥当性を云々しても仕方がない。仮に500件のコメントの10%が、誰の目にも<バカなもの>だとしても、10%だから少数派と考えるか、50件もつくのは多すぎると考えるかは、考える人次第だ。


 私が気になったのは、梅田氏がtwitterに書いた文章の後半だ。

<本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。>

 梅田氏は元のブログのエントリにこう記している。
<多くの人がこの本を読み、ネット上に意見・感想があふれるようになったら、再び僕自身の考えを書いてみたいと思う。>

 しかし、現実には彼が望んだようには(まだ)ならず、ネット上に「日本語が亡びるとき」への意見や感想があふれる前に、彼のエントリに対する意見・感想があふれることになった。彼はそれがお気に召さないようだ。


 梅田氏はアルファブロガーにしてベストセラー作家であり、ネット世界でも現実世界でもかなりの影響力を持つ論客だから、こういう言動は彼にとって自然なものなのかも知れない。
 が、私はこういう物の考え方には違和感を覚える。理由は二つある。

 第一に、文章というものは、ひとたび公表してしまったら、読まれ方や反応を書き手が制御することはできない。
 梅田氏が「自分のエントリを読んだ人には『日本語が亡びるとき』を読んで感想をネットに発表してもらいたい」と望んだからといって、読み手がその通りの行動をとるとは限らない。梅田氏の希望に沿って動く人もいれば、そうでない人もいる。それを決めるのは読み手であって書き手ではない。
 読み手が意図したように動いてくれない時に書き手がすべきことは、己の文章の力不足を反省することであり*、あるいは別の表現で効果が出るまで働き掛けることであって、読み手を批判することではない、と私は思っている。


 第二に、ブログというメディアの形式そのものが、個別のエントリに書かれたことだけに対する反応を誘発するようにできている(こういうのをアフォーダンスというんでしょうか)。はてなブックマークも同様だ。

 ブログがそれ以前に存在したウェブサイトと異なっていたのは、個々のエントリごとにコメント欄があり、トラックバックが可能で、直リンクを貼ることができる、というような点にある。
 そのためブログにおいては、どのようなコンセプトで作られ、書き手が何者で、これまでどういう言説を積み上げてきたか、ということと無関係に、リンクをたどって、あるいは何らかの検索語を頼りに、そのエントリだけを訪れて、そのエントリだけを読み、そのエントリだけに反応する、という読み手が現れることになる。

 エントリそのものをろくに読まずに文句をつける人や、エントリ内に紹介されたリンク先にさえ目を通さずに批判的コメントを書く人は、この世界の中に大勢いる。そういう世界で、金を出して(借りてもいいけど)本を買って全部熟読してから物を言え、というのは非常に高いハードルだ。事の是非は措くとしても、望み通りの反応が多数派を占めるとは考えにくい。

 また、梅田氏の当該エントリは、ブログのエントリとして発表された時点で、そこで話題にしている本とは別に、それ自体が独立した作品となっている。従って、そのエントリ自体も論評の対象になることは避けられない。

 だから、<本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。>という疑問に対する回答は簡単だ。ブログというメディアがそういう気を起こさせるようにできているからだ。

 もちろん、ブログ主が、明白な誤読を含むようなコメントに対して「原著にはこう書いてあるのだから、あなたの意見は前提が間違っている。原著を確認されたし」というような反論を加えるのは正当なことだ。「元の本を読まずに間違った前提で批判すること」全体を批判するのもよしとしよう。それを<バカなもの>と呼びたいなら、それはそれで結構だ。

 だが、「本を読まずに意見すること」自体を批判するのは、少なくともブログの世界では通用しないように思う。
 実際、当該のエントリには、梅田氏自身の意見や紹介の仕方など、原著にはない要素が色濃く含まれており、善くも悪くも「梅田氏の文章作品」になってしまっている。決して<本を紹介しているだけのエントリー>ではないのだから、それに対して何らかの意見を抱く人が現れるのは自然な反応だ。


 はてなブックマークの仕組みにも同じことが言える。
 ブックマークしている側は、そもそも元のエントリの書き手に読ませるつもりでコメントを書いているわけではない(ことが多いらしい)。だが、ひとりひとりは私的なメモのつもりで書いたかもしれないコメントが、当該エントリについたブックマークのページとしてまとめられると、大勢でよってたかって噂や悪口を書いているように見えてしまう。はてなブックマークへの批判と、それに対するはてな市民からの再反論が噛み合わない原因のひとつはそこにある。** そもそも<バカなもの>が発生しやすい仕組みになっているのだ。

 梅田氏の反応には、そういう意味では「今さら何をおっしゃいますか」と思わないでもない。あなたが絶賛してやまなかった「はてな」というサービスは、ずっと前からそういうものだったじゃないですか、と。

 私のような、プログラムも書けず、仕組みも判らずに、ただ提供されたサービスの上で文章を書いているだけの無知な人間から見れば、インターネットの世界を知り尽くしているように見える梅田氏に、なぜその程度のことがわからないのか(あるいは、わかろうとしないのか)、とても不思議だ。


 ちなみに、問題の「日本語が亡びるとき」も駆け足で読んでみた。興味深い本だとは思うが、梅田氏がそこまで興奮するようなものなのかどうか、私にはあまりピンと来なかった。

 英語が普遍語としての存在感をどんどん増していくと、<放っておけば日本語は、「話し言葉」としては残っても、叡智を刻む「書き言葉」としてはその輝きを失っていくのではないか>(梅田ブログより)という問題意識は理解できる。

 だが、本書を読む限り、水村が日本語の「輝き」として至上の価値を置いているのは日本の近代文学のようだ。その価値は絶対的で検証不要なものらしく、本の中で論証されることもない(日本語の素晴らしさが語られている部分はあるが、今の小説がダメなことは自明とされており、近代文学と現代小説の違いは、口語体と文語体の違いくらいでしか説明されない。それが重要なのだと言われればそれまでだが)。近代文学は理屈抜きで偉く、現代文学は理屈抜きで無価値らしい。

