NHK知るを楽しむ「人生の歩き方/井村雅代 私はあきらめへん」日本放送出版協会

 おかしな表題になっているのは、これがNHK教育テレビの番組テキストだからだ。

 「知るを楽しむ」は月〜木の22:25から25分間の番組で、曜日ごとにテーマがあり、それぞれ月替わりのシリーズを放映している。本書は毎週水曜日の人物モノ「人生の歩き方」の2月分として放映された番組のテキスト。これから放映する3月の辻村寿三郎と2人分で1冊になっている。
 井村の第1回分の放映を観たら面白かったので、そのまま4回全部見てテキストまで買ってしまった。

 番組は、井村へのインタビュー(聞き手は渡辺あゆみアナウンサー)をベースに、話題に合わせた写真や映像が挿入される。インタビュー番組のテキストって何が書いてあるんだろう、と書店で手に取ったら、放映されたインタビューを文章に起こしたものだった。
 内容はほぼ同一だが細部では微妙な違いがある。同一のマスターテープから、別個に編集したということなのだろう。各回の文末には「(文/松瀬学)」とあって驚いた。アマチュアスポーツ中心に活動し著書が何冊もあるスポーツライターだ。NHK、贅沢に作ってるなあ。
 
 
 井村雅代は、日本のシンクロナイズドスイミングのメダリストたちを育てたコーチで、昨年の北京五輪では中国のコーチに就任、チーム演技で史上初のメダル(銅)に導いた人物。ソフトボールの宇津木妙子元監督と並び、「日本3大怖い女コーチ」*の1人といってよい(Amazonで井村雅代を検索すると、なぜか宇津木の著書も一緒に表示される)。

 井村に関する私の知識はその程度のものだった。シンクロという競技自体にそれほど強い関心がないので、彼女の著書やインタビューを熱心に見たこともない。
 今回の番組に限って見る気になったのは、中国でのコーチ経験について興味があったからだ。
 日本のシンクロを背負ってきた彼女が中国代表のコーチに就任したことは、国内では衝撃をもって迎えられた。かなりの非難も受けたようだ(今もGoogleで「井村雅代」を検索すると、「他のキーワード」として「井村雅代 裏切り」「井村雅代 国賊」「井村雅代 売国奴」といった文字が表示される)。

 本書で、井村は次のように動機を説明する。

<ロシアのコーチやアメリカのコーチだって、いろんな国で教えているじゃないですか。シンクロはロシア流、アメリカ流、日本流とテイストが違うんです。だから、日本のコーチだっていっぱい世界に出ていったほうが、日本流がメジャーになっていくわけです。
 もしもわたしが中国からの要請を断ったならば、どうなるだろうと考えたんです。きっと、ロシアのコーチが中国に行くだろう。そうしたら、またロシア流シンクロが脚光を浴びて、日本流シンクロをアピールする場所がなくなるんです。同調性など、日本流シンクロのよさをアピールするためには、北京五輪は開催国だから絶好の場所だったんです。脚光を浴びるでしょうから。だから、わたしは断ることができなかった。これはいつか日本が世界一になるために大切なことなんだと思ったんです。>

 シンクロは採点競技だ。配点の基準はあるけれども、水泳連盟サイトの解説を見ても、例えばフィギュアスケートのように、どの技に成功すれば何点、などと具体化されているわけではなく、「大変よい」「よい」「充分」「普通」など、審査員の判断で点数は決まっていく。つまり、印象や主観に大きく左右されるということだ。

 以前、元選手でメダリストの小谷実可子がどこかに書いていた文章を読んで驚いたことがある。
 小谷によれば、シンクロの大きな大会では、そもそもやる前から順位は決まっている、という。別に不正があるとかいうことではなく、それまでの実績などから“普通にいけばこの順位”という相場のようなものを審査員も選手もコーチも共有しており、それをいかに覆していくかという勝負なのだ、という。そのためには、たとえば五輪で1回だけ素晴らしい演技をしてもダメで、小さな大会で実績や好印象を積み上げていくことが大事なのだ、と。
 
 だから、日本流のシンクロの勢力圏を拡げるために他国でコーチをする、という井村の意図には納得できる。当時、井村はすでに日本代表コーチから退いて1年以上経っていたから、筋から言えば問題はない。
 ただ、井村の指導を受けてきた日本の選手たちには動揺もあっただろうし、世の中の中国嫌いな人たちを刺激してしまったのは彼女にとっては予想外だったようだ。そして、結果的に北京五輪で中国が日本を上回ってしまったのも計算外だったろう。井村が考えたような効果に結びつくかどうかは、長い時間をかけなければわからないことだ。

 2回目以降は、井村の生い立ち、競技との関わりから時系列に沿って語られる。下手な選手だった現役時代。引退後に中学教師として生活指導に取り組んだ経験。コーチとして再びシンクロ界に戻り、二足のわらじで奮闘したこと。
 初めての五輪参加の後、浜寺水練学校から事実上解雇され、慕って付いてきた選手のためにクラブを立ち上げたものの、大阪ではプールを貸してもらえないという嫌がらせを受けたこともあったという。それでも優れた選手を育てて代表に送り込み、自身も代表スタッフに加わっていく。経歴のすべてから、強烈な意志とエネルギーがほとばしっている。
 
 
 さすが、と思う発言も端々にあった。一例を、第4回「ホンキだから叱る」から。

<あまり叱っている感覚がないんです。ほんとうのことを言っているだけです。><たとえば、「あなたの脚、短いね」「汚い脚」って言うじゃないですか。ほんとうだもの。でも、それで終わったらダメなんです。どうにもならないことなんて世の中にないんです。必ずどうにかなる。それを考えるのが人間、それを教えるのがコーチです。><脚が短いのは構わない。短く見えることがダメなんです。脚が短くても、筋をぎゅーっと伸ばして、人の目をぐーっと上にいくようなオーラを出したら、長く見えるじゃないですか。>
 
 単なる精神論、根性論だけではないことがよくわかる。根性とソリューションが必ずセットになっている。というより、根性でソリューションをひねりだす、ということか(根性だけで、あれほどの成績を続けて収められるはずがないのだから、当たり前ではあるが)。
 
 このように、ビジネス書やビジネス雑誌が特集を組んだり引用しまくりたくなるような名言が随所に出てくるのだが、しかし、この人のやり方は迂闊に真似をすると危険だ。
 ここで語られている指導法は、とことん正面から選手に向き合おうという井村の猛烈な意志、猛烈なエネルギーに裏打ちされることで初めて効果を発揮する方法なのであって、それがないまま口先だけ取り入れようとしても何の意味もないだろう。「生兵法は怪我のもと」という諺がそのまま当てはまりそうに思う。
 井村自身は、その部分についてはそれほど大したことだとは思っていない風情だが、この持続する意志と熱意があってこその成功なのだということを改めて感じる。
 
 番組テキストという形の出版物なので、書店のスポーツコーナーに置かれることもないと思うが、これは一級品のスポーツライティングだ。たぶん3月下旬には店頭から消えてしまうだろうから、興味のある方はお早めに手に取られることをお勧めする(番組は一週間後の早朝に再放送される。第4回は3/4の朝5時5分からなので、まだ見られます)。
  
 

*3人目は特に決めてません。まあ「日本3大○○」の3番目は、たいていそういうものだ。

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森本健成アナに10点さしあげる。

 NHKの朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』は、毎日欠かさず、とはいかなかったが、近来になく魅き込まれるようにして見ていた。私にとっては『ちゅらさん』以来かも。何十年とやっているシリーズの中でも稀に見る傑作だと思う。明日で終わりというのが残念だ。

 同姓同名の同級生の美少女へのコンプレックスをずっと抱えて生きてきた女流落語家・徒然亭若狭こと和田喜代美(貫地谷しほり)の屈託を軸に、福井県の小浜で伝統若狭塗箸の職人を営む実家と、祖父がこよなく愛した上方落語家・徒然亭草若の一門、ダメだが愛すべき人物揃いの2つの“家族”を描くことに徹底的にこだわってきたシナリオ(藤本有紀)は、ブレることなくきっちりと結末をつけようとしている。

 今朝のラス前は、こんな話だった。
 亡き師匠・草若の宿願だった上方落語の常打ち小屋「ひぐらし亭」のこけら落としに出演した若狭は、満員の客席から拍手を浴びた後で、「わたしの最後の高座におつきあいいただき、ありがとうございました」と頭を下げる。
 若狭が落語をやめるなどという話は誰も聞かされてはいない。もったいないやないか、と理由をただす兄弟子たち、血相を変えて楽屋にやってきた家族を前に、若狭は「おかあちゃん、ごめんな」と言い出す。

 謝ったのは、落語をやめることについてではない。
 13年前、小浜を出る時に「おかあちゃんみたいになりたくないねん!」と言い放った一言を、喜代美は悔いていた。自分のやりたいこともせず、家族の心配ばかりしているおかあちゃん。でも、おかあちゃんはそうやって太陽のようにみんなを照らしていた。それがどんなに素敵なことかわからなかった。
 「私はおかあちゃんみたいになりたいねん」。
 高座で脚光を浴びるようになっても心の奥底から消えることのなかった長年のコンプレックスから、喜代美が本当に解放された瞬間だった。

 以前、父(松重豊)が職人として表彰を受け、一家が集まって宴会をしているさなかに、おかあちゃんが突然泣き出したことがあった。おろおろする周囲におかあちゃんは、「おとうちゃんがこんな立派な賞をもらって、子供たちもやりたいことを一生懸命やって、みんなが笑顔で、それが嬉しくてな…」と話す。あれもきっと、この伏線だったのだな。ちょっと前にある人から聞いた建築家アントニ・ガウディの言葉、「誰かひとり家族のために犠牲になれる人がいれば、その家族は幸せだ」という言葉を思い出したりもした。あれはつまり、こういうことなのだろう。

 で、おかあちゃん(和久井映見がこんなにいい俳優だとは知らなかった)が「…何を言うてんねん、この子は…」と涙を浮かべて番組が終わる。エンドタイトルの後はいつも「8時半になりました。ニュースをお伝えします」と森本健成アナウンサーが登場するが、今朝はいつもと違った。森本アナの第一声は「明日の最終回もお楽しみに。」だったのだ。

 この時間の森本アナはいつも、画面に映る瞬間にモニターを見おろしていて、そこから顔を上げて喋り始める。その表情がしばしば、『ちりとてちん』のラストに見事に対応して(おもろい場面では微笑んで、深刻な場面では難しく、しんみりする場面ではしんみりして)いたので、森本さん、ホントに『ちりとてちん』が好きなんだな、と思っていた。
 もしかするとこの台詞、ラス前の朝の恒例なのかも知れないけれど、そんなわけで民放でよく見るような番宣臭さは微塵も感じず、つい言いたくて言ってしまった、という風情に見えて、とても共感が持てた。
 朝からちょっといい気分にさせてくれた森本アナに10点さしあげる((c)高橋洋二)。

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小六親分のご冥福を祈る。

 ご存知の方はご存知の通り、私がここで名乗っている「念仏の鉄」という名前は、テレビドラマ『必殺仕置人』(および『新必殺仕置人』)で山崎努が演じた僧侶崩れの骨接ぎ屋の名から拝借している。
 
 『必殺仕置人』はいわゆる必殺シリーズの第2作。第1作『必殺仕掛人』は池波正太郎の「仕掛人梅安」シリーズをもとに作られたから、オリジナルのテレビドラマとしてはこれが最初ということになる。そこで生み出された同心・中村主水(藤田まこと)というキャラクターが大成功して、以後、四半世紀の長きに渡ってシリーズが続くことになった(テレビ朝日はまた作るらしいですが)。

 町衆からの袖の下を楽しみに生きているケチな悪徳同心の主水と、観音長屋に住み着いた怪しげな無宿人たちが「悪によって悪を懲らしめる」と始めた殺し屋稼業に、後見人のような形で関わっていた“天神の小六”という人物がいる。やくざの大親分らしいのだが、牢内で牢名主として君臨している。命を狙う刺客から身を守るには牢内の方が安全、という理由で牢にこもっているらしい。牢内の罪人ばかりか牢番の役人まで手なづけて悠然と暮らしている。昼行灯と呼ばれる中村主水になぜか一目置いて、さまざまな形で一統をバックアップし、時には牢外での手助けを主水らに求めることもある。まさに石が流れて木の葉が沈む世の中を象徴するような人物だ。

 この小六を演じていたのが高松英郎だった。

 鋭い眼光とワシ鼻で暗黒街の大物を貫禄たっぷりに演じた、と言いたいところだが、実をいうと、この人が時折見せる笑顔には本来の人の良さのようなものが感じられて、凄惨な世界に生きてきた人物という印象を大きく減じている。とても「いい人」のように見えるのだ。

 ではミスキャストだったのかといえば、そうとも言えない。昭和40年代後半という時代に、お茶の間に流れるドラマで殺し屋を主役に殺人シーンをたっぷり見せるという設定には批判も強かった(当時はまだ「お茶の間」というものが日本の家庭に実在していた)。
 そのためか、このシリーズで代々の元締格を演じた俳優は、比較的善良なイメージを背負った人物が多い(最初の『必殺仕掛人』では山村聰が元締を演じた。日本でもっとも総理大臣役が似合った俳優だ)。『仕置人』には元締がおらず、レギュラー陣の中でもっとも重みのある役が小六だった。高松のシャイな感じの笑顔も、そのような意味での毒消しを果たしていたのかも知れない。

 その高松英郎が亡くなった。77歳、亡くなる前日まで現役でテレビドラマの撮影をしていたそうだ。昭和30年代は大映映画で活躍したが、40年代以降はテレビドラマを主な舞台とし、いつも頑固親父や好々爺を演じていた印象がある。彼の人柄について私は何も知らないが、好人物を感じさせるような笑顔は最後まで変わらなかった。ご冥福を祈る。

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スポーツアナウンサーも戦っている。〜ほぼ日・刈屋富士雄インタビュー〜

 「ほぼ日刊イトイ新聞」に、NHK刈屋富士雄アナウンサーのロングインタビュー「オリンピックの女神はなぜ荒川静香に『キス』をしたのか?」が掲載されている。全20回に分けて、毎日1話づつ公開するという連載形式で、6/14現在で第8回まで来ている。
 話題はアテネ五輪の男子体操団体にはじまり、今はトリノの女子フィギュア。目次によると、今後はトリノの女子カーリングから井上怜奈に行く予定だ。

 毎日読んでいて思うのは、スポーツアナウンサーという仕事の立ち位置についてだ。スポーツジャーナリズムの中にあって、アナウンサーという立場は、他の取材者とはいささか異なっている。それが、刈屋アナの話の中に色濃く現れている。

 永田という聞き手の関心は、主として「あの名台詞はどうやって生まれたのか」にあるようで、過去の中継で刈屋アナが用いた具体的な言葉について質問していく。必然的に、刈屋アナの言葉は、「その時、何を考えながら、その言葉を選んで口にしていったのか」という説明が中心になる。その、彼が考えていたことの厚みに、改めて感銘を受ける。

 アナウンサーの仕事には、例えば選手や指導者へのインタビューも含まれるだろうし、テレビでは放映されない予備取材もあるだろう。
 だが、彼らの主戦場は、やはり実況中継である。
 アナウンサーは放送ブースの中から競技を中継する。試合会場で行われていることはすべて見える位置にいるが、現場からは距離があり、選手や指導者と話すことは、まず不可能だ。そして、彼らの仕事は競技と同時に進行する。
 つまり、アナウンサーが実況中継をする際、その試合に関する最大の情報源は、目の前で見ているプレーそのものということになる。

 もちろん、優れたスポーツアナウンサーは、綿密な事前取材によって多くの情報を得ているだろう。野球中継なら豊富なデータ集、フィギュアスケートであれば予定される演技プログラムなど、主催者から提供される資料もある。
 だが、選手がその時のプレーの中で何をしたのか、その陰にはどういう判断(あるいは判断ミス)があったのか、ということは、目に見える範囲の情報から推測するほかはない。