 私が水村の危機感を共有できないのは、私が無学かつ不調法にも近代文学の値打ちがわかっていないからなのだろう(水村作品を読んだこともなかったし)。もともと、文学は特権的に偉いのだ、という態度を取る人を前にすると、とりあえず三歩くらい引いてしまう癖が私にはある(日本語を使う者として古典を尊重する気持ちはあるし、教養の足りない己を恥じる気持ちもあるが)。

 水村が本書の中で、日本語を救う方法として提唱している政策自体は肯定するが、それによって、本書が危惧するような日本語の危機を救えるのかどうか(つまり、対英語のうえで効果があるのか)は、これまたピンとこない。
 そもそも、古典や近代文学が読まれなくなったのは、英語が普遍語になってきたせいなのだろうか? 水村が尊重してやまない「文学」とは、もともと日本国民のうちでも少数の人々が愛好してきたものだったし、今でもそうだということなのではないだろうか(ここは検証の必要があるが)。それなら英語エリートよりも日本語エリートを養成することが先だ。裾野を拡げるという意味で多くの子供に古典や近代文学を叩き込むのも意味のあることだとは思うけれど。
(というように考えていくと、このブログでよく扱ってる野球やサッカーの若年層への普及の話題に似てくるのだが、文学がスポーツや音楽より貴い、とは私は必ずしも思っていない。スポーツや音楽が養ってくれる非言語コミュニケーションは、人が生きていく上で、言語コミュニケーションと同等かそれ以上に大切なものだと思う)

 私には、同じ本について書かれた小飼弾氏のエントリの方が納得しやすい。ちなみに弾氏は<文化的教養に欠ける私は、「文明的」にそれを主張することができるが、著者のようにそれを文化的に主張することが出来ない。>と書いている。私には「文明的」な説明の方がわかりやすいようだ。

 また、水村の本で言語学について言及した部分では、言語社会学の知見に対する敬意がいささか不足しているような印象も受ける(私もこの分野に詳しいわけではないので偉そうなことは言えないが。この点については少し勉強してみようと思う)。


 ちなみに、梅田氏のもとのエントリは、水村について次のように説明している。

<水村美苗という人は寡作の作家なので、僕のブログの読者では知らない人もいるかもしれないが、五、六年に一度、とんでもなく素晴らしい作品を書く人だ。本書は「本格小説」以来の、水村作品を愛好する者たちにとっては待望の書き下ろし作品であるが、その期待を遥かに大きく超えた達成となっている。>

 この文章からわかるのは、梅田氏が水村作品を愛好しているということだが、水村作品のどこがどのように素晴らしいのかはまったく判らない。梅田氏の価値判断を尊重する人なら「そうか、きっと素晴らしいんだな」と思うだろうし、そうでない人にとっては、何だかよく判らないままだ。ここまで書き手がファン意識を前面に出していると、水村作品に接したことのない読み手には、「すべての日本人がいま読むべき」という主張が素直に受け取りづらくなる。
 だから、<本を紹介しているだけのエントリー>としても、この文章はあまり成功していないように思う。

 結局、私もエントリーについて意見を書いてしまいましたが、本は一応読みましたのでご容赦を(笑)。


追記(2008.11.11)
 「日本語が亡びるとき」の書評もネット上にぼつぼつ見られるようになってきた。現時点で、私がもっとも傾聴すべきと感じたのは【海難記】というblogに書かれたこちら。私が上に書き散らした疑問点のいくつかも含めて明晰に論じられ、たいへん説得力がある。<なにより許せないのは、現在の日本で日本語で書いている作家たちに対する、彼女の徹底的な侮蔑であり、その侮蔑のベースにある無知である。>というくだりに、ほぼ同感。
梅田氏は、このような本格的な(水村本への)批判を踏まえた上で、これに対抗しうる<僕自身の考え>をご自分のblogに書くべきだろう。


*
このケースについていえば、たとえば「日本語が亡びる」という概念を取り違えた批判的コメントが結構あるけれど、梅田氏のエントリの中で、水村が考える「亡びる」の意味は、後ろの方にさらっと記されているだけで、明示的に説明されてはいないので、誤解する人、わからない人が多少いても仕方ないかな、という印象は受ける。

**
はてなブックマークに関しては、彼自身が取締役として、その仕組みを作る(変えうる)側にいるのだし、しかもかねてから批判の多い仕組みを改良する試みが行われている最中なのだから、<立場を離れて>利用者を批判するという振る舞いは感心しない。しかも、はてなじゃない別のところでの発言だし(「立場を離れて」というのはそういう意味なのか?)。
ま、「ウェブ進化論」などを読む限り、おめでたいくらいにネット性善説の立場をとり続けているように見える梅田氏(戦略的にそうしているのだろうとは思うが)にして、この程度のことでキレてしまうというのは、なかなか興味深い出来事ではある。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

新聞が崩壊した後のニュースについて。

 はてなブックマークで目についた「新聞業界 崩壊の理由5つ、いや6つ」というエントリを読んでみた。紙媒体の人間としては関心を抱かざるを得ない話題ではある。
 エントリには、毎日新聞の英文サイトでの不祥事をマクラに、標題通りの内容が記されている。

 筆者のChikirin氏が挙げる「崩壊の理由」は以下の通り。

1.市場の縮小
2.マス広告価値の低下
3.販売システムの崩壊
4.編集特権の消滅(価値判断主導権の読み手への移転)
5.記者の能力の相対的かつ圧倒的な低下

 1-3はなるほど的を射ているように思う。
 5は特に根拠を示して論じられているわけではないので、感想はない。


 ちょっと気になったのは4の部分。
 内容の説明としては、以下のようなことが書かれている。

新聞の権力性がどこにあるかといえば、それは「どの記事を紙面に載せるか」という判断権を持っているという点にあるわけです。何を載せ何を載せないか、何を一面にして何を後ろに持ってくるか、それぞれの記事をどの大きさで報じるか。