 文章で試合を伝える仕事であれば、媒体が新聞であれ雑誌であれネットであれ、試合が終わってから記事を発表するまでの間に、大なり小なりタイムラグがある。試合を見ていて気になったポイントを、試合後に当事者に質問して確認したうえで記事を書くことができる。「試合の流れ」は、完結した後から逆算して描き出すことができる。
 だが、実況中継中のアナウンサーには、それができない。今、目の前で起こっている「流れ」が何であるのかを、プレーの現場から数十メートル離れた放送席の中から伝えなければならない。

 そう考えると、その瞬間の彼らの立場は、実は、限りなく見物人に近い。それでいて、テレビの前の人々に対しては、事情に通じた人間として目の前のプレーを伝えなければならない。そんな宿命を、実況アナウンサーは背負っている。
 やり直しの効かない一回性の仕事という点では、スポーツ選手そのものに近いところがある。

 例えば、第2回「絶叫したのは、一度だけ」の中に、こんな談話が出てくる。

「栄光への架け橋だ」と言って
着地する4つくらい前の技に、
「コールマン」というのがあるんです。
あそこで冨田選手が鉄棒をつかむ直前に
「これさえ取れば!」と言ってるんですが、
あそこは絶叫しているんです。

あれは「これさえ取れば金だ!」
というつもりで叫んでいるんです。

 これはアテネ五輪の男子体操団体で最後に演技した冨田の鉄棒についての話だ。以前にも書いたが、この時、刈屋アナは冨田が着地した時点で、採点の発表を待たずに「ニッポン、勝ちました」と言い切っている。
 このインタビューを読むと、彼がその確信を持ったのは、着地するより前、コールマンという鉄棒から手を離す技を成功させた時点だったことがわかる。冨田が演技をする時点での得点差、鉄棒の採点方法等から、そこで勝負がついたということを読み切っている。だからこそ、最後に「栄光への架け橋」という言葉を用いたのだ、と。

 さらに続く第3回では、ひとつの演技の中だけでなく、団体決勝全体を通して、彼が日本の勝機をどう考え、それがどう変わっていったのかを語っている。
 こういう状況になれば日本はメダルに手が届く、だからこの場面ではこういう言葉を使う……競技が進み、ひとつひとつの結果が明らかになるにつれて、その先に起こりうる展開も刻一刻と変わる。その中で、今、どういう表現がふさわしいのかを、刈屋アナは常に考えている。

 文筆業者であれば、結末から逆算して描き出すことができる「試合の流れ」を、彼は試合の渦中にありながら描こうとする。その時点で考えられる結末を推測して、そこから現時点の位置づけを逆算しつつ、目の前のプレーを語っていく。
 もちろん、理想的な結末だけが待っているとは限らない。勝手に金メダルと決め込んで現実離れした期待を語るのではなく、その時点での可能性に見合った言葉を、刈屋アナは慎重に選んでいく。その抑制ぶりもまた見事だ。
 まさしく、彼はその瞬間、その試合を戦っているのだ。
 そして、彼の「喋る力」を支えているのは、「見る力」であり、「読む力」なのである。

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スポーツをテレビで観るということ。

 スカパーがワールドカップ開幕1か月前を期して、5月9日に専門チャンネルを開局した。
 開局記念の3時間特番の中で、2002年大会時の人気番組だった「ワールドカップジャーナル」を1日限りで復活させというという企画があり、MCえのきどいちろう、データマンだった金子尚文、常連ゲストだった原博実が顏を揃えていた(アシスタントの間宮可愛は放送の仕事をやめて結婚間近とのことで顏を見せなかった)。あれから4年も経ったのだなと、とても不思議な気がした。

 「ワールドカップジャーナル」は、スカパーの2002年大会を代表する番組だった。というよりも、私にとっての2002年大会は、この番組とともにあったといってもよい。
 この1時間のトーク番組は、2001年春に週1回のレギュラー番組として始まり、同年12月からは毎日17時から(再放送は同日24時から)の生放送になった。土日も休まない掛け値なしの毎日である。

 「トーク番組」と書いたが、民放地上波で数多く放映されている「トーク番組」に比べると、「ワールドカップジャーナル」は全く異質の番組だった。
 レギュラー出演者はえのきどと間宮可愛という女性アシスタント、データマンの金子尚文という青年。そこに、原や後藤健生、風間八宏、水沼貴志、加藤久、伊東武彦、西部謙司といったサッカー関係者が、原則として毎回1人だけ出演する。
 間宮と金子は番組の進行にはろくに寄与していなかったので、実質的には、えのきどとゲストが1時間語り合うだけの番組だった。字幕も映像も音楽もクイズも有名タレントも色気担当の女性タレントも豪華プレゼントもなく、大会前まではサッカーの映像すら挿入されることもなく、えのきどとゲストは、ただひたすらサッカーについて喋り続けていた。それだけの何の愛想もない番組が、この上なく面白かった。

 後藤は毎週出演して、過去のワールドカップ各大会取材の思い出を話した(それは大会を重ねるごとに、サッカーファンから取材者へと立場を変えていく後藤自身の自分史でもあった)。加藤久や風間八宏は、よそでは見たこともないような笑顔を浮かべて軽口を叩いていた。水沼は民放でタレントを相手にしている時よりずっと厳しい口調でサッカー談義に熱中していた。原は途中でFC東京の監督に就任して番組から遠ざかったが、ワールドカップ開催中は解説の仕事に復帰し、例の独特のリズムで番組を和ませた。

 大会が始まると、「ワールドカップジャーナル」の放映時間は夜中に変わった。その日の試合および試合中継が終了し、普通のまとめ番組が終わった後の深夜、開始時刻も終了時刻も定まらないような状況で、各地の試合を解説したり観戦したゲストたちが駆けつけて、その日の試合について、えのきどと語り合った。とにかく自分が話したいことをえのきどにぶつけて一日が終わる。出演者たちはそんなふうだったし、視聴者もまた、そんな気分を共有していたのだと思う。私はそうだった。

 本業はコラムニストだがラジオでのキャスター経験が長く、インタビューの仕事も多いえのきどの、聞き手としての卓抜した力量がゲストの魅力を引きだしたのだろうと思う。
 そして、それを勘案してもなお、出演者の誰もが、サッカーを語るのが楽しくてたまらないという様子が伝わってきた。と同時に、これほどしょっちゅうテレビに出演している彼らでさえ、話し足りないことがたくさんあるのだな、とも感じた。
 語るべき内容を持っている出演者がいて、思う存分話せる場があればいい。そして、気分よく話させてくれる聞き手がいれば、それだけでいい。「トーク番組」とは、本来そういうものであるはずだ。
 だが、語り手と聞き手、そして彼らの中にあるコンテンツの力を信じきれないディレクターやプロデューサーたちが、せっかくの素材に余計な装飾物をどんどん付け加えて、結局は「トーク」そのものを殺してしまう。民放地上波の多くの「トーク番組」は、そんなふうに私には見える。
 制作者がメーンコンテンツを信頼しきれない、という現象は、「トーク番組」に限らず、おそらくは昨今のスポーツ中継一般がどうしようもなく見苦しいものに堕している大きな原因なのだろうと思う。


 馬場伸一さんが、西日本新聞に掲載された野球中継の視聴率に関する記事について教えてくださった。ネットで探してみると、東奥日報にも同じ記事が出ていたので、たぶん共同通信発なのだろう。
 記事は、ジャイアンツが首位を快走しているにもかかわらず四月の視聴率が12.6%と低迷する一方で、地方局における地元球団の試合中継は好調……という内容。昨年から話題に上っていた傾向だが、今年もさらに強まっているようだ。

 この記事の中に、匿名の“球界幹部”のこういうコメントが紹介されている。
「巨人の視聴率は巨人人気であって、野球人気に直結させるのはどうか。ローカルエリアの放送やCS放送などの数字を確認しないと何ともいえない」
 一体なぜ匿名にしなければならないのか疑問に思うほど、しごくまっとうな意見である。
 野球人気が落ちたの、ドラマの視聴率が落ちたのと、近年、新聞紙上でテレビ視聴率に言及した記事を目にするたびに、私は同じ感想を抱いている。
 地上波の占有率そのものが落ちているのではないのか、と。

 今年、CS局のJSPORTSでは日本プロ野球の公式戦全試合を中継するのだという。確かにシーズンが始まってからは連日、同社の4つのチャンネルを駆使して野球中継が放映されている。
 試合開始から終了後のヒーローインタビューまで、次の番組に切り変えられたり、CMが次のイニングの頭に食い込むこともなく、試合はほぼ完全に放映される。さして野球に愛着があるとも思えないタレントが同局の新番組ドラマに主演しているというだけの理由で中継に割り込んでくることもない(愛着だけあって場違いなタレントも、やはり視聴者にとっては迷惑だが)。
 野球をテレビで見ることに金を払ってもいい、と思うほど熱心な人々が、有料放送に乗り換えていくのは自然な流れだ。サッカーでも同様だ(テレビドラマにしても、一昔前の面白かったドラマを見る方がいい、とCS局を選ぶ人もいるだろう)。
 現時点で、その人数は視聴率の上ではわずかな割合かも知れない。だが、わずかではあっても、それは、それぞれの分野におけるもっとも熱心な視聴者だ。熱心な視聴者ほど地上波を離れていき、さして関心のない浮動層が数字として残る。制作者たちは、その「さして関心のない浮動層」を惹き付けようとしてスポーツそのものと無関係な装飾物を増やし、それはますます熱心なファンの嫌悪感と地上波離れを促進する。そんな流れが存在しているように思う。

 地上波テレビ局の人々がこれからスポーツ番組をどうしていきたいのかは、一視聴者としての私には、どうせ見ないのだからあまり関係ないとも言える。が、スポーツの側から見れば、収入源としてのテレビ放映権料は大事だ。CSでの放映権だけではまだまだとてもやっていけない(スポーツビジネスを勉強しているアルヴァロ君@アトレチコ東京によれば、CS局における海外サッカー中継は、人気はあるけれどやればやるほど赤字になる困ったコンテンツらしい)。地上波中継がもっと隆盛になってもらった方がスポーツ界全体は潤うに違いない。

 では地上波テレビ局はどうすればいいか、などという妙案を私が持っているわけではない。ただ、ひとつだけ思うのは、現在の地上波番組は、「そのスポーツに詳しくない人にとってわかりづらい」ということを極度に怖れているように見えるのだが、それは、本当に何が何でも避けなければならない禁じ手なのだろうか。
 『ワールドカップジャーナル』では、多くの出演者たちが、とにかくそれを語るのが楽しくて仕方がない、という表情で話に熱中していた。
 浮動層でも風間八宏や加藤久の顏くらいは見たことがあるだろう。そんな人たちがここまで熱中しているのなら、何だかよくわからないけど楽しそうだから聞いてみよう、見てみよう、という反応を起こすのが浮動層の浮動層たる所以ではないのかな。甘いでしょうか。


追記
 『プロ野球ニュース』についても書くつもりが、触れそこねた。
 CSフジテレビ739で月曜を除く毎晩午後11時から1時間にわたって放映しているこの番組は、『すぽると』以前の、もっといえば中井美穂が出演する以前の往年の『プロ野球ニュース』のフォーマットを継承した由緒正しい番組である。
 その夜に行われたすべての試合について、野球解説者とアナウンサーがセットになってダイジェストを見せ、ポイントについて解説者たちが語り合う。MCは日替わりで大矢明彦や高木豊らの解説者が務め、週末には佐々木信也翁も元気な姿を見せてくれる。「今日のホームラン」のBGMも、往年の例の曲のままだ(「ヴァイブレーション」というタイトルらしい)。
 スポンサーの制約が少ないせいか、局の幹部が誰も見ていないせいか、誤審や暴力事件などからも目をそらさず、解説者たちが辛口な議論を繰り広げて、ツボを外すことがない。今年の序盤、ジャイアンツのイ・スンヨプが隠し球に引っ掛かって一塁でアウトになった時には、映像を流しながら、一塁ベースコーチの責任について延々と議論していた(笑)。並み居る解説者たちがみな卓見の持ち主というわけではないが、常に大勢が出演しているので全体としてはバランスがとれる。
 最近は、野球に関しては夜のスポーツニュースはこれだけ見れば十分だと思っている。選手の生出演がないことだけは残念だが(きっと予算がないのだろう)。

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敗者ばかりの日。

 こういうタイトルの競馬ミステリのアンソロジーがハヤカワ文庫から出ている(読んでないけど)。

 競馬と同様、スポーツのどの競技でも、ひとつの大会にひとつの種目で勝つのは1人だけ。他の選手はすべて敗者だから、オリンピックの開催期間は、毎日が「敗者ばかりの日」になる。

 田村改め谷亮子のように、何年間も勝ち続ける圧倒的な勝者もたまには出現するが、多くの選手は何度も負ける。負けることも競技の一部と言ってもいい。

 だからこそ、負け方は大事だ。スポーツ選手でなくてもそうだが、敗北を受け止める姿勢には、その人の品格が表れる。いや、何も感情を抑えて冷静にマイクに向かうことだけが品格なのではなくて、号泣するにせよ、茫然と言葉を失うにせよ、それぞれの振る舞いの中で、やはり品格は表れる。そうやって、十分に敗北を受け入れた者だけが、次に進むべき道を正しく見出すことができるのではないか。そんな気がする。

 トリノ五輪で日本人選手はなかなかメダルに手が届かない。ここまでは、スピードスケートの加藤条治を除けば、もともと届くかどうか微妙なレベルの種目ばかりだったから(この先も例外はフィギュア女子シングルくらいしか思いつかないが)、私は日本選手団が特に不振であるとも思わないが、それはそれとして、個々の選手にとってはやはり悔しいことだろう。

 朝のニュースショーやワイドショー番組を見ると、競技を終えたばかりの選手をトリノのスタジオに招いて話を聞く、という設定になっている。いくつか見ていると、無念の結果に終わった選手に向かって、「次のバンクーバーで頑張りましょう」と話すキャスター、あるいは、選手自身に「バンクーバーで頑張ります」と言わせようとするキャスターが多い。

 たとえば500メートルでメダルを逃した直後の岡崎朋美は「私は1000メートルもあるんですけど」と苦笑しながらも、「バンクーバー出ます」と笑顔で言い切っていた。抵抗するがの面倒くさくなったのかも知れない。隣にいた大菅小百合も、見るからに打ちのめされていた。明らかに敗北を消化しきれていない選手に4年後を語らせるのは、その場しのぎの虚ろな希望でしかない。

 五輪レベルの競技者にとって、4年という時間がどれほど長いものであるのか、私には想像がつかない。ここまでの4年間だって彼ら彼女らには十二分に厳しかったはずだ。これまでの努力では足りないと言われたも同然の選手たちが、さらに厳しい4年間に向けて、そう簡単に切り替えられるものだろうか。敗北を総括する時間も与えられないうちに、次のことを考えろというのは酷な話だ。

 テレビの中の人々が「バンクーバー」を口にするのは、単に、その場の重苦しい空気から自分たちが逃れたいがための方便にしか見えない。そういう作業に選手を巻き込むのは、やめてほしいと思う。
 「負けることも競技の一部」であるのは、観客にとっても同じこと。敗北を糊塗するのでなく、重苦しいままに受け止めればいい。それがオリンピックなのだから。

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『THE有頂天ホテル』〜三谷幸喜、「その場しのぎ」の集大成。

 今月は三谷幸喜作品ばかり見て過ごしている。『新選組!! 土方歳三最期の一日』、『古畑任三郎ファイナル』3部作、そして映画『THE有頂天ホテル』。
 それぞれに楽しめる力作だったが(イチロー出演の『古畑』は、新春スター隠し芸大会だと思えば楽しめる)、とりわけ印象深いのは『THE有頂天ホテル』だった。