 これらを通して新聞はそれぞれの事件なり出来事の「価値判断」をするという特権を持っていた。「彼らが大事だと思ったことが一面のトップで大々的に取り上げられ」、たとえちきりんが「これは大事!」と思っても、新聞社がそう思わなければその記事は葬り去られる。これは絶大な権力であったわけです。

ところがネットの出現でこの特権が失われます。

 第一にネットには「紙面の量の制約」がありません。どの記事を載せるか載せないか、という判断は不要なんです。全部掲載しても誌面が足りなくなったりはしない。

 次に一面という概念がない。確かにウエブにもトップページや特集ページはあります。しかし読む人の大半は「検索」したり好みのカテゴリーから順に読み始める。何を大事と思うかは、新聞社ではなく読者が決めるということになった。

 「編集権」が意味をなくした瞬間でした。「デスク」と呼ばれる権力者は、社会の権力者から「新聞社内だけでの権力者」に格下げされたのです。


 このような「新聞ダメ論」をネット上で読む機会は多いのだが、読むたびに思うことがある。ちょうどよいきっかけなので書いておく。

 このエントリに書かれていること自体には、大筋では異論はない(細かいことではいろいろあるが話がそれるので省略する)。
  Chikirin氏が<ニーズがなくなった商品が生き残れることはあり得ないのです。>と書いている通り、世の中の多くの人が新聞を必要としなくなれば、新聞はなくなるだろう。それはそれで仕方がない。

 気になるのは、ここに書かれていないことだ。
 Chikirin氏がいうように新聞業界が崩壊して新聞がなくなったとすると、その後の世の中はどうなるのだろう。
 「世の中は」というより、「世の中のニュースは」どうなるのだろう。


 「ニュースはネットで読むから新聞は要らない」という人は多い。ひとりひとりの行動としては合理性がある。
 ただし、彼らがネットで読んでいるニュースのほとんどは、元をただせば新聞社がポータルサイトなどに売っているものだ。新聞社がなくなれば、それらのニュースも提供されなくなるから、今と同じものを「ネットで読む」ことはできなくなる。

 ま、そうは言っても、ニュースを集めて記事を売る、という商売には需要があるだろうから、新聞紙はなくなっても新聞社は存続する可能性はあるし、ニュースが消滅するということには、たぶんならない。
 ただし、そのような形での収入が、現在の新聞社が読者と広告主から得ている収入に匹敵する規模に成長するとは考えにくい。つまり、業界のパイは小さくなる。
 とすれば、ニュースを売る企業どうしの競争はあまり活発でないものになりそうだし、それぞれの企業がニュースの生産に投資できる額も減る。提供されるニュースの品質は悪化すると考えるのが自然だ。ひょっとすると少数のニュース企業による寡占化が、今よりも進むことになるかもしれない。


 そういう形でニュースが流布するようになり、新聞というパッケージがなくなるとする。Chikirin氏が言うところの<編集特権の消滅>した状態がデフォルトになった状況だ。

 そんな状況を想像することは、新聞というパッケージの意味を改めて考えることでもある。
 現行の新聞社は、さまざまな分野のさまざまなニュースを格付けしながら、それらを一括して、その日の新聞として提供している。オール・イン・ワン形式である。

 インターネットではオール・イン・ワンは成り立ちにくい(そもそも「ワン」を囲い込むことが難しい)。
 新聞のオール・イン・ワン機能が消滅すれば、多種多様のニュースソースから送り出されたさまざまなニュースが、それぞれ並列的に世の中やネット上に存在することになる。
 企業や役所の出すニュースリリース、学者による論文、市民記者によるネットニュース、市民ブロガーのコラム。そのほか、さまざまな専門家が自分の専門領域についていろんなことを書く。

 <新聞記事よりおもしろい日本語ブログはたくさん存在する。新聞の論説委員より深い洞察、新聞記事よりも適切なデータ分析、記者の付け焼き刃のようなものとはレベルの違う専門的な知識を、惜しげもなく無料で提供するネット上のサイトは多数にわたる。>とChikirin氏は書く。
 確かにそうだ。新聞に掲載されているひとつひとつの記事や論説が、圧倒的に高いクオリティを有しているとは思わない。専門家の目から見れば物足りないものの方が多いだろうと思う。

 ただし、<新聞の論説委員より深い洞察、新聞記事よりも適切なデータ分析、記者の付け焼き刃のようなものとはレベルの違う専門的な知識>は一か所にあるわけではなく、ネット上のいろんなところに、それぞれ無関係に存在する。それらを読もうとする人は、自分自身の手でネット上を丹念に探し、ひとつひとつを熟読玩味し、それぞれの価値を検証しなければならない。そうやってブックマークを充実させ、信頼すべきソースを編集していく。そういう作業を経なければ、ネット上にある良質な知識を利用することはできない。


 そう考えた時、新聞の持つ機能がはっきりしてくる。
 新聞がほかのメディアと異なるのは、すべてがひとつのパッケージになっていることだ。
 世の中の主だった分野の主だった出来事が、そこそこの水準の記事になって、数十ページの新聞という形をとり、毎日発行される。その集合体に継続的に目を通すことで、人は、世の中全般について、そこそこの水準で知識と見識と判断力を持つことができる(ことになっている)。