 『THE有頂天ホテル』は三谷幸喜の集大成とも言うべき作品だ。
 出演者の大半は過去の三谷作品で活躍してきた人々だし、戸田恵子や川平慈英のように過去の作品と酷似したキャラクターを演じている出演者もいる。エピソードにもいくつかの反復が見られる。
 大勢の登場人物のそれぞれに見せ場を作りながら動かしていく群像劇は三谷が得意とするところであり、限られた空間と時間の中で次々と発生するトラブルを乗り越えプロジェクトの完遂に向けて突き進むShow must go onの精神も同様だ。そのいずれもが、これまでにない規模で描かれる。
 そして、私が何よりも集大成らしさを感じたのは、多くの登場人物がそれぞれに、その場しのぎの悪あがきをしていたことだ。

 三谷の作品を特徴づける最大のモチーフは「その場しのぎ」ではないかと私は思っている。
 三谷の登場人物たちは、目の前に降って湧いた窮地を、とっさに嘘をついたり、ごまかしたりすることでしのごうとする。だが、その場の思いつきには往々にしてあまりにも無理があり、その無理を通すために彼や彼女はさらに嘘を重ね、綻びを繕うために必死で悪あがきを続ける。しかし、懸命の努力も空しく、結局は破綻してしまうのだ。
 舞台でも、テレビドラマでも、映画でも、三谷作品のほとんどで、そんな人々の右往左往が描かれている(『君となら』や『合言葉は勇気』のように中心的な主題となる場合もあるし、『王様のレストラン』や『新選組!』のようにエピソードのひとつとなる場合もある。『笑の大學』などは、全編その場しのぎの連続といってもいい)。

 『THE有頂天ホテル』にも、そんな男女が次々に登場する。
 舞台は、新年のカウントダウン・パーティーを2時間10分後に控えたホテル・アヴァンティ。登場人物は、イベントの準備に追われるホテルのスタッフと、それぞれにトラブルを抱えた宿泊客たち。
 役所広司演じるホテルの副支配人は、別れた妻と偶然に再会し、つい恰好をつけるために嘘をつく。松たか子演じる客室係は、ある女性客と間違えられ、とっさにその女性客になりすましてしまう。ある賞に選ばれ授賞式に出席するためにホテルにやってきた角野卓造は、自分の秘密を握る愛人を追い回して奇行を繰り返す。伊東四郎演じるホテルの支配人は、道楽が過ぎて人前に顏を出せなくなり、迷路のようなホテルの中を逃げ回って徒に事態を混乱させる。唐沢寿明演じる芸能プロダクション社長や、生瀬勝久の副支配人は、その場しのぎだけで生きているような男だ。佐藤浩市演じる国会議員は、汚職疑惑という深刻なトラブルに直面して、なかなか態度を決められずにいる。
 このほか、数えきれないくらいのさまざまな「その場しのぎ」が描かれ、まさに百花繚乱、映画は「その場しのぎ」展覧会の様相を呈している。
 彼ら彼女らがそれぞれのトラブルをしのぐために懸命な悪あがきを続けるうちに、あちらとこちらの人生が絡み合い、トラブルがもつれ合いながら、いつしか人々は一団となって、ゼロ・アワーに向かって雪崩れ込んでいく。

 役所広司がつく嘘は、かつて三谷が書いたテレビドラマ『三番テーブルの客』で描かれたのと同じものだ。役所がそれを口にした瞬間に、観客はその嘘が破綻を約束された無残なものであることを知る。そして、役所がもっとも恰好をつけたかった当の相手が、最初からその無残さに気づいていることも。
 有能なホテルマンの顏と裏腹に、元妻の前で悪あがきを重ねる役所の姿は、今ふうに言えば「イタい」としか形容のしようがないものだ。三谷は、役所の「イタさ」を執拗に描く。観客は、自分の中のイタさをちくりちくりと突かれながらも、大笑いし続ける羽目になる。
 その笑いは、多少ほろ苦いものではあっても、なぜか後味の悪さとして残ることはない。

 破綻が避けがたい現実として目の前に迫り、今にも嘘がバレそうになっているにもかかわらず、彼ら彼女らはそれを直視しようとせず、何の展望もないままに、ただただもがきつづける。人生における正しい態度とは到底言い難い。
 だが、その懸命さにおいて、その必死さにおいて、破綻の予感に苛まれるそのヒリヒリした心持ちにおいて、三谷は「その場しのぎ」の男女を許しているのだと思う。
 彼や彼女は最終局面で必ず破綻に直面するけれども、それはむしろ「甘美な破綻」ともいうべきものだ。彼や彼女は、荷が下りたような気分でホッとするだけでなく、しばしば破綻の中から温かいものを受け取り、安らぎと勇気を得ることになる。
 『THE有頂天ホテル』の登場人物の多くには、そのようなハッピーエンドが待っている(待っていない哀れな人もいるけれど)。クライマックスのカウントダウンパーティーを経験した後、観客はたぶん、ささやかな安らぎと、ささやかな勇気を登場人物たちと共有して、映画館を出ることになる。
 ハートウォーミングで幕を閉じるのは、純然たる喜劇としてはいささかズルい手ではあるのだが、見終えた後でこれだけ気分が良ければ、まあいいかという気になる。

 この「その場しのぎ」から「甘美な破綻」に至る流れは、実はそのまま『古畑任三郎』のプロットにもあてはまる。倒叙モノという叙述形式は、(もともとは『刑事コロンボ』へのオマージュとして採用されたのだろうが)その意味で実に三谷の資質に合っている。これほど長年にわたって作られ、人気を保ってきた理由のひとつは、そこにあるのではないかと思う。
 一見、古畑を主人公とした「追い詰める」側のドラマのように見えるけれど、実質的な主人公はそれぞれの回で殺人を犯した人物であり、彼らがいかにして「その場しのぎ」を繰り返しながら「追い詰められる」かを描いたドラマと言うこともできる。
 一応の最終話となった『ラスト・ダンス』は、まさにその「追い詰められる」側の心情をじっくりと描いた作品だった。松嶋菜々子演じる犯人は、役所広司のホテルマン並みに「イタい」のだが、その「イタさ」を描く手練手管を、笑わせるのでなく泣かせる方向に使うとこうなる、という見本のような作品だ(つまり泣かされたわけですが)。さらにいえば、同じ手練手管を感動巨篇に仕立てる方向に使うと、勝ち目のない軍隊を率いて戦い続けることをやめない男を描いた『土方歳三最期の一日』になる(って、こじつけすぎか(笑))。

 三谷幸喜が、どうしてこれほどまでに「その場しのぎ」に固執し、反復するのかはわからない。『THE有頂天ホテル』のように緻密に計算し尽くされた脚本を書く能力は、「その場しのぎ」や「悪あがき」とは無縁のものに見えるけれど、実は彼自身の内なる「その場しのぎ」や「イタさ」への恐怖が、そういうものを書かせる原動力なのかも知れない。
 いずれにしても、三谷の書く作品は、人の弱さやコンプレックスの綾を繊細に描き、それらを笑いながらも蔑んではいない。むしろ弱さへの大いなる共感に満ち、決して品格を失うことがない。
 それが、巷に溢れる凡百の「お笑い」と三谷を隔てるもののひとつであるような気がする。

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『ようこそ先輩』に見る野球とサッカーの差。

 NHKに『課外授業 ようこそ先輩』という人気番組がある。各界の著名人が、自分が卒業した小学校を訪れ特別授業をする、という企画だ。重松清が小説を書かせたり、山本容子が版画を作らせたり、専門領域を教える中にも、子供たちが自分自身を見つめ直す一工夫がこらされていて面白い。子供たちのヴィヴィッドな反応もまた番組の魅力で、適切な刺激さえ受ければ積極的な反応を見せる子供は、今も大勢いるのだとわかる。

 通常は30分枠のこの番組が、1月4日には新春スペシャルとして45分にわたって放映された。「先輩」は北沢豪。元サッカー日本代表、現在はテレビ解説者であり、指導者を目指して勉強中の身でもある。