 と同時に、それが大量に流布されることで、1人だけでなく「そこそこの水準の知識と見識と判断力」を共有する集団が形成される、という現象も起きる。
 この現象を重視する考え方もある。
 たとえばベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』には、印刷技術の発達がナショナリズムと国民国家の形成に大きく影響したことが書かれている。
 マスメディアが出現し、同じテキストを大勢の人が読むこと(そして、大勢が読んだ、と誰もが知っていること)により、直接会ったことも話したこともないけれど自分と同じ知識の体系をもったはずの人々を仲間(国民)と認識するようになった、とアンダーソンは論じる(本が手元にないのでうろ覚えで書いてますが)。
 最近の本では、岡本一郎『グーグルに勝つ広告モデル』(光文社新書)が、これを、新聞が常識を形成する、という表現で書いている(これも同前。あとで確認して引用部を修正するつもり)。

 インターネットでは、それぞれの利用者が自分の知りたいことを知り、知りたいと思わないことについて知る機会は非常に少ない。
 Chikirin氏が書くように、ネット上では<何を大事と思うかは、新聞社ではなく読者が決める>のだが、読者ひとりひとりにとって何が大事かは異なる。任意の何人かが集まった時に、どの程度の共通項が存在するのかは、はなはだ心許ない。
 「それぞれの立場もお考えもあるでしょうけど、とりあえずこれはみんなにとって大事でしょ」というもの(岡本一郎の表現を借りれば「常識」)を、これまでは新聞が提示していた。新聞が崩壊した後で、新聞に代わって、その役割を果たすものが、果たして存在するだろうか。あるいは、新たに登場するのだろうか。

 もちろん、新聞が提示する「これは大事でしょ」という「常識」の品質に、出来不出来はある。もっと大事な分野や、もっと大事な出来事があるだろう、という不満は批判は常にあるだろうし、そのような意見をフィードバックしなければどんどん質は劣化していく。かつてはよくできた「常識」だったかも知れないが、時代の変化に適応できていない、という面も強い。

 ただ、Chikirin氏の関心は、そういう次元ではなさそうだ。
 <新聞はそれぞれの事件なり出来事の「価値判断」をするという特権を持っていた。「彼らが大事だと思ったことが一面のトップで大々的に取り上げられ」、たとえちきりんが「これは大事!」と思っても、新聞社がそう思わなければその記事は葬り去られる。これは絶大な権力であったわけです。>という記述からは、新聞が独自の価値判断を加えた上でニュースを送り出すこと自体に否定的なニュアンスがうかがえる。

 私は、多少精度は落ちてもいいからそこそこの信頼性をもったオール・イン・ワンの情報源があった方が楽でよい、と思っている。自分自身があらゆる分野に精通し、手頃な情報源を探索して、ひとつひとつの信頼性を検証し、日々それらから情報を入手する、というような作業をするのはとても手間がかかって、自分のようなものぐさな人間にはできそうにない。全面的に信頼できなくても、とりあえずの叩き台としてそれを利用できれば、ゼロから自分でやるよりも効率がよい。
 そういう意味で、現行の新聞は(内容に対する不満や要望はいろいろあるにしても)利用価値があると思うし、実際に代金を払って購読している。

 Chikirin氏のように考える人が大勢を占めれば、新聞は衰退し、私は不便をかこつことになる。
 いや、たぶん、不便をかこつことになるのは私だけではない。世の中のすべての人が、自分の力であらゆる分野の信頼できる情報源を見つけてアクセスする能力を持つようになるとは考えにくいので(そうであれば「ググレカス」なんて言葉を目にする機会は非常に少ないはずだ)、そうではない、という前提でこの先の話を進める。

 悲観的な見通しとしては、新聞が担っていた「常識」が世の中に提供されなくなると、人々は今よりもさらに自分の関心事以外には関心も知識も持たなくなっていくだろう(トートロジー気味な表現ですが)。
 現在でも、ネット上で見かける論争には、それぞれが基盤とする知識や見識がそもそも異なっていて話がかみ合わない、というものが少なくないように思うが、その傾向はますます強まることになるのだろう。まわり中すべての人がそれぞれ別の国からきた外国人、というようなことになる。対話や議論が成り立つだけの共通の基盤が失われた世の中というのは、かなり厄介なことになりそうで気が重い。

 一方、少し楽観的な見通しとしては、ネットその他の情報源のうち、どれが重要で、どれが信頼できて、どれとどれに目を通すべきかを教えてくれる、水先案内人のような人物や機関やサイトが登場してくるだろう。それらが、新聞に代わって、新しい「常識」を世の中に提供してくれるかも知れない。

 ただし、インターネットの宿命として、水先案内サイトそれ自体も玉石混交になることは避けがたい。ある個人なり組織なりが主宰する以上、そこで提供される「常識」には彼らの考え方によるバイアスがかからざるを得ない。
 だから、水先案内サイトを利用しようとする人は、どのサイトが信頼できるかを見極めなければならないということになるし、結局のところは、自分の好みに合ったバイアスのかかったサイトを主に利用するようになるのだろう。もっとも、それらが新聞のように寡占的状況を手にすることは難しいだろうから*、新聞が提供してきたほどには、広汎かつ強力な「常識」が形成されることにはならないように思う。
 また、それらにおけるバイアスが、Chikirin氏のいうところの新聞の<権力>と違うものになるのか、あるいは似たようなものになるのかは、よくわからない。


 Chikirin氏のエントリは、
大変なこった。

 そんじゃーね。
という言葉で締めくくられている。

 新聞業界が崩壊するかどうかは、業界人にとっての問題で、それ以外の人には他人事である。

 ただし、新聞が崩壊した後でニュースがどうなるかというのは、むしろニュースの受容者側の問題だ。
 そして、世の中のニュース状況が、ここまで考えてきたようなことになっていくのだとすると、ニュースを読む側の人にとっても、なかなか<大変なこった。>ということになるかも知れない。

*
と書いたが確たる根拠はない。googleのように圧倒的な寡占サイトがこの領域に出現するようだと世の中不気味だなとは思うが。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

「馬鹿な若者が自民党を勝たせた」のか?