 教室を訪れて自己紹介する北沢は、子供たちに、サッカーへの関心について質問する。やったことのある子供はごく少数、Jリーグを見るという子も少ない。自分の現役時代もほとんどの子が知らないという寂しい反応に、北沢は壇上で絶句する。
 しかし、グラウンドに出て、まず自らの技術を披露することで子供たちの興味を惹きつけた北沢は、体育館に入ると子供たちを2組に分けて、X字型に交叉するコースを同時に走らせる。わけがわからないままに走り終えた子供たちに、北沢は説明する。
 普通に走れば相手とぶつかる。それを避けるためには、相手の様子を見て、スタートするタイミングをはかる必要がある。そして、タイミングを自分で判断したら、思い切って走り出す。
 相手を見る、いつスタートすればいいか考える、そして走る。すなわち、「観る」「考える」「動く」という3つの連携がスポーツには大事なのだ、と北沢は説く。

 続いて北沢は、クラスを6つの班に分けて、自身が考案したという「ハンドサッカー」と名付けたゲームをさせる。手で転がすフットサルのようなものだ。何の指示もアドバイスもしないままトーナメント戦を行い、1位から6位まで順位が決まる(この最下位決定戦をする、という部分は、本業の教師による学校現場では、なかなか難しいことなのではないかと思う)。

 すべての試合が終わった後、北沢は子供たちを教室に戻し、それぞれの試合の映像を見せる。そして、翌日も同じトーナメントを実施することを宣言し、班ごとに、自分たちのプレーを分析し、明日の試合に向けた作戦を考えるよう指示する。ここでの話し合いの活発さ、翌日の試合に向けて準備される作戦のユニークさには感嘆する。
 そして迎えた2日目。初戦で作戦が功を奏して勝ったチームもあれば、力及ばず負けたチームもある。北沢は、2日目の第1試合が終わった時点で、初めて子供たちに具体的なアドバイスを送る。主として負けた側に声をかけ、次の試合にどのように臨むべきかを伝え、モチベーションを失わないよう鼓舞する。堂々たる指導者ぶりである。
 班の戦力は見たところ均衡しておらず、スポーツの得意そうな子が揃った班もあれば、女の子が多数の班もある。しかし、それぞれのレベルに応じて、子供たちは知恵を絞り、戦略を立てて試合に臨む。1位の班にも最下位の班にも、それぞれに達成したこと、得たものがあったように見える。

 同じ番組に昨年春、松井秀喜が出演したことがある。今の日本で松井を知らない小学生は少ないだろうし、まして地元の英雄でもある。子供たちの表情はスーパースターに会えた喜びに輝いていた。
 この時、松井がテーマにしたのは「夢」だったが、教えたのはバッティングだ。ひとりひとりに声をかけ、バットがボールに当たらない子にはアドバイスをおくり、最後は自分の夢を書き込んだボールを体育館の端まで思い切り打たせて終わる。
 打てるようになった子供は喜んでいたけれど、野球選手になりたいのでない限り、夢とバッティングとの間に直接の関係はない。たぶん、子供たちの心に残った最大のものは、松井に励まされたという感激ではないかと思う。そのことに意味がないわけではないが、それなら授業の形をとる必然性には乏しい。

 松井はバットでボールを打つという彼の最も得意なことを子供たちに教えた。北沢はサッカーそのものをさせてはいない。結局、ボールを蹴ることは子供たちに一切させないまま授業を終えている。「観る」「考える」「動く」という、広く応用可能なキーワードを子供たちに繰り返し実践させることで刻みつけた北沢の授業は、よく考えられた授業プログラムであったと思う。

 もちろん、現役選手の松井と、コーチ修業中の北沢の力量を比較するのはフェアではない。しかし、それを勘案に入れた上でも、引退からさほど時間の経っていない北沢が、これだけ見事な手腕を発揮しうることに、私は感心した。
 サッカー界のコーチ養成システムは、世界のさまざまな国で、それぞれのノウハウを交換しながら、洗練を重ね、絶えず進歩している。その恩恵を、北沢も享受している。松井と北沢の資質の違いという以上に、それぞれの競技におけるコーチ技術の蓄積の差が、この違いとなって現れていると考えることができる。

 では、現役選手の松井ではなく、野球界の監督やコーチ経験者が『ようこそ先輩』に招かれたら、どんな授業ができるのだろう。
 北沢以上に鮮やかに、子供たちの人生に必要な何かを教えることのできるコーチが、野球界にいないわけではないと思う。ただ、そういうコーチがいたとしても、それはたぶん彼個人の名人芸であり、体系化されて野球界に共有されていくわけではない。
 たとえば門田隆将『甲子園への遺言』(講談社)に描かれている故・高畠導宏は素晴らしい打撃コーチだったのだろうし、彼にはおそらく立派な授業をすることができただろう。だが、彼のコーチング技術が、今のプロ野球界に受け継がれているかといえば、せいぜい彼に教わった選手たちに部分的に記憶されている程度だろう(彼の真骨頂は個々の選手の性格や体力、技量に応じてオーダーメイドの指導法を考案する能力だった、と門田は描く。ならば、個々の選手が経験したのは自分のための指導法にとどまり、高畠の全体像を知ることはない)。

 私の知る限り、日本の野球界にJFAの指導指針に類するものは存在しないし、指導者ライセンス制度もない。日本のプロ野球の監督になるために資格は不要だ。高校野球のレベル低下が問題視されるようになった数年前から、高野連によって、すぐれた実績を持つ監督経験者を弱い地域に派遣して指導者講習を行う試みは行われていると聞くが、指導内容そのものは、おそらく本人任せだろう。
 子供の数が減り、野球人口や野球をする場も減る傾向にある今、限られた人材を無駄にしている余裕は野球界にはないはずだ。コーチ技術の体系化というものが、本気で検討されていいように思う。

 『課外授業 ようこそ先輩』番組公式サイトを見ると、野球界からは昨年1月に星野仙一が出演している。テーマは「悔しさを見つめる」。
「今回星野さんが子供たちに授業で教えるのは『負けることを悔しがる』『負けた後、次の機会に勝つために何をすればいいかを考え、練習する』ということ。悔しさをその場の感情だけですませるのではなく、悔しさを見つめることが、その後の人生を切り開く原動力になることを伝える。」(番組サイトより)

 北沢は「悔しさを見つめる」こと自体をテーマにしたわけではないが、自分の授業の中で、1位から6位まで容赦なく順位を決め、負けた子供たちにアドバイスし、分析と対策を行わせ、次の試合で表現するというサイクルを通して、『負けることを悔しがる』『負けた後、次の機会に勝つために何をすればいいかを考え、練習する』ことを子供たちに教えていた。精神論として言葉で伝えることよりも、実際に体を動かしゲームをすることを通じて伝えるのがスポーツのなすべき役割であることは言うまでもない。
 星野は、どのような具体的な作業によって「悔しさを見つめる」ことを子供たちに教えたのだろう。残念ながら私は番組を見ていない。

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小野田少尉の戦後31年。

 彼が29年間の潜伏生活を終えてフィリピンのルバング島から帰国した昭和49年(1974)を別にすれば、小野田寛郎の姿がこれほど繰り返しテレビに登場した年は記憶にない。
 NHKは戸井十月を聞き手に長時間のインタビュー番組『ハイビジョン特集ー生き抜く 小野田寛郎』を作り、戸井によって本(『小野田寛郎の終わらない戦い』新潮社)にもなった。フジテレビはルバング島での戦いを中村獅童を主演に『実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』でドラマ化した。
 そして戦後60周年も押し詰まった12月末、『おじいちゃん、本当のことを聞かせて』がTBSで放映された(製作は毎日放送)。19歳の女優・石原さとみが小野田の過ごした地をともに歩きながら戦争の話を聞くという趣旨の番組だ。

 「小野田さんに会って戦争の話を聞く」という企画をもちかけられ、当時の記者会見の映像を見た石原は、「知らなかった…」と絶句する。彼女は小野田の名前も経歴も何ひとつ知らなかったという。これを読む人の中にも知らない方が多いかも知れないので、彼の一通りの経歴を記しておく。ご存知の方は飛ばしてください。