 東京新聞に「こちら特報部」という見開きの特集面がある。日々のニュースの中から特定の話題について紙幅を割いて紹介する欄だ。見たことのない人は、週刊誌の2〜3ページの特集記事を想像していただけばよい。複数の識者に意見を聞いてコメントを並べただけで掘り下げ不足の日もあるが、拙速を恐れずに旬のテーマを採り上げているので、たいていはそれなりに面白く読める。

 9月13日付のこの欄のテーマは、「若者はなぜ自民党に投票したのか」だった。
 今回の衆院選では、従来あまり投票しなかった「都市部」「若年層」が動いたことで投票率が上がり、その多くが自民党を支持したと言われている。
 記事の中で根拠として示されている共同通信の出口調査によれば、全国11の比例ブロックのうち、20代前半は、北海道を除く10ブロックで自民党支持者が最多だったという。30代の8ブロック、40代の9ブロックより多いと書いてある。20代後半については言及されていないのは何故なのだろうか(笑)。
 と、まあデータはいささか怪しげだけれども、「若者が自民党に投票した」こと自体は、ここでは疑わないことにする。

 記事は2ページにわたっているが、右半分は12日に渋谷と秋葉原の街頭でつかまえた若者のコメント、左半分はいわゆる識者のコメントで構成されている。それぞれをかいつまんで引用する(カッコ内は私が補足した)。


<若者の声>
●22歳・女性・飲食店員/渋谷
「小泉さんがいいと思ったのは、おれは死んでもいいと言ったこと。格好いいなと思った」「いつその言葉を聞いたのかは忘れたけど…命がけでやってるというのが顏から伝わってきた。だから入れた」
(郵政民営化の中身はよくわからないが)「でも分からなきゃ投票しちゃいけないってわけじゃないでしょ。ほとんど分からないままじゃないの?」

●25歳・男性・会社員/渋谷
「ネットでみんなが自民党を支持してた。何となく行かなきゃと思って」

●21歳・不明・コンビニ店員/渋谷
「亀井さんとか自民党の中の悪いのを敵にしてやったんでしょ、今回は。そういうのをズバッと切ったんでしょ。なんかクールっていうか格好いいじゃない」

●20歳・不明・大学生/秋葉原
(岡田は)「小泉さんに比べて本気度が足りないことが透けて見えてしまっていた。手法は強引でも、やっぱり小泉さんの方がリーダーとして頼りがいがある」

<識者の声>
●藤竹暁・学習院大名誉教授
「今の若者は大学に入りたければ苦労せずに入ることができるし、ニートであってもアルバイトする口はいくらでもある。快楽が簡単に手に入り不満も感じていない。一方で、新しい方向性をほしいとも考えている。そんな若者の気質に小泉的な手法がうまく同調した」
(野党は)「政策を訴えるとしながら、小選挙区でやっていたことは自民党と変わらないドブ板選挙。政策、政策という野党の姿勢が浮いてしまった」

●矢幡洋・矢幡心理教育研究所所長
「個人が何か強い決断をするというドラマを好むようになった。特に今の二十代は、いじめ問題をくぐり抜けてきた世代で、目立てばいじめられるため角が立つことに対する恐怖感がある一方で、強い者の決断を、内容を問わずにリスペクト(尊敬)する。つまり思考放棄だ」

●千石保・日本青少年研究所所長
「改革を止めるなっていうキャッチフレーズは若者言葉。元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッションなんだが、ある意味小泉首相自身が若者化していると思う」
「本来ならば外国との関係はどうするのかや、財政問題はどうかといった、いろんなことを考えた上で投票すべきだが、そんな余計なことを持ち出したってスパッと割り切れないから面白くないと排除されるだけ。民主党がテーマにした年金問題は確かに大事な問題だが、若者向けの言葉になじまなかった」


 記事は結論らしい結論を明記してはいないけれど、「こちら特報部」が、「若者が馬鹿だから自民党が大勝した」と考えていることは明白だ。
 東京新聞は従来から市民寄り・人権重視の姿勢が強い新聞だ。社としても個々の記者も、自民党の圧勝をネガティブに感じていることは想像に難くない。だが、だからといって、こんなふうに、はじめに結論ありきの記事をお手軽にでっちあげることで民主党の敗因を糊塗しようという姿勢はいただけない。

 右半分のページ(若者の声の部分)では渋谷と秋葉原の若者の声を紹介している。上に引用した談話のうち、最初の3人は渋谷だ。渋谷では何人と話し、うち何人が自民党を支持したのかは明らかにされていない。
 秋葉原では、声をかけた約30人のうち自民党に投票したと明言したのは、上記談話の1人しかいなかったという。それなら若者の大多数は自民党を支持していないではないか(笑)。
 記事の末尾で、記者は「きちんと意見を話す若者のほとんどが野党の支持者だ。雰囲気から自民党に入れたなと感じられた若者もいたが口は重かった」と総括している。
 たぶん、彼らの口が重かったのは、自民党に入れたと言ったら、この記者に説教されそうな嫌な雰囲気を察したからではないだろうか(笑)。

 後半の識者たちの声も、かなり恣意的な感想というほかはない。例えば、千石保という人の「改革を止めるなっていうキャッチフレーズは若者言葉」という談話には、どのような根拠があるのだろうか。
 彼らの言葉はパターン化された若者像をなぞっているだけで、具体的な裏付けが感じられないし、示されてもいない。「思考放棄」「スパッと割り切れないから面白くないと排除されるだけ」という彼らの言葉は、彼ら自身にもあてはまるように思う。そして、この記事全体に対しても。
 彼らが暗に示している結論そのものは、もしかすると正しいのかも知れないが、仮にそうであったとしても、結論に至る過程が杜撰でよいというものではない。

 この、ある意味でありふれた記事について長々と批判してきたのは、「電波なる日記(改)」というblogの「野党の驕り」というエントリを興味深く読んだばかりだからだ。管理人のホームス氏は22歳の大学生(院生かも)。今回の衆院選で、地元の民主党代議士の選挙運動を手伝った経験を通じて、民主党の敗因を厳しく描き出している。


 例えば、選挙戦術の一つで、旗を持ってみんなで声を挙げながら商店街などを練り歩く、俗に「桃太郎」と呼ばれるものがあるのだが、私はここでもとてつもない違和感を感じていた。掛け声の内容がおかしい。

「サラリーマン増税に反対の(代議士の名)でーす」。
増税反対か。国債の額をみれば増税やむなしの状況のはずだが。国民も既に覚悟している気配があるのに、そんな事いって、実現性を信じてもらえるのだろうか?
「地下鉄7号線延伸を推進する(代議士の名)でーす」。
 何か、利権政治家っぽいな…。
「中学卒業まで子供手当て。(代議士の名)でーす。」
 バラマキにしか聞こえないのですが…。
「政権交代で日本を変えます。(代議士の名)でーす」。
 この状況で政権交代ができるとでも?聞いている人は嘲笑していることだろうな…。

 こんな調子。耳障りの良い言葉ばかり公約に掲げて実現したことのない旧社会党候補みたいだ、と感じていた。 


 彼が働いていた選挙事務所の幹部たちは、公示段階でも極めて楽観的で、「今回の小泉ブームはただの風にすぎない。2週間の内に有権者も気がつくだろう」という空気が事務所内を支配していたという。気がついていなかったのは彼らの方だった、ということだ。

 東京新聞の記事で藤竹暁が「小選挙区でやっていたことは自民党と変わらないドブ板選挙」と話していたことの実態が、まさにこれである。貴重なレポートだ。全国の選挙事務所で同じことが行われていたのなら、大敗は必然だった。

 優れた観察眼と批評眼(と文章力)を備えているホームス氏も22歳、「若者」の1人だ。もし東京新聞の記者が渋谷の街頭で彼に出会っていたら、記者は彼の談話をどう扱っただろうか。少なくとも「こちら特報部」の視野の中に、ホームス氏のような「若者」は入ってはいない。

 私は東京新聞の報道姿勢について、(時々懸念を感じることはあるけれども)基本的には高く評価している。だからこそ、こんなお手軽なでっち上げ記事で、敗因を若者に押し付けてよしとして欲しくはない。この記事からは、ホームス氏が民主党関係者たちに感じたような「驕り」の匂いが漂ってくる。

| | コメント (15) | トラックバック (2)

「非当事者」であるということ。

 ひとつ下のエントリーに対して、stoneさんから「記者の末席に身を置く者として、『非当事者であることの自覚』という一文が心に鋭く突き刺さりました。」というコメントをいただいた。私も紙媒体に属する身だが、メディアというのは本質的に「人の褌で相撲を取る商売」だということを忘れてはいけないと思っている。記者会見でJR西日本の幹部を罵倒したという記者氏(私自身はその会見の映像を見ていないので、どれほど醜悪だったかを直接は知らないのだが)は違う考えを持っていたようだが。

 stoneさんへのコメントとして、私はこんなことも書いた(繰り返しになるがご容赦を)。
「と同時に、読者・視聴者の『非当事者』としての節度についても、以前から気になっています。私は、大きな事件事故の現場に花や菓子類が山のように(時にゴミとみまがうばかりに)供えられているのを見るたびに違和感を覚えます。身内の方や近所の方が花を供えるのは理解できるのですが、何の関係もない人がこういう形で事件に『参加』することを無条件に肯定してよいのかどうか。何かが違うと思うのですが、どう違うのか、うまく説明ができずにいます。」

 この手の現象は、常に「いい話」として報道されるし、たぶん世間の大多数の人も「いい話」と受け止めるのだろう。


 一方で、誰もが眉をひそめるような「イヤな話」がある。

JR西に暴言や暴行が相次ぐ

 尼崎JR脱線事故のあった4月25日から5月7日までの間に、JR西日本の駅や電車内で「JRは人殺しだ」などの暴言が160件、駅員や乗務員に対する暴行も6件あったことが10日、西日本旅客鉄道労働組合(JR西労組)などのまとめで分かった。 (中略)
 まとめによると、脱線事故以降、乱暴な言葉を投げ掛ける嫌がらせや、殴ったりする暴力行為が多発しているほか、置き石や自転車の放置などの妨害行為が18件あったという。 (後略) 〔共同〕 (2005/5/10 21:28)


 かつて、「隣人訴訟」と呼ばれる民事訴訟があった。20年くらい前のことだったと思う。
 ある母親が外出する際、自分の幼い子供が隣の家で遊んでいたので、そのままにして出かけていった。ところが隣人が目を離した隙に子供たちは家から外に出ていき、外出した家の子供が溜め池に落ちて溺死した。無念の両親は、「保護義務を果たさなかった」として隣人を訴え、いくばくかの損害賠償金を勝ち取る判決を得た。
 この判決が報道されると、訴えを起こした両親の家に、罵倒や非難の電話と手紙が殺到した。あまりの凄さに、両親は訴訟を取り下げようとした。ところが被告(隣人)が取り下げに同意しない。訴えられたことで傷つき、感情を害していたのだろう。
 そのことが報道されると、今度は罵倒や非難の矛先は隣人に向かう。こちらも耐えきれずに取り下げに同意し、結局、訴訟はなかったことになった。
 おおむね、そんな経緯だったと記憶している。