 小野田は大正11年(1922)、和歌山に生まれ、昭和14年(1939)に旧制中学を卒業して貿易商社に就職、中国に渡る。なかなか裕福な暮らしで、派手に遊んでいたらしい。昭和19年(1944年)1月に入隊、同年9月から陸軍中野学校二俣分校でスパイ教育を受け、12月にフィリピン戦線に送り込まれた。すでに日本軍は敗色濃厚という状況で、小野田はルバング島での残置諜者の命を受ける。その土地が敵軍の手に渡った後も山中に潜伏して敵軍を撹乱し、日本軍の反攻を助ける役割だ。
 1945年8月に日本が降伏を表明し、9月に米国を中心とする連合国軍に占領された後も、小野田は2人の部下とともにルバングの山中にとどまり、米軍基地を攻撃しながら潜伏する。家族の呼びかけや敗戦を伝えるビラ等、小野田たちを帰還させようという働きかけは何度も行われたが、小野田は敵の策略として信じなかった(ビラに記された家族の名が間違っていた等、不幸なミスが重なったのも一因だった)。潜伏生活の中で2人の部下は命を落とし、ひとりきりになっても小野田は戦い続けた。昭和49年、鈴木紀夫という若者が彼を探しに山中に入り、小野田と遭遇した後、小野田に命を下した元上官を同行して命令を解除したことで、ようやく小野田は山を降りる。
 帰国から約1年後、小野田はブラジルに渡って牧場を開拓、昭和59年(1984)からは日本に「小野田自然塾」を設立して子供たちの教育にも取り組んでいる。

 この仕事を受けることにした石原は、スタッフとともに電車に乗り、静岡県浜松市に向かう。
 天竜浜名湖鉄道・二俣本町駅。ひなびた駅のホームに降り立った石原は、無人の改札の向こう側に立つ人影を見て、階段を駆け降りる(いい娘だ)。小野田が迎えに来ていたのだった。

 83歳になる小野田の立ち姿の美しさに、まず感嘆する。あのように、すっと真っすぐに立つことのできる日本人は、めっきり少なくなった(私自身、あのような立ち方はなかなかできずにいる)。前述のNHKの番組で帰国当時の小野田が皇居を訪れる映像を見て、歩き方やお辞儀の美しさに感銘を受けたが、それから30年以上経った今も、小野田の立ち姿は変わらない。背筋を伸ばし、石原の先に立って、すっ、すっと歩き、河原の砂利道では水たまりをひょいと飛び越える(この場面、ここだけ撮影アングルが変わっているので、スタッフがわざわざ頼んで歩き直してもらったのかも知れない。もちろん、そうだとしても小野田の身軽さに嘘はない)。

 二俣は小野田が陸軍中野学校でスパイ(小野田の言葉では「秘密戦」)の教育を受けた地だった。二俣分校の跡地には記念碑が建っている。天竜川の河原を訪れて、小野田はダイナマイトで橋梁を爆破する訓練を受けたことなどを語る。

「今テロがほとんど爆薬でしょ。一番効果があるんだよね。今テロやってるあの連中がやってるようなことを教えたわけ。タチが悪いんですよね。秘密戦てのは本当にタチが悪い。だけど、負けられないからそういうことが始まるわけやね。勝ってたらやらないんですけどね。どこの国も苦しくなってくると使うんですよね。で、向こうも使うからこっちも使うようになっていくわけ。」

 二人は沖縄を訪れる。ルバングに赴任する前、小野田は3日間だけ沖縄で過ごした。すでに空襲に遭って、一面の焼け野原だったという。沖縄戦や、この地で米軍の占領地に特攻を敢行して命を落とした同期生のことを聞き、さらに無人島に渡って、ルバング島の生活について話す。乾いた竹とナイフだけを用いて火を熾す小野田。動作は敏捷そのものだ。

「ルバングに行って、はじめて人を殺さなきゃいけなくなった時、どうだったんですか」という石原の問いに、小野田は答える。
「だって自分が殺されるんだかから、人を殺すのがどうのこうのとは考えないよね」
「でも、胸の痛みとかって」
「必要のないところではそういう考え方もあるけど、ほんとうに向こうが銃を構えて入ってきたら、そんなこと考えてる間がないよね。早く向こうを殺さないと自分が殺されるから。簡単に言うようだけど、戦争になってしまったら仕様がない。外交で話し合いがつかないから戦争になってしまったんだから。もう戦争になってしまったら規則なんてないよね。そんなこと考えてると自分も殺されるもの。みんな自分が殺されるのが嫌だから、先に相手をやろうとかかるわけね。」

 番組を通して、石原は話が重くなるたびに、「そうか…」「はあーっ…」「そうなんだ…」と相槌を打つばかりで、小野田が微笑みをたたえて淡々と語る言葉のすさまじさに圧倒されていた。妙に判ったような感想を口にするのでもなく、反論するのでもなく、曖昧な笑みを浮かべたり受け流したりするのでもなく、石原は小野田を見つめて、ただただ圧倒され続けていた。
 人の話を聴く姿勢として、それは美しいものに感じられた。言葉の意味が判らない時には、ただ懸命に受け止め、心に刻んでおくしかない。そうすれば、いつか理解できる日が来るかも知れない。


 小野田が帰国した昭和49年、私は10歳の小学生だった。もちろん、小野田がなぜルバング島で生き続けたのか、本当の意味など判ってはいない。
 小野田寛郎という人物について目を啓かれたのは、数年前、彼自身の手による自伝『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)を読んだ時だ。
 この本の冒頭に、帰国直後の彼が広島を訪れた場面が紹介されている。
 慰霊碑に刻まれた「あやまちはくりかえしません」という文言を見た小野田は、この文面を訝しく思う。
 「裏の意味があるのか?」
 二度と負けるような戦争はしないということなのか、という問いかけに、隣にいた戦友は、黙って首を振った。29年間戦い続けた小野田ひとりが置き去りにされていたのだということが如実に伝わってくるエピソードだ。

 東京オリンピック、大阪万博、高度成長。敗戦の焼け跡から復興し、人々が自信を持ち始めていた時期だった。戦争に敗れたことなど記憶から消してしまいたい、と無意識に感じていたのかも知れない。自衛隊の海外派遣など、首相が構想として口にした瞬間に政治生命を失う、そんな時期でもあったと思う。
 そこに小野田が戻ってきた。みんなが、死んだ人々のことも、殺した人々のことも、その原因を作った人々のことも忘れようとしていた時に、ひとり戦い続けてきた小野田が現れた。小野田が非難にさらされたのは、その後ろめたさを指摘されたような気分が引き起こす反射的な反応だったのかも知れない。

 帰国して強制的に入院させられ検査攻めにあっていた小野田は、田中角栄首相から贈られた見舞金100万円の使い道を問われて「靖国神社に奉納します」と答えたことで、激しい非難にさらされたという。戸井の本から引用する。

 「軍国主義に与する行為だ」という非難の手紙が山ほど送られ、政府から多額の補償金を内密に受け取っているから、そんな風に気前よく寄付できるのだなどという噂まで囁かれた。しかし実際は、政治家や善意の人々からの僅かな見舞金以外、小野田が手にした金などない。小野田は、日一日と日本が嫌いになってゆく。
ーー靖国神社の一件はショックでした?
「あれで、すっかり嫌になりました。僕は生きて帰ってきたんだから、これから働けばいいわけでしょ。でも、一緒に闘って死んだ人間が沢山いるんですよね。そういう人たちは誰も報われていない。お見舞金は、僕が働いて得たんじゃなくて同情で頂いたお金。だから、死んでも報われていない人たちの所へ持ってゆくのが一番いいと、単純にそう思ったんです。それを、軍国主義復活への荷担だのなんだのと言われたら、やっぱり、そんな人間たちと一緒にはいられない」