 今、JRに嫌がらせをする人たちと、うんざりするほど似ていると思いませんか。

 そして、たとえば殺人現場に過剰な供物の山を作ってしまう人々の心性も、「非当事者である出来事に対して見境を失っている」という点において、これらの「イヤな話」と表裏一体なのではないか、という気がして仕方がない。
(念のため言っておくが、ここではあくまで、無関係な通りすがりの他人による「過剰な」供物について書いている。たとえば故人をよく知る隣人が命日ごとに花を供える行為をどうこう言うつもりはない。だが、そうやって置かれた花に便乗して、赤の他人が食べかけの菓子や飲みかけの缶ジュースにしか見えないようなものを野ざらしに置いていくような行為が慰霊や鎮魂になるとは、私には思えない)

 メディアが人々を扇動しているとかミスリードしているということだけではないと思う。そういう面があることは否めないが、たとえそうでない報道が実現したとしても、たぶん嫌がらせはなくならない。人々に、遠くの無関係な出来事を「ご近所に起こった悲劇」や「我がムラの恥さらし」のように感じさせてしまう機能が、たぶんメディアにはあるのだろう。
 ニュースを報じる側も、ニュースに接する側も、メディアが持つそういう危うさを、たぶん気にかけてはいない。だから、同じような事象が何度でも繰り返される。


追記(2005.5.13)
件の罵倒記者氏は、ネット上で実名を晒され、罵倒の嵐を浴びているようだ(松岡美樹さんの「すちゃらかな日常」に詳しい)。批判する人とされる人がループ化していく現象が、ここにも見られる。「なんか後味悪いよなあ。」という松岡さんの言葉に同感。

| | コメント (10) | トラックバック (2)

堀江社長が考える「意思のない新聞」とは。

 ニッポン放送やフジテレビがライブドアの傘下に入ろうが入るまいが、私にとってはどちらでもいいのだが、堀江貴文ライブドア社長がマスメディアを使って何をしたいのか、という点は気になっている。
 その意味で興味深く読んだのは、江川紹子ジャーナルに掲載されている堀江社長インタビューだ(このインタビューの存在は「ネットは新聞を殺すのかblog」で知った)。

 アップされたのは2/10だが、インタビューが実施されたのは去年の12月なので、まだニッポン放送株の買収は始まっていない。ライブドアがメディアを持つことについて始まったインタビューは、江川自身が新聞記者出身で活字畑の人であるせいか、堀江の新聞構想について突き進んでいく。

 インターネット時代の金融会社を大きくしていくためにはどうしたらいいのかっていう流れの中で、メディアを持たなきゃいけないっていう話になったわけですよ。発想はブルームバーグさんと全く一緒。

 堀江にとってのメディアは、商売の一環でしかないらしい。新聞を持つことに対して、金融事業にハクを付けるという以上の意義を感じてはいないようだ。

——今までのメディアとの違いが見えてくるのは、もう少し先になりそうか。
 う〜ん、まあ。それ(=違い)がメインなんじゃなくて、我々がメディアを作ることがメインなんです。やりたいのは、そこ。

日経と同じようなロゴで「東京経済新聞」って書いてあって、全く同じような体裁で出ていたら、分かんないじゃないですか。ああなんか格がありそうだな、とか思うでしょ?

 そういう考え方が、江川には承服できないのだろう。何度否定されても報道の意義や志を問い続けるため、堀江はいらだち、身も蓋もない言い方をエスカレートさせていく。

——今までにない内容の報道をやりたいというのもない?
 ないですね(笑)。いいんでよ、別に。内容が(今までのメディアと)違うかどうかは。それが目的じゃない。

——出すからには、こういうモノを出していきたいというのはないのか。
 そういうのは、おせっかいですよ。読者は別にそんなもの求めていない。そんなもの押しつけたくもないし。

 このインタビューの中で、堀江が語る新聞の編集方針らしきものは、「人気投票」に尽きる。

——ある程度の方向性がないと、何でも載せますというわけにはいかない。
 いいんじゃないですか。自分で判断して下さい、と。それで、世の中の意向はアクセスランキングという形で出てくるんですから、その通りに順番並べればいいだけでしょ。
 

——例えば、イラクのこととか、新聞ではもうあまり載らない。でも……
 いいんですよ、(そういうことは)みんな興味ないんですから。興味ないことをわざわざ大きく扱おうとすること自体が思い上がりだと思うんです。

 新聞には通常、「ニュースを集める」機能と、「集めたニュースの価値を判断し、軽重をつけて紙面化する」機能がある。
 堀江はここで、後者を不要だと切り捨てているわけだ。
 「意思なんて入れる必要ないって言ってるんですよ。」「情報操作をする気はない。」と堀江は江川に向かって力説する。江川をはじめ、ジャーナリズムに携わる人の大半は、自身の存在価値を全否定されたと感じて猛反発することになる。それは、このところ堀江がテレビ出演するたびに繰り返されている風景と同じだ。


 私は堀江が「殺す」と言っている旧メディアに足場を置く人間ではあるが、堀江の主張の是非を問う前に、思考実験として、「意思」や「情報操作」を切り捨てた新聞がどのようなものになるのかを考えてみたい。

 まず、このライブドア新聞(とりあえずこういう名前で呼ぶことにする)が、自前の記者を雇うのかどうかが気になる。全面的に通信社が配信する記事だけで紙面を埋めるのか、少しは自前の記者も持つのか。
(現在のサイト上のライブドアニュースは既存の新聞が配信するニュースが大半を占めているが、それらをライブドア新聞に転載することは各社が認めないだろう。おそらく使用可能なのは通信社の記事だけだ)。
 自前の記者を持つ場合、彼らが取材をする対象や分野には物理的・能力的な限界がある。とすれば取材対象はどこになるのか。
 普通のメディアであれば、会社が重要だと判断する分野に、重点的に自前の記者を投入する。だがライブドア新聞はニュースの価値判断をしないので、記者の守備範囲をどのように決めるのかは興味深い。これも人気投票だろうか。やり方次第では可能なのかも知れない。