 今なら、小野田をもてはやし、担ぎ出そうとする人々も、批判者と同じくらいいるかも知れない。日本が小野田を置き去りに戦争を終えてからの30年、小野田が帰還してからの30年。それぞれの歳月は世の中を大きく変える。
『遅すぎた帰還』で鈴木紀夫を演じた堺雅人が、フジテレビの公式サイトで面白いことを言っている。
「“生乾きの歴史”をやっている難しさがあると思います。あまり配慮しながら作るとおもしろくなくなるから、そういうところからは自由でいたいのですが、戦後60年で、小野田さんが見つかってから30年というのは、まだ“生乾き”なんだなと思います。今の政治に簡単に利用されてしまいがちな話題でもあるので、作り手としては、すごく神経を使ってやるべきことなのかなと思います」http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2005/05-209.html

 生乾きではあるが、一応は乾いている。戦後40年でも50年でもなく、60年目の年に小野田がクローズアップされたのは、まさにこの乾き具合によるものだろうと思う。10年、20年前に、小野田をドラマ化してゴールデンタイムに放映することが可能だったかどうか。

 小野田は今も政治的発言を避けている。首相が靖国神社に参拝を続けていること、A級戦犯が彼の戦友たちと同じ場所に合祀されていることについて、彼が何かコメントしたという記憶はない。誰も問いはしないし、問われても答えないだろう。(注)
 戸井の本の中に、帰国直後の小野田の手記を代筆した人物が記した小野田の述懐(津田信『幻想の英雄ーー小野田少尉との三ヶ月』図書出版社)が引用されているので孫引きする。

「自分が手記の中で天皇に触れなかったのは、いまの自分が、自分の考えをしゃべったら、あちこちで問題になると思ったからです。(中略)だれかに禁じられていたためじゃない。一億のなかで、たった一人約束を守った自分が、命令を出した者の責任を追及したらどうなるか。」

 小野田は、そんな騒動にかかわりあうことが嫌になったのだと思う。今でも嫌だろう。そして我々もまた、そこまで小野田に甘えるべきではない。
 だから、小野田が現在の日本の政情をどう捉えているか、はっきりとはわからない。ただ、このような番組の企画に協力し、自分が体験したことを積極的に語り続けるという行為の中に、彼の考えが反映されているのだと思う。

 60年前の戦場を体験した人々は、次々に世を去っている。テレビや新聞や雑誌が「戦後70年特集」を組む時には、もはや実戦経験者の肉声を聞くことはほとんどないだろう。
 小野田たちの声に耳を傾けるには、今が最後のチャンスである。

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 2005年の更新はこれで最後にします。当blogを訪れてくださった大勢の方々に感謝します。来年が皆様にとってよい年でありますように。


(注)
週刊新潮2005/6/16号で、首相の靖国参拝について小野田さんがコメントしていると、しいたけさんからご指摘がありました。詳しくはコメント欄をご参照ください。(2006.1.4)

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高木徹『戦争広告代理店』講談社<旧刊再訪>

 『オシムの言葉』を紹介したエントリにいただいたコメントの中で、ひげいとうさんが本書について言及していた。2年前に読んだ時に書き留めておいた感想があったのを思い出したので、ご紹介かたがたアップしておく。正式なタイトルは『ドキュメント 戦争広告代理店 〜情報操作とボスニア紛争〜』(刊行は2002年6月)。
        *********************
 90年代のバルカン半島での民族紛争において、西側世界が、セルビアを悪役、ボスニア・ヘルツェゴビナ(のムスリム)を被害者と認定し、セルビアへの制裁に傾いていった背景には、ボスニア・ヘルツェゴビナに雇われたアメリカのPR会社の周到かつ緻密な戦略があったのだという。本書は、このルーダー・フィン社の幹部ジム・ハーフを主人公に、関係当事者たちへの徹底したインタビューによって、当時のルーダー・フィン社の活動内容を明らかにしていく。驚愕の書、と言ってよい。
 アメリカの大統領府、議会、メディアの三者に対し、豊富な人脈と緻密な戦略・戦術によって「民族浄化ethnic cleansing」「強制収容所concentration camp」というキーワードを浸透させ、意思決定者たちの考えと世論を誘導していくハーフの手腕は見事というほかはない。「PR会社とは何か」と問われたら、この本は絶好のテキストとなるだろう。

 昔から戦争というものは情報戦を含むものであったし、現代の国際紛争が国際世論(とりわけアメリカの世論)を味方につけた者が優位に立つということも、多くの例が示している。デービッド・ハルバースタムの『静かなる戦争』も、バルカン半島での紛争についての国際世論の流れを丹念に追い、国際社会が紛争に介入する上で、世論が決定的な要因であることを浮き彫りにしている。その意味では、現代の戦争にPR会社が介入するのは必然的な流れなのかも知れない。
 本書によれば、欧米社会において「民族浄化ethnic cleansing」という言葉はナチスドイツのユダヤ人迫害を、「強制収容所concentration camp」という言葉は同じくナチスドイツのガス室を、それぞれ強く連想させる力があるという。このレッテルを貼られてしまったら、誰も擁護することができない。そういう性質の言葉だ。

 セルビアを擁護しようとは思わない。さまざまな「人道に対する罪」を犯してきたことは間違いないのだろうと思う。だが、ハーフが「民族浄化」と名付けた行為はセルビアだけでなく、クロアチアやボスニアのムスリムも(セルビア人に対して)行なっていたし、捕虜収容施設はあったが、虐殺を目的とした施設の存在は確認されていない、と著者は書く。にもかかわらず、ハーフがセルビアに貼り付けたレッテルは、すさまじい威力を発揮して国際世論の動向を決定づけた。

 本書で最も恐るべき記述は「邪魔者の除去」と題した第12章かも知れない。ハーフたちが「強制収容所」というキーワードを見いだして、ボスニアに西側世界のメディアの注目を集め始めた時期に、国連軍司令官から帰国したカナダの将軍が「強制収容所があったかどうかは知らない」と発言した。これを知ったハーフは、この将軍の存在を自らのミッションに対する障害と考え、カナダ政府や各国メディアに働きかけて将軍批判の世論を作りだして、退役に追い込んでしまうのである。
 事実の追及よりも勝利が優先されるという点でも、彼らがやっていたことは戦争そのものだ。もっとも、PR会社の仕事とは、常にそういうものなのかも知れないが。

 内容そのものは別として、本書は「ノンフィクション」という書籍のジャンルにおける、大いなる問題提起にもなっている。著者の高木徹はNHKのディレクター。本書は2000年10月に放映されたNHKスペシャル『民族浄化』のために行なった取材に基づく、いわばテレビ番組の副産物だ。
 本書は「第1回新潮ドキュメント賞」「第24回講談社ノンフィクション賞」を受賞している。大宅壮一賞でも最終選考まで残った。文藝春秋誌上で大宅賞の選評を読んだ記憶があるが、選考委員のうちの何人かが、予算も人員もケタ違いに大きいテレビ番組の取材によって作られた本を1人のルポライターが取材して書いた本と同じ土俵で審査するのではルポライターにとってあまりに分が悪い、と指摘していた。まして、この場合は「みなさまのNHK」が、税金のようにして集めた受信料によって作った番組なのである。その取材によって得た情報をもとに書いた本を、NHKとは何の資本関係もない講談社から刊行するというのは、道義的にもいかがなものか。活字業界の一員である私は、こういう排除的な論理に、感情としては同調する面もある。

 しかし一方で、私はその番組を見ておらず、本書によって初めて番組の存在を知った。本書が書かれなければ、ここに書かれた事柄を知ることはなかっただろう。実際のところ、本書を手に取って読む以前から、書評その他によって、おおまかな内容は知っていた。テレビ番組の視聴者の数は書籍よりも圧倒的に多いが、波及効果という点では、書籍の力は決して小さくはない。
 テレビ番組は、放映時にそれを見なかった人間に対して影響力をほとんど持たないし、時間が経てば影響力は急速に減じる。書籍の影響力は持続的であり、その本自体が残るだけでなく、他者による引用や言及や批評を通じても伝わっていく。
 従って、本書が書かれたことは、私にとっても世の中にとっても意義がある。しかし同時に、このような生まれ方をした本は、ノンフィクションを生業とするライターの生活を確実に圧迫する。ジレンマは深い。同種のジレンマは、今後ますます深くなるはずだ。

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