 また、自社の記者が書く記事と、同じ話題について通信社が配信する記事との間には、区別をつけるのだろうか。
 自社の記者が書いた記事を通信社の記事とは別格に扱うのであれば、そこでライブドア新聞の「意思」と「操作」が働いたことになる。
 逆に、両者を同等に扱い、すべてを人気投票に委ねるのであれば、アクセス数で通信社の記事に負けた場合は、自社の記者の記事でも掲載されないということが起こりうる。
 だとしたら、記者たちはアクセス数を増やそうとして記事の内容を偏向させたり、捏造に近いことを行なう可能性が強まるだろう(少なくとも、この新聞のトップは「真実を追究する」ことに価値を認めていないのだから、記者もそんなものには興味を持たなくなるだろう)

 記事内容が事実かどうかを編集者がチェックするといっても限界がある。一級品のスクープというのは、その記者以外に確認できる者がいないからスクープなのである。スクープは不要という方針をとり、編集者が事実関係を確認できない記事は掲載を拒否するのであれば、記者にとっては生活権の侵害になる。普通の新聞社と違って、ライブドア新聞では、記事へのアクセス数が記者の収入に直結するのだから(アクセスされない記事には金を払わない、という堀江の発言がある)、人気投票の候補にエントリーされなければ大打撃だ。
 自前の記者を一切雇わず、通信社の配信記事とパブリックジャーナリストの投稿だけで紙面を作るのだとしても、ここで述べた記事内容の偏向・捏造や生活権の問題はパブリックジャーナリストに同じように発生するだろう。

 分野の設定についても問題は生ずる。
 現在、ライブドアニュースは「主なトピックス」「国内」「海外」「経済」「芸能」「スポーツ」「コンピュータ」「地域」「写真」「動画」といった項目に分類されている。仮にこの項目がライブドア新聞でも継承されるとして、項目ごとにアクセス上位の記事が新聞のそれぞれの面に掲載されるのだとする。
 ある日のアクセスランキングで、例えば「海外」の1位になった記事のアクセス数が、「芸能」の30位程度でしかなかった場合、それでもライブドア新聞は「海外」の1位を「海外面」のトップ記事にするのだろうか。それはライブドア新聞社の「意思」によって「操作」していることにはならないか。

 すべての記事が同じ条件で「人気投票」を待つことも、現実には難しい。
 ネットの読者が、ある記事にアクセスするか否かは、見出しの文章を読んで判断するしかないからだ。
 例えば、少し前に、若い女性タレントがテレビ番組の中で万引き経験を得々と告白したことが問題視されている。私はこのタレントを知らないし、彼女の犯罪には何の興味もないので、見出しに彼女の名前が書かれていれば記事を読むことはない。だが、「人気女性タレントがテレビで万引き告白」とあれば、誰だろう?という下世話な好奇心から、読んでみようかという気になる。
 つまり、見出しの文言によってアクセス数を操作することは可能なのだ。
 というよりも、操作するつもりはなくても、つけられた見出しの上手下手が、否応なしにアクセス数に影響してしまう。ここを完全にニュートラルにすることは不可能といってよい。

 こうやって突き詰めていけば、「意思」と「操作」を完全にゼロにすることが可能であるとは、私には思えない。編集という作業は、何らかの価値観が入り込むことなしには成立し得ないからだ。このインタビューで、堀江がそこまで深く考えずに発言しているのか、わかっていても敢えて相手を挑発しているのか、単にまともに答えるのが面倒くさくなって江川を弄んでいるのか、それは私にはわからない。


 とはいうものの、そこまでの厳密さを求めないのであれば、今の新聞よりも「意思」や「操作」の度合がはるかに小さいものを作ることは不可能ではないだろう。
 ライブドアニュースでは現在、アクセス数の総合ランキングと分野別ランキングを公表しているから、その順番通りに(あるいはアクセス数に比例するように)紙面上のスペースを配分していけば、とりあえず新聞の形にはなるはずだ。
 そんなふうにしてできあがった新聞は、従来の新聞とどれだけ違うのだろうか。
 こればっかりは見てみないとわからない。私自身にとってはあまり興味が持てないものになりそうだが、「それで充分」という人も世の中には結構いるかも知れない。ただし、そういう人たちは、そもそも新聞を金を払って買うだろうか。この新聞が、一体どういう人たちに需要があるのか、私にはよくわからない(冒頭に紹介した堀江の発言が示唆しているように、金融ニュースだけが重要でその他の一般ニュースは付け足しというものなら需要はあるかも知れないが、それはいわゆる新聞とはちょっと違うものになるだろう)。

 反面、堀江が言うような新聞が実現すれば、それは逆に、ジャーナリズムというものが持っている機能や、その値打ちを明らかにしてくれるかも知れない、という気もしている。
 現在のジャーナリズムに携わる人々がもっとも大事だと思い込んでいるものを抜き去った時、新聞に何が残るのか。それでも新聞は成立するのか。やっぱり(旧メディアの人たちが想像しているように)ろくなものにならないのか。
 それが明らかになった時に、逆に新聞が持つ独自の価値(があればの話だが)が明確になり、既存メディアがインターネット社会の中で生きる道も見えてくるのではないだろうか。

 ただし、「人気投票」には別の懸念も残る。
 私の記憶が確かならば、昨年9月ごろにライブドアが新球団の名称を公募した際、人気投票の結果に忠実に命名されていれば、球団名は「仙台ジェンキンス」になっていたはずではなかったか?
 これと同じことがライブドア新聞に起こらないという保証はどこにもない。
 もし防止しようとするなら、それはまさに「意思」と「操作」によってしかできないことなのである。

| | コメント (7) | トラックバック (0)